Talk.
奈須きのこ


       
        1/DarkWood Kingdom I


「―――皆殺し」
 その惨状を前にして、彼女はそう呟《つぶや》いた。

	◆

 暗い森だった。
 悪夢のようだった夜が明けてからもう二時間。とうに太陽は昇りきっているというのに。森は依然として闇に没していた。
 森は昼なお暗く、赤黒い明暗を繰り返し、さながら生き物のハラワタのように、だくだくと血液を流している。
 そう、血が流れている。
 この森の木々は樹液《じゅえき》ではなく血液を分泌《ぶんぴつ》する。
 それは木々の内より生じ、また、外より吸血したモノだった。

―――率直に言えば、
	この森は、一つの異界であると言える。

 直径五十キロに及ぶ黒い森。それが一つの意思のもとに『動き』、あらゆる動物の血を吸い尽くす。巨大な捕食生物とも言えるこの森に足を踏み入れ、生還した人間など一人もいない。
 うっそうと生い茂る木々の枝葉。
 地中に張り巡らされた無数の根。
 それら全ての端末に血液は流され、森は赤黒く、血に飢えた獣のように唸《うな》る。
 その中では人間の力などあまりに無力だ。木々は自在に変化する凶器となって動物を襲い、大気さえ毒となって逃げ場を奪う。
 森に呑み込まれた人間の運命は決まっている。いや、森は人ばかりか村そのものを襲い、一夜にして新しい森を作る事さえ珍しくはなかった。
 思考し、大地ごと世界を彷徨《ほうこう》する吸血の土地。
 森に生きる人々はそれをシュバルツバルトの魔物と呼び、
 彼らはそれを腑海林《ふ かいりん》アインナッシュと呼んだ。

	◆

「―――ここも、皆殺し」
 その闇の中で、ただ彼女だけが生きていた。
 彼女に洗礼名はない。シエル、という呼び名が彼女の名称である。
 シエルは惨状の広場へと踏み入る。
 周囲の木々はあらかた排除されていた。仲間たちの最後の抵抗だろう。広場を囲んでいる木は全て斬られ、砕かれ、燃やされていた。
 その広場には十体ほどの亡骸《なきがら》が散乱している。見知った顔ばかりの死体。教会の命を受け、彼女と共に踏み入った信徒たちの末路。……四十人もの戦闘部隊は、結局一夜を越える事はできなかったという事だ。
「……十人がかりで排除できたのがこの一角だけなんて」
 シエルは一体ずつ死体を確認していく。
 そのどれもが僧兵として一流の猛者《もさ》であり、かつては共に修練をした仲間である。
「エクソシストはこの森では何の役にも立たない、か。確かに悪魔払いはお門違《かどちが》いですが、魔術師にとってもこの森は死地でしょう」
 教会が派遣した戦闘部隊に悪魔払いは同行していない。今回この森に派遣された者たちは格闘戦を得意とする者たちだ。その中には魔術を扱うものもいたが、その回路が働くことはなかっただろう。
 なぜなら、この森には、

「―――魔術の供給源が全てアインナッシュに独占されているから、だね。魔術協会がアインナッシュを放置しているのも、ナルバレックが君を選んだ理由もそのあたりなんじゃない?」

 シエルの動きが止まる。
 彼女は十人目の死体から目を放さず、背後に現れた―――いや、最初からそこにいたであろう人物へと声をかける。
「メレム、貴方が今回の監視役ですか」
「あはは。監視役とはまた、穏やかじゃないね」
 惨状に不釣合《ふ つりあ 》いな笑い声。
 メレム、と呼ばれた人物は姿を見せない。
「ボクは仲間意識が強いって知ってる? 一応さ、シエルの手助けに来たつもりだからだから仲良くしようよ。ホントはアインスのヤツが来る予定だったんだけど、強引に代ってもらったんだよ。アイツじゃ君を守れないし、下手をすれば共倒れだ。だっていうのにナルバレックが君に任せる、なんて言い出したから慌てて駆けつけたってワケ」
「貴方が仲間意識を持っているなんて初耳ですね。……確認として訊きますが、わたしと組んでいたというアインスはどうしましたか」
「あはは、食べちゃった」
 無邪気な声で、メレムという人物は言った。
「いいじゃん、アインナッシュにやられたってコトで。いい加減アイツも歳だったし、引退には頃合だよ。この仕事、五十を過ぎたら肉体的にも精神的にもきついでしょ」
「……呆れた。四|桁《けた》の年月を生きた貴方がそれを言うのですか、メレム」
「いやほら、ボクはピーターパンだから。そういう俗世間の秤《はかり》にかけちゃいけないよ」
「………………」
 シエルは全ての死体を確認し、広場から森の中へと歩を進める。
「あれ。なに、一人でやってく気? この森じゃあ君が残している魔術も使えないって分かってるんじゃないの? ここで頼りになるのはあくまで個人の能力だけだよ。大気中のマナを源《みなもと》とする魔術はここでは使えない。なにしろ、この森にあるモノは全て」
「アインナッシュが独占している、でしょう? それぐらいは分かっています。ここは死徒アインナッシュが作り上げた固有結界。敵の世界に入っているのですから、世界からの恩恵は受け取れません」
「そういうコト。いくら体術に優れてるっていってもさ、君は自身を対城レベルまで鍛えてない。君を埋葬《まいそう》機関《き かん》の一員たらしめる要素である二つの事柄が、ここではまったく意味を為さないんだ。
 魔術も使えず、秩序回復による不死も失われた君じゃあここでは生き残れない。それを承知で君を選ぶんだからナルバレックもホント性根《しょうね》が腐ってる」
「単なる足切りですよ。不死ではなくなったわたしでは戦力として魅力がありませんから。局長は遠まわしにわたしに死ねと言ってるんです」
「ほら、そうやって意地を張る。だからナルバレックのお気に入りになっちゃうんだよ、君は」
「……余計なお世話です。お喋《しゃべ》りがしたいのならそこいらの木々とでもしていてください。人を襲う植物ですから、人と話すコトぐらいはできるでしょう」
 シエルは広場を後にする。
 その背中に。

「―――シエル。君、埋葬機関を抜けるんだって?」

 そう、殺意がカタチになったような問いがかけられた。

	◆

「そんな噂《うわさ》が流行《はや》っている、とは聞いています」
 感情のない声でシエルは答える。
 メレムという人物はクスクスと笑う。
「だよね。君の目的はロアを殺して人間に戻るコトだった。それが叶ってしまったんだからうちにいる理由もない。正直な話、大英博物館から誘われてるんだろ? 次の就職先も決まってるしさ、この噂ってけっこう真実味があると思わない?」
「……わたしは魔術師じゃない。間違っても協会には行きません」
「ああ、それは良かった。あっちはホントにつまらないからね。君みたいに血の味を知っちゃったのが行くと退屈で死んじゃうんだろうって心配してたんだ。ほら、退屈で死ぬなんて、そんな死徒みたいな死に方はしたくないだろ。まあもっとも―――君は、そこいらの死徒よりも死徒らしい人だけど」
「――――」
「それにね、ボクはその噂がただの噂だって分かってる。だってほら、抜けるなら一年前に抜けてないとおかしいじゃないか。ロアが消滅して一年経つ。その間も君は死徒を処理し続けてきた。君の目的が人間に戻ることであったのなら、一年前に抜けていなければおかしいじゃない」
「―――つまり、何が言いたいのですか、メレム・ソロモン」
「うん? いや、だからさ。君は人間に戻る事なんてどうでもよくて、本当は単に吸血鬼を殺したいだけなんだってコト。他の連中と同じ、単なるキラーマシーンなんだ。あ、けどボクは違うからね。僕はたんに玩具《おもちゃ》好きの子供なのです」
 クスクスという笑い声。
「―――そうですか。ならわたしの事は放っておいてください。貴方の言うとおり、わたしは死徒を処罰するだけの機械です。ですから仲間とは言え、貴方に襲いかからない保証はないでしょう?」
 そう残して、シエルは暗い森の奥へと消えた。
「ありゃ。怒らせちゃったってコトは、やっぱり抜けたがってるってコトか」
 闇に没したままでメレムという死徒は笑う。
「ならさ。君、なんだってまだ死徒狩りなんて続けてるワケ?」

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	2/op.


 アインナッシュという死徒がいる。
 祖の一人として数えられる、八百年前からその有り方を大きく変貌《へんぼう》させた吸血鬼である。
 アインナッシュという吸血鬼は森を従える。
 人の心象世界をカタチとして形成し、世界を一時的に塗り替える固有結界という魔術がある。
 アインナッシュが操る『生きた森』もその一種。
 だが通常ならば数分、神懸《かみが 》かり的な能力を有する祖であろうと数時間しか維持できぬその異界を、アインナッシュは数日単位で維持しうる。
 その森、腑海林《ふ かいりん》と呼ばれる異界は神出鬼没であり、数百人単位の人間の血を吸うと何処《い ず こ》かへ消え去り、数十年ほど冬眠に入る。アインナッシュがその姿を現すのは五十年に一度ほど。無差別に殺人を繰り返す死徒でありながら、教会がいまだ封印に至らぬ理由がそれである。
 いや。真実は、単にアインナッシュを打倒する手段がない為の放置であろう。
 二十七祖のうち、上位十位に入るモノたちは通常の概念では打倒しえない。幻想に生きる彼らには彼らを超える幻想でなければ太刀打ちできないが故である。

 そうして今回。
 アインナッシュの活動時期になり、すでに二つの村が消滅した。
 教会は体裁《ていさい》を取り繕《つくろ》うために一線級の戦闘部隊を派遣した。
 結果は言うまでもない。今回も教会はアインナッシュを封印するには至らなかった。
 また、アインナッシュに関心を持つのは教会だけではない。
 最古参の一人である死徒アインナッシュを捕獲、ないし交渉しようとする組織は無数に存在する。彼らも各々の精鋭を森へと派遣するが、その結果はやはり同じである。
 アインナッシュは敵味方を区別しない。彼の異界に足を踏み入れるモノ、その全てが吸血対象にすぎないからだ。

 だというのに、暗い森に挑む人間は後を絶たない。
 その理由の一つに、不老不死が関わっている。
 暗い森の中心には大樹があり、そのアインナッシュの王座には一つの真紅の実が成っている。
 何百、何千、何万という、森に棲むあらゆる動物の血を凝固した一滴の果実。
 その実を食したモノは、仮初《かりそ 》めの不老不死を得るに至る。

 それは誘蛾灯《ゆうが とう》に似ていた。
 不老不死の実に惹かれ、暗い森に挑む人間は後を絶たない。
 今年、アインナッシュが出現してからすでに四日。暗い森に踏み入ったハンターたちの数は実に百を越えていた。
 無論、そのうち九十六人はとうに干からびた死体と化している。
 ―――残った四人。
 教会が誇る対吸血鬼の異能集団、埋葬機関の五番と七番。
 ハンターとして森に訪れた魔術協会屈指の風使い。
 そして、あとのもう一人は。

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	3/Black Sheep


 森を歩く。
 腑海林に踏み入ってからすでに三日。シエルはこの森の正体も、その中心が何処にあるのかも突き止めてはいなかった。
 たった五十キロ程度の森というが、そもそも腑海林は移動するのだ。森の中を森が歩く。同じ個所《か しょ》に留まらない腑海林の中心を突き止めることは三日や四日で為し得られることではない。

「ほらまた迷った。いい加減さ、ここいらで休憩にしたほうがいいんじゃない? とりあえず根こそぎ木を倒して広場を作れば安全だよ」
 シエルの背後からはメレムという人物の声がする。おそらく、シエルが振り返ってそこに人影などあるまい。
「――――――」
 シエルは黙々と歩を進める。
 その法衣は所々が破れ、彼女自身の呼吸も乱れていた。
 森に入ってから三日。四六時中、あらゆる方角から襲い掛かってくる木々との戦いの結果である。
「ね、聞いてる? 闇雲《やみくも》に腑海林を歩いても無駄だってば。ここは一つ、ゆっくり休んで体力を回復したほうがいいって」
「――――――」
 シエルは黙々と歩を進める。意地になっているのかもしれない。
「もう。君、なんでボクの言うコト聞かないのさ」
「わたし、貴方のこと嫌いですから」
「うっわあ、きっつー」
 背後からの声は楽しげに弾んでいる。
 絶えず神経を研ぎ澄ませておかなければ即座に全身を貫かれるこの森において、彼だけが歌うように軽やかだった。
 そして、その気配もまた、軽やかに消失した。
「―――メレム?」
 シエルの足が止まる。
 百メートルほど先でぞぶ、という音がした。
「―――メレム!」
 音がした森へと走り出す。
 結局、どう否定しようと仲間の安否が気になる甘さが彼女にはある。そしてそれが、彼女を彼女たらしめているモノだった。

	◆

 そこは、荒れ果てた荒野だった。
 隕石でも落ちたのか、森のただ中にぽっかりと荒野が存在していた。
 えぐられた地面は深く、これでは地中に張り巡らされた木の根さえ木《こ》ッ端微塵《ぱ み じん》だろう。
「―――呆れた。これじゃまるで」
 巨大なスプーンで地面を抉《えぐ》り取ったようだ、とシエルは呟く。
「ほら、これなら安心して休めるだろ」
 えぐられた荒野の中心には天使のような少年が立っている。
 メレム・ソロモン。
 その少年こそアインナッシュ同様、死徒二十七祖の一人として数えられる埋葬機関の五位であった。

	◆

 二人は焚《た》き火《び》を囲む。
 見上げれば空はすっかり夜になっていた。……尤《もっと》も森にいる限り昼であろうと闇なのだからそう大差はないのだが、星が見えるという事にはそれなりに意味があるのかもしれない。
「大丈夫、アインナッシュのヤツはもう動かないよ。そろそろ余りカスで実を作る頃だからさ」
 カチカチと指輪を鳴らしてメレムは語る。少年は指という指に指輪を嵌《は》めていた。
「……珍しいですね。貴方が人前で飼い犬を使うなんて」
「うん? ああ、最近ろくな食べ物あげてなかったからね、アインナッシュの土壌ならご馳走《ち そう》だろう。それとまあ、君とこうして話をしたかったから。話をしてもらうんだから、宴の席ぐらいはこっちで用意しないと駄目じゃんか」
「話―――先ほどの続きですか」
「あ―――そういうんじゃないんだけど……ほら、あの、さ。君、一年前にその、会ったって言ってたじゃない」
 何が恥ずかしいのか、少年は視線を逸らしながら呟く。
「えっと、できれば話が聞きたいなって。教会じゃ話、できないでしょ?」
「―――彼女の事、ですか?」
 ぼっ、と音がするほど赤面する少年を見て、シエルは呆れるというより笑ってしまった。
「とんでもない話ですね。ただでさえ死徒の裏切り者のような貴方が、さらに彼女に肩入れしているなんて。普段の、冷静かつ慇懃《いんぎん》な貴方は何処へ行ったんです」
「アレはボクの左腕だよ。ボクが本体を明かしているのは君とナルバレックだけだってば。ほら、うちの連中ってわりと年功序列じゃない。だからアイツを代理にしてないと色々|厄介事《やっかいごと》が増えるんだ。
 ―――そんな事よりさ。姫君、城に帰らなくなったっていうの、ホント?」
 少年は心底不安そうにそんな言葉を口にした。

	◆

 教会は吸血鬼を病的なまでに排除しようとする。
 人間から吸血鬼となったモノ―――死徒を地上から廃絶させるためには手段を選ばないとさえ言われる。
 彼らの神と表裏一体である『魔』を容認することはできても、彼らの神が預かり知らぬモノの存在は認められぬが故である。
 だが、もとより教義にはない『異端』を狩り出す、という事は異端を認めるという事となる。
 そうした理由から、組織という物は組織を守るために、組織内に闇を抱くようになる。
 矛盾を解決するのではなく、矛盾そのものを無かった事にする処理部隊。
 それが彼女の所属する闇。
 その闇に必要なものは教義でも信仰でもなく、ただ組織を守るための力だけだ。
 その力の中でも、この二人はさらに特別と言えるだろう。
 シエルと呼ばれる彼女は魔に汚染されたモノであり、
 メレムと名乗る少年は倒すべき対象そのものであるのだから。

	◆

 そして、その二人には共通する事項がある。
「……ふうん。それじゃあそろそろ吸血衝動に呑まれている頃だろうね、彼女」
 残念そうに少年は呟く。
「そうなんですか? わたしが見たかぎりではそういった傾向はなさそうでしたけど」
「うん。真祖っていうのは他の吸血種とは違うんだよ。彼らは肉体的な理由からじゃなく、精神的な理由から吸血するんだ。つまり吸血行為の後押しをするのは感情ってワケ。でさ、彼らが人間を憎いと思うココロと人間を愛しいと思うココロは似てるんじゃないかなって」
「……はあ。真祖は感情が無ければないほど長生きする、という事ですか?」
「うん。自然に感情なんてないからね。自然にあるのは美しくあろうとする意思だけなんだ。だから世界はこんなにも―――」
 と。突然、少年は言葉を切った。
「メレム……?」
「――――――」
 少年は答えない。
 空《うつ》ろになった瞳が、遥か遠くの闇を眺めているようだった。

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	4/Red Ram


 そして、一つの戦いが終わった。
 暗い森。
 魔術師フォルテは無名の何者かの前に敗れ去った。
「―――名前を、教えて欲しい」
 木々の陰に身を潜め、すぐさまこの場から離脱できるように備えつつ、フォルテは言った。
 魔術師は無傷だった。勝敗は決し、完膚《かんぷ 》無きまでに敗北を思い知らされたフォルテの体には、傷一つ出血一つありえない。
 だが、それでも勝敗は決していた。
 今の自分では目の前の東洋人に太刀打《たちう》ちできないことをフォルテは悟っている。正直、自分が殺されずに生きている事が信じられない程だった。こうして物陰に隠れ、相手に名前を聞いているのは死後の妄念ではないかと疑う程に。
「――――――」

 東洋人はなにやら口にしたようだが、フォルテには聞き取れなかった。そもそも日本語などに関心はなかったのだから、発音さえうまく聞き取れなかった。
 それでも―――その歪《いびつ》に聞き取った発音を、フォルテは脳裏に刻み付けた。
 魔術師にして剣士。こと実戦においては埋葬機関の狗《いぬ》どもを向こうに回しても引けを取らない自分を負かした、正体不明の殺人鬼の名称を。

	◆

 そうして魔術師は去っていった。
 現れた時と同じよう、風のように消え去った。
「―――はぁ」
 ようやく一息ついて、彼は包帯を巻き直す。
 その手にあるものは古ぼけたナイフだけ。他にはまあ、多少は耐性効果が付帯された衣類だけという軽装ぶり。この人外魔境において、メレム・ソロモンという少年と同じぐらいの緩みようである。
「なるほど。貴方が護衛であったのなら、ネロでさえ消滅させられますか」
「――――――」
 とうに気づいていたのか、彼は慌てた風もなく声を出した。まったく意味を為さない英語で、何を言ったのかまでは解らない。
「初めまして殺人貴。いずれ会うつもりでしたが、それが今日とは思わなかった。それで、このような山奥に何の用です。聞いた話では、貴方は死徒狩りに賛同していないという話ですが」
「――――――」
「成り行き、ですか。そういった所はシエルに似ていますね。まあ貴方の場合、その行動は全て姫君に起因する。となると―――なるほど、貴方もアインナッシュの実が目当てですね。それはいい、確かにあの実ならば姫君の吸血衝動も大幅に抑えられる」
 シエル、という響きに彼は動揺した。
 が、それも一瞬。
 彼は巻き直したばかりの包帯に手をかける。
「お止めなさい。貴方と戦うつもりはありません。何故なら絶望的なまでに、貴方には私に勝つ手段がない。そのような無駄はよくないでしょう。そもそも、貴方の力はアインナッシュにこそ向けるべきだ」
 包帯にかけられた指が止まる。
「素晴らしい。シエルと違って貴方は素直だ。聞いた話では感情のない殺人鬼を想像していましたが、中々に見所がある。両極端の用途、完全に別物としての二つの思考回路。そうでもしなければ存在できぬ矛盾というのは美しいな。私、不器用な人間が好きなものでして」
 くっくっという笑い声。
 彼は、目の前に闇に潜む相手がここにはいないということをようやく看破した。
「さて、それではアインナッシュの棲家《すみか 》には私が案内してさしあげましょう。……と、その前に一つお聞かせ願えますか。八百年前、確かに姫君はアインナッシュを滅ぼした。その彼が、なぜ今だに生きているのかという事を」

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	5/DarkWood Kingdom II


「メレム……?」
「―――――ははあ。それはまた、とんでもない偶然だね」
 少年の目に光が戻る。
 今まで抜け殻だったメレムはほう、と大きく息を吐いた。
「メレム。偶然って、何が偶然なんですか」
「え? いや、ちょっとね。いま真相を聞いてきたとこ。アインナッシュがどうして何日間も固有結界を維持できるかとか、そういったこと全部」
「? 話って誰にですか」
「んー、それは内緒。だけど内容は教えてあげるよ。これがさあ、呆れるほどどうしようもない話なんだ。シエル、君はアインナッシュってのがどんな死徒だったか聞いてる?」
「……いえ、アインナッシュという死徒が台頭したのは八百年前からと聞きますが、その素性までは知らされていません」
「だろうね。アインナッシュって死徒はさ、ゼルレッチと同じく魔術師上がりの死徒なんだ。強力な催眠《さいみん》の使い手でね。その手腕は記憶の改竄《かいざん》に近かった。とにかく注意深いヤツで、少しでもアイツの事を知った人間はみんな記憶を書き換えられてたぐらい。姫君も一度『アインナッシュなどという死徒はいない』と騙されたんだよ。
 けど二度目は無かった。アインナッシュは事柄を『意識』させて改竄させる。その反対に、事柄を無意識にする事で思い出せなくする魔術師がいてね。姫君はその魔術師の協力でアインナッシュを滅ぼした。それがまあ、八百年前の話」
「八百年前というと、まだ彼女が真祖たちの命令通りに死徒狩りをしていた頃の話ですね。その頃の彼女が滅ぼしたというのなら、後継者はおろかその派閥そのものを滅ぼした筈です。となると、アインナッシュという祖、その一族は全て滅んでいる筈なんじゃないですか?」
「うん、そうなるよね。だけどさ、なんでも姫君はそこで大ポカをやったらしいんだ。息の根を止めたアインナッシュの遺体を放置して城に戻ったらしいんだけど、アインナッシュが捨てられた所っていうのが、ある木の下だったんだって」
「……? ある木の下って、なんですかそれ」
「だからさ、食虫植物ってあるじゃない。君、日本にいたんなら聞いた事ないかい? ガジュマルとかジュポッコとかいう、人の血を吸う木のこと。ああ、サクラも血を吸うって言ってたな、彼。
 まあともかく、そういった木の下にアインナッシュの遺体があって、偶然、その木はアインナッシュの血を吸っちゃったんだ。あとは解るでしょ。アインナッシュという強力な化け物の血を吸ってしまったその木はさ、自ら動いて人を襲う、なんていう幻想種になって少しずつ成長していった。
 吸血鬼は同じ種族を配下にする。アインナッシュの血を吸って吸血鬼になった吸血植物はさ、自分と同じ木々を呑みこんでみんな吸血植物にしてしまった。この森は固有結界でもなんでもなく、新種の遊牧民みたいなモノなわけ」
「―――絶句。信じられません。あのばか、昔っから一本抜けていたってワケですか」
「あはは。うんうん、彼もおんなじような感想を漏らしてた」
 少年は無邪気に笑う。
「え……ちょっと待ってください、メレム。そんな彼女しか知らないような真相を知っていて、それを気軽に話してしまう彼って、あの、まさかとは思うんですけど……」
「うん、さっきシエルが話してたヤツだよ。君のことを話したらあっちも慌ててたけど。うわ、先輩もいるのか、とかなんとか」
「――――――」
 先ほどの少年と同じぐらい、彼女は赤面して息を飲んだ。
「あ、あの、メレム、それで―――」
「何処に居るかっていうんなら簡単だよ。ボクらよりアインナッシュの気配に近いところにいたからさ、ちょっと道案内してあげちゃった。彼、なんでもアインナッシュを倒しに来たんだって」
「な……!」
 休めていた体を起こすシエル。
 その瞬間。
「え――――――うそ?」
 森全体が震動し、唐突に、少年の片足が破裂した。

	◆

 神の獣というものが居るのなら、それはああいったモノを言うのだろう。
 初め、シエルには暗い森が起き上がったように見えた。
 黒い塊。クジラのようなンルエットが森の中から立ち上がったからだ。
 この死の森にそんなにも多くの鳥がいたのか、夜の黒を覆い隠すほどの野鳥の群れが飛び去っていく。
 黒いクジラは、何か、悲鳴のような声を上げていた。
 巨大な体の足元から、吐き気がするほどの速さで何かがこびりついていっている。
 それは、クジラの黒い外皮の上を、文字通り駆けていく木々の群れだった。
 山ほどの巨体を誇る獣は一分と経たずに全身を木々で覆われ、そのまま新しい森の一部にされて、活動を停止した。
 世界を踏み潰すほどの巨人な獣は、しかし、踏み漬すべき世界の侵食の前に敗れ去ったのだ。
 否。
 もとより、それは勝負にさえならなかった。

	◆

「ぐっ―――ヤロウ、やってくれる……!」
 少年は破裂した右足を押さえ込む。
 森の鳴動は止まらない。
 あれほどの巨大な生き物を取りこんだ昂《たか》ぶりからか、森中の木々たちは自ら動き出しそうなほどの変動を迎えていた。
「メレム、今のは―――!?」
「いや、まいった―――さすがは本能だけで生きているヤツだ。どうやら自分を殺せるのが近づいてきたって気づいたらしい。腑海林め、自分の上にいる生き物なら無差別に殺すつもりだ」
「――――――!」
 それだけで彼女は事の全てを把握した。
 残り数本となった黒鍵《こっけん》を手にして森のただ中へ視線を送る。その先には、彼女の目的が居る筈だ。
 その、倒すべき対象ではなく、守るべき大切な誰かが。
「メレム、アインナッシュの中心は何処ですか」
「あっち。距離にしてあと三キロぐらい」
 そう答える少年の片腕は透けていた。やられっぱなしは性に合わないのだろう。もう一匹をすでに向かわせているらしい。
「行きます。一人で身を守れますか。メレム」
「一人じゃないからだいじょうぶ」
「そうですね、愚問でした」
 簡潔に答えてシエルは走り出した。
 途端、雨のように襲いかかってくる樹木の根を切り払って、彼女は暗い森へ駆け抜けた。

	◆

 その後の話は語るまでも無いだろう。 何故なら、おそらくは誰もが想像する通りだろうから。

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	6/ep.


 森を抜ける。
 数日ぶりの太陽は、目も眩《くら》むほどの白さだった。

	◆

「シエル。君、彼を見逃がしただろ。教会じゃ重要参考人として捕まえろって令が出てるのに」
「そういう貴方こそ彼女を見逃しましたね。局長は見かけたら即座に仕留めろと指示をだしている筈ですが」
 森の出口で二人は立ち止まった。
 お互いがお互いを半眼で見つめる事数秒。
「ま、今回は見逃してあげます」
「そうだね、今回は見逃そう」
 そうして歩き出す。
 少年はいまだ片足が動かないのか、その歩みはとてもぎこちない。彼女が手を貸さなければ満足に歩けないほどである。
「――――――」
 二人は黙々と歩いていく。
 不意に。
「シエル。機会があるとしたら、今だよ」
 少年はそんな言葉を口にした。
「――――――」
 彼女の歩みが止まる。
 少年の真意は定かではないが、その言葉は真実だろう。
 彼女に付けられていた監視役はなく、その代わりである唯一の相手は満足に動けない。
 何処かに、ふいと、首輪を外された猫のように消えるのなら、それは今こそが好機と言えた。
「――――――」
 彼女は大きく空気を吸いこんだ後。
「止めときます。機会は、貴方の言う通り一年前に過ぎ去っちゃいましたから」
 そう言って、少年を抱えて歩き出した。
「む。やせ我慢だね、それ」
「そうですよ。けれど始めたからには、我慢できなくなるまで続けないと失礼でしょう。飽きたから止める、では子供と変わりはありませんから」
「ふうん。罪滅ぼしってヤツ? そういうところ半端に人間っぽくて笑っちゃうね」
「ええ。うらやましいですか、メレム」
「……んー、まあそれなりに。君がボクをうらやむ程度には。けどさ、それじゃあいつまで続けるのさ。死ぬまで続けるのが罰、だなんて事は考えてないだろうな」
「そう考えられたら楽ですね。……けど違うと思います。第一ですね、わたしはまだ自分の罪さえ解っていません。だから、せめて」
 それが確かになるまで、自らの闇を直視すると彼女は言った。
 少年は遠くを見て、
「なんだ、そんなんじゃ一生腐れ縁じゃないか。何事もね、全部終わらないと清算できないって、そんな当たり前のコト君知らないの?」
 呆れたようにそう言った。
「なるはど。貴方が言うと重みがありますね、メレム」
 彼女は少年のようにクスクスと笑うだけで、やはり歩みを止める事はしなかった。

 ――――――そうして、彼女は古巣に戻っていく。
 少年は知らない。彼女はいつだって抜けたがっていたし、仕事の度に飽きもせず同じ事を迷っているという事を。
 そうして結局。
 シエルと呼ばれる彼女は、その古巣自体が無くなってしまうまで自身の罪を見つめ続ける事になる。

 さて。その末に罰が来たかどうかは、また別の話ということで。


[#地付き]サークル「少女標本」発行  
[#地付き]同人誌「宵明星」所収

[#改ページ]

	「Talk.」用語解説[#底本下段に配置]


 腑海林【俗称・称号】
  アインナッシュの通り名。思考林とも呼ばれる。
  五十年周期で活動する魔物。その中に踏み入った人間はもちろん、森で暮らしていた動物たちさえも吸血対象にする魔の森。
  森というのは凶器に満ちている。なにげない木々の枝ですら充分に生物を殺傷するに足るというのに、それら全てが意思を持って襲いかかってくるのだから、その人外魔境ぶりは推して知るべし。
  活動時には枝という枝、根という根に血が流れ始め、森全体が赤黒く点滅する。その光景は地獄絵図そのものと言えるだろう。

 吸血種【用語】
  同じ生物の血を吸うモノたちの総称。
  中には亜種として、アインナッシュのような特例が誕生する。
  多くの吸血種は日の光に弱いが、中には日中しか活動できないという稀な吸血種も存在するとか。
  月姫では死徒と呼ばれる、人間から吸血種となったモノたちを代表的な吸血種として扱っている。

 魔力【用語】
  魔術を起動させる為の動力源。ガソリンのような物。
  様々な呼び名があるが、大気中にあるものはマナと呼ぶ事が一般的。マナの意味はポリネシアに伝わるマナとほぼ同意。また、エーテルは別物なので魔力とは呼ばない。
  本編中で語られている魔力はこのマナと、それとは別の物である、魔術師が体内で製造する魔力の事を言っている。
  自然界に満ちている魔力と、一個人が製造できうる魔力の差は比較するのも馬鹿らしいほど開いている。
  腑海林ではその大気さえもアインナッシュの支配下にある為、自然界の魔力を利用することが出来ない。故に通常の魔術は機能せず、あくまで一個人の魔力のみで起動が可能となる、極めて小規模な魔術しか行使できない。
  余談ではあるが、この一個人の魔力という物の使い方が馬鹿みたいに巧いのがブルー。喩《たと》えるなら1リットルのガソリンで軽く1000キロは車を走らせられる、といったところ。
  それとは別に許容量が冗談みたいに大きいのがシエル。普通の魔術師のガソリンタンクが40だとすると、シエルのそれは4000を越える。流石《さ す が》はミス食いしん坊。

 アインナッシュ【人名】
  死徒二十七祖の一人。七位。
  多くの死徒は自身と社会とのバランスを考慮して活動するが、中には中世の頃と変わらぬ価値観で無差別に吸血行為を繰り返す死徒もいる。
  アインナッシュもそういった死徒の一人。
  が、その特異性から粛清は困難とされ、結果として現在も思うが侭に吸血行為を繰り返している。
  一つの固有結界と考えられている。

 二十七祖【用語】
  最も古い二十七人の死徒を指す。
  中には次代の死徒に後継した位もあり、今では死徒たちの派閥を指して呼ぶことも多い。
  祖は領地と死徒、死者の王国を築いているが、中には領地も配下も持たない特異な祖がいる。
  真祖の下僕として吸血鬼になった祖は領地を好み、魔術の果てに吸血鬼となった祖はそういった権力に無頓着《むとんちゃく》であるようだ。
  彼らは互いに不可侵だが、今では大きく二つの派閥に別れている。
  見ようによっては教会、魔術協会に対抗しうる組織力をもった勢力と言えるだろう。

 埋葬機関【組織名】
  教会における、それぞれが特別権限を持つ異端審問員。が、彼らが異端を審問する事などない為に代行者、または殺し屋とも言われる。
  彼らの行いが事後承諾でない時などない。
  信仰は二の次、ただ異端を抹殺するだけの力を必要とする部署である。
  (表立っては)禁忌とされる魔術を好む者、捉えてきた異端者を奴隷として扱う者、はては近代兵器マニアから殺人快楽症と中々に飽きさせない人材が集まっている。
  構成は七人プラス、予備の一人。
  この予備の一人は教会で優れた者をスカウトするのだが、審問のたびに死亡するため目まぐるしく変わっていく。

 メレム・ソロモン【人名】
  フォーデーモン・ザ・グレイトビースト。
  埋葬機関の五。王冠の異名を持つ。
  四大の魔獣、と呼ばれる架空の魔獣を作り上げる悪魔使い。
  死徒二十七祖の一人でもある。
  表向きは左腕の魔獣で司祭を演じているが、その正体は十二歳程の少年。
  子供故に気まぐれで、極端に人がいい時もあれば極端に残忍な時もある。
  元々は小さな部落で生き神として奉《まつ》られていた神子だった。
  動物と心を通わせられる、という異能力だけでなく、人間の身勝手な願いをカタチにする、という能力を持って生まれた彼は、幼くして両手両足を切断され、人ならざるモノとして祭壇に奉られていた。
  その状態が長らく続けばそれこそ生きながらにして神に成ったかも知れないが、それは通りすがりの真祖によって阻まれる。
  以後、真祖の死徒となった少年はソロモンの二つ名を貰い、古い死徒の一人となった。

 姫君【名称・俗称】
  メレムが口にする姫君、とはもちろんあの人のこと。
  死徒たちにとっては鬼門である彼女だが、メレムはひどくお気に入りのようだ。
  姫君が金を通貨に換えたり、飛行機のチケットを手配したりするのはメレムの入れ知恵。
  姫君は無条件でなついてくるメレムを苦手にしているが、彼なくては世界中を駆け回る事は難しい。
  作中の時期はアジトで平和に眠っている。

 シエルの不死【事柄】
  ロア消滅後、シエルの特性であった不死はなくなっている。
  秩序維持の為に世界そのものがシエルを生かそうとする事がなくなり、シエルは殺されれば死ぬ、という体に戻ったわけである。
  ただし、タフなのは相変わらず。なにしろシエルの肉体はアルクェイドに殺され、ロアの魂が抜け出ても単体で〝生きよう〟とした肉体である。その回復能力は群を抜いている。
  まあ、それでも殺してしまえば生き返ることはない。シエルのように自己回復を備えたものを仕留める場合、魔術回路を統括する脳をまっさきに潰すにかぎる。

 フォルテ【人名】
  魔術協会に所属する魔術師。
  封印指定を受けた魔術師の保護、魔術書の奪還など、血なまぐさい実戦に生きる珍しい魔術師。
  空気打ち、と呼ばれる魔術を得意とし、その魔杖は剣そのものである。
  剣の刀身には三つの穴が空いており、およそ斬り合いに適したものではない。穴は音を出すための物であり、剣を振ることによって共鳴を起こし、排除対象に不可視の衝撃を与える。
  その様は剣を振るう剣士そのものだが、この剣士は斬り合う相手とは何百メートルも離れた場所で剣を振るう訳である。
  何代も続いた魔術師の家系の長女。同じ風属性である蒼崎とは何度か顔を遭わせた程度らしい。

 殺人貴【俗称】
  メレムが口にする殺人貴、とはもちろんあの人のこと。
  月姫から一年後である本編では、そろそろ噂になりだした、という程度の知名度である。
  そのぼんやりぶりと刃物好きも相変わらず。
  ちなみに、本人はぶーぶー文句を言いつつ姫君の我が侭に付き合っている。今回ドイツくんだりまで来たのは姫君の我が侭ではなく第三者による入れ知恵だそうだ。