【プロローグ】
夢。
それは
夢魔の作る世界。
そして
夢魔が存在する世界。
あるところに、夢魔がいた。
その夢魔は、何をするでもなく漂っていた。
喜びも、怒りも、悲しみも、楽しみも。
全ての感情を捨て、ただ、漂っているだけだった。
夢を、創らない、夢魔は、
夢に、存在することが、出来ない。
即ち、存在意義を、失う。
その夢魔は、ただ、漂っていた。
その、人ならざる者に、出会うまで。
狼。
「あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」
子供たちは、にんげん、に殺されていた。
にんげんは、黒く光る銃で、子供たちを、コロシタ。
「あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」
くらい、くらい、ヨル。
三日月だけが、草原を照らしている。
はっはっはっはっは
ははっははっははっ
荒い息遣いが月夜に響き渡る。
狼達の狩り。エモノは、にんげん。
風が、かすかに獲物の匂いを運んでくる。
狼にとっては、これで充分過ぎるくらいだ。
「あおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん」
あちらこちらで、仲間が遠吠えをあげる。
にんげん、は、かわいい子供たちをコロシタ。
だから、コロシ返さなくてはならない。
「おぉぉぉぉぉん、おぉぉぉぉぉぉん」
エモノはもうすぐだ。
と
ガキイィィン
肉に食い込む痛みと共に、脚を何かがはさんだ。
足に喰らいついて、離れようとしない。
引っ張っても、噛み付いても、それは外れなかった。
にんげんの、匂いがした。
それは、どんなことをしても外れなかった。
にんげんの、罠だった。
「―――――」
断末魔の、悲鳴。
狩りの、終了だ。
仲間達が戻ってくる。
それぞれに、エモノの肉片を咥えていた。
仲間は、雌狼がにんげんの罠にかかったことを嘆いていた。
だけど、どうやっても罠が外れないことを悟り、一匹、また一匹と去っていった。
狼たちは放浪している。
ここではぐれたら、それはもう二度と合えないことを意味している。
すくなくとも、生きている間には。
雌狼の目前には、死、だけが横たわっていた。
だけど、雌狼は、生きていた。
最初の3日は、仲間が置いて行ってくれた肉で飢えを凌いだ。
次の3日は、ただ空腹に耐えた。狼にとってはこれくらいの飢えなど何度も経験している。
その次の3日は、雨だった。
狼は、体温を奪われたが、泥水をすすって喉の渇きを癒した。
最期の3日は、じっと横になり、ただひたすらに飢えを耐えた。
何日が、経過したのか。
中空には、満月が冷たい光を放っていた。
雌狼が、意識が朦朧となり、現実と虚構との区別が曖昧になり、あとわずか一押しで、命を失っていただろう、そんなとき。
男が、通りかかった。
黒いマントで全身を覆い、その内は窺い知ることができない。
明るいはずの月夜に、男のギラギラしたあかい眼が、くらい闇を意識させた。
「こんなところに、狼か。」
雌狼は、本能で、この男が人間の形をしているがにんげんでないことを感じとった。
だけど、わずかに残った力を振り絞り、唸り声を上げた。
男は、興味なさそうに雌狼を一瞥し、雌狼が罠に掛かっていることを知った。
「ふん、死にかけの狼などに興味は無い。」
男にとって、狼は興味の対象ではなかった。
空腹ではなかったし、年月を超越した存在にとっては、一匹の死にかけの狼など、興味を抱くことすら値しなかった。
男は、そのまま何をするでもなく、狼の横を通り過ぎるはずだった。
だけど。
それは、何千何百万分の一の可能性だっただろうか。
本来なら、それは決して有り得ない出来事のはずだった。
本当にただの気まぐれだったのかもしれない。
それとも、優しく吹き抜ける夜風が、男の心を動かしてくれたのかもしれない。
男は、狼を振り返った。
「ふん、本来ならお前などに構ってやるつもりも無いのだがな。」
バイン
男が一瞥しただけで、にんげんの罠があっけなく砕け散った。
雌狼は動かない。いや、動けない。
だがそれでも、朦朧とする意識の中で、雌狼は更に威嚇の唸り声を上げた。
男には、血を吸うことはできるが、治癒の能力は無い。
だけど、狼の素質には気がついていた。
綺麗な命の色をしている。稀に見る素質だった。
血を吸わなくても、ほんの少し後押ししてやるだけで、この雌狼なら独り立ちできるであろう。
「お前に…名前をやろう。」
名前は言霊、力。名前を得ることにより、同時に力も得る。
「お前の名前は――――だ。」
その刹那。
カカッ
光があふれた。
月の光が、星の光が、周囲を漂っていたもの全てが、力となって雌狼に流れ込んだ。
もはや雌狼は、死にかけではなくなっていた。
傷が塞がり、圧倒的生命力でもって、男の前にいた。
男は言った
「共に来るか。」
雌狼は、人間の言葉ですらも、理解できていた。
だが、判らなかった。この男が、この存在が、何者なのか。
獣の本能の部分で、「拒否」の感情が働いた。
雌狼は、答えなかった。
「ふん、まあいい。俺には求めるものがある。―――永遠をかけて求めなければならないものが…永遠の命題が。」
男は再び踵を返し、去っていった。
それきり、雌狼と男とは二度と会うことは無かった。
雌狼は、考えた。
名前とは。
―名前トは言霊。ダから力あルものから名前ヲもらえば、力ヲ得る。―
雌狼は、考えた。
何故、男は自分に名前をつけたのか。
―名前を付ケレば、君が力ヲ得ル。あの状況で、君ヲ救うのにモットモ適した方法ダッタかラ―
雌狼は、考えた。
名前「――――」は、どんな意味があったのか。
―ソれが君ノ名前、君と、他トヲ明確ニ区別する、名前。―
男は言った。
『共に来るか。』
言葉の意味はわかる。だけどその理由がわからない。
何故。
雌狼は、考えた。
男は、何故そんなことを言ったのか。
―直接、訊イテミレバイイ。―
そう。
だから、旅に出た。
いや、今までと同じだ。今までも、自分達は放浪の旅を続けていたのだから。
男は、永遠の命題があるといっていた。
だから、時間も永遠にかかるのかもしれない。
だけど、時間は…時間なら、こちらにだってあるのだ。
なら、追いつける。
いつか、必ず。
なぜなら、自分は、狼なのだから―――
漂っていただけの夢魔は、目的を見つけた。
再び、出逢った、輝ける魂。
この魂と共に、何処までも、いけるところまで。
それは、ちょっとした話。
目的のなかった夢魔と、目的をもった雌狼。
不思議のあふれるこの世界では、ほんのちょっとした話。
満月が、優しく彼女達を照らしていた。