■ 直死館殺人事件 / 押野真人 

 ずっと逢いたいと思っていた。
 あの夜、俺の純情を弄んだアイツに。
 だから、アルクェイドに頼んだんだ。
 もう一度だけ、アイツに逢わせて欲しいって。

 そいつの名は……レン、と言う。

 ああ、夢を見ているんだな、と思った。
 今回は何も見えない真っ暗な世界の中。だけど身
体が自由にならない、そんな感覚はあの時と一緒。
 だけど今度は口も動かせやしない。これじゃ文句
の一つも言えないじゃないか。どうしたものだろう、
そう考えていると墨色の世界の中に気配を感じた。
 誰だろう、と思考だけがその気配を手繰り寄せよ
うとする。そうして、あたり一面から反響するよう
な調子であどけないと言ってもいいような声が聞こ
えてきた。

 このたびはご指名ありがとうございます。
 それとお久しぶりです、志貴さん。
 わたしの素顔を見たいって、姫様から聞きました。
 困りました、あんまり安売りはしてないんです。
 でも、志貴さんのこと嫌いじゃありませんし。
 ですから今日は一つ、ゲームをしましょう。
 今から貴方にわたしの紡ぐ夢の世界を案内します。
 わたしは夢の中で志貴さんの良く知っている人の
姿をとって夢に紛れています。
 この夢が終わるまでにわたしを見つけ出せば、志
貴さんの勝ち。逆に、見つけられないまま最後まで
夢を見続けてしまったら、志貴さんの負け。
 もしも、わたしが夢の中で死んでしまったら夢は
おしまい。その時は引き分けですね。
 
 志貴さんが勝ったら、お望み通りわたしの姿を見
せてあげます。あんな事もこんな事もし放題です。
 そのかわり、志貴さんが負けたら……ふふふ。
 わたしが好きな姿であんなコトやこんなコトし放
題です。覚悟してください。

 殺人貴の志貴さんなら、少なくとも負ける事は無
いと思います。だから……志貴さんには夢を夢だと
は気付かせないようにします。
 「犯人」と言う名のわたしを、探してください。
 さあ、夢の時間の始まりです……




 頬をほのかに暖める日差しに、目が覚める。夢の
余韻を残したような、穏やかな朝の一時。
 視線を送った机の上に、まだ着替えが用意されて
いないことを確認する。どうやら柄にもなく早起き
してしまったみたいだった。
 春の早朝の寝台は心地良い事この上なくて。起き
出す気にもなれずに寝返りを一つした、その時。

 だん、だだだん、だん。

 いきなり乱暴に扉の叩かれる音がした。
 いつもの翡翠のノックより強く、乱れた調子の音。
 そして返事も待たずに部屋に飛びこんできた人影
を目にして、俺は思わず目を疑ってしまった。

「志貴さん、起きて下さい、志貴さんっ!」
「なっ……!!」
 駆け寄って来たのは、必死の形相のアキラちゃん
だった。そうして、寝惚け眼で身を起こした俺を必
死に揺すりはじめる。
 いや。とりあえず、落ち着こう。
「おはよう、アキラちゃん。今日は早起きだね?」
 うわ、落ちつきすぎ。
 突きつけた俺の人差し指を不思議そうに眺めて、
ゆっくりと晶ちゃんは口を尖らせた。
「また寝惚けてますね? でもでも、今日は志貴さ
んのそーゆーのに構ってる暇はないんです!」
 そう言うと、アキラちゃんは俺を寝床から引き起
こそうと、両手で俺の腕にしがみついてくる。

「待って、落ちついて。一体何事?」
 自分にも言い聞かせながら、俺は出来るだけ優し
く微笑もうとした。
「そっか、アキラちゃん昨夜は泊まったんだ?」
「シエルさんが殺されてるんですっ!」
 のんびりと現状を理解しようとする俺の耳に、と
んでもない台詞が吹き込まれた。
 一瞬、俺の脳みそが情報の受け取りを拒否する。
「え、なんだって?」
「だから、シエルさんが自分の部屋でスプラッタ死
体になってるんですっ!」
「は?」
 先輩が、部屋で死体に、なっている。
「いや、先輩は殺されたって死ねないんだぞ?」
 なんだか不条理だなあと思いながら呟いてみた。
 でも、実際先輩はそんな簡単に殺されるような人
間ではないのだから仕方ない。
 どうせまたアルクェイドあたりと派手にやりあっ
たんだろう。まあそりゃ、事情を知らないアキラち
ゃんは怯えるのも当然か。
「だから、ヘンな風に落ち着いてないで下さいっ」
 目に一杯涙をためたアキラちゃんが俺の襟元を掴
んだ。その指先が細かく震えているのを感じる。
 優しく頭をぽんぽんと叩く。真っ青な顔で俺を見
上げるアキラちゃんの瞳が視界に広がった。
「お願いですからっ……志貴さんっ!」
 一瞬置いて、アキラちゃんが胸に飛びこんできた。
 勢いのままに寝台に倒れる俺。
「人が死んでるんですよっ? なのにみんな……」
 がたんっ
 のしかかるように体を預け、馬乗りになるような
格好で錯乱して、支離滅裂な言葉を浴びせていたア
キラちゃんの体がびくり、と強張った。
「……兄さん?」
 そして、その体の向こうから聞こえてきた声は、
俺の心臓を蹴り飛ばすには充分な重みを持っていた。
「あ、秋葉?」
「ひ、ひいっ!」
 掠れた声。
 ぱっと飛びのくように体を離したアキラちゃんが
わけのわからない事を口にしながら両手を振る。
 秋葉はというと、すっかり醒めきった視線をこち
らに向けて微動だにしない。
「あの、秋葉さん?」
「……何をしていたのかしら?」
 ぎしり、と軋む程に視線に力を込めた秋葉の黒髪
が、ゆっくりと錆びつくように朱色に染まった。
 視界の隅で、アキラちゃんがこそこそと部屋から
這うように逃げ出そうとしているのが映る。
 せめて彼女だけでも無事に逃げられたら、などと
思ってその背中を黙って見送る。
「……お待ちなさい、瀬尾」
 俺の視線を辿った秋葉が、有無を言わさぬ口調で
命じた。
 ぶるぶると震えながらこちらを振り向くアキラち
ゃんはまるっきり臆病な小動物にしか見えない。
「おまえは、一体なんのつもりなのかしら?」
 風格たっぷりに威嚇する秋葉。なー、と哀れな鳴
き声を洩らしてアキラちゃんが必死に首を振る。
「なー、じゃありません」
「こらこら秋葉、怯えてるじゃないか」
 見かねて、おそるおそる声をかける。
「いいえ、兄さん。躾というものは、悪い事をした
時にちゃんとしておかないといけないんです」
「それはいいけど、悪いことって?」
 別に実害は無かったんだから構わないのに、秋葉
も理不尽な事を言う。どうもこの妹は弱いものを見
ると突っつきたくなる悪癖があるらしいのだ。
 じと、と見つめてやると、果たして秋葉は気まず
そうに目を逸らした。
「ま、まあいいでしょう。それより兄さん、シエル
先輩が厄介な事になりました」
「厄介?」
 秋葉までがそんなことを言い出すとなると、よほ
ど激しくやりあったのだろうか。ここのところ仲良
くやっているように見えたのに、あの二人は全く油
断ならない。
 秋葉と俺は同時に大きく溜息をついた。
「死ぬのも殺されるのもシエル先輩の勝手ですが、
なにも私達の家の中であんなに派手に血液をぶちま
けられるとさすがに迷惑です」
「へえ、そんな派手にやりあったんだ」
「……ずいぶんと、落ち付いてますね。兄さんは」
 まあ、馴れもあるからなあ。時々自分でもやりあ
っているくせに、秋葉の方こそいまさらだった。
「それで、誰がやったの?」
 もう一つ溜息をつく。まあ、秋葉じゃないみたい
だから消去法でアルクェイドくらいしか居ない。翡
翠や琥珀さんにはとてもじゃないけどそんな真似は
できないだろうし。
「は?」
「いや、だから、誰がシエル先輩を殺したの?」
 気が付くと、アキラちゃんが秋葉の背中からこわ
ごわとこちらを覗き込んでいる。
 シエル先輩について説明しておく必要を感じる。
「ああ、大丈夫。詳しい話は省くけど、先輩ならそ
のうち蘇生するから。そんなに簡単には死なない体
なんだよ、先輩は」
「兄さん。その事なんですけれど」
「ん?」
「ちゃんと死んでます。蘇生、しないんです」
 沈痛な、それでいてどこかしら晴れ晴れとした複
雑な表情で秋葉がそう言いきった。
「……な!?」
 それは、とても悪い冗談。さわやかな目覚めの頭
に冷水をかけられたような、趣味の悪いお話。
「そんな、馬鹿な! 先輩はそんな簡単に……」
「あの女がしばらく様子を見ていたらしいのですけ
ど、一向に再生する様子がないらしくて……」
 遠くから響く秋葉の声を、片手をあげて遮った。
言葉なんかじゃとても信じられない。
「それで、先輩はどこだ?」
「離れの客間に……兄さん?」
 俺は跳ね起きて部屋を飛び出した。寝巻きのまま
で廊下を走り抜け、テラスのサンダルを引っ掛けて
疾走する。
「兄さん!」
「志貴さん!」
 そのときの俺には、悪いけれど二人の声を気にす
る余裕なんて無かった。




 そして、俺を出迎えたのは想像を上回るほどに惨
たらしい光景だった。
「なんて、コト……」
 呟いて絶句する。
 先輩の体は離れの畳に縫い止められていた。
 その身体を貫く6本の長剣は、先輩が愛用してい
た黒剣。四肢は硬直して、その主が既にこの世の者
ではないコトを雄弁に示してしまっている。
 そして、どこか茫洋とした瞳に支配されたその表
情は、自分に襲いかかる死という現実を認識できて
いないように見えた。
 それもそのはず。先輩ほど「死」という概念から
ほど遠い存在は居ないはずだったのだから。
「志貴さん……いらっしゃったんですか」
 振り返ると、琥珀さんが立っていた。
「……説明してください」
 ぽつり、と。そんな言葉が俺の口からこぼれた。
「さあ。翡翠ちゃんがシエルさんを朝食にお誘いに
来た時には既にこの状態だったそうです」
「朝食?」
 食欲なんてまるでなかったけど、そう聞き返す。
柱時計を確認すると、既に九時を回ろうとしていた。
「はい。これを見た翡翠ちゃんはちょっと調子を崩
してしまいました。それで志貴さんを起こすのは後
回しになってしまったんです」
 すみません、と琥珀さんが頭を下げる。
「あ、いや。そんな事はどうでも良いんだけど。そ
れより、どうして先輩はほったらかしなんだ?」
 畳に染み込んだ血がまきちらす匂い。
 そう、先輩をこんな所に置きっぱなしにしておい
ていいはずが無かった。
「それが……」
「わたしがそうするように言ったのよ」
 満面の笑みを浮かべて、最重要容疑者が登場した。
「シエルの再生能力は血液にも作用するから、下手
に動かすより蘇生する確率は高いのよ」
「そうなのか」
 実感が沸かないまま、俺は問い返した。
 もっとも、先輩とは一番付き合いの長いアルクェ
イドがそう言うのなら間違いはないのだろう。
「うん。でも、このまま腐っちゃうようなら諦めて
処分しちゃった方がいいと思うよ」
「腐ると……畳がダメになっちゃいますね」
 琥珀さんが溜息をついた。
 そんな二人の仕草に、ようやく俺はアキラちゃん
が何を取り乱していたのか理解した。
「琥珀さんも、アルクェイドも、先輩が死んだのに
……何か他にいう事はないのか?」
 そう言うと、二人は顔を見合わせる。やがて、示
し合わせたように、同じ方向に首を傾げて見せた。
「わたし、別にシエルが死んでも困らないよ?」
「うーん、この畳はいろいろと思い出があるんでで
きれば元通りにしてほしかったんですけど」
「そうじゃなくて! 人が一人死んだんだぞ?」
 ぽん、と琥珀さんが手を叩いた。
「ああ、そういうコトですか。確かに、死体の処理
はあまり気持ちのいいものではないですよね」
 ……違う。
 それは、どこか大切な所で間違っている。
「でも待ってくださいね。処理しちゃう前に、シエ
ルさんの体を調べておかなければいけませんから」
 琥珀さんが片手に下げていたお医者さんの鞄を開
くと、中身をごそごそと探り出す。
「なになに?」
「とりあえずですね、死亡推定時刻を調べてみない
と。あと死因も一応は調べておきます」
 そこまで言って琥珀さんがこちらを振り向いた。
「志貴さんは、他に調べたいことはありますか?」
 そんな事を聞かれても答えられるわけがない。そ
れどころか、手際良く先輩の服を剥ぎ取り始めた琥
珀さんから慌てて視線を逸らし、背中を向ける。
 部屋を出る俺の背中にアルクェイドが声をかけた。
「そうそう、妹が外で待ってたよ。なんか話してお
きたいことがあるんだってさ」
 



 秋葉は、離れの玄関で俺を待っていた。その後ろ
には相変わらず怯えた様子のアキラちゃんがいる。
「兄さん、確認は済みましたか?」
「ああ」
 血だまりの中に踏みこむまでもなく、先輩が今は
死んでいることは明らかなように思えた。
「それでは、当主として兄さんに要請します。客人
を殺害した不埒者を明らかにしてください」
「へ?」
 秋葉は目を瞬かせる俺を見つめて、もう一度同じ
ことを告げた。
「犯人を探して欲しいと言っているんです。あんな
方でも客人にはかわりありませんから」
「いや、そんな事は警察の仕事だろ?」
「何を言っているんですか、兄さんは。この屋敷の
中に国家権力を介入させるつもりはありません。大
体、先輩の事をどう説明するつもりですか?」
「……ああ、そっか」
 反射的に否定してみたものの、言われてみれば確
かに警察を呼ぶのはまずい。
 シエル先輩は日本国籍を持っていない。というか
まともに入国しているのかすら疑わしい人だ。
 それに、まだ蘇生の希望はあるんだから、さらに
事態が厄介にする事はできない。
「ですが、犯人探しをしないまま放置するワケにも
いきません。誰が、何故先輩を殺害したのかを明ら
かにしてもらっておかないと」
 なるほど……確かに安眠は出来ないだろう。
「ですから、兄さんに捜査をお願いします」
「……なっ! なんでそうなるんだ!」
 平然ととんでもない事を言い放った秋葉は、異議
を主張する俺を冷やかに見据える。
「あ、あの……遠野先輩?」
 アキラちゃんが手持ちの勇気を全てかき集めまし
た、といった感じの決死の様子で声を出す。
「なにかしら?」
「その……本当に警察には……?」
 助けを求めるように俺に視線を送る。
「ごめん。シエル先輩はちょっと特殊な人だから、
警察を呼ぶといろいろと困るんだ」
「でででも、人殺し…!」
 パタパタと手を振るアキラちゃんを眺めていると、
俺の中で諦めにも似た感情が生まれる。
 シエル先輩を殺した奴を野放しにはできない。
 そしてそいつを探し出すのは、俺の役目だった。
 そう、気が付くと単純な事。この役目を他の人間
に渡すわけになんて、いかない。
「わかった。俺が先輩を殺した奴をきっと見つけ出
してあげるから。人殺しを野放しになんてしない」
「そ、そうですよね。わたしも協力しますっ」
「うん、ありがとう」
 胸の前に両拳を揃えて力説するアキラちゃんに向
かって頷いて見せる。アキラちゃんが硬い表情のま
ま頷き返すのをどこか微笑ましく見守る。
 とまあ、それはいいんだけど。その横に立ってい
る秋葉の目つきが何だかすごいことになっている。


「秋葉? どうしたんだ」
「……兄さんは、瀬尾の言う事なら聞いてくださる
んですね」
 意地の悪い流し目で、こちらを睨み付ける。
「凄いわね、瀬尾は。兄さんに言う事を聞いてもら
えるなんて、私でも滅多にないのに」
 秋葉に振り向かれて、アキラちゃんがそれこそ蛇
に睨まれたカエルのように身を竦ませる。
「あんまり後輩を困らせるなってば」
 そう言った途端、秋葉の視線が苛烈な光を宿す。
 うわ、火に油。
「……わかりました。とにかく、しっかり捜査して
下さい。こんなお願いをする以上、言うまでもない
ことですけど、私は犯人じゃありませんから」
 その秋葉の言葉が暗に指し示す事柄に気づいて、
俺は目を見開いた。
「おまえ……まさかこの屋敷に犯人がいるとでも思
ってるのか?」
 つい先ほどまでは自分でもアルクェイドあたりが
犯人だと思っていた事を棚に上げて、俺は驚いたよ
うに、非難するように、秋葉を問い詰める。
 しかし、秋葉は余裕に満ちた表情でこちらを見返
した。
「あら、意外と鋭いところもあるんですね。ちょっ
と安心しました。ええ、外部からの侵入者はセキュ
リティに記録されていません」
「そっか……」
 まあ、そんなものに引っかかるような奴に先輩が
殺せるはずもない。そう考えて、ふと思い当たる。
 結局、先輩はどうして死んだんだろう、と。
「誰が先輩殺したの……か」
「『私よ』妹が言いました」
「わっ!」
 突然、妙な節をつけてアルクが口を挟んだ。
「あれ、どうしたの志貴」
 驚いて振り返ると、アルクェイドが靴を履きなが
ら離れの玄関から出て来ていた。
「志貴が探偵っていうのをやるんでしょ? いいな
あ、わたしとかわらない?」
「かわらないって、なんだよ」
「ねーねー妹、わたしも一緒に捜査したいな」
 俺を無視してアルクェイドは秋葉に向かって手を
振って見せる。まあ、こんなことを言い出すからに
はアルクェイドも犯人じゃなさそうだ。
「はあ?」
 秋葉は心底あきれた、というような声で答えた。
「何を馬鹿なこと言ってるんですか」
 だけど、アルクェイドは悪びれた様子もない。
「なによう、妹おーぼー」
 ぶーぶー、とアルクェイドが右手を上げて抗議す
る。秋葉の瞳がすっと細められる。
「横暴とは何ですか。そもそも、貴女に妹と呼ばれ
る筋合いはありません。兄さんの口添えがなければ
屋敷に入れるつもりすらなかったんです」
 あからさまに敵意を剥き出しにするものの、アル
クェイドはまるで堪えた様子もなかった。



 秋葉の殺気を受け流せるあたりも、こいつは十分
に人間離れしているといえよう。その証拠に、二人
のやり取りを見守っているアキラちゃんは、すっか
り怯えてしまっている。
「……志貴さん」
 いつのまにか俺の背中に隠れるようにして、二人
の様子をうかがっているアキラちゃんがかぼそい声
をあげる。
 何だか動物愛護の精神にも似た衝動に突き動かさ
れて俺は優しくその頭をなでてやる。
「大丈夫。あいつらはいつもあんな感じだから。そ
れより今は先輩の命を奪った奴を探さなければいけ
ない。手伝ってくれるかな?」
 そう言うと、とたんにアキラちゃんは嬉しそうな
鳴き声をあげて激しく首を縦に振った。
「わ、わたしなんかで良いんですか?」
 言葉の内容とは裏腹に、その返事はやる気に満ち
溢れていた。なー、と喜びの雄叫びを上げる。
「うん。アキラちゃんは完全に部外者だから安心だ
し、それに例の力もきっと役に立つと思うんだ」
 言われて気が付いたのか、アキラちゃんは興奮で
頬を紅潮させ、またも首をかくかくと振った。
「はいっ! わたし、頑張ります」
 そのやたらと元気のいい返事に俺はこんな状況な
がら微笑ましいものを感じていた。
「さてそれじゃ秋葉、アキラちゃんを助手として借
りたいんだけど……」
 いいかな、と言い掛けた言葉が途切れる。
 振り返った視線の先、秋葉は何ともいえない流し
目でこちらを見据え、アルクェイドはうっすらと血
の色に染まった瞳を向けてきていた。
「瀬尾……貴女、また……」
「志貴……」
 背筋に冷たいものが流れる。
 たしか今日は気分の良い目覚めで始まったはずな
のに、どうしてこんなコトになったんだろうか。
 犯人に対する理不尽な怒りすら覚えつつ、俺の捜
査は前途の多難さを感じさせつつ始まった。




「ええと、死亡推定時刻は今朝の四時ごろですね。
もちろんこれは普通の人間を目安にしたものですか
ら、シエルさんにどこまで適用できるのかはわかり
ませんけど」
 琥珀さんはそう言って検死結果を見せてくれた。
「死因はあの黒剣だと思います。心臓を貫いていた
一本が常識的には死因だと考えられます。もっとも
これも……」
「先輩の特殊な体を考えると死因と断定できるもの
ではない、でしょ?」
「はい、そうです」
 おおあたり、と琥珀さんが拍手してくれる。
 改めて考えるまでもなく、決して死なない体を持
つ先輩はミステリの被害者役としては甚だ不適当な
人だった。
「それで、遺体はどうなってるの?」
「あ、はい。蘇生の可能性がありますから、一応縫
い合わせておきましたけど」
 ご覧になりたいですか? と琥珀さんが首を傾け
た。一度はこの手で先輩の死を確かめたくて、俺は
小さく頷いた。
「アキラちゃんは、どうする?」
 水を向けると、アキラちゃんは蒼白な顔のままこ
くりと頷いた。
「はい。もしかしたら何か『視える』かもしれませ
んから」
 確かに、そのことがあるから俺はアキラちゃんに
手伝いを頼んだんだった。そしてその能力は実際に
見ないことにはどうにもならないものだ。
 彼女の能力、すなわち『未来視』はその名の通り
人の未来を限定的ではあるが見通すことができる。
ただし、その発動はアキラちゃんには制御できない、
はなはだ不安定なものなのだが。
 そんなものにでも頼らないと、この事件の謎は解
けそうになかった。
「ごめん、じゃあお願いするよ」
 はい、と小さく返事してアキラちゃんが俺の後ろ
に立つ。
 先輩の体は寝台に横たえられていた。
 枕元にそろえて並べられている6本の黒い剣。そ
の刀身はべっとりと先輩の血に塗れている。
 寝台に近付いて、先輩の頬に触れる。冷たく、固
い頬は生命の欠片すら感じさせはしない。
 その時初めて、俺は先輩の死を感じた。
 アキラちゃんがじっと先輩の亡骸を眺め、やがて
力なく首を振った。今は何も見えなかったという事
なのだろう。
 琥珀さんが手を加えてくれたのか、並んで見下ろ
す先輩の表情は安らかで、涙が溢れてきそうなほど
に奇麗だった。
 先輩はその不死の身体を呪っていた。死ぬ事が望
みだなんて言っていた事もあった。だけど、それで
もこんな風に人の手によって命を刈り取られるべき
じゃなかった。
「……許せない。誰だろうと、先輩を殺して良い権
利なんて、ない」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 だけど、今は落ちつくべき時。そう、俺の中で囁
く声がある。冷静に自分の標的を見つけ出すのだと。
 だから俺は、先輩の亡骸に背を向けた。
「それで、琥珀さん。先輩を発見した時の様子を教
えてください」
 わかりました、と頷いて琥珀さんは今朝の出来事
を細かく語ってくれた。
 琥珀さんが起床したのは6時半。いつものように
軽く庭掃除をして、朝食の仕込みをはじめたと言う。
 そして、朝食が出来あがった頃。先輩を起こしに
行った翡翠が青い顔をして厨房に飛びこんできた。
「大体8時ごろですねー。今日はお休みですし、昨
夜は皆さん沢山お酒を召し上がっておられましたか
ら、気を使ったんですけど……」
 翡翠の報告を受けて即座に先輩の部屋へ向かった
琥珀さんが遺体を発見したのはその十分後。
 シエル先輩の事情を知っていた琥珀さんは、しば
らく様子を見ることにしたらしい。一度意見を伺う
為に秋葉の部屋へ向かった。
「秋葉さまを伴って離れまでまいりました。そこで
アルクェイドさんにお会いしたんです」
 アルクェイドは一向に蘇生しようとしないシエル
先輩をつっついて首を傾げていたらしい。そう、シ
エル先輩は死体のままだった。
 途方に暮れて死体を見下ろす三人の背中に、アキ
ラちゃんが何かあったのかと声をかけたらしい。
「ご飯の時間だからって呼ばれてキッチンに行こう
としたら、皆さんが中庭の方に出て行くのが見えて、
それで……その時」
 アキラちゃんは先輩の亡骸を『視た』。正確には
秋葉が先輩の亡骸を見下ろす光景を『視た』のだ。
「シエル先輩が死んでるのに、三人ともじっとそれ
を見下ろしてるだけで、アルクェイドさんがニヤリ
と笑いながら私を振りかえって……」
 それで、アキラちゃんは慌てて俺の部屋へ逃げこ
んだわけだった。
「もしかしたら次はわたしの番かもなんて思ったら、
怖くて、心細くて、それで……」
 アキラちゃんがぶるぶると震える。
「秋葉さまが声をかけたのに、アキラさんったら後
ろも振り返らずに逃げ出したんですよ。しかもより
によって志貴さんの部屋に駆け込むものですから」
 琥珀さんが溜息をついた。
「あまり秋葉さまを刺激なさらないで下さいませ」
 なー、と弱々しい鳴き声をあげたアキラちゃんが
俺にしがみつく。
「ほらほら、そんな態度をとっていたらこのお屋敷
では命がいくつあっても足りませんよ」
 琥珀さんがゆっくりとその腕を引き剥がした。
 トラウマにならなきゃいいけど。
「……志貴さんっ!」
 そんな事を考えていると、アキラちゃんが大きな
声を上げる。
「い、いまっ、今『視え』ました。シエルさんが大
きな銃を構えて……あれ?」
 興奮したようにまくし立てたアキラちゃんの声が
尻すぼみになって消える。だけど、アキラちゃんの
能力が発動したのは間違いないようだった。
「あ、あれれっ? な、なんで消えちゃうのっ?」
 ごしごしと両手で猫が顔を洗うように目を擦る。
だけど、やがて俺や琥珀さんが注目している様子に
気が付いて、俯いてしまう。
「いま、『視え』たと思ったんですけど……こんな
に短い幻視は初めてです……」
「いや、それでも先輩が蘇生するってコトが解った
だけで十分だよ」
 自分でも心底安堵していると知れる声が漏れた。
そう、アキラちゃんの未来視は起こりうる未来しか
予知しない。ならば、先輩が元気に黒の銃身を振り
回す可能性が存在するということなのだ。
「それじゃ、先輩が目を覚ますのを待って今回の事
件の顛末を聞けば良いって事か」
 一見落着、ばんざーい。そう両手を上げる。
「ダメです、志貴さん」
「駄目ですよ、志貴さん」
 だけどアキラちゃんと琥珀さんは声を揃えて、そ
んな俺に注意を促そうとする。
「犯人を野放しにしていて、逃げられたらどうする
んですか」
「そんなことを言っている間に、第二、第三の殺人
が起こったらどうするつもりですか」
 うう、アキラちゃんの言い分より琥珀さんの言い
分がより危険だ。確かにその通り、先輩が蘇生する
のを待っていては間に合わない場合もあるのだ。
 俺の探偵活動は継続されることとなった。 
 
 


 そんなわけでまあ、第一発見者のところにやって
きた。最初に死体を見つけたのはどうやら翡翠で間
違いないようだった。
「志貴さま?」
 俺達を迎え入れた翡翠は、見た目はいつもと変わ
らないように思えた。一分の隙も無くメイドのお仕
着せを纏い、無表情にこちらを見つめている。
「心配をおかけして申し訳ありません」
 深くお辞儀をする翡翠を押し留めて、今朝の話を
聞き出そうとする。話のついでに先輩が蘇生する事
も伝えてやる。
「それでも犯人をお探しになるのですか?」
 秋葉から依頼を受けた話を聞くと、翡翠は少し意
外そうな表情を見せた。
「志貴さまがそれで良いと仰るようでしたら、わた
しに異存はありません。なんでもお聞きください」
 その言葉通り、翡翠はこちらの質問に素直に答え
を返してくれた。
 翡翠の起床は琥珀さんと同じ六時半。身支度を整
えて、広間を清掃。琥珀さんと入れ替わりにみんな
を起こしに回る。まずは、いつものように俺を起こ
しにきて失敗。
「まだまだわたしも未熟です」
 そう言いながらも、どこかうっとりとした口調は、
あまり残念そうな様子には見えなかった。
 ともあれ、その後アキラちゃんを起こした後で離
れに宿をとっているアルクェイドとシエル先輩を起
こしに行ったらしい。
「大体8時半ぐらいでしょうか。離れは静まりかえ
っていて、まだお二人ともお休みのようでした。ア
ルクェイド様はどちらかというと朝が弱いと聞いて
おりましたので、まずシエル様を起こしに上がった
のですが……」
 そこで翡翠は無残にも六振りの剣に刺し貫かれた
シエル先輩を見出した。
 驚いて立ち竦む翡翠の気配を感じ取ったのか、ア
ルクェイドが向かいの部屋から起き出してきた。そ
して部屋の惨状を目の当たりにした。
 すぐに蘇生するから気にするな、とアルクェイド
は言ったらしいが、翡翠にそんな事ができるはずも
なかった。
 翡翠は琥珀さんに事情を伝えた後、気分が悪くな
った為に自室に戻ったらしい。
 まあ、あんな惨状を目の当たりにしたのだから当
然と言えなくもない。
「わかった。それじゃ翡翠が部屋についた時には既
に先輩は絶命していたんだね」
 はい、と翡翠が頷く。
 しかし、それを信じるとなると、死亡推定時刻か
ら考えて犯行が可能なように見えるのはただ一人し
かいないのだ。
 答えなんて、最初から用意されていた。
 まあ、この屋敷で起こる殺人事件なんて結局その
程度のものでしかないのだ。




「で、わたしが犯人役なの?」
 どこか面白そうな顔で、アルクェイドが腕を組ん
でいる。二人の話を聞いた後で、俺は離れでシエル
先輩の部屋を漁っていたコイツを捕まえた。
「ああ。何か言い訳があるなら俺が納得出来るよう
なヤツを頼む」
 俺の声も重くなる。
「呆れた。貴方本当にわたしが犯人だと思ってる
の?」
 アルクェイドは肩を竦めて見せた。
「動機とか、犯行手段とか、地道に調べるものじゃ
ないの、こーゆー場合」
「無駄な事はしない主義なんだ」
 というか、アルクェイドほど先輩を殺す動機を持
っているヤツはそうそういないだろう。それに、先
輩の得物をわざわざ奪ってまで止めを刺せるヤツも
コイツのほかに思いつかない。
「ふうん、無駄な事って楽しいのに。それで、わた
しが犯人だったら、どうするつもり?」
 殺すの? そう問い掛ける。
 狂気を孕む金色ではない、いつもの赤い瞳で。
 なんだかアルクェイドはこの状況を楽しんでいる
ように見える。
「だから言い訳しろといっている。動機も、犯行可
能性も、現状ではオマエ以上にあるヤツがいない」
「あ、そう。まああのシエルを殺せるとしたら、確
かにわたしが志貴くらいのものかもしれないね」
 あっさりとアルクェイドは頷く。
「でもね、わたしは犯人じゃないんだよ」
 信じる? 今度はそう問い掛ける。
「志貴さん……証拠もないのに疑っちゃ……」
 アキラちゃんが心配そうにこちらを覗き込む。あ
あもう、そんな風に二人に挟まれたら、責めること
なんてできやしないじゃないか。
 大体、証拠不十分には違いないんだ。確固たる理
由もなしにアルクェイドを疑うなんてできるはずが
ない。
 まして、コイツがやっていないと言っているんだ、
信じてやるべきだろう。いろいろ悪癖のあるヤツだ
けど、アルクェイドは一回だって俺にウソをついた
ことは無かった。
「わかった。おまえを信じる」
 そう言った途端にアルクェイドが満足したように
大きく頷いた。なんだかとても嬉しそうにふふふと
不気味な笑みまでこぼしている。
「よーし、合格っ」
「何がだ」
 聞き返しても、アルクェイドは一人納得している。
全く、どうして俺の周りには人の話を聞かない人間
ばかり集まっているのだろうか。
「話を聞け。いったい何が合格なんだ」
「あ、そうそう。そのことなんだけど、シエルを殺
した犯人、わたしが教えてあげる」
「何だって!」
 とんでもないことをあっけらかんと言い出したア
ルクェイドの肩口をつかむ。ちょっと顔をしかめな
がらも、彼女は凶悪な笑みを浮かべた。
「知りたい?」
 そんなもの、知りたいに決まっている。その笑み
の意味するところも考えずに、ひたすらアルクェイ
ドの体を揺さぶった。
「ばか、あたりまえだろ。早く教えてくれ」
「あー、またばかって言った」
 この忙しいのにいちいち膨れてみせる。
「さっさと言わないと何度でも言ってやる。このば
か女、ばか女、ばかおんなっ!」
 叫んだあとで、ぎょっとした。右手が触れた頬に
一筋の流れ、自分が泣いていることに気づく。
「志貴……やだ、泣かないでよ」
 気まずそうにアルクェイドが目をそらした。とて
も傍らのアキラちゃんの様子をうかがうことなんて
できやしない。
「もう……あんな小娘のために志貴が泣くことなん
て無いのに」
 勝手なことを言ってくれる。でも、実際のところ
自分が泣いている理由は判然としなかった。
「いいから、その犯人って誰なんだ?」
 一抹の不安が脳裏によぎる。
 今朝からみんなに話を聞いて、その結果として外
部からの犯行の線を消したのだから。アルクェイド
が糾弾する罪人の名は、俺の知っているものになる
はずだったから。
 いったい誰が、先輩を殺せただろう?

「……ロアよ」

 その名前は、意外だけど納得のいくものだった。
 よりによってロアの仕業だって言うのか。まあ、
確かにあいつならやりかねない。そんなふうにすっ
きりとピースに収まるような答え。
 って、ちょっと待て、おい。
「待て。ロアっていうのはあれか、去年俺たちが倒
した吸血鬼のことか」
 アルクェイドによって生み出された唯一の血族。
アルクェイドに執着し、何度となく転生を重ね、最
後はこの俺の手によって存在を抹消された男。
 シエル先輩の体を使って多くの犠牲者を創り出し、
先輩に呪われた不死の体を押し付けた男。
 だけど。
「ロアは完全に滅んだ、あの時おまえはそう言った
よな。それが今になってどうして」
「うん、あの時は自分の体に力が戻ってくるのがわ
かったから。ああ、ロアのやつ滅んだんだなってお
もったんだけど。どうも改めて数えてみると少し足
りなくなってるのよ」
 少しシエルにとられてるのかと思って、シエルの
事狙ってみたんだけどなどと物騒なことを言う。
「シエルが死んでも、やっぱりロアに奪われた力が
完全には戻ってこないとなれば……これはもう、あ
いつがしぶとく生き残っているとしか思えないでし
ょ?」
 確かに、それが事実ならつじつまも合う。ロアに
ならば先輩をあんな目にあわせることも可能だ。
「それで、ロアがどこに居るのかわかるのか?」
「いいえ。でも、この屋敷からは出ていないはずよ」
 やたらと自信ありげなのは何故だろうか。
 何とも期待の持てるアルクェイドの態度だった。
「なぜ?」
「やだ志貴、気付いてないの? この屋敷、封じら
れちゃっているわよ?」
 あきれたような声。それは初耳だった。というか、
俺の眼でそんなものを捕らえられるはずもないのだ
から、仕方ない。
「いつから?」
「今朝から」
「どうしてそれを早く言わない?」
「聞かれなかったもの」
 小首を傾げてアルクェイドが不思議そうな顔をす
る。あまりの事に呆気にとられて、まじまじとみつ
めあった。
 聞かれなかったから言わなかった? そうだ、こ
の女はいつもこうなんだ。
「だからおまえはばか女だって言うんだ」
「うー、また馬鹿って言ったな。志貴のくせに、志
貴のくせにっ……」
 歯軋りして何だか悔しがるアルクェイド。だけど
今はこいつに構っているひまはない。
 ある意味、ロアが生きているというのは最悪だ。
まあ今ならアルクェイドの体調も万全だから、早々
遅れをとることもないだろうとは思うのだけど。
「あ、あのっ」
 話の流れに取り残されたアキラちゃんが完全に戸
惑いの表情で俺たちの顔を交互に眺めている。
「そうか、そうなるとアキラちゃんを逃がすことも
できなくなっちゃったか。よし、できるだけ俺から
は離れないようにすること。怖いおじさんがうろつ
いてるかもしれないからね」
「そんなこといってる場合なの?」
 できるだけ穏やかな声を出して落ち着かせようと
しているのに、アルクェイドときたら不機嫌そうに
こちらを睨みつけている。
 と、何か思いついたようにアルクェイドが視線を
上げた。
「あれ……でもロアって、今生はあの性格なのよね。
復活して真っ先に狙うのは、本来シエルじゃなかっ
たんじゃないのかしら」
 言われてはじめて気が付いた。
 全くその通り、あの時もロアがシエル先輩を殺し
たがったのではない。シエル先輩がロアを殺そうと
していたのだ。
 ロアが狙っていたのは……そう考えて、全身から
血が音を立てて引いていくのを感じた。
「ちっ!」
 なんて、無様。
 走る。屋敷に向かって。
 ずっと姿を見ていない、秋葉の姿を求めて。 




「秋葉っ!」
「兄さん……」
 扉の向こうにあったのは血の海に横たわる秋葉の
姿。その髪は黒のまま、こびりついた血液が赤く斑
に染め抜いている。
「馬鹿な」
 秋葉がこうも簡単に殺されるはずがない。
 こいつは俺に力押しで勝ちを拾いうるほどの実力
を発揮できるだけの能力がある。
「どうして、なんでこんなことになってる!」
 血にべとつく絨毯を踏みしめながら、俺は秋葉を
抱き上げた。ぞっとするほど、冷たい体だった。
「ああ、迎えにきてくれたんですね。私、嬉しいで
す。本当に、本当に嬉しいんですよ」
 秋葉は言葉の通りに歓喜の表情を浮かべている。
 迎えに来た、秋葉が何を言っているのか、俺には
わけがわからなかった。
「な、何を言ってるんだ」
「だけどそう、少しだけ悔しいです。あんな女にみ
すみす兄さんを……ねえ、兄さん。知っていました
か? 秋葉は、兄さんのためなら命なんて幾らでも
投げ出せたんですよ。兄さんがそれを気に病む必要
なんて、本当になかったんです」
 最後まで要領の得ないことを言い残して、秋葉の
体から力が抜ける。
「志貴ー、妹は」
 追いかけてきたアルクェイドが、ドアのところで
緊張感のない声をあげて部屋を覗き込んだ。
「どうしてだ、どうして秋葉を殺す?」
 そう、話が合わない。
 俺の知っているロアなら、かつてシキと呼ばれた
存在なら、秋葉を殺す必然性が無い。
「秋葉もどうして抵抗していないんだ? これじゃ
まるで望んで殺されたみたいじゃないか」
 ふと気が付く。すでにヤツは狂ってしまっている
のではないかということに。
「アルクェイド、アキラちゃんはどうした?」
 尋ねた瞬間、甲高い悲鳴が響き渡った。




 先程までくるくると表情を変えていた小動物にも
似た元気な少女は、もういない。
 ただ、無残な死体が広間に打ち棄てられていた。
そう、アキラちゃんは苦悶の表情で事切れていた。
「俺は」
 なんて愚かなのか。アキラちゃんを守らなければ
と分かっていながら、秋葉を優先して、二つとも失
ってしまった。
「志貴、ぼやぼやしてないで。早くロアを」
 その言葉で我に返る。
「ああ、琥珀さんと翡翠は守るんだ、絶対に!」
 なすすべもなく崩れていく日常の中で、縋るよう
に二人のもとへと駆け出した。
 走りながら、眼鏡に手をかけて投げ捨てる、もう
何も迷うことは無かったから。
 だけどもう、結果はわかっていたのかもしれない。
折り重なって倒れる双子の姉妹。
 翡翠をかばうように倒れた琥珀さんの体、死の点
を貫き通しているシエル先輩の黒剣。二人は一本の
剣で串刺しにされていた。
「どうして……こんなに簡単に」
 あの苦しい戦いを潜り抜けてやっと手にしたはず
の幸せはいとも容易く崩壊する。
「志貴……」
 苦しげな声。それは目の前の二人からではなく、
背後から迫るアルクェイドのもの。
「なんだよっ」
 荒々しい声が口から漏れた。無力感に苛まれなが
ら振り返った俺の眼に、信じがたい光景が広がった。
 アルクェイドが倒れていた。その首に黒剣を突き
立てられて。今なら分かる、そここそがアルクェイ
ドの死の点に間違いないのだと。
「アルクェイドッ!」
「ごめん、志貴。油断した……まさか、私を殺せる
人が存在するなんて、今まで知らなかったの」
 力なく微笑んだアルクェイドの姿が虚空に溶けて
消え、後に残るのは刀身を失った黒剣だけだった。




 そして、誰もいなくなった屋敷の中で、俺はシエ
ル先輩の遺体を見下ろす。
「もう目を覚ましたらどうですか、先輩」
「気付いたんですか、意外と早かったですね。この
まま火葬にされたらどうしようかと思いましたよ」
 呼吸も停止していたはずの先輩がすうっと目を開
いた。
「どうです、日常なんて簡単に崩壊するでしょ
う?」
「どうして、こんなことを」
 それが結局わからなかった。
「お礼ですよ」
 シエルは不敵に微笑む。そこにはいつもの優しく、
どこかのんびりとした雰囲気はどこにもなくなって
いた。ただざらざらとした気配だけ。 コロセ。
 端的に俺の内なる声が告げる。
 もうコイツはコロセ。
「アルクェイドが言っていませんでしたか? ロア
が生きてる、って」
 震える手でナイフを取り出した。そんな俺を眺め
て、シエルはゆっくりと身を起こした。
「そう、わたしがロアです。今も、昔も。貴方が倒
したのはただの影に過ぎない。この私こそ、永遠に
輪廻を繰り返す蛇、ロア・バルダムヨォンだ」
 この上もなく禍禍しい笑み。寝台に腰掛けたまま
で、低い笑い声を上げる。




「エレイシアからこの体の支配権を取り戻すこの時
まで、君のことはずっと見ていたよ」
 先輩と同じトーンで紡がれるのは、この上もなく
陰鬱な響き。目の粗い砂が擦っていくような感触を
鼓膜に与える、不快な声。
「なにしろ今のエレイシアときたら、すっかり意識
が強くなってしまって。死にぞこないでもしない限
り、体を支配するどころじゃないんでねえ」
 その言葉が、俺にすべての事情を了解させた。
 先輩の所にロアは帰っていたのだ、と。
 それなら取るべき行動は一つしかない。
「先輩を返せ」




 汚らわしい吸血鬼、先輩はアルクェイドのことを
そう呼んでいた。だけど、違う。アルクェイドとこ
いつを同じ吸血鬼として数えるなんてあまりにアル
クェイドに失礼だ。
「今すぐ殺してやる。今度こそ、本当に」
 俺の体に巣食うロアを殺したように、シエル先輩
の中のロア、お前を完膚なきまでに殺し尽くしてや
る。そんな意思を込めて先輩の体を見通す。
 ……視えた!
 疾風と化した俺の腕が、ナイフを先輩の中央に突
き入れる。
「そう簡単には!」




 ロアがわずかに身をかわす。けれど、再生が追い
ついていないからか、それとも今が昼間だからだろ
うか。動きはいつかの夜とは比べ物にならない。
 あっさりと俺のナイフがロアの体内に根付いてい
る死の点を貫く。
「く、くっくっく……恐れ入ったよ、少年。やはり、
みっともない真似はするものではなかったな」
 さしたる痛痒も感じていない様子で、ロアがワラ
ウ。ナゼダ、俺は確かにヤツを殺したはずなのに。
「最後に私から問題だ。この無様な夢を紡いでいる
のは誰だ? 遠野君には、わかりますか?」
 最後にシエル先輩の口調に戻って、ロアが沈黙す
る。途端に、風景がぐにゃりと歪んだ。




 闇の中に漂う俺の体。不意に、自分がレンのみせ
る夢の中に居る事を思い出す。
『残念でした! ごらんの通り、屋敷の皆様は全滅。
夢は行きつく所まで行ってしまいました。というこ
とで、志貴さんの負けですね』
 どこからともなく声が聞こえて来る。
 いや、やたらと展開の早い夢だったと思うんだけ
ど。なんかこう、卑怯なものを感じるぞ。
 ていうか、納得いかない。
『むう、素直じゃないですね。あれは志貴さんがま
ともに捜査をしようとしてくれないから……いいで
す。最後に犯人あてクイズを追加してあげます』
 あくまで恩着せがましく彼女は言った。


『チャンスは1回だけです。わたしは誰に扮して夢
に登場していたでしょう?』


 なんだ、そんな簡単な事。
 犯人はシエル=ロアだったんだから、答えなんて
決まっているようなものじゃないか。
「答えはシ…」
 むう、なんかそれは安直すぎないだろうか。
 だけど他の皆は殺されているわけだし、実際に俺
に襲いかかってきたのは先輩だった。
「証拠もないのに疑っちゃいけない」
 そう言っていたのはアキラちゃんだったろうか。
 確かに、先輩が他の皆を殺した現場を見ているわ
けじゃない。ロアもそんな事は言っていなかった。
 それじゃあ、誰が?
 そう考えていた俺の脳裏に、何かが閃いた。
「……そうか、つまり相変わらず俺は、目の前が見
えていなかったのか」
 アキラちゃんが殺された時に強く感じた事。
 だけど、いまさら確認する術はない。
 ここはいちかばちか試してみよう。
「……翡翠?」
『う……』
 何か大きなものを喉に詰まらせたような声。
「当たったのか?」
『……うう、どうして?』
「観察力の賜物だ、と言っておこうかな」
 別段誇るわけでもなく、黒い空間に漂いながら、
俺は淡々とそれだけ口にした。とてもじゃないがこ
れ以上詳しい理由を答える気になれない。
「ほら、約束は守ってくれるんだろ?」
 闇の中、そんな世界を凝縮したような漆黒のドレ
スに身を包んだ女の子が姿を現した。
 彼女はまだ年端も行かない少女にしか見えない。
「えーと、あの、君がレンちゃん?」
「そうです、お久しぶりです志貴さん。がっかりし
ました?」
 確かに、予想とは違ったけど、これはこれで可愛
いというか、なんというか。




「そうですよね。姫様みたいに魅力的なカラダじゃ
ないですから。胸だって秋葉さんにすら負けちゃう
くらいしかありません」
 いや、秋葉にすらって。レンちゃんの場合はその
うち育つんじゃないだろうか。などと、秋葉に聞か
れたらただでは済まないようなことを考える。
「それで……どうします? こんなわたしでよろし
ければ、もちろんお約束通りお相手させて頂きます
けど?」
 こっちに異存なんてあるはずはなかった。
 けどさすがにアレはヤバいかもしれない……とか
思いつつ、俺の両手はレンを抱きしめていた。
「……嬉しいです」
 レンがそう呟いた気がした。

「ご主人様、おはようございます」
 メイド姿のレンが朝の訪れを告げる。
 レンには、さすがの俺の大物っぷりもまったく通
用しない。この辺りはさすが夢魔だなあと感心する
他ない。
 なにしろいざとなれば夢の中まで起こしに来てし
まう。まったく、逃げ場なんてない。
 観念して身を起こすことにする。
「おはよう、レン」

 こうして、今日も遠野家は平和な朝を迎えた。

『志貴さんの願望って……複雑です』


/END