【六日目(木曜日)】
日も差さない、路地裏。
イた。
だケど、ココニハ気配の残り香ガあルだケデ、アいつは居ナイ。
交差点。
居タ。
だけど、こコニは気配の残り香がアるだけで、あイつは居ない。
焦ルコトはない。いツカハ追イつク。
何故なラボクは、追跡者なのだから。
ある豪邸の前。
―――居ル。
―――気配が有ル。
―――見つケタ―――
ココにあの人はイる。
ボクは、あノ人ノ命を、開放するンだ。
さあ。
ボクの――狼の狩りの、始まりだ。
―――――――――――――――――――――――
チチ、チ、チュンチュン
今日も、爽やかな風が朝日を存分に浴びた清浄な空気を運んでくる。
それは、遠野の屋敷の、何気ない日常。
空には雲ひとつ無く、澄み切った青空は、今日も今日とて暑くなることを容易に想像させてくれる。
「―――来たわね。」
遠野家の居間に、秋葉、翡翠、琥珀、そしてアルクェイド。
アルクェイドは、今朝早くに再び遠野家を訪問し、秋葉達に全ての事情を話した。
昨日の志貴の様子からも、相手の影響力がかなり強まっていることがわかる。
魔術とは基本的に、相手の情報が多ければ多いほど掛かる度合いも強まる。
だから強まっているということは、相手がこちらの情報をかなりのところまで掴んでる証拠だ。
少女が此処を突き止めるのも恐らくは今日明日中だろう。
ならばその時を見計らって、露払いをしてやればいい―――
アルクェイドは、そう考えたのだ。
秋葉達に話したのは、気兼ね無く戦えるようにするためと、万が一を考えてのことだ。
昼間は、真祖の吸血鬼の姫君ともいえど、その能力は格段に弱まる。
志貴は、鎮静剤を打ってあるので、眼を覚ますのも午後になってからだろう。
―――それまでに、全てを終わらせるわ―――
「貴方を屋敷内に入れるのも兄さんが特別な状況にあるからですから。今後は身分を弁えて―――」
「ああ、わかってるわ、はいはい。」
「ちょっと!真面目に聞いてるのですか!」
無論真面目に聞いてなどいない。
どうせまた窓から志貴に部屋に行くつもりだしー。
ぜんぜん懲りる気配も見せないアルクェイドであった。
アルクェイドは、わめく秋葉をよそに、居間を出た。
玄関のドアを開けると、そこに、少女が居た。
緑髪、碧眼。
髪と瞳を気にしなければ、ともすれば、どこにでも居そうな、普通の少女だった。
だけど、外見をそのまま信じるわけには行かない。
「通してよ。ボク、この先に用があるんだ。」
そのエメラルド・グリーンの瞳は、有る明確なる決意を秘め、輝く。
少女の左手に、幽かに闇が蠢いた。
「そうはいかないわ。」
アルクェイドは右手を顔面近くに掲げる。
じゃきーーん
そんな音が聞こえてきそうなほどに、アルクェイドの爪が、陽の光を反射して輝いた。
「―なら」
少女の闇が、腕を螺旋状に駆け上っていく。
「しょうがない―――ね!!」
言うと同時に、少女が向かってきた。
それが、戦闘開始の合図だった。
アルクェイドは、一歩、踏み出す。
彼女の身体が発する鬼気が烈風の如く、少女の身体に吹き付ける。
アルクェイドの威圧感は圧倒的だった。華奢とも言える身体が、不動のものとして何倍も大きく見える。
しかし少女は怯むことなく前に進み出る。緑の髪が風も無いのにたなびき、螺旋状に駆け上った闇が鬼気の放射に立ち向かうかのよう
に、力強く全身に広がる。
「疾っ!」
アルクェイドの爪の一閃。速い。
しかし少女は見を捻り苦も無くこれをかわす。そのまま少女はアルクェイドと擦違った。
白と闇。一瞬、二筋の色が交錯。
白い爪から繰り出される必殺の一撃は、少女の居た空間を薙ぎ払い、地面に深い爪痕を残す。
擦違った少女の、全身を覆った闇が、そこだけ異質な空間を創り上げる。
アルクェイドの一撃で飛び散った床の破片が、少女の頬を裂いた。
暫くは何事も無かったかのように立っていたが、突然、がくっ、と少女の身体が沈んだ。
「…流石だね。かわしきったと思ったのに、その余波だけでもこんなに威力があるんだ。」
「次はこんなものでは済ませないわ。」
「言うね!」
少女は頬を伝う血を拭い、再び突進した。
アルクェイドは突進にあえて逆らわず、後ろ向きに跳んで、次の一撃を横殴りに叩き込む。
その呼吸に合わせ、少女は拳を跳ね上げる。
闇が、まるで小規模の竜巻が発生したかのように、少女の拳を中心に瞬く間に広がった。
ざしゅっ
爪が、闇ごと少女を切り裂く。
しかし、裂けた闇から覗く少女には傷一つ無い。
代わりに、少女の下の地面が裂ける。
ドスッ
少女の拳掌がアルクェイドの腹にめり込んだ。
「かはっ……っ!」
少女の腕を伝い、闇がぞわぞわとアルクェイドの身体にも広がる。
闇に混じり、血臭が漂った。
アルクェイドの腹と地面に、赤い色がじわじわと広がる。
少女は、余った手をアルクェイドの顔面に翳した。
キィィィィィィィィィン
掌と顔面との間に、不可思議な協和音が響く。
「くっ!」
アルクェイドは少女を振り払うように爪閃を繰り出す。
少女は腹にめり込んだ拳を引き抜き、素早く後辞さる。
アルクェイドの反撃は、又しても闇に阻まれた。少女に傷一つつけられない。
離れた後、何をするでもなく少女は5メートル程の間隔を空けて佇んでいる。
少女を覆っていた闇は、掻き消すように無くなっていた。
今なら少女を護る物は何も無い。
腹に深手を負うものの、その不死性を以って徐々に傷は回復しつつあった。
手加減をするつもりだったが、吸血鬼としての本能が、少女への破壊衝動として顕現する。
アルクェイドの瞳が黄金化し、漂う鬼気が禍々しい物へと変貌を遂げた。
―――能!
ヴンッ
アルクェイドの前方の空間が不自然に歪む。
それは少女を巻き込み、一気に凝集した。
瞬間。
少女を中心として、直径2メートル程が消滅する。
「何処を見てるんだい?」
「そんなっ!」
必殺の一撃だった筈だ。
完全に少女をその技の影響範囲に押し込めたはずなのに。
見れば、少女は先程と変わらぬ様子でこちらを睥睨している。
少女には多少なりともダメージを負った様子すら無かった。
と
ガンッ ザシュッ
突然、横からの衝撃。
続いて、身体のあちこちを切り裂かれる激痛。
アルクェイドの右腕が、切り飛ばされた。
続いて、右足にも裂傷。細かい傷は数え切れない。
慌てて横を見るが、そこには誰も居ない。
少女は相変わらず前方で佇んでるだけだ。
いや、
少女は見を翻し、屋敷へと向かっている。
「待ちなさい!」
ヴンッ
アルクェイドは再び異能を集約させる。
先程よりもかなり大きい。倍以上の大きさの空間が、異なる空間に閉じ込められた。
今度こそ、少女を捕らえたはずだ。
空間が、一気に凝集する。
空間が、消滅した。
確かに、少女もろとも瞬間にそれは消滅したはずだった。
しかし
「ボクはそんなとこに居やしないっ!」
少女の、有り得ない方向よりの攻撃。
再びアルクェイドの全身が刻まれた。
「ガハッ!」
アルクェイドの口から血が噴き出す。
体勢を崩したところに、再び、視えない攻撃。
残った左腕で闇雲に薙ぎ払うが、視えない敵相手にそれは全くといっていい程効果が無かった。
数刻後。
アルクェイドは全身を切り刻まれ、最早立っているのがやっとの状態だった。
全身から滴り落ちる血とは対照的に、アルクェイドの顔が死人のように青白い。
全身を廻る血液の絶対量が不足している証だ。
少女の気配は先程から異質へと変貌している。
例えるなら、そう。闇から、より一層の漆黒へ。
暗く膿のような気配が、濃密に漂いはじめている。
「暫く、寝てテモらウ。」
そう少女が言った途端、アルクェイドの意識に闇が混ざった。
たちまちのうちに、それは意識の大部分を覆う。
―――数瞬後、アルクェイドは意識を喪っていた。
少女は切り飛ばした右腕を肩にくっつけてやってから、再び屋敷に向かって歩き始める。
ふと、何を思ったか足を留めて振り返った。
暫くの間、アルクェイドを見つめている。
その碧の瞳は、やや悲しみを帯びているように見えるが、相変わらず強い決意を秘めている。
少女は、アルクェイドに一瞥をくれると、再び屋敷に向かって歩き出した。
奇しくも、それは先程までアルクェイドが少女を見ていた場所だった。
「―――琥珀、行くわよ。」
「―――はい。」
秋葉は、気配で、アルクェイドが敗れたことが判っていた。
「次は、わたしの番ね。あんな少女に遅れは取らないわよ。翡翠、あなたは兄さんの所に残ってなさい。わたしと琥珀で決着を
つけるわ。」
「わかりました。」
少女は、玄関の扉を開け、ロビーに入ってきた。
ロビーでは、秋葉と琥珀が待っていた。
秋葉の髪は最初から真紅に染まっていた。
「琥珀、全力で行くわよ!」
「ご随意に。」
しゅるるるるるる
ロビーを覆う、秋葉の意識の髪――檻髪。
逃げ場の無い屋敷内でこそ、秋葉の能力も真価を発揮する。
瞬く間に秋葉と琥珀、そして少女は秋葉の不可視の髪に閉じ込められた。
「またボクの邪魔をするというの?」
少女はその瞳に憎悪を混ぜる。
「そうね。兄さんを害する存在は、何であろうと通すわけには行かないわ。」
此方も少女を睨み返す。
「許…せない。」
再び、少女の拳から闇が這い上がる。
「許せないならどうすると言うのかしら。」
絶対的有利に立ったという心理的余裕から、秋葉は髪を拳で掻き揚げながら尋ねる。
「意地でも通る!!」
言うなり、少女は秋葉に向かって突進した。
闇は、再び増大する。
「琥珀、下がって!」
秋葉は、意識の髪を少女に向けて放つ。
秋葉の視界に居る限り、何者をもこれから逃げることは適わない。
しかも予め、何処にも逃げられないように、周囲を覆うようにも檻髪を仕掛けてある。
絶対的な檻。意識の届く速さで、この檻は少女を覆い尽くした。
まだ闇に覆われ切っていない右腕に檻髪が巻きついた瞬間、少女の右腕から活力が根こそぎ略奪される。
だが、闇が少女の腕にまで到達した瞬間、檻髪がぱらぱらと解けた。
他の部位に巻きついたはずの髪も、その尽くが何も無い空間を掴んだかのように空を切っていた。
「そんなっ!」
「今度はボクから行くよ!」
少女はもう秋葉の目前まで迫っている。
ひゅん
驚愕に呆ける間も無く、少女の左手刀が秋葉の首筋に迫る。
「くっ。」
又しても急速に展開される檻髪。しかし今度は秋葉の首筋を護るように隙間無く展開される。
ばひゅう
闇と檻髪とがぶつかり合い、互いに致命の傷を負わせることなく消滅した。
だが、秋葉の髪は完全に消滅はせず、再び勢力を増大し少女の残された左腕に巻きつこうとする。
「くっ。」
今度は少女がその言葉を発した。
先程髪に巻きつかれたとき、腕の精力が根こそぎ無くなった。今はまだ完全には回復してない。
攻撃を諦め、一旦間合いを開ける。
秋葉は、追い討ちをかけるように無数の檻髪を飛ばした。
しかし、少女の闇が、横殴りの雨のように無数に飛来する檻髪の尽くを無力化する。
膠着状態だった。
互いに、相手に致命の一撃を負わせられない。
眼には見得ざる檻髪を、少女は闇と勘を頼りに驚くべき正確さで無力化する。
だが反対に、少女の攻撃のことごとくが、秋葉の檻髪に阻まれ攻撃できない。
暫くの間、その不毛なやり取りが続いただろうか。
膠着状態にもついに終りが訪れた。
少女が、琥珀の存在に気がついたのだ。
先程から、攻撃も守りもすべて長い髪の方が行っている。
短い髪の方は、ただ何をするでもなく長い髪の女の傍に居るだけ。
なら、そこに何らかの理由があるはずだ。
少女は無言のまま、自分の掌に視線を落とした。
右腕は…未だに動かない。あともう少し。
しかし左腕には、闇が螺旋状に腕に駆け上っている。
「どうしたの、あの程度で終わりかしら?」
少女はそれに応えず、ゆっくりと歩み寄る。
少女は意を決し、再び闇を増大させる。
もう何度目か、再び少女の全身が闇に覆い尽くされた。
「行け!」
秋葉の檻髪が少女の全身に襲い掛かる。
だが、そのどれもが虚しく闇を掴むばかり。
「くぉぉぉぉぉぉ!」
闇を伴う少女の抜き手。秋葉は素早く檻髪の防壁で隙間無く腹部を蔽う。
少女が突然止まる。フェイント!
少女は秋葉を飛び越えると、すぐ後ろに控えていた琥珀の眼前に降り立つ。
「ひょえっ、わたしですか!」
「しまった!」
「遅い!」
ひゅっ とんっ
少女の、琥珀の首筋への当て身の一撃。
「はうー、わたしは戦いそのものは苦手です〜、所詮わたしは脇役〜」
ワケのわからない謎の言葉を残し、琥珀の身体が崩れ落ちる。
少女は、崩れ落ちる琥珀を片手で支えた。
同時に、秋葉達三人を蔽っていた檻髪が、力の供給源を失い掻き消すように消滅した。
だが少女は攻撃の手を緩めない。
振り返り、秋葉目掛け飛び掛る。
ごんっ
「あいたっ」
当然琥珀を支えていた手を離したため、琥珀は顔面から床にぶつかった。
琥珀、そのまま動かずリタイヤ。
応戦して繰り出される檻髪。
秋葉の檻髪は、先程までとは別人のように威力が無い。
量も、そして速さも。
少女は闇で檻髪を薙ぎ払い、秋葉の顔面に手を翳す。
闇が忽然と消え、少女の気配か別人のそれへと換わる。
「夢ヲ見るンダ!」
闇が、今度は秋葉の意識に混ざった―――
ぼふっ
意識の中に出現する志貴。
「おはよう秋葉。」
今は琥珀も翡翠も居ない。志貴のその笑顔と挨拶は、秋葉の為だけにあった。
ああ、兄さん今日も素敵。
だけど私はお嬢様。
望まずとも父に施された教育のせいで、骨の髄までお嬢様が染み込んでいるんです。
だから返事はいつもそっけない。
拳で髪をかきあげる、所謂一つのお嬢様かきあげポーズ。
「おはようございます、兄さん。今日は何時にも増して余裕がある様子ですが、学校はいいのですか。」
素直になれない自分がもどかしいです、兄さん。
「いいんだ。学校よりも、大切なことが出来たから。」
「大切なこと―――?」
「秋葉、さ。」
言葉が染み渡るまで数秒。更に意味を理解するまでに数秒。
ぼんっ
一瞬にして顔面が真っ赤に染まる。
「あ、あ、あ、その、わた、わた、わたし―――」
志貴はゆっくり歩いてくる。
「―――秋葉―――」
「兄さん、だ、駄目です、わ、私達は兄妹―――」
「血は繋がってないじゃないか。」
最後まで言わせず、志貴は秋葉の言葉を遮る。
「わ、わた、わたし、兄さんをそんな目で見たこと無いです―――。」
充分見てたけど。
「それじゃ、これから見てくれればいい。」
ぽん
志貴の両手が、秋葉の両肩に置かれる。
「わ、わたし、これから学校に―――」
「駄―――目。」
志貴の顔が迫る。
眼鏡越しに見える、兄さんの瞳。
ライト・ブルーのそれは、どんな宝石よりも綺麗で、何物にも替えがたい、たからもの。
「秋葉―――」
瞼が、勝手に閉じてしまう。
「―――愛してる。」
鼻頭が当たらないように、首が自然にやや傾く。
軽く、触れるだけの、キス。
「ん―――」
それでも、触れた先から、全身に痺れが広がった。
たかがキス一つで、ここまで気持ちがいいなんて。
唇は触れたまま、志貴の手は肩を離れ、秋葉を抱きしめ―――
「んふふふ、やだ、兄さんそんなとこ触っちゃ駄目ですよー。」
秋葉は、本人にとってはかなり幸せな眠りに、陥っていた。
二階の廊下に、メイド服を着た少女が居た。
踵を揃え、直立不動の姿勢で、箒を両手で水平に構えている。
「此処は、通しません。」
達人ともなると、相手のちょっとした動き、そして雰囲気から、相手の実力が判る。
いわばこれも本能と言うべきものだろうか。
その本能が告げていた。
このメイド姿の少女は、大して強くない、と。
「悪いけど、通らせてもらうよ。」
緑髪の少女は応える。
「通しません。」
翡翠は、箒を薙刀のように脇に立てて持つ。
少女は、翡翠を見て、魔力を持っていない事を見抜いていた。
箒にも何ら魔術的処理は施されていない。
当たっても、それこそたいしたダメージにもならないだろう。
だから少女は、歩みを止めることも無く、悠然と翡翠へと向かっていった。
「えい」
箒が振り下ろされる。
少女は、避けるでもなく、ただ振り下ろされる箒を見ていた。
ばしっ
箒が少女の顔面にヒットする。
思ったとおり、痛くも痒くもない。
と
ばふっ もわもわもわ
箒から、粉末状のものが飛び出した。
それが目に入った瞬間―――
「いっっっっ、てへえぇぇぇぇぇぇぇえ!!!がはげほごほっ!!!ぶひゅんへくしっ!!」
ごろごろごろ ごろごろごろ
少女がのたうちまわる。粉末状の煙の成分については今更言う必要も無いだろう。
翡翠の箒には、『お邪魔虫駆除箒翡翠仕様六零(ロクマル)式・改』と書かれてあった―――
その時。
ひゅうう
風向きが、変わった。
翡翠にとって追い風だった、廊下を吹き抜ける風が反転する。
黒い煙は、今度は翡翠へとその毒々しい牙を剥く。
だが翡翠は冷静だ。
「前回と同じテツは踏みません!」
何故か翡翠の後ろに控えられていた扇風機。
通常の家庭の物より一回り大きく、その分威力も大きいだろう事が伺える。
翡翠は、ささっと扇風機の後ろに回り込み、”強”のスイッチを入れ、致死の煙を迎撃した。
翡翠の方へと向かうかと思われた煙が、再び少女を襲う。
ごろごろごろ ごろごろごろ ごん
勢いあまって、少女が、壁の柱、出っ張り部分に脛をぶつける。
「〜〜〜〜〜っっ!!!」
少女の声にならない悲鳴。
翡翠はその様子を見て、思わず顔を顰める。
きっと煙の成分を研究するにあたり、同じように煙を浴び、同じようにのたうちまわってイタイところをぶつけた経験があるに違いない。
数刻後―――
翡翠は目と鼻と唇を真っ赤に腫らした少女と相対していた。
唇もが腫れている辺り、煙の成分もより凶悪なものに入れ替わっていたのかもしれない。
「なかなかやるね、キミ。」
目と鼻と唇を目一杯腫らしながらも、そこはそれ、痩せ我慢でニヤリと不敵に笑う。
だが目と鼻と唇が目一杯腫れているので、とっても情けなかったりする。
「まだ諦めては、貰えませんか。」
「当たり前だよ!」
当たり前である。
これから人を殺そうと言うのに、こんなアホらしい技で諦めたら立つ瀬が無い。
「ならば、次はこれです。」
翡翠、人差し指を立てる。
「むむっ。」
流石に箒で懲りたのか、少女は暫く様子を見ようと距離を取った。
翡翠、真剣な表情で、指を螺旋に回転させる。
少女、真剣な表情で、用心深く指を注視する。
ぐーるぐる、ぐるぐる
何もおこらない。
だがこのメイドの少女は違った意味でキケンだ。
少女、さらに真剣に指を注視する。
ぐるぐ〜るぐるぐ〜る
「むむむむっ。」
翡翠の指が渦を巻いている。
渦が渦をまいて渦巻き模様を形成する。
ぐわ〜んぐわ〜んと頭の中で渦が反芻される。
気が付いたら、足取りが覚束ない。
頭もフラフラする。
「これは――催眠術か!!」
少女は一瞬にして相手の意図を悟った。
「くっ!」
対抗して、少女も人差し指を立てる。そして、翡翠と反対周りで螺旋状に回転させ始めた。
ぐーるぐる、ぐるぐる
ぐるぐ〜るぐるぐ〜る
「やりますね!」
渦巻きと渦巻きの壮絶なる闘い。
ぐるぐ〜るぐるぐ〜る
ぐーるぐる、ぐるぐる
翡翠が螺旋の回転速度を上げる。
負けじと、少女も回転速度を上げる。壮絶な渦巻合戦。
だが、勝負は意外なほどあっさりついた。
催眠術に気付いた少女は、翡翠の指先から目をそらしていた。
翡翠は生来の真面目な性格から、相手の指を注視し続けてしまったのだ。
「ぱたっ」
突然、翡翠は自分でそう呟くと、その通りに倒れた。
少女は安堵のため床にへたり込む。そして一言。
「今までで一番…強敵だった。」
「うーん、秋葉さま、志貴さまを早起きさせるなんて不可能です…。」
翡翠はむにゃむにゃと何事かを呟いていた。
この廊下の奥に、あいつ…いや、あの人が居る―――
右腕も、大分回復してきた。
もう、動ける。
少女は立ち上がり、ゆっくりと廊下の奥に向かう。
―――ボクは、あの人の命を、開放するんだ―――
だけど。
ふと、何処からか泣き声が聞こえた。
それは、少女の心に染みるように響いてくる。
少女にとって、それは見捨てては置けないもの。
見置いてはならないもの。
赤ん坊の、泣き声。
少女は、泣き声のする方へ、ゆっくりと引き返していった。
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夢。
ちゃーーん、ちゃらららーん、ちゃらっちゃちゃーーん
「はーーい、ここは、もうすぐデッドエンドを向かえてしまうかもしれない、そんなかわいそうな志貴のための特別コーナー。
その名も『教えて!!知得留青子(ブルー)先生』のコーナーです。
選択肢が何も無いこの物語で、デッドエンドになっちゃったわけじゃないから安心してね。」
「あっ!ちょっと!何するんですか!このコーナー、わたしのじゃないですか!」
「うーん、うるさいのが来たわね。えいっ。」
ぼんっ
シエル落書き化。
「あっ、あっ、あーーーー!!何てことするんですか!!こんなのあんまりです。わたしを元に戻してください!!」
「ふっふっふ。これで貴方も正ヒロインのアルクェイドと同じね。オマケに犬耳までつけてあげたわ。どう?良く似合っているわよ。
よかったじゃない、これで人気投票の順位もばっちり上がるわよ。」
「ぶーぶー」
「いいじゃないたまには。私だって出番が殆ど無いんだから。晶ちゃんなんて、間接的な台詞が2つ3つだけで登場すらしないじゃない。
ショートカット好きとかぬかして第二回月姫人気投票で晶ちゃんを一番に推した作者にしては、あまりといえばあまりな処置よ、これ。」
「あっ、そういえばそうですねー。この作者、わたしも二番にしてるくせに、物語中ではわたしはただの第七聖典を振りかざした
ストーカー女として画かれてるし。」
「そうよねー。」
「ですよねー。」
敵味方を忘れ意気投合する二人。
…
「さて、犬はほっといて。志貴、このまま行けば、君の寿命…もとい命は後僅かよ。何も考えずに夢魔や少女カインと戦ったら
まず間違いなく負けるわ。」
「ああっ、それわたしの台詞なのにぃ。わたしを元に戻してくださいぃぃ〜〜」
「ほらそこっ、外野うるさい!」
「きゅ〜〜ん。」
シエルは耳をすぼめ、尻尾を丸めている。
どうやら今の身分に甘んじることにしたようだ。
「まず、夢魔の能力と、少女、カインの能力とを整理することからはじめましょうか。まず夢魔の能力は、一般的な夢を見せるのとは
別に『感覚の共有』と『想念の結界』の二つがあるわ。『感覚の共有』は複数の人間の夢を繋げること。そして『想念の結界』は夢の世界での
個人の能力と行動の結果を現実世界に反映させること。これらについては昨日のアルクェイドとの会話の中でしつこいくらいに語られたから
いいわね。」
「はいー。」
「少女カインの能力は、私達協会側は『促進』と『歪み』と呼んでいるわ。」
「『促進』と『歪み』ですか…。」
「そう。『促進』は、物事の時間を早める能力。音、光、成長、崩壊…対象は結構広いわ。」
「あっ、アルクェイドとの戦いの際、見せたのがそれでしたね。」
「そうよ、アルクェイドの目に入る光…つまりアルクェイドが見ているものを未来のものに挿げ替えたのね。結果、アルクェイドは
カインの”残像”…もとい”未来像”と戦って敗れた。」
「ふふ、遠野くんが傷つくのは嫌ですけど、あの女が負けるのはいい気味です。」
「この能力は、カイン自身のエネルギーを放出するという形で顕現されるわ。だから自身のエネルギー以上のことは出来ないしやり
すぎると自らの死期を招く。でもまあ、使い方次第では肉体の傷を修復するなど、良いことにも使えるわ。ただ、肉体の修復の場合、
やりすぎると老化を招いて返って肉体を破壊することにもなりかねないけど。」
「ふんふん」
「『歪み』とは文字通り物事を歪ませること。歪みの対象は、精神(こころ)、空間、そして個人の能力など。こちらの能力も対象範囲
は結構広いわね。」
「そういえば夢の世界で遠野くんがカインさんと戦ったとき、遠野くんが突き刺したナイフが全然外れていたことがありましたね。」
「そうよ。あれは『歪み』の能力で志貴の視界を歪ませたのね。」
「それじゃあ、このまま闘っても遠野くんはカインに勝てそうもありませんねー。」
「そう。だからこのコーナーがあるんじゃない。この場をかりて、夢で志貴に対策を伝授しているのよ。なんたって私は志貴の”先生”
なんだから。」
「えっ、これって本編とは全く関係ないところで進行しているんじゃなかったんですか?」
「ちがうわよ。これでも魔術を駆使してレンの作るはずだった夢に潜り込んでるんだから。」
「よくもまあ、レンやカインの夢魔に打ち勝って夢に登場できたものですねー。」
「ふっふっふ。それもまあ、レンとカインの夢魔が夢の主導権を争っている間に私が乗り込んできただけだけどね。」
「漁夫の利ってやつですね。」
ぼんっ
シエルの口も犬化する。
「余計なことは言わない。」
「わ、わんっわんっ、わんっ!」
「いい、今度余計なこと言ったら、元に戻してあげないからね。」
「きゅ〜〜ん。」
ばふっ
シエルの口が元に戻る。
「そういえばシエル、貴方以前、カインと出会っているんじゃないの?」
「ええっ、わたし知りません。」
「何言ってるのよ。カインの正体は雌狼でしょ。貴方が死んでロアが転生してしまった後、教会からの手先として日本に来るまでの間に
、一度雌狼を封印しているはずよ。」
「ああっ、そういえば!」
「貴方も夢で見たはずよね。もともとは貴方もロアの転生体。ロアを追いつづけるカインが貴方に惹かれていてもおかしくは無いわ。」
「そうでした。アルクェイドにすら勝っちゃうカインを封印したということは、わたしってやっぱりあの女より強かったのですね。」
「それはどうかしら。完全に教会の手先として洗脳された貴方が、出会い頭に問答無用で封印したから勝てたようなものよ。
しかもそのせいでカインに無用に恨まれることになっちゃったみたいだし。第一、貴方覚醒した(汚染された)にもかかわらずアルクェイドに
負けてるじゃない。」
がくーーっ
「せっかくだから、何か他に疑問点はないかしら?」
「そうですね。何だか今のカインって、ちょっと狂ってきてるような気がするのですが。」
「その通りよ。だけど正確には、狂ってきてるのは夢魔の方。カインの想念の影響を受けてるが故にってとこね。もともとこの夢魔は
夢魔としてかなり変わり者だったわ。悪夢を見せることが夢魔として生きるための道なのに、人間に恋をして結ばれようとするくらいだから。
カインの想念の影響を受け、その望みのままに悪夢を見せようとするのは、一見夢魔として正しい行動に見えるかもしれないけれど、
それは強制されたものであって、夢魔の望みではないわ。だから自身の自身たる存在意義そのものを喪いかけてるのね。狂うのも頷ける
、というものよ。」
「ふーん、なんか理由としては弱いような気もしますけど…。そうそう、夢魔は『輝ける魂』というものに惹かれたんですよね。
でもこの『輝ける魂』って何のことでしょう。」
「平たく言えば素質を持った魂、ということね。月姫本編で言えば、弓塚さつきもそう。カインとさつきが出会っていれば、
夢魔も新しい恋をしたかもしれないわね。」
「そういえばロアって、死ぬときに次の転生体を予め選んでおく設定だったはずなのですが、それって一体どうやってたのでしょう。
もしまだ生まれてもいない子供だったら、選ぶも選ばないも無いと思うのですが。」
「そうね。その辺の設定については深く考えなくてもいいと思うわ。ちゃんと生まれてる人間の転生体を探してたようだから。
貴方がアルクェイドに殺された後復活し、一ヶ月ものあいた殺されつづけた。それでどうやっても死なないのが判ったから殺すのは諦めて
教会の手先として使いこなすことになった。その修行の期間が十数年だったと考えれば、別に月姫の設定を揺るがすほどの問題にはならない
はずよ。」
「それじゃわたしの実年齢って30代後半から40くらいになっちゃうんですか?」
「ええ、そういうことになるわね。」
「それでは最後の質問です。雌狼がカインに変貌したとき、ロアに何をされたのでしょうか。」
「―――名前…ね。」
「名前ですか?」
「そう。もともとカインは素質があった。あとはきっかけだけ与えれば、自然に魔物になれたのよ。」
「そのきっかけが、ロアに名前をもらったこと…。」
「強大な魔物の言葉は、それだけで魔力を帯びてるの。しかもそれが雌狼単体に向けられた言霊だもの。雌狼がカインになるきっかけ
としては、それで充分だわ。そしてそれが、カインがロアを追い続けるきっかけにもなったのね。」
「そうだったんですかー。はい、これでわたしの疑問は全部解消しました。」
「それじゃ、本題に戻るわね。」
「はい。」
「…で、対策だけど。」
「遠野くんの能力が全く通用しなかったら、勝てないじゃないですか。」
「うーん、ホントだったらそうなんだけど、何事にもやりようはあるってことよ。一つだけ教えてあげるけど、カインと夢魔は、
実は同じ命を共有しているわ。」
「『共有』?…『共融』じゃないんですか。」
「ええ、文字通り一つの命を共有している。いわばカインと夢魔は、二重人格みたいな位置付け、ともいえるわ。」
「一つの命で二つの人格…、まるで遠野くんとロアの関係だけど、こちらは二重人格なんかじゃなく完全に別人でしたね。」
「あちらは完全に別人だから、一方を倒せばもう一方は命を完全に自分のものに出来る。だけど今回の場合は、同じ命を使いまわし
してるの。だから、夢魔とカインが同時に出現することはありえないし、どちらか一方を倒せば、必然的にもう一方も消滅する。」
「遠野くんとロア、とは違った形での運命共同体、ともいえるのですね。でも何でそんなことになっちゃったんでしょう。」
「昔、カインは一匹の雌狼から魔物へと変貌を遂げたわ。だけど、魔物の命は普通の命では賄いきれない。もっと多くの命が必要なの。
こればっかりはもうどうしようもないわね。現に真祖に血を吸われた不完全な吸血鬼は他のものの命―――血液―――を吸収しないとその命
が保てないものね。魔物になったカインは同時に周囲を漂っていた命を吸収して魔物としての命を完成させたの。吸収した命の中に夢魔も居た
のね。」
「ほへー。教会側の記録には夢魔は輝ける魂に恋をしたとありますが、それってつまり自己愛になっちゃうんですね。ただのナルシスト
です。」
ぼふっ
「わんわんわ―――わわんっ!」
「今度邪魔するようなこと言ったら許さないわよ、と言ったばかりじゃない。もう。」
ここは―――?
「あっ、いけない、そろそろ志貴が目覚めるわ。それじゃあね志貴。ほらシエルちゃん、脱出するわよ。」
「きゅ〜〜〜〜〜ん」
青子は口と耳が犬化したシエルを抱え、大急ぎで撤収の準備をする。そしてふと思い出したように――
「そうそう、それとどんな夢にも終わりがあるわ。終わりがある以上、志貴の能力を使えるって事よ。志貴の能力は、
あらゆるものを殺す事。つまりいずれ来るであろう終わりを早めることだものね。その気になれば夢を殺す事だってできるはずなんだから。」
俺、は―――?
「それじゃねっ、またどっかで会えたら会いましょ。」
すたこらさっさっさー
言うと、青子はシエルを抱えたまま何処かに走り去っていった。
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…
何だったんだ、今の夢は。
俺は、眼を覚ました。
相変わらず眼が見えない。現在が昼なのか夜なのか、判別がつかなかった。
窓の外から入る空気が暑いから、きっと今は昼過ぎなのかもしれない。
「翡翠?」
しーん
「琥珀?秋葉!」
しーん
屋敷の中が異様に静かだった。物音一つしない。
と、
耳を澄ますと、遠くの方で赤ん坊の泣き声が聞こえた。
秋葉たちは何をやっているのだろうか。普段だったら、赤ん坊を泣かせたまま放っておくことしないはずなのに。
赤ん坊は泣き止まない。
不自然に静かな屋敷。
もしかしたら誰もいないのかもしれない。
俺は、眼が見えない。眼が見えないけれど、でも屋敷の中くらいだったら壁を手で伝えば何とかなるかもしれない。
俺は、起き上がった。
念のため、ナイフは持っていく。
壁伝いに、赤ん坊の声のする方に向かう。
ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ。
翡翠のすぐ傍を通ったが、志貴は翡翠の存在に気付くことはなかった。
階段を下り、ロビーから、声のする方、居間へと向かう。
ロビーには、秋葉と琥珀がいたが、こちらにもついには気付かなかった。
赤ん坊の声は、何時の間にか、泣き声から笑い声に変わっている。
志貴は、居間に到着した。
「来たね。」
訊きなれない少女の声。だけど聞き覚えの有る声。
気配から察するに、少女は、赤ん坊を抱いているようだ。
赤ん坊のひっきりなしの笑い声が耳に入る。
俺は、そのまま突っ立っていた。
夢の世界で出会った少女が、今、目の前に居る。
不思議な既視感が俺を包んでいた。
やがて、赤ん坊がすやすやと寝息を立て始める。
少女はそれを確認して、赤ん坊をソファに横たえた。
「ボクは、カイン。はじめましてじゃ、ないよね。」
少女は志貴に向き直る。
「みんなは、どうしたんだ」
「あれ、気が付かなかったの。途中にいたじゃない。」
「途中?―おいっ、お前、何やったんだ!」
「邪魔ばっかりするからね。とりあえず、みんな生きてるよ。ボクの目的はキミ…いや、貴方なのだから。」
「俺を…?」
少女の雰囲気が変わる。
「貴方を―――殺しに来た。」
戦闘開始の、合図だった。
「くそっ!」
今すぐに助けに行きたかったが、背後を見せれば問答無用で殺されそうなくらいの雰囲気が少女には在った。
俺は咄嗟に腰を落としナイフを構える。
だけど眼が見えない状態で、それは塵芥に等しい行為だった。
しかし
生きるための本能の為せる技かも知れない。
攻撃は、辛うじてナイフで受け止められた。だがその衝撃に耐えられず、俺は吹っ飛ばされた。
ドンッ
「ぐはっ!」
背中が壁に叩きつけられる。一瞬、意識が薄れそうになるが、意識を注ぎ何とか堪える。
俺は壁に凭れながら、少女の見えない次の一撃に備える。
だが
ひゅん めきっ
頬に横殴りの一撃。
それは完全に意識の外れからの攻撃だった。
廊下を吹っ飛ばされる。
俺は廊下を吹っ飛びながら、意識を喪った。
―――アルクェイドが、闇に、呑みこまれた。
ぞわぞわと音を出すように、アルクェイドの体と言う体を束縛していく。
「終わりだ、真祖の姫よ。何故、貴様がヤツばかリ執拗に敵視していたか興味は尽きぬが―――もはや口も利けぬようだな。」
こんなことを言っていたのは、誰だったか―――
ず、と音をたててアルクェイドの体が沈んでいく。
さっきまでは辛うじて見えていたアルクェイドの体のラインも、今ではもう見えなくなっている。
―――このまま、放っておいたら、アルクェイドがあいつの一部となってしまうのか―――
それは、アルクェイドの、死―――?
ガ――――――…ッ!
アルクェイドが、死ぬ。
吸血鬼、真祖の姫、バケモノ。
人からそう罵られ、吸血鬼の処刑役として、人からも、そして仲間からも疎んじられ、何も無いときはただ眠るだけの、ひと。
面白いことを何一つ知ることなく、吸血鬼を、ロアを、真祖の仲間を殺す以外はただ眠るだけの、姫。
着飾ったドレス、豪華な城。
そんなものに何の意味があろうか。
あいつは、いつもたった一人なんだ。
だから、俺がついてやらなくちゃ。
この世界は、面白いことで一杯なんだと、知って欲しいから。
俺の愛する、たった一人の可愛い姫。
闇の中を、月が煌々と輝いている。
月は、夜の闇の中を、たった一人で、輝く。
ああ
アルクェイドには
白い月が、良く似合う。
ざあっ
生暖かい風が吹いて、あいつの体から更に何十という闇たちが吐き出される。
俺の体を束縛する闇を見つめる。
その闇が束縛するように、ウネウネと俺の体を這いずり回る。
思い出されるのは、身体中を啄まれる記憶。
俺の周りは、闇の獣たちで、真っ暗になっていた。
ぞわぞわぞわ
闇たちは、少しずつ、俺の体に染み込んでいく。
俺の手足が次第に感覚を失っていく。
やはりあの時と同じく、ナイフを握り締めた右腕だけが、確固たる俺の存在を保証してくれる。
俺が、ここで、死んだら。
アルクェイドは、どうなるだろうか。
泣いてしまうだろうか。
いや
泣くことさえ出来ない。
俺が、今ここで、死ねば。
闇に呑まれたアルクェイドも、必然的に、助からない。
ならば
どうすればいい。
―――俺は
起き上がらなければいけない。―――
―――起き上がって、アイツを、殺す―――
カチリ
どこかでスイッチが、入った。
俺は、覚醒した自分を、解き放った。
時間にすれば、ほんの一瞬。
その一瞬の間に、俺は、何か夢を見たような気がする。
俺は、まだ空中に飛ばされたままだった。
このままだと頭から床にぶつかってしまうので、手をつき、身体を捻って足から着地する。
少女との距離、凡そ5メートル。気配でわかる。
視界が閉ざされている。このままじゃあいつを満足に殺せない。
ふと、視得ないはずの視界の闇の片隅に線が一本、見えた。
俺の視界を束縛するものの、線。
これが、夢魔とやらの見せている、俺自身の想念なのか。
「フン。」
俺は、迷うことなくその線を両断する。
線は、あっけなく両断された。
その途端、意識の中で否定していたものが、俺の記憶から消滅した。
同時に、俺を束縛するものも、消えた。
視界が、徐々に回復する。
まず点が、そして線が見えた。
そして
こちらを睨むように、少女カインが、いた。
「あの一撃で意識を奪ったと思ったけど、なかなかタフだね。」
「………………」
俺は応えない。ナイフを逆手に持ち、カインを凝視した。
見える。
カインの身体中を走る線と、点。
だが、なんだ?
全ての点と線が2重に重なって見える。
まあ、いい。
全てを切り刻めば結果は変わらないのだから。
「行くよっ!!」
カインが突進してくる。同時に、闇が爆発的に広がり少女を蔽い尽くす。
俺は躊躇うことなく構えたナイフを繰り出した。
ザンザン ザン ザザン
俺は一秒と掛からずにカインの全身の線を切り刻んだ。
つもりだった。
だが、刻まれたのは闇ばかりで、カイン自身には傷一つ無い。
「なっ!」
ドンッ
カインの拳が腹にめり込む。
「かはっ!」
心臓が一瞬とまり、呼吸が出来なくなる。
カインは攻撃の手を休めることなく、回し蹴りを放つ。
蹴りがこめかみにヒットし、俺は左肩から壁に叩きつけられた。
ダン ごきっ
「ぐあっ!」
壁にぶつかった衝撃で、肩が外れる。
左腕に力が入らなくなり、ナイフを持った右手で左肩を支える。
「どうしたの、そんなもので終わり?それじゃあ、そろそろ死んでもらおうか。」
カインの瞳は明確な殺意を帯びている。
「俺は、死ぬわけには……いかない。」
瞼にちらつくのは、たった一人で、月を見上げているアルクェイド。
俺は再びナイフを構えなおし、壁を背にカインと相対する。
と
蹴りが来たと思う間も無く、再び俺は吹っ飛ばされる。
「ガアッッ!」
今度は左足が折れた。
強い。
こちらの攻撃は一切効かない。
あの闇が、こちらの全ての物理的な攻撃を逸らしてしまうのだ。
吹っ飛ばされ、叩きのめされるのも何度目か。
それでも俺は、倒れるわけにはいかない。
こんなとこで死んでやれない。
フラフラになりながらも、何度でも、立ち上がる。
「…しぶといね。」
「まだ死んでやれるほど…、人生達観…できていないもんでね。」
左手は…先程壁にぶつかったときに外れたか。全く動かせない。
肋骨は…折れてるかヒビが入ったかしているだろうか。呼吸するたびに激痛が走る。
額を切って流れた血が片目の視力を奪っている。
左足首が変な方向に曲がり、引きずるようにしか歩けない。
カインは、闇を増大させ、攻撃の姿勢をとる。
俺は、壁にもたれながらも、カインの線と点を注視し、一番大きな心臓の二重点にナイフの切っ先を合わせる。
カインが、飛び掛ってきた。
そのとき。
「おぎゃぁぁぁ」
不意に居間から、赤ん坊の泣き声が響いた。
「えっ」
カインの意識が、一瞬、そちらに奪われる。
その一瞬。一瞬だけ、カインの身体を被っていた闇が途切れた。
そして
とん
あっけないほど簡単に、ナイフが胸の点に突き刺さった。
「あっ」
カインのその声は、悲鳴か、驚愕か。
俺自身、意外な結末に、思考が停止する。
カインは泣き、笑いのような表情で、胸に刺さったナイフを見、再び俺に向く。
「あは、ねえ、嘘だよね。こんな、こんな、ボクがやられるわけ無いんだ。嘘だろ、嘘と言ってよ、ねえってば…」
「……………」
がくん
カインの足が、まるで釣り糸が切れた人形のように力をうしなう。
カインは床にへたり込んだ。
「やだよ、ボク、追いかけなくちゃならないんだ。ずっとずっと、訊きたかった事があるんだ…。」
「……………」
がくん
カインの手も、力を失い、垂れ下がる。
「ねえ、答えてよ。何か言ってよ!」
ぽろぽろぽろ
泣き笑いの表情のまま、カインはとめどなく涙を流した。
「ロア―――」
ばしゅううううう
突然、少女の気配が変わった。
闇から、より一層の、漆黒へ。
「マダだ!」
カインの手が、突如力を取り戻す。俺の顔に向けて掲げられた掌から、何かが飛び出したような気がした。
シュンッ
「!しまっ―――」
俺の意識に、闇が混ざった。
ここは―――?
さむい、夜。
ひゅうひゅうと、風が、通り過ぎる。
見渡す限りの、草原。
遠くには、山並。
空には、雲ひとつ無く、
まあるい月が、塔のてっぺんにさしかかっている。
城が、あった。
中世の城のよう。
跳ね橋は、上がっている。
そして
城の後ろに、湖があって―――
夢の中で、俺は夢を見ていることを自覚していた。
なんとなく漂う非現実感。
夢を見ていながら、夢からの目覚め方を忘れたような感じ。
―――湖の中に、少年が、いた。
緑髪、碧眼。
カインと良く似ていた。双子と言ってもいいかもしれない。
ただし、カインのような少女らしい面影は無く、瞳には悲しみと、より明確な意思の光が込められている。
「良ク来タね。ハじめまシて、ジゃなイよ。」
「お前は―――」
「バグ…夢魔ノ、バグ。カインに取リ込マれタ、もウ一ツの魂。」
「そうか、お前が、夢魔…。」
「キミの能力なラ見エたはズダよ。ボクタチの命ガ2重に重なッテいルのを。」
確かに見えた。普通ならただの点と、点を結ぶ線だったはずなのに、それら全てが2重に重なって見えた。
「あれが…」
「ソう。ボクとカインが、同ジ命を共有しテイる証。」
ジジッ
世界がぼやけた。
見ると、バグが苦しそうに蹲っている。
「ぐグ…もう、時間ガなイ……」
バグは俺に向き直ると、言葉を紡ぐ。
「頼ミガある………ボクヲ………殺しテくレ………。」
ひゅっ
俺の手に突如ナイフが出現した。
まるで生まれたときから持っていたかのように手に馴染んだナイフ。
これと、俺のこの眼があれば、全てを殺せる―――
夢魔バグはいよいよ苦しそうに呟く。
「こノ夢ノ世界を…終らセテくれ…。」
ジジッ
夢の中の城が、崩壊…いや、消滅した。
文字通り、消滅。
「早く…ハヤく…。」
夢の中で誰かが言っていた。
カインと、夢魔は、命を共有してると。
俺は、現実世界で、カインを刺した。
なら、この夢魔バグも、死ぬのではないか―――
ジジッ
周囲の山並が、消滅した。
俺は冷たい眼で少年を見下ろす。
「何故?」
「カインは…タダ、ロアとともニ行きタカッただケなんダ。ボクハ…ソレをたスけテやりたカッタ。」
ジジジッ
草原と、湖とが消滅した。
残されたのは、俺と、少年。そして、月。
「ボクと…カインは…一つノ命を共有してイル。…ダケどそノ命は、現実世界トこノ夢の世界ニ跨ってイテ、…現実世界ノ命ダけ
を殺シテモ、夢の世界ノ命モなくなラナい限リ、…カインは死ねナイ。」
ジジッ
とうとう、月も消滅した。
俺と、バグだけが、闇の中に浮かんでいる。
「ボクが死ネバ、カインも死ねル。死後ノ世界ニ旅立ったロアを追えルンだ―――」
ジジッ
そして少年も消え、全てが闇に覆われた。
闇。
一面の、闇。
何も存在しない。手を伸ばしても、何も感じない。
上下があるのかすらももどかしいくらいに判らない。
はっきりしているのは、自分が此処に居るという存在感と、此処を壊さなければ、現実に戻れないという、確信だけ。
俺は、秋葉、翡翠、琥珀、先輩や、そしてアルクェイドが居る現実に、戻らなくちゃいけない。
闇を、視る。
相変わらず、距離感をも感じさせない漆黒の闇が眼前に横たわるばかり。
だが
漆黒の闇の中に、そこだけ区別されたかのように、線が、視えた。
ぴぃぃぃぃん
と、張り詰められた、糸のような、線。
後は、その線を、切るだけだった。
「こレデ、終ワる―――」
何処からか、誰かが、そう呟いたような気がした。
俺は、線を切った。
バグは、霞となって消滅した。
眼を開けば、そこは現実世界だった。
時間にすれば、ほんの泡沫だったのかもしれない。
カインの胸には、ナイフが深々と突き刺さっている。
誰が見ても、これは致命傷だとわかる。
「カイン…」
「ボクは…自分を止められなかった。いいんだ、これで。」
カインの瞳がいよいよ光を喪う。
2重に見えた線も、今や単独にしか存在していない。
ナイフは、ほんの少し、点を逸れて突き刺さっていた。
だから、カインは即死していなかったのか…。
「ロア――?、あは、ロアなんだね。ボクを見てくれてるんだ。」
「えっ、」
少女カインが、虚ろな瞳に僅かばかりの光を宿して、こちらを見つめた。
「嬉しい…」
カインは俺に抱きついてきた。
「ああ、暖かいや。ボクはずっと、貴方と共に―――」
さあっ
廊下の開け放たれた窓から風が吹いた。
カインもまた、霞となって、消えた。
そして同時に、それが俺の悪夢の終わりでもあった。
「おぎゃぁぁぁぁ」
ああ、赤ん坊が、泣いている。
ああ、そうか。
赤ん坊の泣き声が、ここを現実だと改めて俺に認識させてくれた。
行かなくちゃ。
足を引きずり、居間に向かう。そこに赤ん坊が居るはずだ。
俺は、そこで意識を失った―――