■ 夢姫〜ゆめひめ〜 / j1poul



【五日目(水曜日)】














もう、今日も兄さん遅いんだから。
秋葉は、居間で未だ起きてこない兄のことを想っていた。
手には、赤ん坊。
何時の間にか、翡翠と琥珀が働いている間は秋葉と志貴が世話をする、という暗黙の了解ができあがっていた。
秋葉の抱き方もだいぶ様になってきている。
思い出されるのは、二日前の兄とのやり取り。
いい雰囲気まで言った所を、赤ん坊のせいで台無しになってしまった。
でも、赤ん坊がいたからこそ、いい雰囲気にもなれたのだ。秋葉もそれは分かっていた。
赤ん坊のおかげで、普段見せることの無い素直な自分をさらけ出せた。

思えば父の教育は厳しかった。
素直になることは許されず、常に自分を律し、人前に醜態を晒さない。
それが8年も続けられたせいで、自分というものを素直に表に出すことが出来なくなっていた。
兄との会話も、つい意地を張ってしまう。
もっと素直な自分をさらけ出せば、兄も私を振り向いてくれるだろうか。

「私、魅力が無いのかな―――」
なんとはなしにそう呟く。本日何度目かのため息。
赤ん坊はそんな秋葉の気持ちなどお構いなしにきゃっきゃと笑う。

はぁ
またため息をつく。
「私の、ち、ちち乳が大きければ、兄さんも振り向いてくれるのかしら。」
やはり良家のお嬢様、誰もいないところでもそういう単語を口にするのは憚(はばか)られるようだ。

琥珀や翡翠は、私より随分と大きい。
アルクェイドやシエルとかいう人物は、巨乳といっても差し支えないくらいだった。
それに引き換え、自分は。
つつー
自分の胸元をみる。
しーん
…という擬音がピッタリ来るような、あまり(意訳:殆ど)無いムネ。

そういえば。
母親になった女性は、乳が大きくなると聞いたことがあった。
「―――遠野先輩、女性の胸には、母性と愛情が詰まっているんです。」
晶が、以前教えてくれた。
「生まれてくる赤ちゃんに、母親としての愛情をたっぷりと分け与えるんです。子供を産んだ母親は、愛情をいっぱい分け与えるため に、胸が大きくなるんです。」
「あ、ああ、そうなの。」
秋葉はこの方面の知識にはてんで疎い。事の真偽を知る術は無かった。

母親として愛する。母親の愛情がいっぱい詰まれば、大きくなるということだろうか。
ぢー
赤ん坊を見る。
「乳、あげてみようかな。」
勿論秋葉は出産どころか経験すらない。乳など出るはずも無い。
だけど、授乳の真似事をすれば、少しは胸も大きくなってくれるかもしれない。
兄さんは、胸の大きな女性が好きかしら。
他の人と比べて、私に対する態度がやや冷たいと感じるのが、胸の大きさのせいだったとしたら。

ぢー
赤ん坊を見る。
兄さんが赤ん坊を拾って今日で4日目だけれど、この赤ん坊も大分私に慣れてくれた。
まだ全部は無理だけれど、少しは言いたいこともわかる。

自分が、こんなにも赤ん坊を大事にするとは意外だった。
少女時代の思い出が思いでなだけに、私は子育てとは無縁の世界にあると想っていた部分もあるのかもしれない。

「だうー」
赤ん坊が、何かいいたげにこちらを見つめる。
「ん、どうしたの?」
「だうー」
何かしら。今までに無い言葉だわ。

「だうー」
「何かしら……おしめ…じゃないわね。眠いというわけではなさそうだし…、お外に出たいのかしら。」
「ぶー」
赤ん坊は不満そうだ。
暫く悩んでいたが、てんで分からない。
このままでは埒があかないと悟った赤ん坊は、とうとう実力行使に出た。

ぺしぺし
「きゃっ」
秋葉らしくなく、女の子らしい悲鳴をあげてしまう。
赤ん坊が、秋葉の胸をたたいた。
赤ん坊のやっていることとはいえ、恥ずかしさは隠せない秋葉。
「こーらー、そんなとこ、みだりに叩いちゃいけません。」
秋葉は空いている手で赤ん坊の手首を捕まえる。
それでも赤ん坊は諦めようとしなかった。
それで流石に秋葉も感づく。

「ももももしかして、おおお、おっぱいが欲しいの?」
「だあ」
良く分からないが多分これは肯定の返事なのだろう。

どきどきどきどき

おっぱいをあげてみようとした矢先、折から、赤ん坊の方から催促だ。
含ませてやるだけでも―――
そんな思いが脳裏をかすめる。

きょろきょろきょろ

琥珀――は庭の掃除をしている頃かしら。
翡翠――も屋敷内の掃除のはずね。
兄さんが起きてきたら、気配でわかるわ。

どきどきどきどき

つまり、今ここに、秋葉と赤ん坊以外誰もいない。
秋葉は、授乳の真似事をしてみる決心をするのだった。


―――――


「これで…いいのかしら。」
ブラジャーを外し胸をはだけさせ、再び赤ん坊を抱きかかえる。

吸いつけられるように、秋葉の乳首を口に含んだ。
赤ん坊は、生まれて持った本能で、無心に秋葉の乳首を吸う。

ちうーーちうーー

その感触が、たまらなく――――
「うひゃっ、うひゃひゃひゃっ、くっ、くすぐったいぃぃ〜」

ちうーーちうーー

赤ん坊は吸うのをやめない。それどころか、いよいよ吸う力が増す。
「あひゃ、うわっ、も、もうだめ〜」
思わず手の力を抜き赤ん坊を胸から遠ざけようとするが、赤ん坊は全身の力を使い秋葉にしがみついて離れてくれない。
「あひゃひゃひゃっ、こ、こらっ、だめだってば〜」

そのまま暫くの間、秋葉はくすぐったさに耐えるのだった。


―――――


ちうーーちうーー

慣れてくると、赤ん坊の暖かさが心地よかった。
思わず微笑をもって、赤ん坊を見守ってしまう。

―――私のお母さんも、私を育ててくれたとき、こんな想いを抱いてたのかな―――

秋葉には母親との記憶が殆ど無い。
もはや写真上でしか、母親の顔を認識できない。
だけど秋葉は、赤ん坊に乳を含ませている自分の姿を思い、覚えているはずの無い母親に抱かれて眠る自分の姿を重ね合わせた。
ふっと、微笑んでいる母親を垣間見た気がした。

んで、
秋葉が母との思い出に浸っていた、そんなとき。
「何をやっていらっしゃるのですか、秋葉さま―――」
「うひゃうわぉう!!」
庭の掃除を終えた琥珀が、秋葉に気配を悟らせること無く居間に姿をあらわした。

どう好意的に解釈しても赤ん坊に授乳しているようにしか見えない秋葉。
秋葉硬直。琥珀も硬直。

チッチッチ
三秒。

「あ、ああっ、ああ、あらあらまあまあ」
秋葉よりも早く現実に戻ってきた琥珀は、琥珀は意味不明な言葉を呟き、ぽんと手をたたく。顔は動揺のため赤い。
「なるほど〜、秋葉さまもそんなことをされるお年頃なのですね。」
琥珀は嬉しそうにうなずく。

かぁぁぁ

秋葉の思考が現実へと舞い戻ってきた。
と同時に、秋葉はこれ以上無いってくらい赤面する。

「あ、ああああの、違うの琥珀、これにはワケが―――」
「分かってますよ〜。志貴さんのためですよね〜。これじゃ翡翠ちゃんも相当頑張らないといけませんね〜。」
琥珀はなにかを一人で納得している。
「違うの琥珀、聞いて!」
「う〜ん、屋敷に仕える使用人としては秋葉さまを応援するべきなのでしょうが、それ以前に翡翠ちゃんの姉としてこの状況は見過 ごせません。」
琥珀は聞いちゃいない。

「あっ、でももちろん志貴さんや翡翠ちゃんには秋葉さまがアインシュタインちゃんににお乳をあげてたなんて言いませんから安心 してくだ―――」

ばこっ
「ぐふっ」

最後まで言うことなく、殺伐とした断末魔の叫びを上げ、琥珀は秋葉の一撃で昏倒した。

秋葉はあわてて身なりを整える。
この恥ずかしい出来事は、琥珀の記憶から抹消しなければ―――
といって、人の記憶がそう簡単になくなるわけが無い。
どどどどうしよう

そうだ
確か、記憶喪失を直すためには、喪失時と同様の強いショックを与えるのが一番いいと、以前兄さんが言っていたわ。
『―――喪失時と同様―――』
つまり記憶喪失にさせるにも、強いショックを与えればいいわけであって―――
きらりん
秋葉の目が怪しい光を放つ。その口元には、妖艶としか表現できない笑みを浮かべている。
いつのまにやら秋葉の手に握られるのはモーニングスター。
神官用の武器だから、この物語中ではシエルあたりが持っていそうな武器ではあった。
だけど今、それがなぜか秋葉の手にあった。



ずどおぉぉぉぉぉぉん
その瞬間、屋敷中に豪快な音が響き渡る。


たたたたた
「どうしたのですか秋葉さま。今何か凄い物音が―――」
翡翠が居間に入ってきた。そこで翡翠が見たものは―――
「こ、これは!」

・頭に巨大なたんこぶをこさえてうつ伏せに昏倒している姉さん。
・後ろ手に何かを隠し持った秋葉さま。
・見てはいけないものを見てしまったかのようにおびえている赤ん坊。

「姉さん!どうしたのですか姉さん!」
翡翠は姉の身体を揺さぶる。
「はうー、わたしは何も見てない聞いてない言いません〜」
だけど姉さんは意味不明なことを呟くだけだ。

翡翠は秋葉の方に向き直る。
「秋葉さま、一体ここで何があったのですか。」
「し、しらないわ、私がここに来たときは既に琥珀が倒れていたの。」

「これは―――――」
密室(じゃないけど)殺人(倒れているだけ)事件ですね。

カチリ

翡翠の中の探偵スイッチが入った。
昨日に引き続き、またまた洗脳探偵翡翠の登場である。


「現場検証を行います。」
スイッチの入った翡翠は、完全に人としての人格を捨て去り、推理するためだけの機械と化す。

「秋葉さま、後ろ手に持っていらっしゃるのは何ですか」
「えっ、あっ、こ、これ?ああ、これね。私がここに来たとき、床に落ちてたの。」
といってモーニングスターを差し出す。

翡翠はまじまじとモーニングスターを見詰める。
「ふむ、姉さんの傷と照らし合わせても、どうやらそれが犯行に使われた凶器のようです。」

ぎくぎくっ

焦る秋葉。
現場検証もへったくれもなく、そんなものが殺害(倒れてるだけ)現場に置いてあったら、誰が考えてもそれが犯罪に使われた凶器だと 結論付けられるのではあるが。

「秋葉さま、先程の音がする前、どこで何をしていらっしゃいましたか。」
「まさか私を疑うというの?」
「いいえ、あくまでも参考のためです。何が犯人を決める手がかりになるかわかりませんから。」
「それもそうね。いいわ。音が聞こえるまで、私は自分の部屋で夏休みの宿題をしていたわ。」
「部屋、ですか。いつもでしたらこの部屋で志貴さまが起きてくるのをお待ちになられていると思いましたが…」
「あ、あはは、きょ、今日はたまたまよ。宿題がありすぎて、計画を立ててやらないと終らないから。」
「そうですか…それではアインシュタインはどうしてましたか。」
一瞬、秋葉の脳裏に琥珀に目撃されたシチュエーションがよぎる。
そのため、つい否定的な感情が走ってしまった。
「さ、さあ、知らないわ。ずっとここにいたんじゃないかしら。」
「ということは、アインシュタインが唯一の生き証人(琥珀は倒れているだけ)ということになりますね。」
「そ、そうね。」
「では、アインシュタインに事情聴取を行いましょう。」
しまったぁ、と思ったが最早後の祭り。翡翠は赤ん坊に向かい歩き始める。
「はんっ、赤ん坊なんかに事情聴取したって、何も分かるわけ無いわ。」
開き直りと、意地が半分混じって、秋葉はそう呟く。

「―――ときに秋葉さま。」
翡翠は途中で歩みをとめ、秋葉を振り返った。
「な、何よ。」
「赤ん坊が一人で居間にいたというシチュエーションも物語の進行上不自然のような気がするのですが。」
「そ、それはだから琥珀がここに居る(倒れてる)じゃない。」
「姉さんは先程まで一人で庭の掃除をしていたのを私は目撃しています。」
「そう、じゃ赤ん坊が一人でここまで歩いてきたのね。」
「…はいはいしか出来ないと想ったのですか、アインシュタインもなかなかやるものですね。」
無茶苦茶を言う方も言う方だが、信じる方も信じる方だ。

翡翠は再び赤ん坊に向き直る。
「ふぅっ。」
秋葉少し安堵のため息。


「―――ときに秋葉さま。」
「うわぉう!」
「…どうされたのですか?」
「は、はは、いえ、なんでもないわ。」
「そうですか…。秋葉さま、この部屋に来る直前、私は秋葉さまの部屋の掃除をしていたような気がするのですが…。」
「ななな何言ってるのよ私は部屋に居たわ貴方の視界に入ってなかっただけ何故なら私は隠れていたから…」
完全な棒読みである。
「それでは部屋に居たとき私は一人だったと思ったのですが、それは私の気のせいだったのですね。」
「そ、そうよ、そう。きっと、気のせい。」
「そうですか。」
翡翠再度赤ん坊に向き直る。

「―――そういえば秋葉さま。」
「しつこいっ!」
流石に三度目ともなると慣れる。
「…秋葉さま、一つだけ、試したいことがあるのですが。」
「?何よ。」
「いえ、ちょっとした、おまじないです。」

おまじない???
突然何を言い出すのか翡翠は。
まあいいわ、深く考えても始まらないし。

「ふん、何をやるのか知らないけど、いいわよ。」
「それでは失礼して…秋葉さま、この指を見ていただけますか。」
といって翡翠は人差し指を立てる。

「それではじっと見つめてて下さい。」
秋葉は何をやるのかと訝しみながらも指を見つめる。
翡翠は、指をらせん状に回転させ始めた。

ぐーるぐる、ぐるぐる

「…なによ、これ。」
「いいから見ててください。」

ぐーるぐる、ぐるぐ〜る

秋葉は翡翠の指先を目で追う。
前々から変わり者だと思っていたけど、今日はいつにもまして変ね。
秋葉は自分の事は棚上げしてそんなことを思っていた。

ぐるぐ〜るぐるぐ〜る

翡翠は黙々と指を回しつづける。

「はは、何やってるのよ。こんなもんに私が惑わされるわけ…」
全く、こんなものに惑わされるのは兄さんくらいなものよ。

ぐーるぐる、ぐるぐる

「惑わされるわけ…惑わ…わけけけけ」
惑わされるのは志貴くらいと言いつつ思いっきり惑わされていたりする。お嬢様然としてやっぱり抜けている秋葉だった。
翡翠はここに至っていたって真面目である。
「わ、わけ…」
「…そろそろ、いいでしょうか。」

翡翠は指を止め、じっと秋葉の瞳を見やる。
秋葉の瞳が宙を彷徨い、足取りもふらふらとしてて覚束ない。

「秋葉さま、台所のカスタードプリンを食べたのは貴方様ですか。」
実に単刀直入な聞き方である。
信じるといいつつはっきりと疑ってのける、これが翡翠のこうと一旦疑ったら何が何でも犯人に仕立て上げる洗脳探偵たる所以である。
しかし仕立て上げる犯人像のやった犯罪が全然今回と関係ないのも、翡翠の翡翠たる所以である。
結局、スイッチが入ったといっても、やってることはいつもと変わらないのか。

「はいそうです。」
秋葉あっさりと罪を認める。
血を吸うぐらいの大物犯罪者が、カスタードプリンごときで動揺するはずも無い。

「…そうですか。どうやら秋葉さまは本当に何も知らないようですね。」
結局あのぐるぐるはなんだったのか。いやそれ以前にどういう論理構成でカスタードプリンと琥珀の今の状況が結びつくのか。
全ては翡翠の心の内に。
意味なしと言ってしまえばそれまでである。
こーゆーお茶目な部分も、洗脳探偵翡翠の特徴なのである。

ぱん

翡翠は手をたたく。
すると秋葉がはっと言う表情とともに覚醒した。

ふるふるふるふる

はっきりしない頭に血をめぐらす。
翡翠の指を見つめてからの記憶が存在しない。
一体ここで何の会話がなされたのか―――
あ、あぶなかったわ。あの攻撃(?)があと10秒でも続いていたら自白させられていたかもしれない。
恐るべし洗脳探偵翡翠。

今度こそ本当に諦めたのか、翡翠は赤ん坊の下へ向かうのであった。


秋葉の心の中の動揺をよそに、翡翠は赤ん坊に事情聴取を行っている。

「だあだう、だう」
「ふんふん、なるほど。」
翡翠は赤ん坊と意思疎通が出来ているようだった。
「分かりました、そうだったのですか。」

「秋葉さま、姉さんは見てはいけないものを見てしまったがためにこうなってしまったと言っています。」
「なんであんな会話で意思疎通が出来るのよ!」
秋葉の疑問ももっともである。

「見てはいけないものはなんだったのか、そして後頭部を何者かに一撃されて死亡(昏倒)している姉さん。これらの事実は全て。 あることを物語っています。」
翡翠は秋葉のツッコミも構わず続ける。
「あること――って?」
「それは何者かが、ある目的を持って、秋葉さまのもっていらっしゃるモーニングスターで、姉の頭を一撃したということです。」
翡翠は、居間に入って10秒で分かりそうな結論に、ようやく達した。
洗脳探偵翡翠は、推理するためのマシーンと化すが、その論理回路はあまりできがよくなかったようだ。

「秋葉さま、そのモーニングスターをお渡しいただけますか。念のため指紋を取りますので。秋葉さま以外の指紋が検出されれば、 その人が犯人です。」
犯人の指紋なぞ検出されるわけが無い。秋葉以外触っていないのだから。
このまま指紋検出なんてされたら、秋葉のやったことが明るみに出てしまう。なんとしても防がなければ。
「そ、そうね。」
秋葉は翡翠にモーニングスターを渡す振りをする。と、秋葉は体制を崩しモーニングスターを投げ出してしまう。

ぶおん
がっしゃーーん

モーニングスターはとても体勢を崩してほうり落としたとは思えないくらい勢い良く一直線に窓を割り外にでてしまった。
そのままひゅんひゅんひゅんと回りつづけ、星となって消えていく。

ばこーーーん
かぁーーーーーーー

遠くの方で、何か硬いものがぶつかる音と、カラスのようなものの鳴き声がした…ような気がする。

「あ、あらいけない、手が滑っちゃったわ。」
「…秋葉さま、お気をつけください。居間の絨毯は滑りやすいですから。」
どこをどう触れれば、居間の絨毯が滑りやすいのか。
そんなことを秋葉は思ったが、それを言うとヤブヘビなので黙っていた。

「…しょうがありません。唯一の証拠であったモーニングスターがなくなってしまったからには、推理をもっと深める必要があります。」
「そ、そうね、それもしょうがないものね。」

「そもそも姉さんが一撃される理由はなんだったのか。」
翡翠は顎に手をやり、遠くを見つめる視線でぐるぐる居間の中を歩き回る。

ぎゅむ
「ぐえ」
翡翠は歩いている最中、倒れている姉の身体を踏んづける。
どうやら洗脳探偵翡翠は、一旦推理に入ると、周りのことが目に入らないようだ。
気づかずにそのまま踏み越えていく。

「もっともよく考えられるのが、口封じです。」
「ぐえ」
一周してまた踏んづける。

「つまり、姉さんは何か見てはいけないもの、知ってはいけないものを知ってしまったがために殺されてしまった(倒れている)可能性が あります。」
当たらずとも遠からず。というか非常に近い。
「うう、そ、そうなの?」
「はい、犯人はそれで口封じのために姉さんを殺した(一撃した)のです」

「もう一度、そのときの状況をアインシュタインに聞きましょう。」
翡翠は赤ん坊の目の前にたつと、再び事情聴取をはじめる。

「まずい、まずいわ。」
秋葉は焦っていた。翡翠は赤ん坊と意思疎通が出来るらしい。このまま翡翠と赤ん坊をしゃべらせておくと、秋葉のやった犯罪が 明らかになってしまう。

―――殺るしかない―――

秋葉はそう決心し、そっと翡翠の背後に立った。

「だあだう、ばぶ」
「ふんふん、えっ、秋葉さまが貴方に乳をあげ―――」

ぽぐっ
「きゅう」

翡翠も、終わりまで真実を知ることなく、昏倒してしまった。

「まったく、はじめからこうすればよかったわ。」
秋葉はぱんぱんと手をはたいた。
「さて、分かっているとは思うけれど―――」
秋葉はちら、と赤ん坊を振り返る。

びくくっ

一連の事件の唯一の生き証人(二人とも倒れているだけ)である赤ん坊は、恐怖に身震いした。
「このことを兄さんに漏らしたりしたら、承知しないわよ?」
秋葉はこれ以上ないって位の笑顔で。
赤ん坊はかくかくとうなずいた。いや頷くしかなかった。

「そう、いい子ね。」
かくして秋葉のだれにも知られちゃいけない秘密は闇に葬り去られるのであった。


―――――


「――い、翡翠、こんなとこで寝てないで起きなさいったら。ほら琥珀も。」
秋葉さまの呼ぶ声。起きなければいけません。
「うう……ん。」
まず翡翠が、つづけて琥珀が起き上がる。
「うう、ん…、なにか夢を見ていたような…」
「うう、後頭部がイタイ。」
琥珀は不思議そうに自分の頭をなでた。勿論秋葉はそ知らぬ振りだ。
不自然にカーテンの閉められている窓が一つあったが、意識が朦朧としている翡翠と琥珀はそれを疑問に思わなかった。

「あれ、なんで私は、こんな所で寝ているのでしょう??」
琥珀はこの数分の出来事の記憶をなくしているようだった。秋葉心の中でガッツポーズ。

「わ、私も、仕事に戻らないといけません…。」
翡翠の探偵スイッチもヒューズが飛んだようだ。いつもの状態に戻っている。


かくして、遠野家のささやかな日常が過ぎてゆくのだった。


――――――――――――――――――――――――


かちゃ…ぱたん。
翡翠が、本日何度目か、志貴の部屋を訪れる。

今日も、志貴さまは寝起きがよくない。
もう四度目になる、一時間おきに一度ずつ、四度目。
これまでの三度は、志貴さまは全く起きる気配が無かった。
未だに私は、彫像のように眠る志貴さまに見とれてを強引に起こすことが出来ない。


だけど、四回目の起床は、これまでと様子が違っていた。
「う…うぁ…や…めろ……」
真っ白な顔に赤みが差し、起きる直前の状態だったが、苦悶の表情をしている。
それだけでなく、寝汗もびっしょりかいているようだ。
「志貴…さま?」
翡翠は志貴に近づく。


―――――


「ううぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁああ!!」
俺は叫んだ。
「っ!志貴さま!どうされたのですか!志貴さま!」
体が揺り動かされる感触と共に、急速に俺の意識が覚醒する。

はぁー、はぁー、はぁー
息が荒い。心臓もバクバク言っている。

夢?
アレは夢だったのか?
俺は心底見たくない夢を見てしまったのか。

「志貴さま、どうかされたのですか。」
翡翠が、心配そうに声をかけてくる。
俺は、翡翠を見上げようとした刹那、
『―――志貴さまが、切リ落とされたのでは、ありませんか―――』
「っ!」
夢で見た光景がまざまざと脳裏に浮かんできた。
右腕の無い翡翠。
俺が、死の線をなぞり、切り落とした。
そう、翡翠は、告げたのだ。
ベットは、夢のとおりに割れてしまった。
なら、翡翠も―――
いや、翡翠だけじゃない、琥珀も、秋葉も―――

腕の無い翡翠、脚の無い琥珀、そして、最早生者と呼べない秋葉。
俺が、切った。

「やめろ!」
見てしまえば、あの夢が現実になってしまう気がした。
見たくない、あんな夢が現実になって欲しくない。
見たくない!見たくない!見たくない!!
「――志貴さま?」
翡翠は明らかに普通でない俺を気遣い声をかける。
が、俺はとてもそれに応えられる精神状態ではなかった。
「やめろ!翡翠、俺に近づくな!前に立つな!俺に姿を見せないでくれ!」

「……………」
翡翠は暫く無言だった。
俺の精神状態が通常と異なると感じたようだ。
「かしこまりました。それでは退室させていただきます。」
今の俺に話し掛けても解決にならないと思ったのか、素直に部屋を出る。

かちゃ……ぱたん。
翡翠は部屋から出て行った。
俺は、翡翠が部屋を出るまで、じっと眼を閉じて俯いていた。


ツギハギだらけの世界。
色の無い、輪郭と線と点だけの世界。
俺の眼が、あんな世界を見せるというのなら―――

―――おれは、こんな眼は、要らない―――

俺は、この瞬間、自分の眼を完全に否定した。


眼を、開ける、べきなのか。
かなりの間、悩んでいた。
翡翠が部屋を去ってからも、俺は未だに眼を開けることが出来なかった。
眼を開けたときに、あの夢が現実になるかもしれないという恐怖があった。
だけど、眼を閉じていると、三人の様子が繰り返し俺を責め苛む。

―――今なら、誰もいない―――
俺は、徐々に瞑っていた瞼を上げる。

闇。

眼を開けた。
脳裏に浮かんでいた秋葉達が掻き消えたことからも、それが判る。

闇。

しかし、世界は未だに闇に閉ざされたままだった。


俺は


視力を



無くしてしまった。


―――――


それから。
まず再び様子を見に来た翡翠が俺の異常に気づき、秋葉たちに知らせる。
秋葉は直ちに俺の主治医を呼び、眼どころか全身くまなく診断させた。

しかし、何も、分からなかった。

原因不明。
医者の出した結論が、それだった。

眼球にも、視神経にも、異常はない。
ただ、見えないだけ。


一つだけ安心できることがあった。
翡翠も琥珀も、まして秋葉も、身体に異常はなかったということだ。
手探りで触れた琥珀の左足や秋葉の頭はちゃんと存在していた。勿論翡翠の右腕もあった。

視力を無くした不安も強かったが、それよりも夢で見た光景が現実になることの方が怖かった。
俺は安堵したが、やはり一抹の不安は隠せなかった。
自分が見たくないと思っただけで視力をなくすとは思えなかったが、それでも、原因としてはそれしか考えられない。
だけど、それを医者に話したら、なんでそう思ったかということも話さなければならなくなる。
あんな夢を見ること自体が異常だ。
俺は、夢で見た内容は何一つとして語らなかった。


こんこん、こん
遠慮がちのノックが叩かれる。
「志貴さま、入ってよろしいですか。」

翡翠だった。
「―――ああ。」
俺はベットに寝たまま応える。

かちゃ…ぱたん。
「失礼します。」

翡翠は何かを持ってきたようだ。ぱちゃぱちゃと何かを浸す音、続いて、ぎゅぅぅと絞る音がした。
「志貴さま、失礼します。」
そういうと翡翠は何か冷たいものを俺の眼にかぶせた。
「翡翠…これは。」
「はい、風邪ではありませんが、冷やせば少しはよくなるかもしれないと思いまして…。」
「ああ、ありがとう。」
「礼を言う必要はありません。私がやりたくてやっていることですから。」
「だからなおさらだよ。俺なんかのために、そこまで気を使う必要はないのに。」
「いいえ、志貴さまの方こそ。」

「あははは」
「ふふ」
俺たちは、どちらからともなく笑いあう。


「そういえば、まだ言ってませんでした。」
「―――何を?」
「おはようございます、志貴さま。」
「――ああ、おはよう、翡翠。」

こんなときでも挨拶を忘れない、いや、こんなときだからこそ挨拶を掛けてくれる翡翠の心遣いに、俺はやっと、ここが夢ではなく 現実の世界だなと認識できた気がした。

やっと夢から覚めた。
俺は夢から覚められたことに安堵し、大きく息を吐いた。

瞼と、眼に当てられたタオル越しに世界を感じる。

今、もし眼が見えたなら。
目に入るのは、輪郭とツギハギの世界。
翡翠の身体中に、線が走って見える。
落ち着いてはいるものの、これも一時的に過ぎない。
心の中では、まだ見たくないという恐怖が何処かにあった。

ずきり
こめかみが痛む。
頭がはっきりしない。俺はぶるぶると頭を振り、頭に血を送る。

…やめよう、こんな想像。
目が見えても見えてなくても、何も変わらない。

翡翠は、無言で俺の傍についていてくれている。
その心遣いが、今はありがたかった。
安心したせいだろうか。俺は、何時の間にか、うとうとし始めていた。


―――――


「―貴、志貴ってば、志ーー貴ーー〜」
誰かが俺を呼ぶ声がする。

とんっ

軽やかに窓辺リに降り立つ音。
そんなことをする奴は一人しか知らない。
アルクェイドだ。

ここは、夢だろうか。
今までの経験から、一瞬、そう考えてしまう。
しかし、あの夢独特の不快感もなく、また風に乗ってアルクェイドのかすかな匂いもしたので、ここが現実だとわかった。
翡翠は何時の間にかいなくなっていた。
俺が眠ってしまったため、安心して自分の仕事を再開したのだろう。

「アルクェイドか?」
「そうだよ。さっきから呼んでるのに、志貴、全然起きてくる気配が無いんだもん。」

「どうしたんだ。」
「うーん、どうもしないけど、なんとなく志貴に会いたくなって。」
いつもの状態じゃなかったけれど、俺はアルクェイドのその能天気さに救われた気がした。

「そうだアルクェイド。お前確か、夢魔を使っているって言ってたよな。」
「?ああ、レンのこと。うん、レンはわたしの使い魔だけど、それがどうしたの?」
「教えてくれ。ここんとこ夢見が悪いんだ。」
アルクェイドには言わないつもりだったが、この際背に腹は替えられない。

「…話してみて。」
アルクェイドは俺のただならぬ状態を察したようだ。
真剣な声で先を促す。

「ええっと…まず…何から話せばいいかわかんないけど…」
「何でもいいわ。以前志貴も言ったじゃない。『今の状況を片っ端から口にしたら。』って。わたしも状況がわからないけれど、 それなりに何とか話をつかんでみるから。」
「分かった。」
「そう、じゃ、続けて。」


「俺は、眼が見えなくなった。」
俺はそう切り出した。
「ええ、さっきから志貴、全然見当違いの方ばかりみてるんだもん。すぐにわかったわ。」
「なら話が早い。…原因は、はっきりしてる。多分、夢。夢…を見るんだ。」
「夢?」

「ああ、始まりは…たしか、数日前、見たことも無い風景の中で、見たことも無い少女と会ったのがきっかけだ。」
時間はたっぷりある。俺はそもそもの始まりから話し始めることにした。
「草原、山、城、そして満月。城は中世ヨーロッパにあるようなもので、…そうだな、アルクェイドの故郷の話を聞いて俺が思い 浮かべたのと似ているかな。それと、城の後ろに湖があって、俺はそこで知らない少女と出会った。」
「ふんふん」
「その少女が言うんだ。俺のことを、『ロア』って。」
「…そうね。確かに貴方は『志貴』だけど、魂は『ロア』のものであるとも言えるわ。ロアが転生した先の人間の魂はロアのものになる わ。志貴、貴方は子供のときにシキに命を奪われた。そして、シキの命が殺されたときに、ロアは貴方の命を使って覚醒したわ。この間ロア と戦って命を取り戻したのだから、その少女の表現は間違いではないわ。」
アルクェイドはあっけらかんとしたものだ。
吸血鬼にとっての命の感覚って、そんなものなのだろうか。

「次に覚えてる夢が、ネロと戦った時のだ。」
俺は、続ける。
「俺と――アルクェイドが、あのホテルでネロと戦ってるシーンだ。俺とアルクェイドがホテルのルームで話していてネロの使い魔に 見つかる。俺は部屋に残り―――そう、現実では廊下に出たのに、夢では部屋に残ったんだ―――次々に襲ってくるネロの使い魔達と戦うん だ。…何十匹と殺して…最後は、大蛇だった。部屋に入るなりベットに潜り込んだ大蛇を追い出すために、俺はベットそのものを真っ二つに 両断した。……そうそう、おれは夢の世界でも死の線が見えてるんだ。ベット全体としての『死の線』を俺は両断した。」

アルクェイドは俺のまとまりの無い話をじっと我慢強く聞いている。
この後はアルクェイドがネロに吸収される夢だが、話の主張筋ではないしここは伏せておいた方がいいかもしれない。
「俺は、眼を覚ました。自分の部屋だった。夢を見ていたのに、夢だったはずなのに、俺が夢の中で両断したように、俺の寝ていた ベットが真っ二つに裂けた。布団も、スプリングも、支柱ごと、全部。」

「………………」
アルクェイドは無言だ。
気配からすると、そう、厳しい目つきをしているのではないか。

「今日、見た夢は、この家の中だった。どれもこれも夢特有の非現実的な感じがあるんだけど、それでも俺はそれが現実のことのように 感じるんだ。俺はそこで、………そこでも眼鏡を外していた。翡翠と琥珀と秋葉がいて、俺は、それぞれと………それぞれとっ―――」
言葉にするたびに、あの夢の光景がまざまざと蘇ってくる。

腕を切り飛ばされて、平然としている翡翠。
脚が無くても、笑っていた琥珀。

そして―――顔半分が切られた、秋葉。

これをどう説明すればいいのか。

「ふん、大体分かったわ。その時見た夢のショックで、眼が見えなくなったのね。」
「…ああ、多分、そうだ。」

アルクェイドは、暫く間を置いて話し出した。
どうやら言葉を選んでいるようだ。
「結論から言えば、それらの夢、間違いなく夢魔の仕業ね。」

「夢魔は人に夢を見せるわ。そのときに夢に選ばれるのは、本人の潜在意識下で眠っている様々なものよ。最初の夢の城にしてもそう、 志貴、貴方の潜在意識で持っていたイメージが使われたのね。だけど城が選ばれた…いえ、その城を含めた風景が選ばれたのは、夢魔の意思が 関わってるかもしれないわ。」
「夢魔の意思?」
「夢魔は、夢の世界をほぼ完全に思い通りに出来るの。夢の物語を演出するとか、もしくは、誰かの夢と繋げるとか。」
「誰かの…夢。」
「そう、。だけど夢魔が二人以上の夢をつなげる時、きっかけとなるものが無いといけないわ。例えば同じ風景を見ているとか。 その場合、相手も同じ夢の世界の風景を潜在意識に持っていないといけないけれどね。」
「そういえば、夢の中で何かが言ってた。たしか『感覚の共有』とかって。」
「そうね。その風景に登場してきた少女は、まず間違いなく実在するわ。夢魔は、その少女と貴方を夢の世界で引き合わせたのよ。」

あの少女が実在する。
だとすると、あの少女は―――
何か、忘れている、気がする。
あの少女は、俺に対して、何か負の感情を持たなかったか―――

俺がそんなことを考えているうちに、アルクェイドは続ける。
「志貴、貴方の言っていた城とその周辺の風景のイメージは、以前わたしが語ったものよね。だとすると、同じイメージを持っている その少女というのも、わたしに関係する人物なのかもしれないわ。」

「一番目の夢に関しては、こんなとこかしら。判っているのは、少女が実在するってことと、夢魔は、志貴とその少女を引き合わせた ということ、それに、その少女はわたしにも関係するかもしれない、ということね。」

「二番目の夢に関してだけど、志貴が夢の中で切ったベットが、現実でも切れたってことよね。これが事実だとすると、その夢魔はとん でもない力の持ち主だわ。」
「とんでもない力?」
「そう。まずその夢魔は、夢の世界において志貴固有の能力を再現したわ。これは潜在意識にある記憶じゃ済まされない、現実の能力よ 。夢で自分の能力を”見る”こととはわけが違うわ。そのうえ更に、夢の世界での志貴の行動をそのまま現実世界に反映させるなんて、 並大抵の事じゃない。」

「それじゃあ、もし―――」
「――もし?」
「もし、夢の世界で、誰か人間を切ったりしたら…。」

「うーん、それは場合によりけりね。最初の夢のように、実在の人物と夢の感覚を共有していた場合、夢の相手を切り刻めば、 現実に相手も切り刻まれるかもしれないわ。だけど、そうでない場合は、風景と一緒。志貴の潜在意識の中にある記憶から夢魔が見せている 動画だと思えばいいわ。勿論それを切っても、ただ夢を構成するものがなくなるだけ。もしかしたら潜在意識の記憶まで死ぬ――つまり無く なる――かもしれないけど、たいしたことじゃないわ。」

そうか、誰かと夢の感覚を共有していなければ、相手を傷つけることも無いのか。
「これは、『想念の結界』と呼ばれているわ。あのブルーがこの夢魔を使役したがっていたらしいけど、こんな身近にいたとは思わな かったわね。」
「『想念の結界』……」
「そう、何代か前のロアの使い魔の夢魔がその能力を持っていたわ。一言で言えば、夢を現実化する能力。もともと夢魔は夢に干渉して 現実に多少なりとも影響を及ぼすことが出来るわ。例えばエッチな夢を見させて、夢精をさせるとかね。けど、この夢魔の能力は桁が違ってい たわ。夢だけでなく、その人が強く願ったことまで現実化していた。」

「それじゃあ、巨万の富とかを強く願えば、それが現実になった、というのか。」
「もちろん、その能力にも限界があったわ。夢魔は、あくまでもその夢を見せる当人が出来る範囲での現実化しか出来なかったようね。」
それなら、誰とも共有していない夢で強く他人を殺そうと想っても最悪の悲劇はされられるわけだ。
俺はほっとする。
「でも、志貴の場合、その夢魔の能力は致命的とも言えるわ。志貴は、あらゆるものを殺すことの出来る眼を持っている。夢魔はその 能力を借りて、夢の世界で志貴に誰かを殺させることもできるわ。まあ実際に行動するのは志貴だから、志貴が自分の意志で切らなければ何 もおこらないけれど。」
「なんとかそれを止めることは出来ないのか。」
「だから、志貴自身が行動しなければいいわ。夢魔の能力は、夢の世界に志貴の能力を持ってくることと、夢の世界での行動――― 即ち志貴の想念―――の結果を志貴の能力を”借りて”現実に反映させるだけ。志貴が夢の世界でどう行動するかを操ることは出来ないわ。」


「…夢魔ってのは、どんな姿をしてるんだ?」
「うーん、夢魔は現実世界での肉体を持ってないわ。いわば魂だけの存在。実体を持たないからこそ、夢の世界という現実には存在 しない世界を操ることができるのよ。まあ、あえて姿をとるときは、人の姿が多いかしらね。わたしの使い魔も10歳くらいの女の子の姿を とってるし。」

「なんで夢魔が、俺に悪夢を見せようとするんだ?」
「……ふたつ、考えられるわ。一つ目は、夢魔に志貴への害意があった場合。その少女の使い魔で、間接的に少女の害意が夢魔を通 して志貴に伝わった、というのもあるわね。それと二つ目が、夢魔が志貴のその能力に眼を付け、その力を利用して何かさせようという場合。」

「俺の、能力を、利用する…。」
俺の能力なんて、誰かを殺すことにしか役に立たない。それよりかは、少女ないし夢魔が俺に殺意を持っていると考えた方が信憑性 があった。
実際に、夢での展開もそうだったような気がする。

だが、殺される以上は、応戦しなければならない。
だけど俺は、殺すのが恐かった。
まだ善悪の区別もままならない頃からモノを壊す線が視え、もっとも多感な時期を病院と貧血で育った。
お前はモノを壊す線が見えるからと、必要以上に友達を遠ざける。
泣きながら歩んできた線と点の地獄。
見たものでなければ分かりはすまい。経験したものでなければどんな想像も及びもすまい。
ニンゲンが、こんなにも、壊れやすいものだったなんて。
世界が、こんなにもあやふやなものの上に成り立っているなんて。
自分は、切るために存在するようで、自分という存在を根本から疑いたくなってしまう。
どんなに俺自身がどんなにこの眼を拒否しようとも、相手の方からこの眼を求めてやってくるというのか―――
今の俺に、殺伐とした殺し合いの世界以外の生き方は許されないというのか―――


「―――志貴―――。」
アルクェイドが、俺の顔を両掌ではさむ。
少しひんやりとしたその両手が、熱を持った頬に心地よかった。
「いい?志貴がどんな能力を持っていようとも、それは志貴本人の存在意義を貶める物じゃないわ。確かに貴方の能力は並外れて 『死』を意識させるものだけど、それを実際に行使するかしないかは貴方の意思に掛かっている。貴方が殺しを望まないのだったら、 貴方の能力は無いも同じ。普通の人間と全く変わらないわ。」
「アルクェイド…」
「何よりわたしは貴方が好き。貴方の居てくれるこの世界が好き。ロアを殺しつづけるだけだったわたしを解放してくれたのは、 志貴、貴方じゃない。」

アルクェイドの両親指が俺の瞼を軽く撫でる。その感触が心地よかった。

ちゅっ

唇に、柔かく暖かいものが触れた。
アルクェイドの、唇だった。


「―――志貴―――。」
唇の感触が離れても、まだアルクェイドの顔が息がかかるくらい近くにあった。
「そんな簡単に悪い方に考えるのはやめて。わたしは、いつでも貴方の傍に居る。貴方が傷ついたら、死んじゃったら、悲しむ人が 最低一人は居ること、忘れないで。」
「アルクェイド…、ああ、判ったよ。」

アルクェイドの両手が頬から離れた。
「今夜はいい夢を見させてあげる。安心して。わたしの使い魔が貴方を護るから。」

とん

アルクェイドが窓の縁に飛び乗った音。
「今夜は帰るわ。あんまり長居しちゃ妹に悪いしね。」

「アルクェイド、今夜は、ありがとう…」
「いいよー。また今度、面白いところに連れてってね。」
「ああ、わかった。約束だ。」
「ふふふ、約束だよー」


とっ、と音がして、人の気配が部屋から消えた。
程なくして、俺は、数日振りの安らかな眠りに落ちた。




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