【ニ日目(日曜日) 】
また―――夢か?
夢の続きなのか?
古い城、平原、山。
そして、城塔に差し掛かった満月。
俺は、あの少女と向かい合っている。
くらい、くらい、夜なのに。
彼女の体は、月の光を受けて銀に輝いていた。
「キミは、だれ?」
「俺は―――遠野…志貴。」
「ううん、ちがう。」
少女は俺の答えに満足しなかった。
「匂いでわかるよ。キミは、ちがう。」
「俺は――志貴だ。」
「だから、ちがう。」
「――なら、俺は?」
「キミは……?」
―――誰なんだ?―――
「思い出してよ、ボクのこと。覚えてない?」
一瞬の明滅。
俺の脳裏に、覚えの無い光景が浮かんだ。
草原と森。
旅をする俺が、動けない少女と向かい合っている。
その少女は、俺を警戒しているようだ。
俺は―――
暗転。
「わから―――ない。」
俺は否定する。
目の前には、少女がいる。
緑の髪と、碧の瞳をした少女。
少女は、今一度、懇願するような瞳を俺に向け、呟く。
「―――――――ロア―――」
「違う!ロアは、いない!俺が、殺した!」
「ちがわない。キミは、ロアだよ。」
―――わからない―――
少女の雰囲気が変わった。
ほのかな喜びから、暗転。
「――やっと見つけたのに、そんなのないよ…。」
少女の目が失望に彩られる。
「そんなのないよ!!」
少女は叫んだ。
―――そして、闇へ。
誰もいない二人きりの空間。
少女の叫び声は、俺以外の誰に聞かれることもなく、周囲の闇に吸収され消えていった。
その、闇が。
周囲の闇が、意思を持っているかのようにぞわぞわと蠢く。
たちまちのうちに、闇が、少女の周りを覆う。
「そう――なら――。」
少女の目の光が失望から憎悪へと変貌する。
闇は形を持って、少女の身体をぐるぐる回る。
「なら――?」
「キミを、殺すしかないね。」
「――えっ?」
「キミを、殺して、キミの、命を、開放してあげる。そうすれば、きっとあのひとは復活してくれる!」
「なっ!」
暗転。
場所は、公園。夜。
人影は無い。
俺は、自分でも気づかないうちにここにいた。
それは夢独特の日現実感がもたらす、ただの現実。
何かが空を裂いて向かってくる。
ざしゅ
何かが、俺の服の袖口を切り裂く。
続けざまに飛翔音。
「くっ――」
俺は無理やり身を捻ってそれをかわそうとする。
俺は前のめりに体制を崩す。そこを待ち受けていたように、とどめの一撃。
きぃぃぃぃぃん
俺は咄嗟にその一撃をナイフで受け止めた。
相手は、そのまま素早く飛び退る。
―――ナイフ?
なんで俺はナイフなんか持っているんだ?―――
そんな思考もすぐに打ち消される。相手の攻撃は容赦なく続く。
頭上から、重々しい唸りが落下した。
耳を劈く咆哮と、荒れ狂う息吹。
一瞬の明光。
闇が、俺を吹き飛ばした。
近くにあった樹木がが巻き添えを食らって闇に飲み込まれる。
気が付けば、闇。
場面は、夢独特の不条理さで変化していく。
でも
夢だと心の底では判っているのに、夢のはずなのに、この闇は、現実感をもって俺の周りを覆う。
俺は苦痛に身悶えし、荒い息を吐き出す。
俺だけが、闇の中で浮いている。
吹き飛ばされた衝撃で、体中が痛い。
これは、夢で、あるはずなのに、からだじゅうが、いたかった。
―――なんなんだ、一体。俺が狙われる謂れなんて無いぞ―――
まだ相手は攻撃を続ける。
煌く、銀光。
銀の煌きが、闇の中にあってさえなお輝きを放つ。
銀光は、一直線に俺めがけて襲い掛かる。
「くそっ」
頭部を狙ってきたそれを、僅かに首をかしげてやり過ごす。だが、銀の一閃はこめかみをかすり、その衝撃は軽い脳震盪を起こさせる。
だけど俺は脳の悲鳴を無視して、そいつに袈裟斬りの一撃を放つ。
だが、闇が銀光の周囲を覆い、狙いはかわされてしまった。
轟音。
再び俺は闇に吹き飛ばされる。
一瞬目の前が真っ暗になり、思考が途切れる。
その一瞬を逃さずに、銀光は飛び掛ってくる。
ガキィィィィィ
ナイフを相手の攻撃に絡ませ、すかさず左腕で銀の塊をかかえこむ。
銀光の正体は、輝ける狼だった。
そう思ったのもつかの間。
銀狼は、後ろ足で俺の腹を蹴り、首を捻って俺の手を振り払う。
二度も吹き飛ばされたせいで、手足の感覚が覚束ない。
力が入らないのだ。夢のくせに。
このままでは、殺られる。
夢というものは、その人間の理性を司る新皮質が休憩を取っている間、本能を司る旧皮質が、海馬に有る記憶を無意識下で選択的に
呼び起こすことで見るものだ。
だから、夢の中の俺は、普段よりも生に対する執着が強いのかもしれない。いや、理性の歯止めが弱いだけなのかもしれない。
死というキーワードが切羽詰的な現実として連想された瞬間、俺の中で、カチリ、とスイッチが入った。
俺は、躊躇することなく眼鏡を外す。
とたんに俺の眼は、闇を、闇として認識しなくなった。
この世界にあるのは、ただ、点と線だけ。
ざっと周囲を見渡す。
点と、線と、点と、線と、 点。
居た。
周囲に見えるのは、闇の”死”を象徴する線と、銀狼の”命”を象徴する点。
銀狼の命だけが浮いて見える。
銀狼が、再び牙を剥く。
―――点が、近づいてくる。―――
あの点を突けは終る。
なら、突けばいい。
俺は腰を落とし、唯一点、銀狼の心臓のみに注視した。
銀狼が飛び掛る。
俺は神速の速さでもって、一直線に心臓の点めがけ突きを放つ。
ズプリ
突きは、正確に心臓を捕らえた。
はずだった。
心臓を貫いたと思った瞬間、俺の左肩に激痛が走る。
「ぐぅっ!」
銀狼は、心臓を突かれて平然としていた。いや、確かに心臓を貫いたのに、その軌跡は空を切っていた。
心臓付近には、周囲の闇と同質の「闇」が、蠢いていた。
「馬鹿な!」
俺は確かに心臓を貫いたはずだ。ナイフを突き立てる瞬間、それは確信に変わった。それなのに、何時の間にか狙いが外れている。
ズキッ
左肩が痛む。
食いつかれたのではなかった。しかし、肩から先はどういうわけが痺れて全く感覚が無かった。
それから先は、まるで無間地獄にいるようだった。
俺は相手の点めがけ様々に突き、切りつけるのだが、その狙いは何れも狼の周囲の闇に逸らされてしまう。
その度に俺の身体の何処かの感覚を奪い、俺は徐々に動きが鈍くなっていく。
キィィィン、ガキッ、ガキィィィィィン
幾十度目かの銀狼の攻撃をいなす。しかし、俺はもう立っているのがやっとの状態だった。
はぁー、はぁー、はぁー
息が荒い。
対し、銀狼はまるで獲物が弱りきるのを待つかのように俺の数メートル手前で佇んでいた。
がくっ
膝が崩れ落ちる。
銀狼は、それを待ち構えていたかのように最後の攻撃を飛び掛―――
俺はそこで、目が覚めた。
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「おはようございます、志貴さま。もうそろそろお起きになってください――――」
翡翠に促され、俺のいつもの日常が始まる。
俺は軽く伸びをして、翡翠に挨拶を返す。
「おはよう翡翠。」
何か、夢を見たようだったけど―――
そう、確か、俺をロアとか呼んだ少女がいた。
城と、湖と。
俺は少女と出逢ったんだ。
その後、何かあったような気がする。――何だっけか……?
ふと、意識の底で忘れていることがあるような気がした。
だけど、思い出せなかった。
暫く考えたが、何も思い出せない。
何故か、心臓の鼓動がいつもより早く、汗をかいていた。
思い出せない。
なら、きっと、
思い出せないなら大切なことではないのだろう。
「おはようございます、志貴さま。」
今日は、夏休み直前の、日曜日。
今日も爽やかに晴れ渡っている。
なにげに時計を見たら、既に10時30分だった。
「げ」
「何度も起こしに来たのですが、志貴さまは相変わらず静かに眠っておられましたので。」
我ながら自分の鈍感ぶりにあきれてしまう。
俺の命が半分しかなかったため、文字通り「死んだように」眠っていたときはまだ自分に理由をつけられた。
ロアを消滅させた後は、奪われていた命も取り戻し、肉体に故障を抱えながらも俺は普通の人間として暮らしていける筈なのだ。
事実、休日とはいえこんな時間まで寝過ごした試しが無かったのに。
やはり夢見が悪かったせいなのだろうか―――
「ああ、すぐに着替えて下りるよ。起こしてくれてありがとう。」
「かしこまりました。」
メイド服がよく似合う少女は、礼をして、部屋を出た。
居間に下りると、何やら話し声が聞こえる。
琥珀や翡翠は自分の仕事をしているだろうから、居間には秋葉くらいしかいない筈なのに。
ああそうか。
居間には秋葉と、赤ん坊がいるのか。
俺が居間に入ったら。
なんと秋葉が、赤ん坊抱きかかえていた。
秋葉は、赤ん坊の抱き加減に戸惑いながらも、赤ん坊が可愛くて仕方が無い、といった様子だ。
無邪気にじゃれ付いてくる赤ん坊を、軽くゆすりながらあやしている。
視線を赤ん坊の目に合わせ、首はやや傾げている。口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。
いつものお嬢様然とした姿からは想像もできない。
でも、その姿は、普段見せない姿でもあり、俺的にかなり新鮮だった。
「……………」
いつもと違う秋葉の様子におはようの挨拶を掛けられないでいると、秋葉のほうから俺の存在に気がついた。
「あ゛あ゛っ!にっ、ににに兄さん!」
「お、おはよう秋葉。」
かぁぁぁ
見られてはいけないものをよりによってこの俺に―――という顔。
そのまま二秒ほど硬直していた。
「おっ、おはようじゃありません兄さん。休日だからといって気の抜きすぎです。遠野家の人間なら、休日であってもいつも通り
におきていただかなくては困ります。」
あわてて取り繕うが、もう遅い。
「いやー、秋葉も赤ん坊を可愛がってくれているようで嬉しいよ。」
「ばっ、馬鹿なことを言わないでください。この赤ん坊は、あくまでも一時的に家に置いているだけです。親が見つかればすぐに
返します。」
「なっはっはっは。判った判った、そういうことにしておこうか。」
「そういうことじゃありません!わ、私は本当にこの子のためを思って――」
「それより腹減ったなー、何か無いか…って、おお、さすが琥珀さん、俺の分の朝食も用意してくれているんだ。」
俺は秋葉を軽くあしらい、食堂に向かった。
「兄さん、聞いてるのですか!わっ、私は別に――」
後ろのほうで秋葉が何か言っているが、無視した。
多少、俺の方も照れがあったのかもしれない。
何せ滅多に見られない…いや、始めて見た秋葉の母親ライクな微笑だ。
俺は食事を終え、居間で秋葉と寛いでいた。
「兄さん、先刻のことは、嘘ですからね。」
「嘘って、何が?」
「だ、だから、私が赤ん坊と、そっ、その、ごにょごにょ…」
再び秋葉赤くなる。
赤ん坊は、今は居間のソファに寝かせてある。
その赤ん坊をはさんで、俺と秋葉が座っていた。
俺がいるからか、秋葉はあえて赤ん坊から視線を逸らせる。
…そういえば今日は休日だった。
「なあ秋葉、お前、休みの日はいつも何してんだ。」
ちょっとかわいそうだったので、話題を変えてやる。
「休日ですか。う〜ん、そうですね。私は遠野家の当主ですから、休日とはいえ休んでばかりもいられません。
まだ相続の話も完全には終っていませんから弁護士と済ませなければなりませんし、事業の管理もしなければなりません。
夕方にはバイオリンの稽古もあります。」
『遠野家の当主』というくだりから、ビシバシ意味ありげな視線が投げかけられてはいた。
冷たい、というよりは、何某かの期待に満ち満ちた視線。
まるで、兄さんが一緒にやってくれれば嬉しいのになー、と言わんばかりだ。
もしかしてヤブヘビ?
「そ、それなのに今日は休んでいていいのか」
「はい、今日はたまたま何も無い日ですから。夕方の稽古も、先生が『夏休み直前に旅行に行けばラッシュも避けられる―』
とかでお休みですし。」
つまり秋葉は今日一日暇ということか。
さらに期待に膨らんだ視線を送ってくる。
「兄さん、休日とはいえ、兄さんにもやることがあるんじゃないですか。」
「やること?」
深みに嵌ると判ってはいても、そう聞き返さずにはいられない――
「遠野家の人間として、家族サービスに努めるとか、家族をつれてどこか遊びに行くとか、妹と一緒に外に出かけるとか――」
つまり、私をどっか遊びにつれてって、と言っている訳か。
「いや、だってほら秋葉、俺って金無いし。」
「金銭面なら私がいくらでも都合します。そんなことよりも、兄さんが連れてってくれる、ということが重要なのですから。」
じりっ、じりっ
秋葉がにじり寄ってくる。
ずりっ、ずりっ
俺は無意識に後退する。
「あ―――秋葉、」
俺は返答に詰まり、何気に視線を落とす。
赤ん坊が目に入った。
赤ん坊ってのは、動きたい盛りなのである。
いまこの瞬間も、はいはいをしようとしてソファから落ち―――
「あ、危ない!」
秋葉も赤ん坊の状態に気が付いた。
俺と秋葉は咄嗟に手を伸ばす。
間一髪、赤ん坊を下から抱きとめる。
俺と秋葉の手が重なった。
「「あっ」」
期せずして、俺と秋葉の声が一致する。
じたばたじたばた
むーむー、むー
赤ん坊は、ソファから落ちそうになったにもかかわらず元気にあばれている。
触れ合った手から、秋葉のぬくもりが伝わった。
俺は秋葉の目を見つめた。秋葉も俺を見つめ返してくる。
「………………………」
「………………………」
じたばたじたばた
二人とも無言。
赤ん坊を支えながら、触れ合う、二人。
赤ん坊を支えたままの不自然な姿勢から、俺達はぎこちなく立ち上がる。
いつも、見慣れているはずの、妹なのに。
今だけは、何故か、違って見えた。
「あの…兄さん―――」
秋葉はじっとこちらを見つめている。
俺はなんとなしに気恥ずかしくなって、視線を逸らした。
それで秋葉も我に返ったのか、俺から視線を外す。
二人で支えていた赤ん坊は、秋葉が抱いた。
じたばたじたばた
赤ん坊はひっきりなしに動く。
「………………………」
「………………………」
俺達は、そんな赤ん坊の様子を、満足げに見つめていた。
秋葉は、さっき少しだけ見せてくれた、あの微笑みをしている。
「秋葉…」
「兄さん…」
俺と秋葉の距離は驚くほど近い。近かった。
もう十数センチ近づいたら、唇と唇が触れ合――
「兄さん…」
秋葉は場の雰囲気に押されたのか、いつもに無いほどのたおやかな声で。
「兄さん、私………、兄さんのことが――――――むぎょ。」
んっ?
赤ん坊ってのは、暴れたい盛りなのである。
俺は、デジカメという文明の利器をこの瞬間ほど欲しいと思ったことは無かった。
秋葉が、おそらく生涯そう何度も無いであろう、素直になった瞬間、秋葉の鼻に突っ込まれる赤ん坊の指。
ほじほじほじほじ
「ふがふがふがふが」
をを、秋葉のこんな姿も滅多に見られない代物だ。
夏休みにバイトした金は、先ず一番にデジカメに使おう。
俺は心に誓った。
秋葉は思考停止している。お嬢様ライクな脳みそでは、この現実が把握できていないのだろう。
「ぶへっくしっっっっ!」
お嬢様らしくないくしゃみをする秋葉。
その勢いで赤ん坊の指も外れる。
「きゃっきゃっ」
この命知らずな赤ん坊は本当に嬉しそうだ。まったくもって将来大物になるぞこいつは。
そのまま、二秒。
「なっ!ななななななななっ!」
秋葉は鼻を手で押さえ後じさる。
やばいっ
俺は素早く秋葉の手から赤ん坊をひったくった。
「ななななななななっ、ななっ!」
ぶちん
ナにかか切れる音がした。
きっと、切れてはいけない何か。
俺には、どこぞの神が心臓と羽の重さを比較して『この者地獄に落ちるべし』といった判決の音のように聞こえた。
思わず秋葉の髪は完全に赤く染まっている。
その目じりには薄く涙さえ浮かべている。
「兄さん、その物体を渡してください。」
秋葉の中ではこいつはもはや赤ん坊として認識されていないようだ。
何もそんなに激怒しなくても。
「まっ、待てっ、秋葉!いくらなんでも赤ん坊のした事だ!そんなに熱くならなくてもいいだろ!」
「いいえ許しません。その物体はよりによって兄さんの目の前で恥をかかせてくれました!」
ゆらり
秋葉はゆっくりと近づいてくる。
ああもうどうしてお前はそんなに極端なんだ。
じりっ、じりっ
秋葉がにじり寄ってくる。
ずりっ、ずりっ
俺は無意識に後退する。
おんなじ表現だけど、さっきとはちょっと意味合いが違う。
「な、なあ秋葉、話し合いの余地は無いのか?」
「いいえ!兄さん、それは存在してはいけない物体です。私が消滅させます!」
ばばばっ
急速に展開される秋葉の檻髪。
ナイフを持たない今、俺にそれをかわす術は無かった。
あわや俺と赤ん坊の命運も尽き―――
「わっ、わかった秋葉!公園!公園に行こう、なっ!」
「えっ?」
ぴたっ
俺らめがけて襲い掛かってきていた檻髪が空中で止まる。
「やっぱ休日くらい家族と共に出かけないと、うん。いや〜俺も前々から秋葉をつれてどこか行きたいと思っていたところなんだ。
丁度いい、今まで行けなかった分も含めて、これからはいろいろなとこに行こう、な。」
「………本当ですか、兄さん。」
一転して、秋葉の表情が綻ぶ。
ぷしゅううううう
何か空気の抜けたような音がどこからか聞こえてくる。
どうやら檻髪も収まったようだ。
「にっ、兄さんにしては珍しいじゃないですか。わ、判りました。兄さんがそこまで言うのでしたら行ってもいいですよ。」
秋葉は照れ隠しか、いつものお嬢様に戻ってしまった。
「何してるんですか兄さん。早く行きましょう。」
…
…女って、どうしてこんなに感情の切り替えか早いんだろう。
出かける俺と秋葉とベビーカーに乗った赤ん坊。
翡翠と琥珀は仕事があるのだから、休日で、何もすることがない俺達が赤ん坊の世話をするのは当然のことだ。
「ふふっ、夢が一つ、叶ってしまいました。」
でも秋葉は先程のことはもう全く気にしていないようだ。
「夢?」
「ええ、こうして、家族と一緒に出かける夢です。」
「家族と…。」
思えば秋葉には家族との思い出があまりにも少なかったのだろう。
幼いころから課せられる当主としての責任。
父親もシキも、遠野としての血筋に侵され、まともな家族愛など営めなかったに違いない。
俺には、有馬の義母さんがいた。義理だけど、妹もいた。
真似ッこの家庭だったけど、それでも秋葉に比べれば、家族の交わりはずっと多かったに違いない。
「…この。ベビーカー。私の子供のころのです。」
俺がからからとベビーカーを押していると、秋葉が話し始める。
「あん?」
「もう顔も覚えていない、母親。生まれたての私をこのベビーカーでいろいろな場所に連れて行ってくれたそうです。」
「………」
「買い物に行くにも、商店街にいくにも、ただ散歩に行くにも。そして、公園に行くにも。」
秋葉は続ける。
「ささやかな場所。普通の人にとっては、何の変哲も無い、場所。そんな場所であっても、私にとっては、家族と一緒にいられた筈の、
数少ない思い出です。」
「…秋葉。俺じゃ、不満か?」
「えっ。」
「俺じゃ、不満かと聞いている。俺はお前の兄だ。こうしてお前と一緒に公園に行く。それじゃ不満か。」
カラカラカラカラ
「俺はお前と居られて、楽しいと思っている。それで、充分じゃないのか。」
「はい…」
俺は秋葉の顔を見ていない。ずっと正面を向いたままだ。
だから、秋葉が今どんな表情なのか、わからないでいる。
雰囲気から、秋葉は、ちょっと泣きそうな表情をしていたと思う。
カラカラカラカラ
「兄さん、腕を組んでいいですか。」
「何だ、いきなり。」
「私、家族で腕を組むのに憧れていました。父は…甘えさせてくれませんでしたから。」
「………俺なんかの腕でよけりゃ、いくらでも組んでいいさ。」
「ありがとう、兄さん。」
秋葉はおずおずと腕を絡めてくる。
この瞬間、俺達は本当の家族になった気がした。
秋葉の方は、もしかしたら多少違う意味もこめていたかもしれないが。
俺と秋葉は、寄り添いながら公園までの道のりを歩いた。
公園の砂場で遊ぶ、赤ん坊。
ベビーカーを脇に、ベンチで日向ぼっこをする俺と秋葉。
俺達は、無言だった。
けれど、気まずくて無言、というわけでもない。
家族だからこそ、いっしょにいて、それだけで心地よくなれる存在。
話さなくても、気持ちは充分に伝わる。
赤ん坊は、砂で山を作っている。
まだ手つきも覚束ないし体も安定しないから、片時も目を離せない。
でも、赤ん坊を見る秋葉の目つきは優しく、そして楽しそうだ。
今この瞬間が秋葉にとって、満ち足りた時間そのものなのかもしれない。
俺は、横目で秋葉の様子をうかがう。
何とはなしにどきどきしてしまう。
腕を組んだままなのが、ちょっと気まずい。
「あっ」
秋葉が声をあげる。
見ると、赤ん坊が砂場に顔から突っ込んでいた。
転んだのだろう。
秋葉が絡めていた腕を解く。
たたた、と一直線に赤ん坊の下に駆け寄った。
「うわぁぁぁぁぁぁぁん」
一拍置いて、赤ん坊が泣き始めた。
背中をさすり、抱き上げ、あやしてやる秋葉。
俺も、ポケットからハンカチを取り出し、顔についた汚れを拭き取ってやる。
やがて赤ん坊も泣き止んだ。
汚れを拭いてやってる俺の手が遊んでくれてると思ったのか、しきりに、ちっちゃい手で俺の指をつかむ。
くりくりっとした赤ん坊の指が何故か面白くて、俺も秋葉も笑っていた。
「ほっほっほ
可愛い子じゃのう。目元は父親、輪郭は母親にそっくりじゃ。」
突然、家族の団欒に見知らぬじいさんか割り込んできた。
どう見ても高校生にしか見えない俺と秋葉。
だけど秋葉は赤ん坊を抱いていて、俺は傍に立っている。
この関係を見て、そのじっちゃんが思うところは。
@誰一人血の繋がっていない赤の他人。
A新妻に若旦那、そして妻の胸に抱かれた二人の愛の結晶。
……………
わはははは。@だよな、じいさんそうなんだろ。@だそうだそうに決まってる。頼むからそうだと言ってくれ。
「それにしても似合いの夫婦じゃのう。おしどり夫婦ってとこかの。ほっほっほ。」
そんな口調だけは好々爺にならなくていいから、頼むよじいさん。
「あ、あの、あの、兄さん―――」
「兄さんだなんて隠さんでもええ。若いってことはそれなりに苦労するかも知らんが、堂々としてればええ。」
またこのじいさんは言ってくれるぅぅ。
俺は心の中で滂沱する。
かぁぁぁ
秋葉はもう、完全に熟したトマトになってしまった。
結局、言うだけ言って俺達の弁解を何一つ聞き入れず去っていったじいさん。
あんた何者なのと聞く暇も無かった。
公園からの帰り道、非常に気まずい沈黙が俺達の間に流れていた。
――――――――――――――――――――――――――
夢。
またあの夢だ。
妙に現実感のある夢。
夜はふけていく。
いいかげん話し飽きてきた。
時計を見ると、もう午前4時だった。夜明けまで後もう少し。
アルクェイドと、延々6時間以上も話しつづけていたことになる。
ここは、ホテル。
俺は、アルクェイドと、ネロから身を隠すために、また、アルクェイドが寝ている間の護衛役としてホテルにいた。
今までこれと言った異常も無く、アルクェイド本人は緊張している素振りすらない。
アルクェイドはしきりに俺に話し掛けてくる。
弱っているのなら眠ればいいのに、「話しているほうが楽しいから」と、結局こうして、二人で向かい合っている。
だけど、話しているうちに、俺はアルクェイドをバケモノとは思わなくなっていった。
何気ない動作、雰囲気、話し振りを見ていると、危ない単語がポンポン出てきてはいるが、
本当は、吸血鬼の振りをしているただの目の紅い人間なんじゃないか、そう思えてしまう。
俺がアルクェイドを前に殺していなければ、吸血鬼であることすら信じなかったに違いない。
そんな気がする。
ぐうぅぅぅ
腹が鳴った。
そういえばホテルに来てから何も口にしていない。
「お腹が減っているの?志貴。せっかくホテルに泊まっているんだから、ルームサービスを頼んだら?」
「いや、いい。俺は護衛としてここに居るんだ。飯を食ったら緊張感が緩んでしま―――」
アルクェイドを振り返り、愕然とした。
アルクェイドの背中の、窓。
その向こうに、あのときの蒼い鴉が、こちらを見つめていた。
ゴン、という重苦しい響きが、ホテル全体に響いた。
ネロの、狩りの、始りだった。
耳を澄ませば、下のほうでなにやら騒ぐ音が聞こえた。
「―――――」
俺達は、部屋で息を潜めていた。
アレから、二分。
ホテル全体を揺るがす衝撃から、まだそんなにたってはいない。
しかし、下の階のがやがやと騒ぐ音は、かき消すように消えていた。
アルクェイドは、戦えない。
ネロと今戦ったら、逆に消滅させられてしまう、そう言っていた。
だから、俺が、アルクェイドを護らなければ。
―――様子を見に行くべきか?―――
いや。
今はまだ、ここで様子を見よう。
無闇に外に出て戦うのは危険だ。
ナイフを構え、じっと外の気配を探る。
下の階は、静寂が支配していた。
人の気配は、全くと言っていいほど、無い。
俺は、眼鏡も外した。
脳が許容する以上の情報、世に満ち溢れた死が、強制的に俺の目に飛び込んでくる。
吐き気を催す程の静寂と世界に渦巻く死の中、
ばんばんばんばん
突然、ドアをたたく無数の音が響いた。
「志貴、覚悟はイい?」
ばんばん、がんっ、ドカッ、バキッ
ドアをたたく音はどんどん激しさを増す。
そんな中、ぽつりと、アルクェイドは呟いていた。
ばぁぁぁん
ついにドアが開け放たれた。
そして、獣どもが、部屋に闖入した。
ぞわり
ぞわりぞわり
背筋を強烈な悪寒が走る。
部屋になだれ込んできた、動物の形をしてはいるが動物ではない、異形のパケモノども。
獣どもは、俺とアルクェイドに一斉に飛び掛ってきた。
俺は上体を沈め、まずアルクェイドに飛び掛ったドーベルマンの喉笛を切り裂く。
ドーベルマンは勢い余ってアルクェイドを飛び越え、壁に激突した。
続いて左腕で俺に飛び掛ってきた狼の顎を半ばアッパーカット気味に持ち上げ、腹に走っている3本の線を切り裂く。
次の相手はゴリラと鰐だ。
ゴリラは、岩をも砕く拳を叩き付ける。
俺はそれをかわし懐に飛び込むと、心臓に見える点めがけ突きを放つ。
右足元から鰐が口を開き足に噛み付こうとしたため、俺は咄嗟に右足を浮かせそれをかわす。
そのため、ゴリラに当てた突きの狙いが逸れ、ゴリラをその一撃で殺せなかった。
胸からドス黒い血を噴きだしながら、激昂したゴリラは俺の腹に拳を見舞う。
まともに食らえば、ただの一撃で肉体が破壊されかねない。
俺は身を捌き、間合いを取ろうと必死で後退したが、鰐が次の攻撃に入るほうが早い。
床についた直後の足めがけ、再びその巨大なアギトで食いちぎろうとする。
やられる――そう思った刹那。
その頭部に、横から凄まじい勢いで爪が襲い掛かる。
アルクェイドの、一閃だ。
鰐の頭に食い込んだ爪は鮮血を巻き上げ、さしもの鰐をよろけさせる。
だが、鰐はひるむことなく反撃に転じた。そのアギトの矛先をアルクェイドに変更し、鰐とは思えないほどの素早い動きで床を這う。
俺はゴリラに向き直り、改めてその体に走る線を凝視した。
右腕と、首に、一本ずつ。心臓付近に刺した傷から、先程までは無かった線が新たに生まれていた。
ゴリラの動きは多少鈍くなっていたが、それでも拳を繰り出してくる。
だけど俺の動きの方が早い。
突き出された右腕の線をナイフでなぞると、懐に潜り傷からの線を放射状に切り裂く。
そして、とどめとばかりに首を切り飛ばす。
ゴリラは、音も無く崩れ落ちた。
丁度、アルクェイドも鰐を両断したところだった。
どれほど時間がたっただろうか。
部屋の中で、数え切れないほどのバケモノを殺した。
部屋の中だったため、バケモノどもが一斉に襲ってこれないのが幸いして、今まで何度か危うい場面もあったが、何とか持ちこたえて
いた。
バケモノどもは、その生命活動が終わると、液状化してただのドス黒い液体と化していた。
次の相手は、蛇。
いや、身の丈十数メートルはあろうかという大蛇だった。
大蛇は、部屋に入るなりベットの下に潜り込む。
ネロはまだ現れていないが、取り敢えずこいつが最後の敵のようだ。
素早く決着をつければ、ネロから逃げるチャンスも出来るかもしれない。
しかしベットに潜り込んだ敵に、迂闊に手は出せない。
(何とかして、ベットから追い出さなければ。)
俺はベットを凝視する。
表面だけでなく、下の、支柱やスプリングまで、見えないはずの物まで凝視した。
(あった!)
布団や枕というレベルではなく、ベット全体に走る線が見える。
ベットの真ん中くらいから、横に真一文字に両断する線が。
それが、布団や枕単体ではない、ベットとしての「死」だと、俺は直感した。
俺はベットに走り寄り、ベットを飛び越えた。
飛び越えざま、横に走る線を切り裂く。
着地して素早くベットから遠ざかる。
暫くは、何もおきなかった。
と、
ズッ
不意に、ベットが軋みを上げる。
ズズズッ―――――ズンッ
そして、ベットが、布団ごときれいに両断された。
下にいた大蛇は、ひとたまりも無い。慌てて這い出ようとするが、支柱に挟まれ動くことすらままならない。
俺は、ゆっくりと、蛇に近寄る。
必死であとじさる蛇は、まるでバケモノを見るかのように目に恐怖の色を浮かべる。
バケモノの、くせに。
俺は、大蛇の顔面に走る線を両断した。
終わった
しかし。
ごき、ぼりっ、がりっ、がりっ
何かを噛み砕く音がした。
そう、それはまるで、人間を丸かじりしてるかのような、音。
「ふム、なかナかに、美味なるかナ。」
そこに、ネロがいた。
俺は愕然とする。
戦ってはいたが、須く周囲に気を配ってはいた。
入り口からの侵入者があれば、何があっても気がつくはずだ。そしてネロの侵入を許した覚えは無い。
ぼりっ、ぼりっ、ゴリッ
ネロの体から、不自然に手が生えていた。
白い服を着た、白い手だった。
それが、租借の音に合わせ、びくんびくんと波打つ。
「馬鹿な!どうやってこの部屋に侵入したんだ!」
「我は夜ノ混沌の集合体。我はネロといウ存在であると同時に、今マでお前が切り裂いてきたケモノどもの集合体でモアる。」
ごきっ、ぼり、ぴちゃぴちゃ
手から先が、ポトリ、と床に落ちた。
それは、アルクェイドの、手だった。
―――――――――――――――――――――――
「うううぅぅぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁああ!!!」
俺は叫び声をあげていた。
ズッ
はぁー、はぁー、はぁー
俺は飛び起きた。
全身がびっしょりと汗に濡れていた。
ズズッ
ここは、俺の部屋。
そうだ、俺は、夢を見ていたんだ。
俺が、かつて殺した筈のネロが、夢ではコロされずに生きていて、アルクェイドを吸収してしまう…
夢であったことへの安堵とともに、言いようの無い不安が胸に押し寄せた。
悪夢であるとしても、内容が悪すぎる。
何故、俺はあんな夢を見てしまったのだろうか。
潜在意識が人に夢を見せる。
…だが、そもそもあれは俺の潜在意識に有るモノだったのか。
ばたばたばた
足音が近づいてきた。
ばん
ドアが勢い良く開けられる。
「兄さん!どうしたのですか!」
声をききつけ、一番に駆けつけてきたのは、秋葉だった。
続いて、ぱたぱたと足音がして、翡翠、最後に琥珀が部屋に入ってきた。
そのとき
ピシッ
最後の何かが終わる音がした。
ズズ、
ズズズズッ
ベットが、これまでで最大級の軋みをあげる。
そして
最初から
そこが
切れていたかのように、
ベットが、
真ん中から、
二つに、
割れた――――
ズズッ…ン
ベットは、いい素材で出来ていたらしく、重厚な音を響かせる。
さすが遠野家―――等と場違いな思考が一瞬頭をよぎった。
「えっ。」
情けないことに、俺の第一声が、それだった。
秋葉達三人は、声も無い。
俺は思考を失い、ベットが割れた勢いで投げ出されるままになっていた。
ベットが真っ二つに裂けた。
支えの材木だけでなく、シーツから、布団まで、きれいに裂けた。
何も、して、いないのに。いない筈なのに。
…
いや、した。
俺は、ネロとの戦いで、部屋に侵入したバケモノを切り刻む過程で、ベットごと真っ二つに切断した。
だけどアレは夢の中の戦いのはずだ。
現にここは俺の部屋だし、俺は、ホテルなんかに行っていない。
だけど、このきれいな切断面からも、俺が切ったとしか考えられない。
そうだ!ナイフ!
夢の世界の俺は、あのナイフでベットを切断した。
何もしていなければ、ナイフは引き出しにしまわれているはずだ。
俺は引出しをあけた。
ナイフはそこにあった。最後に置いた時そのままの状態で、刃をしまわれて。
だけど
だけど、この状況は、どう説明するのだろうか―――