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Decoration Disorder Disconnection. J the E
奈須きのこ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)骨の軋《きし》む

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
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 挿絵
	こやまひろかず/TYPE-MOON

 本文使用書体
	漢字部分:I-OTF新隷書 StdM
	かな部分:KRくれたけM
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 地下室の悪魔は語る。
〝架空の触覚は、同じ空想の怪物を許容する。
 素晴らしいよ石杖所在《いしづえア リ カ》。君の左腕は、理想的な―――〟
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 骨の軋《きし》む、微《かす》かな音で目が覚めた。  夜半、目を覚ますと四肢の感覚を失っていた。  透明な蛹《さなぎ》に倣《なら》う。意識《じ ぶ ん》が手の平サイズの小人になって、脳の中に密閉されている。小人がどんなに手足を動かしたところで、眠る躯《からた》は動かせない。  唯一、左腕だけが閉じた意識と繋《つな》がっていた。脈打つ血潮を情報として感じ取る。一部分でしかないモノが、全体にとって変わっていく錯覚。左腕しか動かせない以上、石杖《いしづえ》所在《アリカ》という存在は左腕に凝縮される。 「―――、ぁ」  その左腕《ぜんしん》が、痛かった。  ゴリゴリという音が聞こえる。  全身が削られていく悪寒。  全体が咀嚼《そしゃく》されていく快感。  自分が、淡々と食われていく実感。  左腕《じ し ん》が消え去り、ようやく自由《じ ぶ ん》を取り戻す。暗闇で、まだハラハラと啜《すす》り音《ね》がする。毛布をはぐ。ベッドの上は一面の赤。鼻から下を真っ赤に染めた少女が、砕けたアゴで微笑《ほほえ 》んでいた。 「―――だって、お兄ちゃん苦しいでしょう?」  少女は、何かよくないモノに憑《つ》かれている。  ペロリと平らげられた左腕。痛みもなく、噛痕《かみあと》もない。少女は砕けたアゴで断面を舐《な》める。喪われた者、大きな隙間《すきま 》を埋めるように。  それは骨の軋む幽《しず》かな夜。  花開くような、美しい命の音。 [#地付き]―――junk the eater. [#改ページ] 0/  思い出した。これは夏の終わり、監獄みたいな病院からようやく退院して、大学に復学すべきか真剣に悩んでいた頃の話だ。  俺はそれなりに顔見知りのご近所さん、木崎《き ざき》さん宅にお邪魔していた。日の沈んだ夜の七時。呼び鈴も押さず挨拶《あいさつ》もなしで、玄関から忍び込んだのだ。いや、ホントは窓でも叩き割るつもりだったのだが、玄関に鍵はかかってなかったのである。無用心め。こうなると誰が見たってガキのコソ泥だが、困った事に本筋において間違えていない。ちょうど一ヶ月前の九月九日。この夜、俺は確かに金銭目当てで強盗まがいの不法侵入をしたのである。  なんでも、支倉坂《し くらざか》で一家心中があったらしい。  報せを受けたのはもよりの交番のお巡《まわ》りさん。朝一番で木崎家の旦那から電話があったんだそうだ。 「昨夜、親子仲良く三人で首を絞めて自殺した。このままだと近所の方々に迷惑をかけるから、出来るだけ早く片付けにきてほしい」  性質《たち》の悪い冗談だ。が、不幸な事に連絡を受けた巡査はどのあたりが笑点なのか気付くセンスがなく、真っ正直に木崎宅に向かい、玉砕。それきり消息を絶ってしまった。昼過ぎになって相棒を捜しにいったお巡りさんも同上。支倉坂二丁目の交番は半日ももぬけのカラで、異状は警察署が知るより早くニュースとして伝播《でんぱ 》した。といってもローカルなネタなんで電波に乗る事はなく、あくまで近隣住民たちの噂話《うわさばなし》としてである。あらやだ、木崎さん家にお巡りさんが入ったきりでてきませんわよオホホ、ところでどうして昨日っから閉めっきりなのかしらねオホホホホ。細かいんだかズボラなんだか分からねえ奥様たちである。  そんな感じの噂話がご町内をゆっくりと潜航し、耳の早い物好きたちに知れ渡ったのが午後二時過ぎ。物好きたちは俺にもネタのお裾分《すそわ 》けをしてくれたようで、昼間のうちに電話があったようだ。無駄話の内容なんさ覚えちゃいないが、着歴にはきっちり時間が記されている。  ただいま午後六時四十分、日が沈む前にあった電話は二件、ツラヌイミハヤとカリョウカイエ。ツラヌイはどうでもいいとして、カイエの方は問題だ。携帯電話は大好きだが電話という行為は大嫌い、という変わり者が連絡してきただけで不吉である。  午後七時前。日が沈みきった後、三度目の電話があった。相手は非通知。間を取ってから電話に出る。話はこれ以上ないほど簡潔だった。男は木崎と名乗り、自宅の住所をロにして、
「申し訳ない。つかれたので払ってほしい」
 そんな、本気で申し訳ねー台詞で電話を切った。  うっちゃって二度寝したかったが、無視できない理由が三つもある。  一つめ、机には大量のメモ用紙。カイエからの忠告だろう、今日一日の木崎家一家心中の顛末《てんまつ》がメモってある。二つめ、いま聞いた木崎さん家の住所。支倉坂二丁目四ノ七って、うちの三軒隣《さんげんどな》りじゃねえかクソ。で、最後の三つめ。間の悪いコトに、今日はカイエの義手を借りっぱなしだった。お膳立ては完壁だ。うまくいけばマトさんから金一封がでるかもしれない。犯人逮捕に協力した一般人に金が振り込まれた、なんて話はてんで聞いた事がないが、それでも今後の扱いが少しは優しくなるかもと希望を抱いてみる。よし行こう。ザッと計算して期待値が労働値を上回りました。出かける前に一通りメモをチェックすると、ことさら重要そうに『目を見ると死ぬ』と赤ペンで書かれていた。 『目を見ると死ぬ』。凄いね、どこの怪談だよこれ。労働値、期待値をわずかに上回る。が、一度やる気になった以上、部屋に戻るのも億劫《おっくう》だった。  そんな訳で木崎宅である。  忍び込んだ玄関はいい手触りがした。カキとかリンゴとか、硬いのに弾力があるような、瑞々《みずみず》しい肉の感触。  土足で上がる。生活臭が染み付いた木造の壁。歩けば軋《きし》むどころかブチ抜きそうな狭くて華奢《きゃしゃ》な廊下。ジリ、ジリリ、と落ち着きなく点滅する電灯。そのくせモノクロ画像のように暗い。黒いフィルムですっぽりと包まれたような家。  居間にはテレビがつきっぱなしで、日曜夕方定番のアニメが流れている。ほら、ある中流家庭の日常を主軸にしたネバーエンディングストーリーですよ。で、何十年と変わらずに家産を維持し続けた|彼ら《ア ニ メ》の前には、維持できなかった人間《ひとたち》の死体があった。  母親と娘だろうか。テーブルにつっぷした母親と、床に倒れた娘。そのどちらも、うつぶせでありながら顔がはっきりと天井を睨んでいる。表情はとても悲しい。一生分の感動を使い果たしたような泣き顔だ。今週の磯野|某《なにがし》さんは珠玉の感動系エピソードだったのか。いや、理解できない暴力に出遭った時も、人間はこういう顔をするけどね。  しかしまあ、どうやればこんな死体が並ぶのか。  紐で首をくくる自殺は有名だが、頭そのものを回転させて首を折るなんてのは些《いささ》か力技すぎる。頭部を大きな万力《まんりき》で固定し、グギッと捻《ねじ》り曲げたとしか見えないがどうでもいい話ではある。想像できない事をあれこれ推理している状況じゃない.盗みに入った先で密室殺人が起きていようと、強盗には関係のない話である。  ほどなくして今週の一家団欒《いっか だんらん》は終わった。垂れ流されるエンドロールを後にして、階段に足をかける。家を覆うフィルムは益々汚れていき、二階にあがった瞬間、嘘みたいに変色した。  木造の廊下は一転して一面のコンクリートに。黒から白へ。薄汚れた廊下は重苦しい宗教画を思わせる。 「―――やべ。寝てるのか、俺」  最悪だ。夢と現実が入り混じってやがる。  何処《どこ》で入れ替わったのか、廊下の奥の曲がり角には、何か、枯れ木のような人影が立っている。 「あの、神父さんですか?」  枯れ木の声はよく通るいい声だった。クソったれ。物の見事に、木崎さん家とは無関係な夢を見ている。 「悪いが神父じゃない。だいたいさ、黒い犬をつれた神父さんなんていないでしょ」 「でも、|悪魔憑き《わ た し た ち》を助けてくれるって。あなた、映画の神父さんみたいに悪魔|祓《ばら》いをする人でしょう?」 「悪魔祓いじやねえ、悪魔払いだ。響きは同じだけど内容ビミョーだし」  何しろ悪魔と一緒に人間も壊すからな。まともな人間には戻れるけど、社会復帰はまず絶望的。……つーか、本物の悪魔なんて滅多《めった 》にいないっつの。あんたたちのはただの病気。立派な精神障害なんだから、いい加減その俗称やめてほしい。 「とにかく俺は神父じゃないし、あんたの病気も神父じゃ治せないよ。なんとか自分に折り合いをつけてやっていくか、おっきな病院に保護してもらえよ。見たところ、黒犬《こ い つ》もあんたには興味なさそうだし」 「―――スゴイグルジイ」  雑音が見える。一瞬、床一面に糞のこびりついた廃屋が見えた。トラックの間にゴーストがいるCDみたい。 「……。音飛びしたんでもう一度言うけど、病院いけ」 「ああああああああ! 違う、違うって言ってるじゃない……! わた、わたしは病気なんかじゃない、病気なんかじゃないよう! 今までちゃんと一人でやってきて、ちゃんとママの言う通りにしたでしょう!? 毎日勉強して、いい成績をとって、パパがいなくなった代わりにママを喜ばせてあげてたのに、少し壊れたぐらいでどうしてそういうコト言うの……!」  コンクリートの壁が歪む。  いや、溶けている。人影の感情の昂《たか》ぶりが、廊下自体を溶解させる。危ないなぁ。このままでいたら一緒に溶かされないかなあ、俺。 「待て。待て待て、冗談抜きで怖いんでちょっと待ってくれ。……オーケー、少し落ち着こう。俺も見ず知らずの人を、病気持ちって決め付けて悪かった」  見ず知らずの男を神父扱いするのも何だが、そのあたりは指摘《し てき》しない。下手《へた》にロを滑《すべ》らせたら殺される。これが夢だろうが何だろうが、殺されるのはよろしくない。 「けど、神父なんかよりお医者さんを呼んだ方がよくないか? あんたさ、自分は病気じゃないって言うけど、悪魔憑きなんて言われるよりそっちのが良いと思うよ」  きちんと人間扱いされるし、どっちにせよ、普通じゃないのは変わらないんだし。 「いいワケないじゃない……! あなた全然分かってない! わたしはおかしい、わたしはおかしい、わたしは凄くおかしいの……! だっておかしいのよ、したいコ卜としたくないコトがハッキリ判《わか》ってるのに、どっちも飲み込んでるんだもの……! お母さんは病気だって言うけど、そんな病気あるワケない。これは悪魔憑きよ。わたしが治らないのはわたしのせいじゃなくて、取り憑いた悪魔のせいなんだから……!」  人影叫ぶ叫ぶ。コンクリート溶ける溶ける。俺びびるびびる。何しろ頬《ほお》とか溶けかかってる。 「うわわ。やば、頼む、助けてくれ。俺こんなところで消化されたくない」 「なら言い直して。わたしは悪魔憑きなんだって」  ピシッと指摘。ううう電波さんめ、温度差激しくて扱い辛《づら》い。 「了解。じゃあ、仮にあんたは悪魔憑きだとする。けど、それもわりと恥ずかしいぞ。病気は誰でもかかるから同情されるけど、悪魔憑きってのはほら、なんか村八分的なイメージじゃないか」  壁の溶解が遅《おそ》まる。人影は喜んでいる。 「違うわ。あなた、神父のクセにそんな事も知らないの? いい、西洋では神さまを信じない人に悪魔は憑くの。悪魔は人間が隠している汚い部分を表に出して、罪を与えよと訴えるのよ。病気なんかじゃないわ。病気ならただ治るだけでしょう? けど悪魔憑きは違う。悪魔さえ去れば、人間ならみんなが持っている原罪を暴《あば》いて、その人を綺麗《き れい》にしてくれるもの」  いや、ここ西洋じゃないし。あと、日本《うち》の風土じゃ罪と罰は流行《はや》らない。無責任に流行して誰彼かまわず感染するのは、そういう神々《こうごう》しいのとは違った、人為的で打算的な悪魔《にせもの》だけだ。 「へえ。あんた、敬虔《けいけん》なクリスチャンなんだ。ま、そんな裏金洗いみたいな話はおいておいて。じゃあなに、そもそも神さまを知らなければ、悪魔には取り憑かれないってワケ?」 「そうよ。知識と信仰は別だもの。神さまを知らないと悪魔も知り得ない。だから、その」  あー、あーあーあー、はいはいはい。 「つまり、神さまと悪魔は同じって言いたい?」  セットとも共犯者とも言うが、まあどっちでもいいだろう。人影はますます嬉《うれ》しそうで、コンクリー卜の溶解は完全に止まってくれた。溶けた下から元の木造二階建て、愛すべき中流家庭の廊下が現れる。ラッキー。寝室のドアも見えてきたんで、ドアを開ければ|この夢《こいつ》ともおさらばだ。 「分かる? 神さまはわたしたちを試す為に悪魔を遣《つか》わすの。わたしは試されているの。選ばれたの。この悪魔さえ退《の》いてくれれば、もとの体に戻れるの! ……戻れるのに、みんなしてバカにして。こんなの、決して病気なんかじゃない。知ってるんだ、わたしじゃない誰かが、わたしをおかしくしてるんだ。そうだ、わたしがママを殴るのも、部屋をビチャビチャに汚すのも、友達みんながバカにするのも、みんな神さまがわたしを助ける為なんだから……!」 「あ。いや、それは」  言いかけた言葉を飲む。人の価値観にああだこうだとロを出すのは苦手だし、今回のは、つっこんでもあまり面白くなさそうだ。 「言いたい事はなんとなく分かったけどさ。なんでそんなコト俺に訊《き》くの」 「あなたこそ、なんでそんなコトを訊くの? わたしたち同じようなモノでしょう? ほら。あなただって、体の一部が欠けているんだから[#「体の一部が欠けているんだから」に傍点]」  寝室のドアに手をかける。 「懐《なつ》くなよ他人。俺は食われた方で、おまえは食った方だろう。形が似てるからって、同じ生き物なんて言わないでほしい」  がちゃ。ドアはすんなり開いてくれた。  白から黒。よかった、こっからは木崎さん家の家庭の事情だ。  踏み込んだ寝室は薄い闇だった。雨戸が閉められ、電灯は豆電球だけ。閉め切っている為か、部屋は蒸し風呂状態で息苦しい。寝室にはベッドが二つ。奥のベッドに背広姿の男が腰を下ろしている。こちらには気付いていない。男は背中を向けて、力なくうなだれている。体格からいって木崎さん家の旦那《だんな 》さんだろう。一階の二人と違って首は正常、まだまっとうな人間のカタチ。つまり生きている。当然だ。生きていなければ親子三人仲良く自殺した、なんて電話はかけられない。  足音を忍ばせる。木崎氏は背中を向けている。こちらに気付いているのかいないのか。俯《うつむ》いた後ろ姿は、崩れ落ちる寸前の美術館を思わせた。ベッドまでの距離は一メートル半程度。あと三歩も踏み込めば、相手がどんな病状であれ[#「相手がどんな病状であれ」に傍点]飛びかかれる距離になる。……のだが、邪魔が入った。がっ、と足元に障害物。なんだよクソ、わりとでかいぞコレ――― 「――――――」  ソレは、目を剥《む》いたまま絶命した人間だった。警官の死体。それも二つ。どっちも首をねじきって、腹ばいに絶命してやがる。 「こんばんは。こんなに早く来てくれるとは思わなかった」 「!」  反射的に顔をあげる。瞬間、戦慄《せんりつ》で呼吸が止まった。  ―――部屋の隅《すみ》。  大きな姿見《すがたみ》に、木崎氏が映っている。目が合った。やばい。俺と木崎氏は鏡越しにお互いを認識し、
「目を見ると死ぬ」
「―――、あ」  体中の筋肉が痙攣《けいれん》した。痛い。ローラーで全身引き伸ばされたっていうのに、飽きずに何度も何度も引き伸ばされるような痛み。おまけに指先一つ動かせない。強力すぎる。たった一瞬、目が合ったと認識しただけで、こっちの命令系統をグチャグチャにされてしまった。  足元には首を捻《ねじ》り折った死体が二つ。目前には背中を向けたままこちらを眺める疲れた中年。サウナのように蒸した暗室。いや、これ怖いって。眼球も動かせないんで目線さえ変えられない。何より体に命令できないんで、さっきから呼吸が止まってるんですけど。 「君がその、なんだ。憑かれた人間を楽にしてくれるっていう悪魔祓いかね。……ん? 君、石杖《いしづえ》さんところの所在《ア リ カ》くんじゃないか?」  目は合ったままなんでリアクションはなし。あっちが目を切ってくれないかぎり、こっちはやられるままされるがまま。 「そうだ、所在くんだ。ついこの間退院したんだったな。入院の理由は、ああ、なんだったか。すまないね、ここのところ仕事が忙しくて、近所付き合いも満足にできていないんだ。うちの娘は見舞いに行くからと小遣《こ づか》いをせがんでいたが、どうかな、一度でも娘と会ってくれたかな」  どうだろう。本当に見舞いに来てくれたかどうか、俺には絶対に分からない。あ。いや、そもそも面会謝絶だったっけ、あの病院。 「まいったな。私はその、ほらあれだ、君たちが言う悪魔憑きにかかったらしい。こうして部屋に閉じこもっているのも、悪魔祓いが来るまで一人になりたいからなんだ。出来る限り関《かか》わりたくないんだよ、他人と。通報されるのは困るし、悪い噂は流してほしくない。この歳になるとね、世間体は二番目ぐらいに気にかかるから」  ゆっくりと木崎氏の顔があがる。木崎氏もう殺《や》る気満々。待った、それ俺。その悪魔払いってのは俺ですよー。早まるなー。話なら間いてやるぞー。 「しかし、それも維持《いじ》すべき家庭があっての事だ。下で家内《か ない》と娘を見ただろう? ああなってから一日経ったが、まだ腐《くさ》ってはいなかったかな。九月といえ夏場だし、冷蔵庫に保存《い》れたかったんだが、とてもじゃないが入りきらない。お隣りさんから苦情がくる前になんとかしたかったんだが―――まあ、もうどうでもいい事だ。いや、はじめからどうでもよかったのに、なぜか二人とも私に付き合って死んでしまった。なんて無意味な付き添いだ。結局最後まで、家族は重りになってしまった」  木崎氏は少しずつ振り返る。鏡越しに合っていた目線が、ゆっくりと向かい合う。  同時に、 「いや、君に迷惑はかけない。これ以上誰かが死ぬ前に自殺するよ。本当はとうに死んでいる筈《はず》なんだが、どうしてか私だけ上手く死ねない。昨日の夜も、まず私が自分で首を回した筈なんだが[#「自分で首を回した筈なんだが」に傍点]」  首が。  俺の首が、木崎氏の動きに合わせてキリキリと横を向いていく。 「一人で死にたかったんだよ。家内には黙っていたがね、会社も一週間前に辞めている。疲れた、疲れたんだ。今まで疲れている事に気付かなかったほど、本当に疲れていたんだ。私ももう五十過ぎだ。そろそろ自由になってもいい頃じゃないか?」  仮に、背中を向けていた木崎氏の首が零《れい》度だとするなら、今は二十五度。まずい。今回の悪魔憑きのカラクリが、なんとなく読めてきた。 「なのに家内は反対してね。勝手に会社を辞めるな、貴方《あ な た》は貴方だけの体じゃないのよ、貴方にはわたしたちを養《やしな》う義務がある、だそうだ。実にひどい剣幕《けんまく》だったな。いや、長年連れ合ってきたが、あれだな所在くん、女のヒステリーというのはとんでもなく興醒《きょうざ》めするよな。思うんだが、アレは女性だけの特技だ。私たち男はプライドばっかり高いんで、あんなふうに子供に戻る事はできないんだ」  四十度、六十度。木崎氏の首に倣《なら》うように、俺の首も回っていく。ちなみに九十度でほぼ真横。その先は、まあ、どう贔屓《ひ い き》したって百二十度あたりが限界だろう。 「断っておくと、私だって一家心中なんて望んじゃいなかった。ただ一人になりたかっただけなんだ。理由は……ああ、なんだったかな。そもそも会社を辞めた理由は、そうだ、この歳になって手痛い失敗をしてね。なんとか数字を埋めようと金を工面《く めん》したが焼け石に水だ。上は首を吊れというし、借金で首は回らないしで、生きているうちに立て直す事は不可能だった」  九十度、百度。  ギチ、と首の骨の軋《きし》みが沁《し》みる。  こっちの昔はもう回らない。人体はそういう風に出来ている。だが―――木崎氏の首は実に滑らかだ。脊髄《なか》がスライド式にでもなったのだろう。アレ、三百六十度マルチウェイ。 「だから一人で死のうと思ったのに、家内と娘は反対した。いや、死ぬならせめて金を残す死に方にしてくれと反対した。馬鹿な話だ。そういうのが面倒臭くなったから死ぬんだって、あいつらには最後まで分からなかった。だからね、何も言わず家内の前で自殺したんだが、何か魔が差したのかな。家内も娘も、私につられて首を捻って自殺してしまった[#「私につられて首を捻って自殺してしまった」に傍点]」  それ、おまえの仕業《し わざ》。  百二十度。百三十度。首が回る。木崎という悪魔憑きにつられて、周囲の人間の首が回る。  木崎氏が悪魔憑きによって得た病状。患部は首、それによって新しく生まれた新部《き の う》は煽動《せんどう》、原因は過労といったところか。  地獄に落ちろ。木崎氏は自分の病状に気がつかないよう思考を閉ざし、こうして他殺自殺を繰り返している。あのおっさんと目が合った人間は、あいつと同じ動きを強制されるのだ。冗談じゃない。おっさんは首がスライド式だからどうってコトないだろうが、人間は首なんて回らない。  死ぬ。あと数秒で、俺は、 「でもまあ、思ったんだ。私に家族を養う義務があるのなら、家族にだって、私と一緒に死ぬ義務があるんじゃないかってね。だって私がいなかったら生きていけないんだろう? それが本当なら、私と一緒に死ぬべきだ。家内と娘はそれを実行したんだろうさ。実に重苦しい。そんなにまでして命を繋げたいなんてね。まったく―――繋がれた家族愛というのは、無自覚の地獄だな」  木崎氏の顔が真後ろを向く。  きっかり百八十度、木崎氏の首はキレイに回り、  俺の首は不出来《ふでき》にまわ、ぼきっ。
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 フンフンという息遣い。  黒い犬がスライド式の首を探している。  暗い部屋だが問題ない。黒い犬は盲目なので、初めから光を必要としないのだ。  義手《ぎ しゅ》をなくした左腕が、首をなくした首から、形を成した無形を釣り上げる。  ―――よしよし。  さあ憎悪《ぞうお 》(仮名)ちゃん、ゴハンの時間だよ。 [#改ページ] 1/junk  空が近い。  目覚めた瞬間、視界は水に覆われていた。 「あ―――え……?」  空が、海になっている。  陽射《ひざ》しは白色。光は水流に揺られながら、俺と、石造りの部屋に隆りそそぐ。鮮やかな青の中、ざあ、と黒い魚影が流れた。  頭上の海には、一匹の巨大な魚が泳いでいる。  白色の陽射しを掠《かす》める魚影。体長は二メートル強。シルエットだけでいうなら鮫《サメ》そのものだ。どんな魚かは知らない。真水《ま みず》に棲《す》める鮫がいるのかと訊かれれば答えに困るが、そもそも、アレは本当に魚なのか判別できない。  魚影が遠ざかる。俺の視線が気に食わないのか、魚はより高く―――より深い深海に消えていった。  天地が逆転したような錯覚。だが見慣れた光景。  なんという事はない。天井がガラス張りで、その上に巨大な水槽があるだけだ。いや、巨大な水槽の下に部屋がある、という方が正しいのか。ここは地下室だし、頭上の海は海でもなんでもなく、ただの古びた貯水庫だ。天井が貯水庫といういかれた地下室は、中世の城の一室をそのまま持ち運んできたようなアナクロさ。  ここは支倉《し くら》市の端。郊外の森にある、迦遼海江《かりょうカイエ 》の住居である。 「あれ。アリカ、起きたの?」  部屋の中央、天蓋《てんがい》付きのベッドから中性的な声がする。  ここからだと陰になって顔は見えないが、アレがこの部屋の主だ。いや、どこから見ようとあいつの姿は陰になって見えない。真横でなければ顔が見えないよう、あのベッドは計算尽くで配置されている。  地下室は正方形の、巨大な箱のような造りをしている。天井はガラス張りで、周囲はレンガを積み重ねたような石の壁。部屋の四方にはそれぞれドアがあるが、出入リロである南以外のドアは開けた事がない。内装は生活感というものがまるでなく、唯一の電化製品は部屋の隅にある小さな冷蔵庫だけ。部屋のいたる所に散らばったアンティークの群《むれ》は統一感がまるでなく、見ようによってはガラクタ倉庫とも取れるだろう。 「悪い、寝てた。寝てる間に何か用でもあった?」 「別になかったよー。けどま、起きたなら働いてよ。のど渇いちやったから、お水ちょうだい」  目が覚めたばかりだ。イヤな夢の名残《な ごり》か、首が捻《ねじ》れていない事を確かめつつソファーから体を起こす。  この部屋に水道は通っていない。水といえば冷蔵庫に買い溜《た》めた蒸留水だけだ。部屋の隅、山のように積み上げられた地球儀に埋もれそうな冷蔵庫へのんびり歩いて、ばこん、と片手で開扉。……シット、なんだこの一面まっ黄色な冷蔵庫。 「なんか、色のついた飲み物しかねーんすけどー!」 「水が切れてるならそれでいいよー。どうせならグレープフルーツねー」  寝たきりのクセに健康的なヤツだ。下手すると俺より元気そうなのは、そのあたり気を使っているからなのか。食事の選択一つとってみても差がつくのが人間なら、雑食まみれの俺は長くない。でもいいんだ、俺たちジャンクフード大好きだから。毎日メシ代を安く浮かせて、おまけに長すぎる命を削ってもらってるなんて二度|美味《おい》しい。ファーストフードの薄い炭酸飲料を恋しがりつつ、お高いグラスに薄い黄色を注ぐ。冷蔵庫横の壁の姿見には片腕の男が映っている。嫌な絵づらだ。この男には本来有るべき左腕《もの》が欠けている。二の腕から下がバッサリ無いのである。悪役ロボットみたいでカッコイイとは見うのだが、そんな強がりじゃ片腕の不便さは拭《ぬぐ》えない。俺は二年前、ちょっとした事故で左腕を失った。いやもう見事に、どうやったらこんな綺麗に無くせるんだっていうぐらいサッパリ無くしてしまった。幸い本当に無くしただけなんで命に別状はなく、一年半のリハビリを経て退院。職探しや人付き合いに多少面倒があるが、片腕である自分に不満はない。こうして地味なバイトでなんとか小金を稼いでるし、恵まれている方だと思う。ま、しいて言うなら一人で靴紐が結べないなんてコトがえらくショックだったりするワケだが。 「早く早くー。アリカアクションおそいー!」  冷蔵庫を閉めてわがままな雇い主の下へ急ぐ。うまく歩けない。どうやら首を寝違えてしまったらしい。 「ありがと。いや、実に五時間ぶりの水分補給だ」  部屋の主はわずかに首を起こしてグラスを受け取った。黒い、作り物の右腕。迦遼力イエはごくんと、淀みのない動作で黄色の液体を流し込む。 「ごちそうさま。で、うなされてたけど、どうしたの」 「どうって、つまんねえレイトショーをはしごした感じ。って、おまえに言っても分かんねえか、そっか」 「まあ、共感はできないかな。映画館には行ったコトないし、そもそも面白いレイトショーってあるの?」  そりゃありますよいっぱい。レイトショーとは真夜中にしか上映できない三流映画をタレ流す事だ、なんて勘違いしてやがるなバ力め。近頃はレイトショーの方が映画を純粋に楽しめるんだぞ。……まあ、そもそも映画のなんたるかを知らないこいつに説明してもしょうがないのだが。 「いや、例えが悪かった。単にな、性質《たち》の悪い昔話を夢に見ただけ」 「ふーん」  きょとんとした顔で見つめてくる。これが俺の雇い主、この地下室の主である。  一見して判るのは、まず腕が義手だということ。マネキンのようにすらりと伸びた、黒い石膏《せっこう》の義手を付けている。つまり俺と同じ腕なしって事なのだが、しかし、こいつは俺なんかより数段階上にプッ飛んだお茶目さんだ。  年齢にして十四歳か十五歳。絹《きぬ》みたいな長い黒髪と男なら誰でもノックアウトされそうな可憐な顔立ち。だが気をつけろ、こいつは男だ。悔しいが男だ。一目でノックアウトされた俺が言うんだから間違いない。  名前は迦遼海江《かりょうかいえ 》。めんどいんでカイエ。この、黙ってれば本気でいいところのお嬢様風なクソガキは、神さまが気紛《き まぐ》れで許可した芸術品だ。同時に、神さまの悪趣味さを表す証拠品でもある。 「それで、性質《たち》の悪い夢ってどんな夢だったの? 気になるんだよね、ああいうの何時間も見せられると。あんなに苦しそうだったのに、どうしてアリカはずっと眠っていられるんだろうって不思議でさ」  面白がるように訊いてくる。こいつは年中退屈しているんで面白そうな事には貪欲《どんよく》なのだ。 「……だから、性質《たち》の悪い夢だって。まだ胸むかついてんだから思い出させるなよな。こっちはあやうく死ぬところだったんだから」  というか、アレ絶対死んでた。首がグルッと回るんだもん。 「え、自分が死ぬところを夢で見たの? ああ、だから助けてー、とかやめてー、とか叫んでたんだ。……ちぇっ、もうちょっと寝てれば面白かったのに」  それは、俺の断末魔が聞きたかったという意味なのか。 「おまえ最悪。だいたいさあ、うなされてるって気付いたんなら起こせよな。なに、おまえ人が苦しむトコみて楽しいワケ? 男の喘《あえ》ぎ声とかで盛り上がれる性質?」 「んー、物によるけど、アリカのは楽しかったよ? どんな昔話だか知らないけど、支離滅裂《し り めつれつ》で面白い寝言だったし。いやいや、恥も外聞もない素敵な本音、十分に堪能《たんのう》させて戴《いただ》きました」  ごちそうさま、などと嬉しそうに微笑みやがる。 「――――」  ……しまった、不覚にも見惚《みと》れちまった。悔しいけど見惚れる。だって極上の笑顔だもん。男ならコレしょうがない。俺、こいつは大嫌いなんだが、こいつの笑顔は大好きなのだ。このジレンマ、いつか解消しなくては。 「……はあ、たまんねえな実際。なに、考え様によっては二時間ぶっ続けでレイプされてたようなもんですか?このサド野郎、特殊な放置プレイしやがって。訴えられたくなけりゃ特別手当ぐらい出しやがれ」  二時間|休憩《きゅうけい》だからホテル換算で五千円ぐらい。……あれ、しかし人間の尊厳二時間分が五千円って高いのか安いのか。高いか。もともと値がつかないもんだしな。 「それはこっちの台詞だよ。いいかい、君の昼間の時間は僕が買い取ったものだ。どう使おうと勝手だし、君は雇い主の期待に応える義務がある。なのにアリカったらてんで僕の相手をしてくれないだろ。なら、せめて寝言を分析して暇《ひま》を潰すぐらいは当然の権利だよ」  ふん、と不満そうに顔を背《そむ》ける。  暇を漬す。迦遼力イエにとって、それは人生の命題だろう。こいつはこの部屋から出られない。いや、人の助けがなくてはベッドから起き上がる事もできない。  理由は簡単。カイエの四肢は、全て作り物の模造品だからである。神さまは意地が悪い。これ以上ないってぐらいの美貌《び ぼう》をカイエに与えておきながら、これ以上ないってぐらい不自由な人体を与えたんだから。左腕だけ無くした俺が悪役のロボットなら、両手両足が無いカイエは悪の大首領ってなもんだ。  目下《もっか 》のところ、俺の仕事は朝にカイエに義肢《ぎし》を取り付けて夕方に外す、というものだった。生活費の八割はこれで稼いでいる。片腕の俺にでも出来る仕事で助かるんだが、どことなく不健全な気がして世間様に後ろめたい。こんな町はずれの地下室で、自分一人では満足に動けない子供から金を取るというのは、なんつーかヒモ以下だ。  もっとも、この悪の大首領は裕福な家の生まれなんで、俺への給金なんて道楽みたいなものらしい。カイエ本人はこのまま死ぬまで衣食住には困らないし、義手だってピッタリ合うものを持っていて、それさえ付けていればたいていの事はできるのだ。バイト初日、義足で悠々とトイレに行きやがったしな、こいつ。そんな出来のいい義手義足を持っているカイエ坊っちゃんだが、性能と付け心地《ご こ ち》は別の物。どうもどんな物であれ義手義足はカイエには合わないらしく、大抵はこうしてベッドで横になっている。  そう、義手なんてものはとにかく重っ苦しくて痛むもんなのだ。今日はとくに調子が悪いのか、カイエは左足と右手にしか義肢をつけていない。となると―――  部屋の隅に探りをいれる。……いた。部屋の隅に、黒い犬が蹲《うずくま》っている。絵本に出てくる悪魔の挿絵《さしえ 》みたいなカタチ。両目は生まれつき潰れており、黒犬は生涯一度も光を感じる事がない。だが侮《あなど》るなかれ。あの犬は獲物を狩る時、人の眼球を借りて活動する――― 「アリカ……? やだな、ホントに大丈夫? ひどい顔だけど、何か飲んで落ち着けば?」 「ひどい顔なんかしてねぇって。いいよ、気遣い無用だ。水もビールもおいてねぇお子様の冷蔵庫に興味ねえし」 「じゃあ何か食べる? お腹減ってるでしょ」 「なんか破綻《は たん》してねえか? 気分悪いのにメシ食ってどうすんだよ。だいたい金取るだろ、おまえ」 「当然です。飲み食いした分は給金から差し引きだよ」 「ほらみろ。いじめっ子、冷血漢、守銭奴、支配階級による隷属圧迫。いいよ、どうせ昼間の事だ。夜になれば落ち着くんで、しばら〈ほっといてくれ」  しっしっ、と手を振って追っ払う。いや、カイエはベッドから動けないんで、結局こっちがソファーに戻る。このイカレた地下室最大の美点は、ソファーの座りごこちである。ちょっと、シャレにならないぐらい最高なのだ。このソファーだったらまる三日三晩寝込み続ける自信あるね。 「―――で、夢って木崎さんの事でしょ? 一ケ月前の、夜にやった悪魔払い」  隠さなくていいのに、なんて拗《す》ねるカイエ。あまりのしつこさに拗ねたいのはこっちだよ。 「……そうだけど。なんで分かんだよ、おまえ」 「だって寝言で叫んでたし。やめろー木崎ー、ぶっとばすぞーって。死ぬ直前だっていうのに、アリカってわりとどうかしてるよねー」  ケタケタケタ。あのクソガキ、天蓋の陰で三日月みたいに笑ってやがる。そこまで分かっていて俺のうなされっぶりを傍観するあたり性根マジ腐ってる。  そもそも、俺があんな目にあったのはこいつに因《よ》るところが大きい。やめるべきだったのだ。いくら金になるからって、あんな仕事は俺向きじゃない。人生できるだけ楽に生きたい、が石杖所在のポリシーだ、理想とする信条だ、再生の為のスローガンなのだ。  にも拘《かか》わらず、俺は墓穴を掘っちまった。  あの夜―――もう二度と関わりたくない悪夢に、自分から片足をつっこんだ。  一家心中をした家庭、首の回る奇怪な男。もう二度と見まいと吐《は》き捨てた、悪魔憑きという流行病《はやりやまい》に。 ◇  なんでも、その病例が社会的に認知されだしたのは十年ほど前かららしい。  アゴニスト異常症。レセプタクラッシュとも言われる、突発的な精神障害がそれである。鬱《うつ》、対人恐怖症に代表される現代病の一種として扱われているらしいが、そんな名称を知っているのは当事者たちだけだろう。  まあ、要するに自分の感情をコントロールできなくなった精神障害者の事である。病原菌も何もない症状だけの病名だし、単に頭テンパっただけの話なんだから病気のせいにすんなよ、と思うなかれ。鬱だって立派な精神〝病〟だ。風邪すら寄せ付けない健康な肉体だろうと、病はあの手この手で宿りやがる。頭ん中が周りに比べてズレてしまったのなら、それは精神が病んだのではなく人体機能が病んだにすぎない。人間は神秘と不思議と、確固たる設計から威り立っている。原凶のない故障はありえない。  もっとも、これを病気と認知しているのは専門家だけで、世間一般では発病者を〝悪魔憑き〟と呼んでいる。なんでかって言うと、そりゃもう悪魔にとり憑かれたとしか見えない行いをするからだ。人格の変貌《へんぼう》、自己の喪失はまだ軽度。重いものになると強迫観念による自傷行為自殺未遂、果ては周囲への殺意の発散となる。率直に言えば、些細《さ さい》な感情で他人を傷つける犯罪者の誕生という訳である。 「けどさあ。それってその、悪魔憑きでもなんでもないんじゃね? やる事が派手なだけの普通の病気だろ。なんだって悪魔なんてアナクロな言葉使うワケ?」 「悪魔憑きって言葉が判り易いから、かな。実際|目《ま》の当たりにした人はともかく、普通の人は鬱《うつ》って聞いてもピンとこない。けど、悪魔憑きっていうのは簡単にイメージできる。悪魔に憑かれてるなら、あの奇怪な発言も頷《うなず》ける。人間とは見えない行為も、悪魔が憑いているならありえるだろう、ってね。でもまあ、そういう憑依《ひょうい》状態による擬似人格へのエゴの譲渡はとっくに廃《すた》れているし、この国の人なら被《かぶ》る仮面《ペルソナ》はたいてい獣と決まっている。悪魔っていうのは、まあ、日本じゃ現れない憑き物なんだけどね」  そう、もともと悪魔憑きは外国《よそさま》にある与太話だ。ヤツラの基本は一対六十億、しかも神側絶対有利。この世紀末の日本じゃ、悪魔っていうのは神さまが一人だけの宗教においてのみ生きている概念である。 「嘆かわしい。どうせなら犬神憑きとかにすればいいのにな。そっちの方が馴染《なじ》みがあるっていうか、落ち着くと思うんだが」 「いや、そこはそれ、分かり易くても落ち着いちゃダメなんだよ。いくら信仰が廃れたからって日本人は日本人。なんだかんだって獣憑きって言葉には敏感なんだ。悪魔憑きなら他人事っぽいしゲーム感覚だけど、元からこの国にある病気じゃへンにリアルでつまらないじゃない?」 「あー……なに、悪魔憑きって言葉の方がネタとして都合がいいってコト?」 「そうそう。だからいま流行ってる悪魔憑きっていうのは、本当に流行ってる現代病なんだと思うよ。終わりが見えてるのに一向に終わりが来ないもんだから、みんな色々と溜め込んでるワケ。自分だっていつ崩落するか分からない、周りのやつらだっていつ自滅するか分からない―――それって安心するでしょ? 自分は破滅への覚悟ができてるから大丈夫だって、勘違いの防御膜で感覚に麻酔を打ってるんじゃないかな。みんなで仲良く鈍感になろうっていうのが今の流行でしょ。悪魔憑きって言葉は、その風潮に利用されてるだけなんだよ。その名称通り、責任転嫁《せきにんてんか 》には格好の生贄《いけにえ》ってワケ」  自家中毒、自家発電、自家崩壊ってワケですか。マセガキめ。その伝でいくと悪魔憑きはただの現象で、病気でもなんでもない事になる。一年後には違う流行語で塗りつぶされる、みたいな。だが厄介《やっかい》ごとってのは、机上《きじょう》の空論ではなく実害を撒《ま》き散らすから厄介ごとなのだ。  悪魔憑きは存在する。  それは例えば、本当に精神を病んだ者であり、  それは例えば、木崎氏のような人間やめた『超能力』者である。  ここ数年、異常犯罪は増加してきている。大抵はまた悪魔憑きか、と流される事件だが、その中で悪魔憑きによる犯罪として処理されたのは百件程度。異常犯罪全体の一割にも満たないのだ。 「だから、百の嘘の中に十の嘘を混ぜるんだよ。そうなると、どっちもホントなのにどっちもウソになってくれる」  言い得て妙だ。運悪く木崎氏のような事件に遭遇したとしても、他の九件がまっとうな〝異常犯罪〟なら、木崎氏の事件も〝不審な点があるがこれだって異常犯罪〟にカテゴライズされる。世間は悪魔憑きを認知しながら、本当の意味での悪魔憑きをまったく認知していない。  悪魔憑きという俗称が定着した理由の一端。それは彼らが理解しかねる奇行に走ったからではなく、単純に、彼らが人間では持ち得ない機能を発揮したからだ。本来は妄想の域を出ないもの。精神障害と同レベルに扱われるもの。だが、その一線を越えて〝超常〟になるケースがある。その、首をぐるんと回しても死なない人間とか、あまつさえ他人を巻き込むようなアレである。たしかにまあ、あんなのは悪魔かなんかの力を借りないと無理な話だと見た人間は思うだろう。  ―――まったく、本当にバカらしい。この文明過多供給末期の時代に何が悪魔だっていうの。信じねえよ実際。本当に悪魔が憑いているとしか見えないヤツを見た俺でさえ信じられないのだ。あれはなんだ、たとえ真実でもまっとうな人間は受け入れてはいけないモノだ。俺はまだ認められないし、おそらく一生認められない。木崎氏が百体ぐらいで襲ってきても頑《かたく》なに笑い飛ばしてやる。  ……それでも与太話と無視できないのは訳がある。嘘だと決めつけながら偽《いつわ》りだと弾圧できない理由がある。  それは―――俺の目の前にいるガキが、悪魔憑きなんかとは違う、本物[#「本物」に傍点]の悪魔だからだ。 ◇ 「なあ。本物と偽物の境《さかい》ってなんなのか分かるか?」 「え? 境って、何の?」 「悪魔憑きの話だ。本当に憑いているのか憑いていないのか、その違いだよ。普通の病か、普通じゃない病かの違い」  一ヶ月前。三軒隣りの家で起きた事件を思い返す。  寝違《ね ちが》えた首が痛い。アレは―――どうやって決着がついたんだったか。 「んー……それはとり憑いたモノが本物か偽物かってところからしてる?」 「してない。悪魔の講義はもういいっての。いま流行ってるアクマの真偽はどうでもいい。俺が訊いてるのは、どうして悪魔に憑かれるかってコト」 「なにそれ。つまんない。言うまでもないじゃん、本物だろうが偽物だろうが、悪魔がとり憑く人間は決まってるじゃない。連中、昔っから心の弱い人間が大好きなんだから」 「はあ? それ、順番、逆じゃねえの? 悪魔憑きになったから精神が病むんだろ。おまえ、悪魔憑きは病気だって言ったじゃないか」 「あのね、ちゃんと考えれば分かるだろ。流行病っていうのは免疫《めんえき》力が低い人間から感染するでしょ。体力のない者、体調が優れない者は外的要因からなる病気にかかりやすい。肉体でもそうなんだから、精神だって同じだ。アリカはなんだかんだいって優しいからね。弱者が弱者だって理由でいじめられるのは許せないんだろうけど、こればっかりは曲げられないよ。悪魔は、もとから弱い人間にしかとり憑かないんだから」  したり顔で言う。何がイヤかって、こいつのこういう所がイヤだ。勝手に人の性格に幻想を抱くなっていうの。 「なに。じゃあ悪魔憑きってのは自業自得なわけ。体格体調は言うにおよばず、人格基盤が未熟な〝弱者〟は悪魔にとり憑かれても仕方がないって?」 「ああ、弱い人間が悪魔憑きになる。けどそれは心が弱いんじゃなく、その人物を取り巻く〝環境〟が弱まっていると言うべきだろうね。精神《コ コ ロ》は人間の内側にあろうと、外的要因によって変動するものだ。家庭の事情、友人という他人との関係、社会における自己の評価。足場が毒されていれば、立っている人間だって当然毒に冒される。その結果、精神を病み一般社会に適応できない状態になってしまう。人間によって環境が造られたのではなく、環境が人間を変えてしまった一例だ。その隙《すき》、たった今弱くなった精神にこそ魔は宿る。  悪魔という概念は弱さの全肯定でね。弱さを温床にするんだから、全力でその弱さを育てあげる。見失っていただけの社会性を、完全に失わせてしまうんだよ。陳腐な例で言えば、恋人がいなくなったら生きていけない、なんて人がいるとする。これは訪れる悲観《けっか》に対する予防線にすぎないんだけど、悪魔憑きの場合は本当に自殺してしまう。悲しいから死にたい、けど死ぬのは怖い。それがまっとうな人間のバランスだ。けど、彼らの場合は違う。〝悲しいのはイヤだから死ぬしかない〟っていう、未来に対する怖れが皆無なんだ。本当に怖い人間っていうのはね、培《つちか》ってきた過去も未来もどうでもいい、今は〝現在〟しか見えていないっていう人のコト」 「……今しか見えない、ね。そりゃ人間、明日の事を考えなければなんでもアリだけどな。今しかないなら、今なにをやってもいいワケだし」  となると、死なんて未来は怖ろしくもなんともない。連中が恐れるものがあるとすれば、それは〝今生きている自分〟以外に有り得ないだろう。 「それって、死ぬ事への躊躇《た め ら》いと生きている事への憤りが、俺たちとは反対って事?」 「そうだね。今しかない人間にとって、自分はたった今生まれたようなものなんだから、周りにある物全てが不確かに感じられるだろう。彼らは感情に歯止めがきかない訳じゃないんだ。心に傷を負った人間、概念にとり憑かれるような人間は、本当に〝自分が決めた条件〟がないと生きていけない生き物なんだよ。感情では壊れないけど、本人にしか意味がない〝些細《さ さい》な条件〟がなくなるだけで自壊してしまう。そういう崩落寸前の心には魔が差し易いんだよ」 「…………」  なんだそれ。そんな勝手な条件付けのあげく、条件がなくなったら悪魔に憑かれて大量殺人か。ふざけるな。死ぬなら一人で死にやがれ。知り合いとか、家族を道連れにするんじゃねえ。 「―――バカらしい。結局、社会不適合者の弱音ですか。はいはい、理解できねえ筈ですよ。それぐらいで追い詰められるヤツの気持ちなんて分かるかくそったれ」  何が気に食わないのか、鏡に映った顔は憎悪に歪んでいる。イヤな臭いがしたんだろう。黒犬がやってきて居心地《い ごこち 》よさそうに蹲《うずくま》る。こうして日に日に懐《なつ》かれる俺。ピンチ。 「はは、そりゃ分からないだろうね。アリカのはまっとうな人の考えだもん。いいかい、こういうのは心の弱さを責めるんじゃなくて、どうして心が弱くなったのかを考慮すべきなんだ。  決り文句としてはこうだ。それぐらいの事で崩落する心の弱さを恥じろ、ではなく。その程度の事で壊れてしまう、人間の悲哀を知れ[#「その程度の事で壊れてしまう、人間の悲哀を知れ」に傍点]、とか」  同情するようにカイエは語る。ご丁寧《ていねい》にも、天蓋の陰では大げさに手を広げている。ただのジェスチャーだ。何かを悲しむなんて、そんな当たり前の感情あいつは持ち合わせていない。  だが、言っている事はそれなりに理解できた。例えばだ。例えば、水道の水を絶望的なまでに恐れていて、飲んでしまえば自分は死ぬ、と思い込んでいる人間がいるとする。そいつは何かの手違いでうっかり水道水を飲んでしまい、体には何の異状も現れないというのに、本当に自殺してしまう。  それを弱いと言えるのは強者の傲《おご》りだ。だって俺には、水を飲んだぐらいで自殺する勇気はない[#「水を飲んだぐらいで自殺する勇気はない」に傍点]。凡人には分からない感覚だが、どうでもいい理由で自殺する人間というのは、狂的なまでに強い精神を持っていると言えないだろうか。いやまあ。社会的弱者である事は、これっぽっちも否定できない事実ではあるんだが。 ◇  益体《やくたい》のない話でも時間は過ぎる。日没が近いのか、部屋は緩やかに闇に落ちつつあった。この部屋、電灯がないんで日が落ちたら真っ暗になるのである。いいね、太陽と月だけが灯《あか》りなんてロマンチック! 女の子みんな大喜び。けど俺は男なんで嬉しくもなんともない。ハラも減ったし、そろそろまっとうな電飾が恋しい頃だ。 「そろそろ帰るわ。いいかげん胃《ハラ》にものいれねえと死ぬ」  ぐう、と蠕動《ぜんどう》する腹の虫。胃液が胃壁を溶かしそうだ。 「え? もしかしてアリカ、朝から何も食べてなくない?」 「昼間、おまえの前で食べてなかったらそう。朝からっていうか、昨日の夜から食べてない」 「うわ、ほんと!? ダメだよ、ただでさえ不健康なのに食事を抜くなんて。ちなみにうち、ごはんならあるけど。……食べてく?」 「食べてかない。ここの飯は性に合わないのです」  おもに金額的に。人間、食いなれないモノ食べると腹壊すってのはホントだぞ。 「なにそれ、失礼しちやうな。……けど、よく見れば本気で顔色寒くない? もしかしてダイエット中? お酒ばっかり飲んでるからお腹でたとか?」 「余計なお世話だ。あのね、純粋にお金がないの」  そう、万年金欠だがここんところは本気でヤバイ。ここのバイトは月給制で、カイエの野郎は前借とか日当割とか大嫌いなんだって。あはは、くたばれ金満小僧。 「なぁんだ、そんなコトか。お金がないなら稼げばいいじゃん。こっちは義肢の取り外しさえしてくれればいいし、昼間は外に出稼ぎにでてもいいよ?」 「働き口がないの。片手で出来て、頭使わないでいい肉体労働ってどうよ。想像できるかおまえ?」 「できるよ。アリカにしか出来ない仕事。木崎さんの時みたいに悪魔憑きを払えばいい。あの後、木崎さんから振込みあったんでしょ?」 「あったけど、マトさんに没収された。ボランティアで金をとるな、とか。いやまあ、もともと木崎さんの財産なんざ負債の返済で―――」  思い出した。そうだ、あの後俺は怪奇回転首男である木崎さんから悪魔を払って、いっそ殺してくれればよかったと泣きながら感謝されたんだっけ。で、この世で一番|可哀想《か わいそう》な顔をした木崎氏の患部は、黒い犬が、 「―――カイエ。あの時ってさ、犬が」 「そうそう、その犬殺しの悪魔憑きの話。なんだ、アリカもちゃんと調べてたんだ」 「あ? ……犬殺しの悪魔憑きって、誰よ?」 「あれ、忘れちゃった? じゃあ七回目の説明ね。一ヶ月ぐらい前からいたらしいけど、犬とか猫を捕まえては殺してる人がいるんだって。こうね、中身をごっそり取り出して捨て、皮は燃えるゴミの日に捨ててるらしい。初めはただの噂話だったけど、二週間前あたりから犯人を見た人が出てきて、アレは悪魔憑きだって色々なところで熱弁したらしいよ」 「――――――」  ポケットからメモを取り出す。チェックするのは二週間前、九月の最終週。走り書きはいつも通りの『特になし』。 「そんな話知らねえけど。なに、犬殺し? それ何世紀前の話よ。いまどき野犬なんて路地裏にもいねえっつの。いるとしたら山奥か田舎《い な か》だろ。でも知ってるか? 山とか畑で動物殺してんなら、それは狩りって言うんだぜ」 「違うよ、野犬じゃなくて飼い犬、飼い猫。初めは番犬を捕まえてたらしいけど、今じゃ家の中まで入って犬を盗んでいくらしいよ。おかげで支倉市の飼い犬は激減、静かな夜を過ごしてるってさ」  ……。そう言えば、昨日の夜はきゃんきゃんうるさかった隣りのクソ犬、静かだったな。 「……、ふうん。で、そいつは保護されたのか?」 「これが目下《もっか 》行方不明。警察の方でも保護対家だって網《あみ》張ってるけど、まだ本腰になってない。なにせ被害にあってるのが犬猫だからね。けど、目撃証言からするとかなりの陰性だって話だ。弱そうだし、捕まえればマトさんから金一封あると見うけど。アリカ、やらない?」 「やらない。別に興味ないし、マトさんは何があっても金なんかくれない」  それに―――仮令《た と え》悪魔憑きだろうと、まだ人間を殺した訳でもない。 「へえ。まだ、ねえ。さすが元入院者。予断は挟まないんだ」  聞かれてるし。どんな地獄耳だ、あいつ。 「うるさい、黙れ。そんな与太話どうでもいいんだよ。あいにく犬に友人はいねえんだ、犬コロが何匹殺されようが知ったコトか」 「うわ、ひどいなー。じゃあ放置するんだ、アリカは」 「そんなの人間様の事件じゃないだろ。復讐は同族がするもんだ。捕まえたきゃ犬の警察官でも連れて来い」 「うわ、そこまで言う。……つまんないなあ、今まで以上にかたくなに拒むじゃない。木崎さん時はお金目当てで喜んでやったのに。もしかしてアリカ、何か隠しているんじゃない? たとえばぁ、その犬殺しに面識あるとか」  根拠のない疑いだが否定できない。なにしろ俺にとって、この世で二番目に信頼できないのが自分だからだ。  一ヶ月分のメモをチェックする。木崎さん家の事件以降、特に笑える走り書きは、   『ユキオ 食いすぎ やせろ。ビネガー注意』  あった。日付は一週間ほど前だ。 「……しっかし、我がコトながらワケわかんねえな」  カイエのヤツが見せてほしそうに指を咥《くわ》えているが、これは人には見せられない秘密手帳なのだ。その一本一本の指が自在に動く不思議義手と取り替えてくれると言っても見せられない。いや、アレはアレで欲しくてたまらないんだけどな。ソウル売ってもいいぐらいに。 「どう? 面識あった?」 「だから知らねえって。俺のコトを俺に訊くな。あとつまらない悪魔憑きの詰も禁止。するなら今みたいに、太陽がでてる昼間にしてくれ」  メモを仕舞う。さて、日没まであと三十分。そろそろリミットだ、今日の仕事を済ませてしまおう。
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「それじゃまた、明日の朝に」  定番の台詞に見送られて地下室を出る。しっかりとドアを閉めて、石造りの狭い通路を抜けて階段を上る。四メートルほどの高低差を上り、行き止まりの扉を開けて、ようやく地上にご生遷。  森の中.日は既に落ち、周囲は底のない闇だった。  カイエの地下室は森にある。いや、森の貯水庫の地下にあいつの部屋がある、というべきか。貯水庫はそれこそ城壁に似て、見上げる程の壁に囲まれている。パッと見、十メートル四方の巨大なコンクリートの立方体。こんな不足議物体でも緊急時用の貯水庫なんで、近くには背の高い外灯が一本だけ設置されている。  外灯に照らされるコンクリートのキューブは、誰がどう見ても貯水庫というより宇宙船。これだけ奇怪な風景なら市の観光マップにも載ってしかるべきなのだが、この貯水庫は誰の口端《くちは 》にも上らない。市役所の人間でさえ知らなさそうだ。消防署の古株が、支倉市のマメ知識として知っているぐらいではあるまいか。その知恵袋も、貯水庫の地下にあんな秘密部屋があるとは思うまい。知っているのは俺とマトさん、あとはまあ、悪魔憑きに悩まされた事のある一部の被害者さんだけである。 「……ホント。何者なんだろうなあいつ」  地下室の主、迦遼《かりょう》カイエとは二ヶ月前に知り合った。  退院して義手を探していた時、珍しい義手を持っている好事家《こうず か 》がいる、とマトさんに迦遼力イエを紹介されたのがきっかけ。俺はダメモトで期待してなかったし、カイエもただの気紛れで俺の来訪を承諾した。以後、義手こそ譲ってもらえなかったものの、その日のうちにあいつから世話役の仕事を持ち出され、お金に負けて引き受けた。  あの日、顔を合わせたのは夜だった。月の明るい夜の、水槽じみた地下室を覚えている。第一印象は最悪だった。左腕が無い俺と両手両足がないカイエ。お互い欠けた者同士、手を取り合って協力しよう―――なんておめでたい話はない。親近感など皆無だ。見た瞬間、真剣に吐き気がした。コイツには関わるな。目の前の生き物は、おまえが見てきたどの生き物とも違うモノだぞ―――なんて、全身の血が沸騰《ふっとう》したぐらいだ。  だって両手両足が無いんですよ? それ辛いじゃん。辛いのは見ているだけでも体力を使う。退院してから心機一転、座右《ざ ゆう》の銘《めい》は〝出来るだけ楽して生きたい〟な俺な訳で、そんな付き合うだけで疲れるヤツと友好関係なんて結びたくない。 「……なのにこうして毎日来ている自分がいるのであった、まる」  本当に、なんで引き受ける気になったのか。  考えられる理由としては金だろう。カイエが持ち出した提案は魅力的だった。業務は楽で給金も文句なし。朝夕出向いて義肢の着脱だけして月二十万なんて美味しすぎる。心無い後輩はヒモみたいな生活だというがさもありなん。実際この首には、サラリーという首輪がかかっている。 ◇  十分ほど歩いて道に出た。  森といってもそう広くはない。大きさとしては大学の敷地程度で、一時間もあれば一周できる。  森から出ても文明の光は遠い。支倉市《こ の ま ち》の半分以上は畑と山である。どんなに駅前に金をかけようと、所詮は都心から通勤快速で二時間の田舎町。駅から五キロも離れれば、こんな感じに大自然と一体化できる。現代っ子が引き籠《こ》もるには最悪の環境だ。カイエの部屋は地下なんで電波も携帯電話も通じない。あいつの唯一の通信手段は、あの地下の何処《どこ》かにあるという黒電話だけなのである。と、電話といえば携帯の着歴をチェックチェック。  メールなし、着信なし、時刻は午後七時ジャスト。見事にバスの時間を過ぎている。森から出てすぐの国道には小さなバス停があるが、最終便は夜の六時だ。ここから支倉坂まで五キロ、駅前まで追加で二キロの長旅となる。空腹には応《こた》えるなあ。もっと働け市営バス。
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 流石《さ す が》に丸一日の絶食はきついんで、腹ごしらえに馴染《なじ》みの居酒屋に立ち寄った。その名もダイニングバー星雲《せいうん》。イタリア系のクセに店の名前が致命的に間違えている。中は大学の教室ぐらいの広さで、びっしりとテーブルを並べている。せわしない余裕がない貧乏臭いコトこの上ない。四十あるテーブルはほぼ満席。下は十六歳から上は三十過ぎまで、店内は酒と煙草《タ バ コ》と与太話でぐっちゃぐっちゃである。  で。その混沌《こんとん》の中、入ってきた俺を見てピンと耳を立てるヤツー人。 「――――げ」 「あ、先輩だー! やっほー、こっちこっちー!」  店中の視線が俺とバカに集まる。人目を憚《はばか》らずブンブン手を振り、バンバンとテーブルを強打する謎の生物登場である。逃げても追ってくるのは明白なんで、観念してバカの対面《トイメン》に腰を下ろす。 「もう、先輩おそーい! またカイエさんのところですかー?」  むー、と頬《ほお》を膨《ふく》らませるツラヌイ。さも当然に時間を口にするがそもそも待ち合わせなんてしちゃいねえのである。 「クラブサンド一つ。飲み物? いらねえよ、水くれ水」 「微動だに聞いてませーん! 先輩、これみよがしに話を無視されるのつらいでーす!」 「はいはい、泣かない泣かないうっとうしいから。ちゃんと聞いてるよ、無視できるもんなら無視したいですよ、実際」  テーブルを占領するツラヌイのメニューを押し退《の》けて自分のスペースゲット。すでに夕飯は済ませたのか、テーブルにはキレイに食べきったパスタとサラダとケーキの皿があった。学生のクセに、相変わらず金持ってるなコイツ。 「ツラヌイ。前もって言っておくと、今日の俺はハラ減って死にそうだ。胃にモノが入ったら話ぐらい聞いてやるから、食い物くるまで黙っててくれ」  何か言いたそうなツラヌイを手で刺して黙らせる。空腹でこいつの相手をしたらマジ倒れる。 「はーい。じゃ、わたしも何か頼んじゃいますね」  すみませーん、と元気よく店員を呼ぶ、見た目まだ高校生ライクな貫井|未早《み はや》。性別女、愛称ツラヌイ。  俺とは高枚からの腐れ縁で、昔っからこんな芸風である。大雑把に言うと明朗《めいろう》快活、裏表のない性格、嘘もつけない不器用者だ。つまりマキシマム善人。マジで扱い困る。               ◇  この店で一番安いメニューはクラブサンド。  対して、一番高いメニューは美味《うま》くもない鴨の肝臓だ。  店側にとって最も利益率のいい商品《メニュー》は酒類なワケだが、ここは食事|縛《しば》りとする。で。 「へー。じゃあ霧栖《きりす 》さん、先週からずっと留守なんですか?」  もむもむとフォアグラを食べる金満少女、貫井未早十九歳。欲しいものは欲しい、食べたいものは食べるという、我慢のきかない典型的な現代っ子である。ブタになれ。 「そ、留守。なんでもさ、さるご令嬢が悪魔憑きになったんだと。そのお守《も》りとかで長野くんだりまで出向いてる」  もっとも、聞いた感じご令嬢の悪魔憑きは狂言っぼい。家族へのあてつけか只《ただ》の暇潰しか。付き合う方はたまったもんじゃないが、こっちとしては狂言の方がありがたい。 「本音言うと俺も行きたかったんだけどな。一度でも入院したヤツは他所《よそ》の県に行けない決まりだろ。俺は居残り、霧栖一人で遊びに行ったの」  マトさんに射殺されるのもイヤだし、美味しい話は相棒に任せた訳である。 「って、おいツラヌイ。おまえ、酒強かったっけ?」  すごい勢いでワインを飲み干すツラヌイ。デキャンタもうすぐカラになりそうだ。 「強いですよー。あとつまんないです先輩、あくま憑きの話なんてやめましょう! なんつーか、もっと明るい話してくれないとわたし吐きます」  恐ろしい。何が恐ろしいかって、こいつは発言から行動実行まで数秒かからないモンスターなのだ。吐くといったら三秒後には無惨な光景が待っている。 「待った。吐くのはやめようツラヌイ。ここ出禁《で きん》になったら、残る行き付けは近くのファミレスしかないぞ」 「じゃあ明るい話してください。先輩、退院してからずっとあくま憑きの話ばっかりでつまらないです。もっとこう、二十歳《はたち》前の男女に相応《ふ さ わ》しい話とかしません?」  む、たしかに我が事ながらつまんない男である。だが許せツラヌイ。その、明るい話はここんとこずっと品切れ中なのだ。 「贅沢《ぜいたく》言うな。だいたいな、テンパった連中の噂話なんて今更だろ。何がイヤなんだよおまえは」 「えっと……だって、アレって抑圧された感情に取り憑くんでしょう? ならわたしだって可能性あるじゃないですか。暗いお話してたら落ち込んじゃって、わたしもあくま憑きになっちゃいますよ」 「ねえよ」  こいつが悪魔憑きになんてなったりしたら、それこそ世界の終わりである。 「あうう。ひどいなー、即答だもんなー。アリカ先輩、そゆトコだけは昔のまんまなんだもんなー」  いじけながらバクバクとメニューを平らげていくツラヌイ。その栄養摂取量、実に俺の五倍。いっそクジラになれ. 「……おまえさ、クラブサンドで我慢してる俺を前に、よくそういうマネできるね。なに、過食症ってヤツ?」 「は? あれ、先輩お腹減ってるんですか?」 「減ってる。今日の食い物これだけ。帰ってもキャベツ一つない」  あ、止まった。ツラヌイ、むむ、と眉《まゆ》を寄せて考える。 「……シャープに言いあてますけど、つまりお金はないけどもうちょっと食べたいと?」 「惜しい。もうちょっとじゃなくて、腹いっぱい食べたい」 「そうですか。んー、そういうコトなら、先輩の出方次第《で かたし だい》で考えてあげます。つーか奢《おご》ってあげますからわたしと付き合ってくださいっ!」 「ごめん。俺、飢えて死ぬわ」 「マジムカ! もう、なんでですか!? 一つ年下の才色兼備な女の子ですよ!? いいコトずくめじゃないですかー!」 「いや、報酬と労働が釣り合わないし」 「真顔で言ってるし。……はあ、またふられたわたし。そして冷血漢なアリカ先輩。でもまあ、先輩のそういうところに弱いわたし。―――すみませーん、ダブルフロートお願いしまーす!」  ブンブンと手を振るツラヌイ。ほどなくして、バケツじみたジョッキに注がれたメロンフロートが現れた。カップル御用達《ご ようたし》の、ストローが二つあるアレである。 「今回はわたしの負けですが、健闘をたたえて先輩に奢ってさしあげます。ささ、遠慮なくやっちゃってください」  ……どうかしてる。ツラヌイは当然として、こんなメニューを残してるこの店もどうかしている。いや、そもそも名前からしておかしいんだよこの店は。 「ツラヌイ。おまえ、俺がソフトドリンク系ダメって知ってるだろ。飲むかそんなの」 「あれ、そうでした? ……仕方ないな、それじゃ渋めにこのジャンボオムライスを半分こにしちゃいましょう」 「却下。その、二人で分けるって発想を止めろっていうの。一つの物を二つに分けるなんて自然じゃないだろ。俺さ、昔っからそういうのダメなんだよ。ゆで卵を割って分け合うとか、下手なホラーより気色悪い」 「はあ。先輩、似たようなコト前してましたけど」 「え、マジ?」  やば、また昼間になんかやったか俺? 「覚えてないんですか? ほら、わたしの友達で扶桑《ふ そう》っていたでしょ? あの子の家に二人でいって、結局お土産《み や げ》のメロンは食べてもらえなくて、帰り道に二人仲良く食べたあの日です。先輩はこう、電柱にメロンぶつけてカチ割ったかと局うと、無言でわたしに分けてくれたのでした。ああ、素晴らしき青春の日々。あの頃の先輩はまだ、もうちょっとだけ愛嬌《あいきょう》あったんですけどねー」  記憶にない。綺麗に抜け落ちている。見い出そうと目を瞑《つむ》ると、ざり、と砂を踏むようなノイズが走った。  ツラヌイの知り合いってことは女の子か。お土産。見舞い。食べてもらえない果物。思い出せない記憶は、いつだってイヤな肌触りがする。 「あれ、先輩? なんか、顔色悪いですよ?」 「栄養足りてないからな。それでツラヌイ、それっていつの話?」 「いつって、四年ぐらい前の話ですけど」  あー、それなら納得。四年も前の事なんて、よほど印象深くなければ覚えていない。メロンを分け合ったのは寒気がするが、なにぶんガキの頃の話だ。何かを分け合うって行為も、色々と面白かった頃だろう。  そんな事よリメシメシ。こっちは右腕オンリーな為、人より食事のスピードが緩やかなのだ。ツラヌイはしょっぱい顔で巨大《バ ケ ツ》フロートを飲んでいる。自業自得だ。とりあえず飲み終わるまで大人しくしているだろう。 「あ、そうだ! ほらほら先輩、新しいケータイ買ったんです」  だめだった。一分程度の沈黙に耐え切れないのか、真新しいオレンジ色の携帯電話を見せつけやがる。今年に入って四度目の買い替えだぞこの女。 「……別にいいけどな。なんだよ、そのピッカピカのオレンジ色。おまえ、趣味特殊じゃねえ?」 「そうですか? 目立って可愛いと思うけど。先輩は嫌いですか?」 「まあ、簡単にお近づきになれる色合いじゃないな。……けどまあ、おまえには丁度《ちょうど》いいか」 「え? 先輩 それ誉めてくれてます?」 「ああ。ツラヌイにしては実用的な選択だ。それだけ目立つなら、どこで無くしてもすぐ見つけられるだろ」  がくん、と頭を垂れるツラヌイ。……まあ、目立つ色ではあるが、確かに愛嬌のある携帯だ。あの手のゲテモノは、愛着一つで大切な持ち物になる。 「いいですよーだ。暗黒系の先輩には暖色の良さは伝わり辛いんです。じゃ、電話番号変わったんで登録お願いします。はい、ピピっと」 「はいよ、後でちゃんと分類しとく。で、前の携帯は廃棄《はいき 》したのか?」  食いながら問いただす。視線はクラブ、意識はサンドに集中集中。 「ものは取ってありますけど解約しちゃいました。わたし、ケータイでロボット作るの夢なんで集めてるんです。そんなワケで、先輩も機種変えたら古いのわたしにくれません? こう、卒業生の弟二ボタンみたいに甘酸《あまず 》っぱく」 「ああ、覚えてたらくれてやるよ」  俺、携帯に愛着ないし。物自体四年前の中古だしな。 「やったー! それじゃ退屈な先輩に、ミハヤちゃんからプレゼント。微妙な食事もハイパーおいしくなる」  そんなに嬉しかったのか、弾《はず》むようにオレンジの携帯を突き出すツラヌイ。どこぞの掲示板から画像をダウンロード中らしい。 「いいですか? じゃいきますよー」  どれ、とちっこい液晶画面を覗き込む。実際、俺も付き合いがいい。  画像が動画に切り替わる。  どこか見覚えのある夜の道。一秒。  きゃんきゃんとけたたましい犬の鳴き声。二秒。  爛《ただ》れたゴムマリのような肉ダルマ人間登場。三秒。  肉ダルマに頭を漬される犬。四秒。  犬のハラワタを引きずり出す肉ダルマ。五秒。  動画停止。イヤな場面で映像固定。  むせた。 「うーん、ショッキング。スパイスとしては中々のものではないかと、あいたぁっ!?」 「メシ時にそういうの見せんじゃねえこのタコ!」  ただでさえ少ない栄養を吐き出させる気かこの女は。 「そんなあ。先輩的にはダメですか今の?」 「論外。おまえネットやりすぎ。おまえは素人なんだから、あんまリヤバそうなトコには近づくなっての。……で、どこのグロサイトから引っ張ってきたんだ今の」 「グ、グロくないですよぅ。肝心の部分とか影になって見えないじゃないですかー。ほら、この肉ダルマさん大きすぎて犬隠れてるし」  そういう問題ではない。あと映像止まってるのにぞぶぞぶと音だけ再生し続ける携帯電話を引っ込めろ。 「ちぇっ。せっかく先輩の役に立てると足って、イヤな人たちの仲間入りしたのになー。これでもダメなんて難攻不落っす」  渋々オレンジを引っ込めるツラヌイ。怪談は嫌がるクセに死体系は全然平気謎の生物。やはリモンスターなのか。 「でも、ホントは気になるでしょ? 今の、噂の悪魔憑きを隠し撮ったってヤツですよ?」 「はあ? なにそれ、ワケわかんねえ。噂の悪魔憑きってなんだよ」 「だから、犬を捕まえては殺して食べちゃうっていう。先輩聞いてないんですか? おかしいなあ、ここ三日ぐらいならどこのチャットでも出てくる名前なのに。ユキオって言われてるんですけど、知りません?」 「いや、初耳。詳しく聞かせてくれない?」  ツラヌイの説明は簡潔だった。  一月《ひとつき》前から犬を攫《さら》っては殺している正体不明の通り魔がいて、そいつを目撃した人間が悪魔憑きだと言いふらしたらしい。既にあだ名もつけられていて、その犬殺しの悪魔憑きはユキオと呼ばれているそうだ。  メモを取り出してチェック。あー……やばいなー、俺そいつに会ってるっぽいなー。こんなのマトさんに知られたらどんないじめにあうことやら。ぶるる。 「サンキューツラヌイ。すげえ役に立った。今後、こういう話は夜にしてくれると更に助かる」 「こういう話ってどんな話ですか?」 「だから、おまえの生き死にに関わる話。というか、昼間の俺に会うな。すっぽかされたくない約束とかは電話じゃなくてメールにしとけ。で、今の映像もう一回見せて」 「いいですけど、このムービーなら何処でもおとせますよ? 先輩の部屋で見た方が画質いいんだけどな」  でも見る。内容は逐一《ちくいち》同じ。 「……暗すぎてよく分からないな。たまたま現場に居合わせたヤツが隠し撮ったのか。しかしなんだね、携帯電話の進歩ってのは恐ろしいね」  突発的な犯罪者にとっては天敵と言えよう。電話、録画、はてはネットを通じての調べ物。陸の孤島って言葉は、そろそろ本気で絶滅しそうです。 「いえ、それ違います。そのムービー撮った人、初めからユキオが目的だったそうです。噂の悪魔憑きを公表するから、みんなで捕まえようって」 「……そりゃ物好きだな。別に金一封なんて出ないぞ、病人を捕まえても」 「そんなんじゃないです。みんな、お金が欲しいとか正義感とかどうでもいいんです。今はこの噂が一番面白いから便乗してるだけなんです」  なんだ。単に、分かりやすい攻撃対家なんでよってたかって的にされているだけか。 「ふうん。ツラヌイはそういうの嫌い?」 「嫌いです。信念のない娯楽は堕落《だ らく》だから」  珍しく難しい事を言う。ツラヌイは正義の人なんで、無軌道で自堕落な風潮を憎むのだ。感心なヤツめ。ご褒美《ほうび 》に、今夜は家まで送ってやろう。 ◇ 「ねぇせんばーい。給局、悪魔憑きってなんなんですか? 世間じゃ鬱病だって言ってますけど、鬱になると犬を殺しちゃうものなんですかねー」  人気のない夜道に、気の抜けた質問が木霊《こ だま》する。  ツラヌイのアパートは俺のマンションとは正反対の、工場地帯の端っこだ。元々はパン工場の女子寮だったそうで、家賃がベラボウに安い。もっとも、選んだ理由は家賃ではなく大学が近いからである。 「せんぱい専門家でしょ、医学的な検証をひとつビシッときかせてくださいよぅ。わたし、真実が知りたいです。お父さんに訊いても、ただの精神障害だってつっぱねるんですよぅ」  親父さんに無視されるのが不満なのか、悪魔憑きという無責任な噂が気に食わないのか。噂でしか悪魔憑きを知らないツラヌイは、真人間としてまっとうな質問をぶつけてくる。が、俺だって答えなど持っていない。 「知らない。今度知ってそうなヤツに聞いとく」 「カイエさんですかー? じゃあ、それはそれで、せんぱいの見解を一つお願いしますっ。例えばぁ、どうしていきなり鬱病になるか、とか」 「酔っ払いは絡むなあ。……まあ、なんだ。ほら、イヤな空気ってあるだろ。不吉な予感とか、暗がりに何かありそうな感じとか。世間一般で言う悪魔憑きの素《もと》ってのはそういうもんだよ」 「むむ、イヤな空気ですか。気まずい状況とか、今まさに殺気立ったわたしとせんぱいとか、そういう?」 「違う。そこの空気自体がイヤな感じなんだ。スモッグっていうか、道端を歩いてると時々あったりするんだよ。こう、ぼんやりと空気が揺らいでいるところがさ。それに気付かず通り過ぎちまうと、後で理由もなくむかついたり落ち込んだりする。意味もなくキレちまうワケだ」 「……はあ。その、よくわからない空間が悪魔憑きの素《もと》なんですか。えーと、アリカさんとカイエさんがケンカしてるときの気まずさとか、そういうのではナイんですね?」 「ナイ。つーか、俺とアイツは常に気まずい。それと、」  今の例で言うなら、あの地下室に悪魔憑きの素などない。  あそこの空気は美しすぎる。断絶されている為、汚濁《お だく》が入り込む余地がないからだ。以前、俺はそれを美しいと告げ、カイエは笑って否定した。 〝汚れがないから美しい、というのは間違いだよ。僕の世界はここだけだ。汚い事、醜《みにく》い事を何一つ知らないから綺麗なだけ。それは美しいとは言わない。ただの虚無だ〟  ……人間、清濁併《せいだくあわ》せ持ってようやく一人前というコト。どんなに美しくても、清しかないモノは人間とは呼べない〝異物〟である。 「せんぱい? 怖い顔しちゃってますけど、わたし地雷踏みました?」 「いや、こっちの話。以後、気にしないでどうぞ」  酔っ払いの手を引きながら、スケールのでかい建物を通り過ぎる。しっかし、歩けど歩けどエ場ばかり。田舎の特権とばかりに贅沢に土地を使ったエ場の群は、空から見れば軍事基地っぽく見えるだろう。 「―――と」  途中、一風変わった工場を見かけた。やけに有機的なイメージの建物。壁の染みや鉄柵の錆びが死を連想させる、朽ち果てる過程のエ場だ。 「ツラヌイ。あっちにある工場、なんだか知ってる?」 「はい? あー、あれは養鶏場ですよ。今年の春につぶれちゃいましたけど」 「工場地帯の中に養鶏場? 何かのメタファーか?」 「違います、ホントに養鶏場。となりはパンを作ってる工場だし、その奥なんて畑だし、環境的に無理ないと思いますよ。例のウイルス騒ぎで潰れちゃって、缶詰工場に鞍替《くらが 》えしましたけど」 「缶詰工場に? けどあれ廃《すた》れてないか、かなり」 「廃れてますねー。まあ、誰も働いてませんから。養鶏場を潰して缶詰工場にしようとしたらしいんですけど、結局資金繰りができなくてそのままらしいです。養鶏場やってたご一家は首吊ってお亡くなりになったそうで、次の借り手を探してるとか」 「世知辛《せ ち がら》い話だね。ところでツラヌイ、さっきのムービーな。あれ、何処で撮ったものか判るか? 面白がってあげたもんなら、撮影場所とか書かれるもんだろ」 「んー、そなんですけどねー。アレ、もう孫コピーの孫コピーで、撮った人が誰なのか分からないんです。あの場所が何処なのか気になるって人もいないし、ただのネタ扱いです」 「そうか。おまえは見覚えとかないの?」 「ないですよ。支倉市っていっても広いし、わたしあんまり裏通りの店とか行かないし。先輩はあるんですか?」 「………………」  あたま痛い。普通、このあたりに住んでるなら気付くよなあ、アレ。 ◇  アパートの前で別れる。元女子寮だけあって、ツラヌイのアパートは男子禁制なのだった。まだ酒が残っているのか、ツラヌイはしょっぱい顔をしている。 「大丈夫かおまえ。気分悪いなら部屋戻って戻しとけ」 「うー、気分は悪くないです。先輩に送ってもらったの久しぶりなんで、嬉しくて寝付けないっていうか、むしろ幸せで死にそうっていうか」  心配無用だった。 「ああ、死ね死ね。じゃあな、夜更かしすんなよ」 「はーい。先輩、また明日ごはん食べましょうねー!」  ツラヌイが部屋に戻るのを確かめてから歩き出す。  さて。うちに戻る前に、少し寄り道をしていくか。
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 幹城《みきしろ》水産支倉第二工場。  それが廃棄された缶詰工場の名称だった。もっとも廃棄といっても始まってさえおらず、準備段階で見捨てられた廃墟にすぎない。二棟ある工場はもぬけのカラだ。からっぽの箱のようで淋《さび》しい。養鶏場だった頃の面影も、これからブリキの缶語を大量生産するオートメーションも有りはしなかった。  怪しいのは三階建ての社屋《しゃおく》の方だ。窓はベニア板か何かで内部から閉め切られている。壁の染みや漂う空気が、徹底して人を拒んでいる。よくないモノを密封した缶詰のようだ。  正面玄関は施錠《せじょう》されていたが、裏口は壊されていて難なく入れた。暗闇と生暖かい空気。どちらも慣れたものなので構わず侵入。音をたててコンクリートの廊下を歩く。空が曇っている為、窓の隙間からの明かりはない。一寸先は闇、廊下は輪郭《りんかく》さえ把握できない。にも拘《かか》わらず迷わず進めるのは、俺自身、この建物に覚えがあるからだろう。 「チッ……昼間のうちにここに来たコトがあるな、俺」  奥に進めば進むほど空気が濁っていく。水漏れでもしているのか、ひどくすえた臭いがする。まっとうな想像力が働く人間なら、少しは怖がって躊躇《た め ら》う場面《シーン》。が、困った事に俺の頭はまっとうな頭じゃなかった。  ―――健全な精神は、健全な肉体に宿る。  クソみたいな言葉だが、これはこれで的を射た言葉なのだ。少なくとも、俺にとっては否定できない事実である。  二年前。左腕を失ってから、俺は物事に〝脅威〟を感じなくなっていた。  肉体と精神は同じ形。肉体の一部が欠ければ、感情も一部が欠けてしまうのか。不思議な事に、左腕の紛失と共に俺の心も一部分が無くなってしまっていた。  ……例えば、事故で耳を失った人間がいるとする。傷は癒えたが耳は戻ってこなかったそいつは、以後、他人からの些細《さ さい》な中傷で激高するようになった。これは事故によって偏屈になったのではなく、その人間から〝信頼〟という感情が欠けてしまった、とは考えられないか。肉体が失われる事で、精神が欠ける事もないとは言い切れまい。少なくとも石杖所在《いしづえア リ カ》という人間はそのケースに当て嵌《は》まる。  肉体の欠損が大きければ、それだけ精神の欠損も大きい。左腕一本分の欠損は、俺から賢明さを―――〝外的要因から脅威を感じる心〟をごっそり削ってしまったようだ。率直に言えば、俺は『怖いモノ知らず』になってしまった訳だ。が、〝恐怖〟が欠けた訳ではないので怖いと感じたものは怖い。動物としての本能―――危険に対する防衛機能がなくなってしまった、という方が正しい。  カイエ曰《いわ》く、利点は大抵の動物に好かれる事だとか。警戒心が薄まっているかららしいが、それで犬だの鮫だの蛇だのに好かれても嬉しくない。いくら脅威を感じなくても、怖いものは怖いのだ。で、そのあたりが更に動物たちを喜ばせているのだという。どんな理屈なんだそれ。  ピピピ。携帯にセットしたアラームが闇に溶ける。 「よし。時間切れだ、帰ろう」  人間引き際が肝心である。工場に立ち寄ったのはただの興味だ。警戒心が薄い人間はどうでもいい興味でも行動してしまう。やばいぞ、やめとけ、危ないぞ、等のシグナルがないと一直線に死に向かうのが人間である。だがその感情《シグナル》で引き際が量れない以上、確固たる法則で方針を定めなくてはいけない。今回のルールは五分。入って五分経過したら何があっても戻る、と自分を律したのだ。  何事もなく廃屋を出て、工場を後にする。  放っておけば支倉布に新しい郡市伝説が誕生するのは明白だが、藪《やぶ》をつついて蛇に噛まれてはたまらない。ならこんな所に来るなという話だが、それが出来ないからこそのルールなのである。 「ま、怪談の多い町だし。ブロイラーお化けビルの一つや二つ、いまさらな」  そうそう。惨殺《ざんさつ》された洋館の一家とか地下鉄に走る人手電車とか人を飲み混む妄想団地とか、物騒なのは山ほどある。怪談の卵の一つや二つ、見て見ぬフリをしてもバチは当たらない。唯一気になるとすれば、知人《ツラヌイ》の近くに心霊スポットがある事か。それも明日、朝一で忠告しておけば事足りる。  部屋に帰ろう。突発的な興味は解消したのだ。件《くだん》の悪魔憑きになんさ関わりたくない。関われば責任と、見たくもない罪を見せ付けられる。俺は俺だけで精一杯《せいいっぱい》だ。臭い物にはフタをする程度の正義感では、他人の臭さは背負えない。なにしろ片腕だし、頭悪いし。強くなれない半端な弱者は、できるかぎり我関せずでやっていくしかないのである。だって、ほら。ピンチになっても、誰も助けてくれないでしょ? [#改ページ] 2/eater  そもそもの発端は、俺に合う義手がなかった事だ。  外傷なし後遺症なし解析不能。まるで生まれた時からそういうカタチだったようだ、とまで言われた俺の左腕は、あらゆる義手を拒絶した。  そう。機能しない、のではなく拒絶した。  大まかな筋肉の動きで振る・開くが可能な義手だけでなく、腕としての形だけの義手さえ合わなかった。矛盾しているが、義手をつけると無くした左腕が痛む[#「無くした左腕が痛む」に傍点]のだ。  医師は精神的な後遺症と判断した。俺はまだ意識下で今の自分を否定しており、左腕が無いという現実から目を背けている。が、義手をつけるとその現実を認めざるを得なくなる為、心が痛みを以って義手を拒むのだ、とかなんとか。なるほど、うまい事を言うもんだが、理屈をつけられたところでどうしようもない。現実を拒もうが否定しようが義手は必要なのだ。大した機能がなくても両手がないと落ち着かない。  入院中、病院内の義手は全て試した。どうも素材的な相性があるらしく、痛みは様々だった。激痛を覚えたり嘔吐《おうと 》をしたり、中には失神した物すらあったが、とにかく個体差があるのである。なら、根気よく探せば自分に合う義手が見つかるだろう―――としつこく自分に合った義手を探し、最後に辿《たど》り着いたのが迦遼カイエの地下室だった。あいつは俺を見るなり、 〝ああ。その腕、偽物に獲られちやつたんだね〟  などとのたまい、『世界で唯一つ俺に合う』義手を見せびらかしやがった。 〝石杖さんの腕は紛失しただけで、まだちゃんと繋がっている。落とした腕が無くならない限り、新しい義手《うで》は付けられない〟  肉体として左腕を失っても、概念として俺は左腕を未だ持ちえているとカイエは言った。 〝だって君、無くなった左腕に未練ないでしょ?〟  その言葉。その指摘こそ、左腕を無くして初めて受けた、精神的な傷だった。確かに俺は、左腕を取り戻したいとは思っていない。俺にとってあの左腕は、初めから無いようなものだった。だから―――肉体としての形が無くなろうと、初めから『無』だったカタチは変動しない。 〝感覚だけが生きているんだ。普通の義手なんて、君にとっては体の内側に着る服のようなものだよ。そりゃあ気持ち悪くて失神ぐらいするさ〟  そう。肉体が紛失しても、感覚だけが残っている。  イメージの話。曖昧な話、目を瞑ってさえいれば俺の脳は以前のように左腕を認識し、稼動させ、物を掴む事ができる。勿論《もちろん》錯覚だ。有が無に流れる事はあっても、無が有を動かす事など有り得ない。  無の感覚が触れるモノは、同じ無の形のみ。カタチの無い触覚。無い故《ゆえ》に有るものは掴めないが、無であるが故に無いものと混さり合う。それを――― 〝だが―――架空の触覚は、同じ空想の怪物を許容する。素晴らしいよ石杖所在。君の左腕は、理想的な悪魔―――〟  あのクソガキは、なんと評していやがったっけ……?
 翌朝、明けて十月十日。天気は曇り。予報によると昨日と同じ天候らしい。  着替えて郊外の森へ向かう。あのお子様はわりと寝ぼすけなんで、朝の十時までに顔を出せばいい。時刻は九時前、余計な邪魔さえ入らなければ余裕で間に合う時間帯だ。  住宅地を抜けて郊外に向かう途中、ツラヌイに連絡を入れる。出ねえ。まだ寝てるのかあいつ。発信音ノ後ニメッセージト愛ヲプリーズ! バカか。 「もしもし、石杖だけど。念のため言っとくんだが、例のユキオ君な。おまえは被害者体質なんだから、あんまり関わるんじゃないぞ。あと頭悪いんで留守電変えろ」  昨夜の件に釘を刺し、積み木のように並び揃った住宅地を抜けた。  一面の畑、地平線に見えるなだらかな丘陵、無意味に広くて交通量の少ない国道。二十年間まったく変化のない、昔ながらの田舎風景。 「―――、げ」  そこに不釣合いな人たち発見。パトカー二台、救急車一台、貧乏人には手の出ない真っ赤なボルボ、うわS40シリーズだぜアレ、一台。あまり会いたくない一団と、会いたいけど会いたくないという人が揃ってやがる。条件反射で横っとびし、道から外れて草むらから観察観察。  このあたりで物騒な事件でも起きたのか。そのわりに人数は少なく、鑑識らしき人影も見られない。……どうも、あらかた処理が終わった後らしい。撤収作美も始まっているし、もうちょっと隠れてればそのまま行ってくれ―――ねえか、やっぱり。  ボルボに背中を預けていたお姉さんが警官二名を顎で使う。こっちにやって来た二人の強面《こわもて》は問答無用で俺を締め上げ、グレイよろしくボルボの前まで引きずっていく。ずるずる、どさり。人権なんてどこにもなし。 「はい、任意何行ごくろうさん」  さすがマトさん。今の任意何行だったんだ! 「ああ、君らは撤収していいよ。私はそこのと話があるから」  強面の警官二名姉御に敬礼、速《すみ》やかに撤収していく。残ったのは俺とボルボと黒スーツの姉御だけ。  この、明らかに警官じゃない美人は戸馬的《と うままと》。この二年間、俺がひたすらお世話になった冷血動物だ。心の中の愛称一位はトマトさん。 「おい、そこの屑。いつまでも倒れているんじゃない」  トマトさんは蔑《さげす》むように言い捨てる。そっちのケがなくてもビビっと背筋にくる罵倒は、これでもセーブされている方だ。冗談の通じない性格なのか、トマトさん、なんて口にした日には身の毛のよだつ拷問《ごうもん》が待っている。そんな訳で、可愛らしい愛称は心の中だけに留めマトさんと呼ぶにいたる。 「こんにちは。うまく隠れたつもりなんですけど一瞬に見つかりましたか。いや、朝から目ざといねマトさんは」 「所在《しょざい》。おまえ、自分の事分かってないだろ。片腕で白髪のガキなんざ、一キロ先からでも判別できる。……まったく。人目があるところで不審な行動をとるな。おまえの場合、職務質問一つで留置所行きなんだぞ。ああでもしなけりや周りが納得せんだろう」 「え。もしかして今の強制連行、気をつかってくれたんですか?」 「当然だ。私はおまえの監察官だぞ。下らない理由で留置所まで呼び出されてたまるか。屑は屑らしく、部屋に引き籠もって余計な手間を取らせるな」  マトさんは相変わらずだ。クール&ビューティー。現場に赤い私用車で乗り込んでくるところなんて特にスタイリッシュ。何しろ天下御免の公安特務。この人に意見できるのは警視ぐらいで、事実上支倉市では無敵キャラだ。ちなみに警視ってのは支倉市の警察署長。署内でのマトさんの扱いは警部補らしいんで、さっきみたいにお巡りさんをアゴで使える。  二十代でこれなんだから、順当にエリート街道を驀進《ばくしん》しているお姉さんなのだが、本人は今の自分がいたく不満らしい。マトさんの上昇走向は常人の十倍。俺に換算するなら一千倍の悪逆超人なのだ。そしてその本性は、弱者をいたぶるサドなのである、まる。 「―――おまえね。その、人を食った顔やめなきい。動物園で動物に笑われてるみたいで、すごく不愉快だ」 「人の地顔に文句言わないでください。それより何かあったんですか? ここ、俺の通勤路なんで気になるんですけど」 「何って、私がいる以上は一つだろう。初期病状の患者を保護したんだよ。自宅治療中だったんだが朝方抜け出してね。親御さんから通報があって、ここで捕まえた」  保護と言えば聞こえはいいが、実のところは実力行使である。アゴニスト異常症―――俗に言う悪魔憑きの保護を目的とした保安機関の監察官が、戸馬的の本職である。世間じゃ悪魔憑きにちなんで霊柩《れいきゅう》課なんて呼んでいる。悪魔憑きになった人間を救う、現代の神父さん。もっとも、人権とかそういうのまったく考慮してくれないけど。 「はあ。朝から忙しいですね、マトさん」 「まったくだ。こんなのは私の仕事じゃない、警察の仕事だよ。さっきの子はまっとうな精神病だ。悪魔憑きなんかじゃない」  不機嫌そうに言い捨てる。世間では新しいタイプの鬱病と言われている悪魔憑きだが、一度でも本物の〝悪魔憑き〟を見た人間なら、それが狂言か本物かは一目瞭然だ。  本物の悪魔憑き。重度の発病者には、精神面だけでなく肉体面にも異常が現れる。アレは精神面の傷などではなく、肉体面に現れる傷《やまい》なのだ。それを知っているのは実際に関わった者だけである。悪魔憑きにかかったもの、悪魔憑きに襲われたもの、そして、悪魔憑きを保護するもの。マトさんはその最大勢力である保護側の人間だ。悪魔憑きに関しては俺なんかより何倍も詳しい。 「まっとうな精神病って。……自分は悪魔憑きだって狂言、増えてるんですか?」 「増えてる。おかげで関係のない仕事が増えた。これじゃ一掃まであと二年はかかりそうだ。一年で済むというから点数稼ぎに志願したんだが、どうも話が違ってきたな」  マトさんは高い部屋で下界を見下ろすのが好きなタイプなので、現場の仕事は嫌いなんだろう。でも拳銃は大好きなので、夢はシューティングレンジのある長官室だと酒の弾みで告白された事がある。マジ怖い。 「ま、あんな小物の事はいい。それより所在《しょざい》。おまえ、いま噂になってる悪魔憑きを知ってるか?」 「犬殺しってヤツですか? それなら昨日の夜に聞きましたよ。なんでも犬とか猫を捕まえて食べてるって」 「―――」  あ。なんか、マトさんが冷たい目で観察している。……いやだなぁ、隠し事とかバレないかな。 「所在《しょざい》。何度も言うが、私はおまえたちが嫌いだ」 「あったりまえです。あれで好きだなんて言うなら、マトさん最強の変態だぜ」 「真面目に聞け。私が言いたいのは、社会的弱者は目障《め ざわ》りだ、という事だ。いいか。下手な隠し事をすればすぐさま再入院させるぞ。おまえは悪魔憑きじゃないが、似たようなものなんだからな。本来、おまえの症状は正常《ま と も》に生活できるものではないんだ。外にいるより内にいる方が生きやすいだろ」 「失礼な。片腹でも健気《けなげ 》にやっていけてます。ちゃんとマトさんの役にも立ってるでしょう」 「……ふん。本当に、隠し事も忘れ物[#「忘れ物」に傍点]もないならいいさ。じゃあ本題だ。さっきの犬殺しだが、私の本命はそっちでね。おまえの言う通り、犬猫を捕まえてはその場でバラして料理している。料理といっても踊《おど》り食いの類《たぐい》だがな。これが現場の写真」  車から資料を取り出し、躊躇《ちゅうちょ》なく俺に見せる。利用されているだけなんだが、マトさんに信頼されているのは嬉しい。だって美人だし。……しかし、なんだ。それでも、この写真は正直ビミョーです。 「あの、マトさん。これ、ただのゲロにしか見えないんですが」 「ばか、吐潟《と しゃ》物と言いなさい。……まあ、見て気持ちのいい物じゃないだろうが、全部目を通しておけ」  嫌がりながらも俺に付き合って写真を見るマトさん。不愉快そうに顔をしかめている。こうしていると綺麗なお姉さんなんだよな、この人。本気で勿体《もったい》無い。 「あれ。これ、床溶けてません?」 「溶けてるよ。鑑識の話じゃ強力な胃酸だそうだ。ハハハ、もう何でもアリだな連中」  ま、首を三百六十度回す旦那《だんな 》もいた事だし、今更驚く事でもないか。 「……しっかし、見事に吐潟物ばっかりですね。これ、どういう意味なんですか?」 「見た通りだろ。犬を食べたはいいが、すぐに戻しているだけだ」 「? 単純に犬がまずいからですかね」 「ばか。まずかったら一ヶ月も繰り返すか。こいつは好きで食って、好きに吐いてるんだよ。食っても戻すと分かっていながら食べているんだ」  ……食べて、戻す。食べても、戻してしまう。  それと似たような病状を、俺は、目の当たりにした事がある気がする。 「……マトさんの事だから、もう調べはついてるんでしょ。この悪魔憑き、ネットじゃユキオって呼ばれてるけど身元はハッキリしてるんですか。あと、悪魔憑きになった原因とか」 「ん? なんだ、名前を知ってるのか」 「ツラヌイから聞いたんです。で、身元は?」 「照会は済んでいる。フソウユキオ、家は支倉市高之台。四年ほど前から自宅治療をしていたが、一ヶ月前に家を出ている。親御さんからの通報はなし。母親の供述では、いっそあのまま消えてほしかった、だそうだ」 「ふうん。自宅治療っていうのは?」 「それが発症の原因かどうかは知らんが、中学の頃から拒食症だった。拒食症についてコメントを聞きたいか?」 「必要ないです。人並みには知ってますから」  拒食症。心的な問題で食事が摂《と》れなくなる現代病を指す。こう聞くとただ〝ものが食べられない〟病状と思われがちだが、実際は〝ものを食べても吐いてしまう〟ケースが大部分であるとか。  初期は精神的な理由で食事を戻してしまうのだが、長期に亘《わた》って放置すると胃が弱り、肉体の方が嘔吐を習慣づけてしまった為、精神的な問題が解決しても拒食を続けてしまうそうだ。  拒食症患者は満足な栄養を摂れない為、階段の上り下り程度の運動で衰弱する。恐ろしいのは、その事実を患者が自覚できない、という点である。彼らは一見健康そうであるが、その肉体は常に衰弱している。体力の低下と共に病気に対する免疫力も下がり、ひいては軽い風邪で〝餓死《がし》〟する事もあるという。拒食症は一人で治療できるものではなく、本人の自覚と周囲の理解がなくしては治癒《ちゆ》できない、死に繋がる病なのだ。 「……けどおかしいな。ユキオ君は太ってるって話ですけど。マトさん、ネットで出回ってるムービー見ました?」 「見てない。……って、待ちなさい。なによ、犬殺しが映ってる記録があるの!?」 「ありますよー。そこいらの匿名《とくめい》掲示板で拾ってください。パンツ一丁の肉ダルマが見れますから。わりと脂《あぶら》ぎって美味しそうと言えば美味しそうな」 「……そう。じゃあそれ、当たりだ。鑑識の話じゃ戻した分の五倍は食べてるそうだしね。一日あたり約六十キロの摂取量だ。二週間もすれば立派な肉塊《にくかい》になってるだろう」  一日六十キロ……! 大型犬をまるごと二匹か。そりゃ太るわ。マトさんも肉食動物なんで、心の底では羨《うらや》ましがってるかもしれない。 「しかし、その暴食も七日前までの話だ。ここ一週間、犬殺しは起きていない。何しろ派手に殺したからな。野犬は減ってるし、由緒正しい飼い犬は家の中だ。警戒も厳しくなったし、おいそれと食事をできる状況ではなくなったんだろう」 「まあ、それだけ乱獲すればそうなりますよね。じゃあユキオ君、七日も食事をとってない?」 「ああ。最悪、空腹で死んでいるかもな」  マトさんは真剣に飢え死にを心配している。ちょっと安心した。なんだかんだ言っても、マトさんは正義の人なのだ。 「よかった。やっぱり餓死は困りますか?」 「困るよ。連中、扱いはあくまで病人だからな。丁重《ていちょう》に扱わないと私の落ち度になる。それに物陰で死なれると迷惑だろ。箪笥《たんす 》の裏で死んでいるゴキブリとか最悪だ。仕留めるなら、綺麗に掃除ができる白昼がいい」  訂正。この人に正義なんて一握りも存在しねえ。 「あの、マトさん。病人を白昼堂々撃ちぬくのは、いくらなんでも出世に響くと思いますが」 「なに、余罪をつければいい。人を一人でも殺しさえすれば病人ではなく殺人者だろう。相手が犯罪者なら、多少は言い逃れはできる」  あはは、怖いなあトマトさん。―――誰だよ、こんなんに国家権力と違法火器与えたの。 「話は以上だ。所在《しょざい》、あの子供の所に行くんだろう? なら一応意見を訊いておいてくれ」  警察特選吐潟物図鑑と鑑識資料を押し付けられる。マトさん、そのままボルボにゴー。 「自分で訊けばいいじゃないですか。あいつ、マトさん来ると喜びますけど」  いじめがいがある、とか言って。俺もカイエにいじめられるマトさんを見るのは楽しいんで、是非同行してほしい。 「あの子供は苦手だ。気味が悪い。おまえは怖い物知らずだから、あの部屋の空気に耐えられるんだ。その点だけは評価しているよ。病院でも、おまえはどんな患者にだって平等だった」  エンジンスタート。マトさんはいつも待ったなしだ。 「もう。わかりました、一人で行きますよーだ。訊くだけなら楽ちんだし」 「―――何を言っている。おまえな、私が世間話の為に時間を使ったと思っているのか。私はね、おまえもエサ代分ぐらいは働けと言っているんだ。おまえにとって連中はお仲間なんだろ? なら、犬殺し野郎が事を起こす前にねぐらぐらい突き止めろ」 「また無茶言って。……そいつ、ここ一週間何も食べてないんですよね?」 「今まで犬が主食だったなら、そういう事になるな」 「気が立ってますかね」 「私ならハラペコだな」 「それって、俺が一人目の機牲者になりませんかね」 「問題ないよ。おまえがやられたら一人漬す手間が省ける。犬殺しは晴れて殺人者になって、将来の悪魔憑きになる可能性が高いヤツも一人消えてくれる」  鬼。鬼トマトここに降臨。 「イヤですよそんなの。なんだって俺が見ず知らずの悪魔憑きに関わらなくちゃいけないんです」 「いいんだよ私は別に。おまえがやらないなら、妹を無罪放免するだけだから」 「絶対やります」  超即答。超やる気。超怖え。あんな殺人鬼を野に放されるなら、見ず知らずの悪魔憑きにやられた方が百倍ましだ。 「よろしい。いいか、今日中に探し出せよ。―――おまえ、本当は見当ついているんだろ」 「げ」  しっかり見抜かれてるし。マトさんはキチンとシートベルトを締めてから豪快にハンドルを切り、田園風景を時速八十キロでカッ飛んでいった。 ◇ 「へえ、これが犬殺しの悪魔憑きなんだ」  カイエは目を輝かせて資料を読みふける。ヤツのやる気オーラを感染《うつ》されたくないんで、ソファーにだらりと体をあずけ、灰色の海を見上げていた。  頭上の海は穏やかだ。幸い、あのいけ好かない鮫はいない。  パラパラと資料をめくる音だけがする。地下室は俺とカイエしかいない。カイエの義肢は全て揃っている。両手両足が黒い義肢。知らない者が見たら、手足に絹を巻きつけているだけと勘違いするだろう。 「うわ、やっぱり主食にしてたんだ。犬好きとしては許せないなー、犬なんて食べたら寄生虫で死んじゃうぞー」  かつてない上機嫌ぶり。あいつがああいう風にケタケタ笑っている時は、さすがの俺も寒気がする。 「すごいね、一日六十キロだって。うわ、ちょっとちょっと、アリカこれ見た!? 巡回中の警官が対象に発砲だって! 発砲だよ発砲? 遭遇時は極度の混乱状態の為、正常な判断ができなかった、か。すごいな、よっぽど人間離れした[#「人間離れした」に傍点]形態だったんだね」 「ああ。来る途中に読んだけど、それ凄いよな。S&Wの38口径を五連射って、普通死んでる。あ、いや一発でも十分死ぬか」  警邏《けいら 》中の警官がユキオの食事現場に遭遇、発砲騒ぎがあったのは一週間前らしい。ユキオはそのまま逃亡、以後行方不明である。ヤツが負傷したかどうかは定かではないが、一週間前から大人しいのは発砲による精神的なダメージが大きいのではないか。話しかけられる事もなく、問答無用で射殺されるのはいい気分ではないだろうし。 「なになに。備考、現場には弾丸と思われる金属片が残されていた……弾丸は強力な酸性物質により溶解しており、対象の皮膚《ひふ》に分泌《ぶんぴつ》していた体液と思われる……うわあ、ガマガエルみたいだね、この悪魔憑き」  ガマの油を言いたいんだろう。ガキのクセに古めかしい比喩をする。 「でもこれではっきりした。患部は胃、新部は溶解。原因はまだ分かってないけど、これだけ分かれば十分だ。体中胃酸まみれの悪魔憑きか。拳銃の弾丸を溶かすんだから、素手も刃物も効かないね。どうするんだろ、ネットで拘束する事もできないし……うわ、さすがマトさん、火炎放射器を要請してる。あはは、却下されてる。妥協《だきょう》案として呼吸器官への攻撃を指示してるけど、悪魔憑きに神経性の麻酔は効きづら……あ、なるほど水責めか。消防車の手配も出来てる。―――的確すぎだ。ねえアリカ、あの人ホントにお医者さんなの?」  そんなのは俺だって訊きたい。病院で会った時は血塗《ち まみ》れ白衣で勇然とチェーンソー構えてたんで、〝あの、お医者さんですか?〟なんて訊ける雰囲気じゃなかったのだ。初めて会った時は二丁拳銃で人の妹を撃つわ殴るわの大活躍だったし。……しかしまあ、悪魔憑きがどんなに人間離れしようと、結局は人間が一番強いというのは皮肉な話だ。悪魔憑きがどんなに異常犯罪を起こそうと、警察が本気で武装すれば鎮圧できない騒ぎはないのである。 「……ま、マトさんが人間離れしてるって線もあるけどな。けど、そのマトさんにしては今回は用心深いな。基本的に自分の銃しか使わない人なのに」 「それだけこの悪魔憑きが末期なんだろうね。〝偽物の悪魔〟憑きにしては中々だ。悔しいけど、本物の悪魔だって人間をここまで変貌させられないよ。世紀末だからかな、このままだと本当に現実に空想が負けかねない」  カイエは嬉しげに、黒い刃物みたいな殺意を隠しもせずに笑っている。……まいったな。マトさんだけでなく、こいつにまでスイッチが入ってしまった。迦遼カイエは本物と偽物に拘《こだわ》っており、おそらく、偽物を許さない人間だ。四肢が作り物である少年にとって、偽物とは現実の|悪魔憑き《びょうき》を指し、本物とは空想上の悪魔を指している。  ……少し、益体《やくたい》のない記憶に耽《ふけ》る。現実と空想。その違いをこいつが俺に語ったのは、初めてヤツの義手をつけた夜の事だ。 ◇  悪魔憑きとは病気である。  原因不明、治療不能。人間の精神を狂わせ、肉体を変貌させる悪魔の所業としか見えない奇病だ。だが、その仕組みだけは、初めから[#「初めから」に傍点]解明されていた。  人間には受容体《レセプター》と呼ばれる蛋白《たんぱく》質がある。受容休は神経の繋がりであるシナプスの間隙に放出される神経伝達物質《 リ ガ ン ド 》を受け取る事で、脳に新しい情報・感情を作り出させるシステムなのだそうだ。 〝分かるかな。人体は脳の命令で動くけど、受容体っていうのは、その行動の結果を脳に刻み込む機能なんだ〟  あらゆる行動の結果。  体が損傷《ケガ》をすれば〝痛い〟〝怖い〟〝憎い〟。  体に栄養のある物を摂れば〝美味しい〟〝嬉しい〟〝また食べたい〟。 人間は常に新しい感情を作り出す生命体である。一日毎に、目が覚めるだけで善悪《き ぶ ん》が変わるのは当然だとカイエは褒め称えていたっけ。  受容体は細胞の分裂、増殖といった人体の運営から、更に高次の生命活動・感情にも作用する。言うなれば人間を成長・変化させる扉を開く鍵穴である。悪魔憑きとは、この脳の受容体に異常が起きた人間の総称だ。 〝人間は微弱な電気で動いているし、感情は化学反応にすぎない。となると、強い感情になればなるほど電流は強くなると思わない? デジタルなようでいてアナログなんだよ、人間は。深い絶望、切り刻むような慟哭《どうこく》で、本当に体内に稲妻を走らせているんだから〟  悪魔がウイルスだとすれば、それは人間の感情によって成長する。極端な感情、負の鬱積が悪魔を育てる温床となる。成長した悪魔《ウイルス》はシステムを狂わせる。本来、受容体と結合する事で様々な情報を脳に伝える情報伝達物質《 リ ガ ン ド 》。悪魔憑きにかかった者は強い化学反応《か ん じ ょ う》によってこの神経伝達物質を異常に分泌させ、受容体を傷つけてしまう。  その在り方はアゴニストと呼ばれる化学物質と受容体の結合に近い。アゴニストは受容体を刺激するモノで、時には神経毒のように致命的な働きをする作用薬だ。本来無害の筈の神経伝達物質は異常分泌によりアゴニストの如き毒となって受容体に壊滅的なまでの衝撃を与え、人体としての在り方を歪ませてしまう。  その毒を流出させているのは感情である。受容体は自らを苦しめる原因《かんじょう》を鎮静させる為、原因解決の為に新しく人体機能を調整していく。〝苦しい〟という原因を解決する為の、今までになかった機能を作り上げるのだ。  これがアゴニスト異常症。脳細胞の機能、神経伝達物質の制御が暴走した事による、精神障害の一例である。 〝人間だって製品だからね。新しく部品を取り付ければ新しい機能を発揮する。ただ―――ほら。トカゲに羽がついたらドラゴンでしょ。たとえトカゲとしてのカタチが以前のままでも、新しい部品がつけば違う生き物として扱われてしまう〟  重度の悪魔憑きは、精神だけでなく肉体をも変貌させる。  悪魔憑きの三つの要素、  受容体刺激剤《アゴニスト》を異常分泌させる患部、  それによって新しく生まれた機能である新部、  そも患部を育て上げる原因であった感情の暴走。  この三つが現れた悪魔憑きは、もう人間では有り得ない。木崎某やユキオのように、既に人間としての構造を保ってはいないのだ。まるで遺伝子を破壊するウイルスのようだ。そこまでいくと悪魔なんて関係していないように見える。  目の前の本物は笑って言った。 〝そうだね。不老不死、超人願望。人間が夢想した奇跡の病気、神さまに近づこうとする悪魔のような[#「悪魔のような」に傍点]遺伝子病だ。でもアリカ、順番を間違えちゃいけないよ。悪魔憑きという病気は自動的に発症するモノじゃない。悪魔を育てるのは人間だ。これは感染者の環境が病んでいて、受け取る側の心が病んでなければ発症しない、二次感染のような腫瘍なんだ〟  だからアレは病気なのだ。死に至る病ではなく、病に寄生する無自覚で貪欲な生。個人を蝕《むしば》む現象と人間の在り方そのものを象徴した、最先端の流行病《はやりやまい》――― ◇ 「で、アリカはどうするの? マトさんから働けって発破かけられたんでしょ?」 「ああ、特大の爆弾をけしかけられた。あんまり舐めてると、うちの妹を無罪放免するとさ」 「うわ」  ご愁傷様、と黙祷するカイエ。黙祷は冗談になってないので本気で止めろ。 「でもアリカはやる気ないんだよね。昨日もずっと我関せずだったしさ。木崎さんの時は一人で解決したクセに」  自分でもよく分からない。ただ漠然と、今回のは今までのケースとは違う気がする。 「あ、読めた。なんだ、結局マトさんと同じじゃん。この悪魔憑きがまだ二人も殺してないから、アリカは見逃してあげたいんだ」  天蓋の陰で、にんまりと笑う三日月の口。 「はあ? 何それ、まったく違うだろ。マトさんは今か今かって複牲者がでるのを待ってて、俺は人死にでもでない限り―――」  あ、同じか。やっぱ、マトさんのコト言えないわ俺。 「いやいや待て待て、そんな簡単な理由じゃない。……ほら、なんていうか今回のって悪意がないだろ? 犬を殺すのだって犬が憎いってワケじゃなく、犬の中身が目的なワケだし」  そう、動機の問題だ。憎悪だの親愛だのを触媒《げんいん》とする悪魔憑きは、理性を以って力を犯罪に濫用する。対して、原感情から発病した悪魔憑きは、自分が生きる為だけに力を濫用する。そこに罪はあれ罰はない。否、いちいち罰を与えていては人間社会は立ち行かない。 「ふーん。要するに、異能を悪用しない悪魔憑きは被害者ってワケだ。生きる為に食べているだけなんだから、そこに罪はないって言うんだね。けどおかしいと思わないアリカ? そもそもそいつ、なんで犬なんか食べてるのかな」 「それは」  犬を捕まえ、食べる理由。考えるまでもない。ユキオには、普通の食材が手に入らないからだ。あの体ではマーケットには入れないし、先立つ物さえないだろう。 「人様の家に押し入って犬を捕まえてるのに? 冷蔵庫には食べ物ぐらいあったでしょ。それに手を出さず、飼い犬だけを食べたのはどうして?」 「だから、それは」  普通の食材が手に入らないから、ではなく。  普通の食材には、もう興味がないからだ。 「そういうコト。ありきたりの食材じゃ条件が合わないんだよ。大抵のモノは食べ尽くしちゃって、あと珍しいモノっていったら犬とか猫だったワケ。アリカ、犬の肉を扱ってる精肉店とか知ってる?」 「知らない。普通、そういうキワモノは需要がないと思う」 「ほらね。店で売ってないとなると、あとは自分で手に入れるしかない。幸い犬猫は簡単に手に入る」 「質問。鳥とか魚じゃダメなのか?」 「ダメってコトはないけど、意味がない。だって普通に売ってるでしょ、魚と鳥肉。そんなの悪魔憑きになる前に平和な食卓で食べている筈だ」  ああ、そうか。俺だって食ってるしな、魚。 「つまり、犬しか食うものがないってワケじゃなく、自分の好みで犬を食っていたと」 「そうそう。きっと色々試している最中なんだよ、そいつ。さて、そこで問題です。この拒食過食な悪魔憑きは、犬に飽きたら次は何を食べると思う?」  クスクスと笑う。いずれそこに行き当たるぞ、と破滅を言い当てる予言者のように。 「――――」  理性も本能も変わりはない。悪魔に取り憑かれた人間の行為は、悪意があろうがなかろうが、社会にとって醜悪《しゅうあく》な結末へと突き進む。犬を食う理由がただの〝興味〟だとするなら、その延長線上にある食材は容易に現像できる。蛋白質が欲しいなら、もっと食いでのある生き物が町には溢れている。支倉市の人口は、確か十五万人だったっけ。 「―――手を出すかな、人間に」 「試してみる価値はあるからね」 「それは、人間の方が美味いかってコトか」 「え? ……んー、味の問題じゃないんだけどな。けどまあ、手を出したらそれまででしょ。殺人事件になったらマトさんが本気になる。あの人がその気になったら偽物なんてハチの巣だよ」  重い腰を上げる。こいつの口車に乗った訳じゃないが、昼間のうちに確かめておきたくなった。ここからなら缶詰工場まで徒歩一時間弱。暇潰しにはもってこいだ。 「少し出てくる。夕方までには戻るから」 「あれ、いいの? 左腕、貸すよ?」 「いらない。俺が言われたのは居場所の特定だけだ。悪魔払いを頼まれた訳じゃない」 「へえ、頼まれればつっこむんだ。じゃ僕が頼もっか?」 「寝てろクソガキ。おまえからは誠意も何も感じないんだよ」 ◇  頭上の海が、灰色の空に切り替わる。  イカレた地下室から解放されて、外の空気を肺に叩き込んで心機一転。  携帯電話で時刻を確認すると、午後一時を過ぎていた。二時間近くカイエと話し込んでいた事になる。ついでに、ディスプレイには着信アリ。ツラヌイからの留守電が入っている。厭《いや》な予感をかみ殺して留守電再生。 『ども、先輩。ミハヤです。あのですね、昨日の画像なんですけど、わたしどこか分かりました。なんてゆーかですね、バイトに向かう時に唐突に気がついたような?』  そうか、ツラヌイにしては気が付くの早いな。いや、毎日サブリミナル状態なんだからそりゃ気が付くか。 『で、ですね。授業サボって見張ってたんですけど、さっきユキオさん見かけました。先輩はあんまり関わんなっていうから、ゴハンだけあげてきます。見た目ヘビィで怖いんですけど、なんか苦しそうでほっとけないっつーか』  留守電終わり。やばい、本気で眩暈《めまい》がする。あんまりではなく絶対関わるな、と言うべきだった。着信は一時間前。以後、経過報告はない。ツラヌイの携帯に電話。出ない。絶望的なコール音がリフレインする。 「――――」  いくら呼びかけても出ない。力の入れすぎで携帯を握り潰しそうだ。ピシ、液晶に亀裂《ヒビ》。あーあ、やっちまった。新しいのを買ったら、こっちはツラヌイにやらなくちゃな。 「あ、出た」  コール音から通話状熊へ。繋がりはしたが、一向に返事がない。  ―――コールより長い無言。スピーカーから、しゅうしゅうと苦しげな呼吸音が聞こえてくる。まっとうな想像力を働かせて、電話の向こうがどうなっているのか想定する。さて。ツラヌイの携帯電話を持っているのは、今現在誰なのでしょう。 「おまえ、ユキオか?」  こぼれた声は、自分でもどうかと見うほど冷たかった。反応なし。こりやダメかな、と諦《あきら》めかけた矢先、 「―――ダズゲデヨォ、ゼンバァイ」  焼け爛れた女の声がして、切れた。 「おい」  リダイヤル。コール音だけが響く。ツラヌイの携帯を持っている何者かは、もう繋げる気はないらしい。全身に電流が走っちまって頭真っ白。半ば条件反射で貯水庫の壁に八つ当たりをして、地下室に踵《きびす》を返した。 ◇ 「あれ、忘れ物?」 「ああ。その義手、貸してくれ」 「僕は頼んでないけど?」 「気が変わったんだ。なんか、鼓膜にイヤな音が染み付いちまった」  カイエはぎらりと目を輝かす。長年|恨《うら》みまくった仇《かたき》を見つけた時のような、後ろ向きな不敵な喜び。 「素晴らしいよアリカ。人間は神さまみたいに絶対《ひ と つ》じゃない。目を覚ますだけで嫌いなものが好きになる。一秒毎に生まれ変わるんだ」  能書きはいいから義手よこせ。 「はい、大事に使ってよね」  黒い、石膏のような左腕を受け取る。あとは刃物が必要だ。包丁ぐらいの刃物が欲しいが、ここには果物ナイフしかない。まあいい、それ借りていこう。 「あれ? 何故にナイフ? 相手は着弾した弾丸を溶かすヤツだよ? 刃物は効かないと思うけど」 「念の為の護身用だ。じゃ、行ってくる」 「はい、行ってらっしゃいアリカ。久しぶりの散歩だ、楽しんでくるといい」  天蓋の陰で、黒い何者かが笑う。義手《ぞ う お》を右手に持って、地下室を後にした。 ◇  国道に出ると、バス停に見慣れないバスが止まっていた。準備の良さにカチンときたが、ありがたいんで利用しよう。で、貸切状態のバスからマトさんの携帯に電話する。 「もしもし、石杖です。これから例の悪魔憑き、えっと、ユキオ? そのクソヤロウのねぐらに行くんですけど、先に警察に出張ってもらえませんかね。ここからだと二十分ぐらいかかるんで、一分でも早く保護してやってほしいんですが。え、無理? 確証がないとすぐには動かせない? そうですか。じゃいいです」  俺の不確かな情報提供に付き合ってくれるのはマトさんだけらしい。ありがたいけど案外使えないよな、この人。外様《と ざま》大名だし、署内で派閥《は ばつ》闘争でもあるのかしらん。 「え、近くのお巡りさんに向かわせる? あ、それダメ。間違いなく返り討ちにあいますから。それなら俺のがいいです。マトさん、今どこですか? は、アクアラインでアイス食べてる? 信じられねぇ、なんだってそんなトコにいんですかアンタは」  ますます最悪。いくらマトさんがスピード狂でも、海の上から支倉市まで一時間半はかかる。……こっちの方が先に着くか。 「じゃ先行してますから、ピンチだったら救助お願いします。場所は支倉の工場地帯です、はい、住所はメールで送りますんでカッ飛んできてください」  電話を切る。義手はまだ床に置かれたまま、己の誕生を待ち焦がれている。  バスは法定速度を三割増しで、田園風景をひた走る。  ―――さて。真に不本意だが、絶対に見逃せない理由が出来てしまった。容赦なく弁解なく、三度目の悪魔払いを始めよう。
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 二度目の来訪を、工場は快く受け入れた。  死を思わせる寂《さび》れた空気。所々色|褪《あ》せた青ペンキ。終末めいた無人の廃屋。唯一昨夜と異なるのは日中という事だが、中に入ってしまえば変わりはない。  裏口から侵入し、湿った薄闇を進む。ベニア板で閉め切った半味な闇だ。人工の灯りは必要ない。入居者のいないマンション、装飾の無い剥き出しのコンクリート。簿闇の中、うっすらと先が見える通路はどこぞの石窟寺院を思わせる。  その通路の終わりが近い。湿った臭いにつられて進んだ先は、完全な闇だった。窓の目張りが厳重なのか、隙間から差し込む陽光がない。本来なら怖れを感じる状況なのだろうが、幸い、脅威は左腕と共に無くしている。その左腕も、今は義手によって捕われていた。  義手は手の形をしているだけで、マネキンと何も変わらない。稼動部分はなく、彫刻の腕を切り落としてつけているようなものだ。見てくれだけは一人前だが、指はおろか肘《ひじ》さえ曲がらない模造品。迦遼力イエの腕についた、あの瑞々しい義手とは到底思えない。当然だ。この義手には、まだ血が通っていないのだから。  躊躇わず闇に踏み込む。絶望的だが、まだ生きている可能性がある。生存を確かめるまでは一分でも早く、だが理性を保って行動しなくてはならない。―――と。ポケットから、聞きなれた電子音が鳴り響いた。マトさんからの連絡か。本当にカッ飛ばして到着してくれたんなら心強いが、まあ無理だろう。 「もしもし、マトさ」  携帯電話を耳にあてる。  瞬間、後ろ首に硬い物が押し付けられた。 ◇  バチバチバチ。都合三回、脳みそが爆竹になった。  網膜が焼き切れる。意識が断線する。命令系統がショートした為、体はただの肉塊になる。  ―――コンマの判断で、失いかけた意識を繋ぎ止める。いま意識を失うのはまずい。失ってしまえば何もかもカタがつくが、それでは自分が来た意味がない。もうほとんど夢心地、夢か現実か判断がつかないレベルで、消えかけた蝋燭《い し き》を守りきる。  がとん、だん。  倒れる音。首筋に電気を流されたらしい。意識を刈りとる程の電圧だが、幸い、電流《アンペア》は1か2程度。神経が麻痺するだけの、しかし絶望的な十分間の活動不能時間。  ごん、ごん。ごん.ず。  足首を掴まれ、引きずられている。ゴンゴンと頭が泳ぐのは、階段を上っているからだろう。麻痺している為、体を打つ痛みはない。視界は爆竹で焼きついたまま。網膜の収束が緩まるまで視界は戻るまい。  ご。ずる、ずる、ず、ぴち、ぴちゃん。  床を擦《こす》る音が柔らかく変貌する。ついで、頭がぐらりと縦に揺れた。起こされている。椅子だ。俺は長椅子に座らされている。  ぎゅっ、ぎゅっ、ぎち、ぎゅっ。  ひたすらに厭な予感がする。吹けば飛びそうな意識は、脈絡もなくボンレスハムをイメージ中。  ああ―――俺も、食材に運ばれたらしい。 ◇  ―――視界が戻る。焦点を失っていた網膜が、ゆっくりと、世界の認識を開始する。  がつ。 「………………ぁ」  初めに思い浮かんだのは精肉店。次に食い散らかされたゴミ捨て場。最後に、巨大な吐瀉物の中だと理解した。一際《ひときわ》広い廃屋の一室にいる。倉庫に使われていたのだろう。七メートル四方の空間は、廃墟になった後も、やはり倉庫として使われていた。  がつがつが。  壁という壁に吊るされた犬の死体。部屋の隅に投げ捨てられ、今では部屋の中央にまで進出している何かの残骸《たべかす》。空気は甘い蜜《みつ》のように肌に張り付き、長く留まっていれば繭《まゆ》にでもなってしまいそうだ。  窓は全て閉め切り―――いや、そもそもこの部屋に窓はない。扉さえ閉めれば完全な闇。だが青白く照らされた密閉空間。どこから電気を調達したのか、壁には無数のモニターが点滅している。ブンブンと音をたてて、工場周辺の景色と一階の通路を映している。  がつがつがつがつがつ。  あまりにも映画的だ。骨と臓物とモニターの二重奏。手術中にハラを裂いたら、うっかリブラウン管が出てきたような感じ。  青白いモニターの光に照らされた吐潟物の部屋。  その中心で、巨大な肉が蠢《うごめ》いている。  がつがつと音をたてて、遅めの昼食を摂っている。  体重にして五十キロぐらいの肉塊を、バラしながら食べている。 「……だい。……だい、だい、だい……!」  パッと見、腫れあがった腫瘍に手足がついた感じ。  体格は中肉中背とかそういうレベルではなく、完全な球体。背は俺とどっこいだが横幅がある為、ものすごく巨大に見える。服は布切れみたいな腰巻一丁。無理もない。あの体格ではキングサイズだって入るかどうか。 「ヤダ、もウヤダ、もウコレ以上太リダぐナイ……!」  がつがつがつ。  見れば、壁に吊るされているのは犬だけではなかった。二足歩行用の脚をもった、腕が二本ある生き物の干し肉がある。性別は判別できない。胸の肉はもうなかったし顔だって皮をはぎとられている。それ以上に驚いたのが、頭蓋《ず がい》が無い事だ。ぱかっと綺麗にカットされた頭蓋。その中にあったモノは、プリンのように食べられている。床には大量の空瓶。酢《す》だ。あの肉ダルマは、プリンに味がないもんだから酢をぶっかけて食べたらしい。 「……だい。じにたい、じにたい、じにたい、じにたいじにたいじにたいじにたいじにたい……!」  それは〝死にたい〟と繰り返しながら、俺の事など忘れて食べ続ける。あの分だと食い終わるまであと二分ほど。こっちはまだ体の自由がきかず、おまけに縄で椅子に縛り付けられている。病的なまでにがんじがらめで身動《み じろ》ぎ一つできない。それでもまわりの肉に比べればいい扱いだ。どうやら俺はデザートらしい。  恐怖はない。いや、いくら恐怖に鈍感な俺だってこの状況は怖い。ただ、肉ダルマの足元にあるモノが頭の中を真っ白にしているだけだ。まずいなあ。意識を失わないよう頑張《がんば 》ったっていうのに、先に理性が消えてしまいそうだ。 「おい」  呼びかける。肉ダルマは、ゆっくりと振り返る。 「アレ―――神父、ザマ」  肉ダルマは息をするだけで苦しげだ。当然だろう。暴食は胃酸の働きを狂わせ、消化しきれない食物は胃を圧迫し、その痙攣は全身にいき渡る。呼吸は止まり、皮膚は大量に発汗し、全身は破裂するかのような痛みに襲われる。  まあ、俺の知った事じゃない。それより、その足元のオレンジ色[#「その足元のオレンジ色」に傍点]、もうちょっとよく見せろ。 「―――おい。おまえ、食った?」  声をあげるだけで火花が散る。流された電流の後遺症か、スパークする感情か。心臓は狂い馬のように血液を循環させる。ハイだ。付けていただけの左腕が、理性の消失と共に繋がって[#「繋がって」に傍点]いく。 「グッダッテ、ナニ」 「なにって肉だよ。今も食ってるだろ、おまえ」  肉ダルマは思い出したように食事を再開。きれいさっぱり五十キロを完食し、 「グッデなイグッデなイ、ダッデゼンゼンおながイッバイニなラナイ……!」  ぺたぺたと、デザートに向かって歩き出した。  手にはちゃちな糸鋸《いとのこ》。ぶっとい指に比べると悲しいぐらい小さいが、無抵抗の人間の頭蓋を切開するぐらいは出来そうだ。 「もしかして。それで、何人か食べたワケ?」 「食べタケド、食べデナイ。おながイッパイニナレバ楽ニナルノニ、幾ラ食べテモ満タサレナイ。おながイッパイニナレバ元ニ戻レルッテ。悪魔ガ消エレバ楽ニナレルッテ、ガミザマガ言ウガラ」  どこかで聞いた党えのある台詞と、苦しげな呼吸。 「ダガラ、ゴメンナザイ。ワダジ、モウ食べタクナイケド、お腹、減ッデデ」  俺の声なんて届いていない。肉ダルマはただ〝ごめんなさい〟を繰り返す。こいつは食われる運命にある俺とか食ってしまう自分とか、そういう行為を忌《い》み嫌う社会に謝りながら、ばしゃばしゃと俺にビネガーぶっかける。 「ゴメンナザイ、ゴメンナザイ、ゴメンナザイ」  その謝罪は誰の為か。とりあえず俺に宛てたものじゃない。フソウユキオは自らの非を認める事で、己の正当性を保っている。―――俺も弱者の方だけど。こいつの弱さは、既に強弱の秤《はかり》から零《こぼ》れ落ちている。  ごり。肉ダルマは容赦なく俺の頭を押さえつける。ぎり、と糸鋸が側頭部に触れる。ぎり。ぎり。麻痺しているため痛みこそないが、左眼の横の肉が、一往復ごとにギリギリと切断されている。 「っ……!」  なまじ痛みがない分怖い。もし鏡があったら気がフれたかもしれない。ざり、ざり、と。俺が気付いていないだけで、頭蓋は淡々と削られ、俺は自分の脳みそがなくなってようやく、自分が能無しになったと気がつくのだ。 「大丈夫、痛グジナイガラ。怖グナイ。何度モ試シタ。脳ハ痛イッテ感ジナイカラ、指デスグッデモ平気ダッデ」  頭から食べてしまえば、後は痛みを感じなくなるって理屈らしい。生きたまま踊り食いか。いい加減、気を失って楽になりたい。それでも一応助けを請うてみよう。万が一にも有り得ないだろうけど。 「いや、だめだ。助けてくれ。死にたくない」  機械的に喋る。後悔した。口にした瞬間、 〝―――ダズゲデヨォ、ゼンバァイ〟  鼓膜に張り付いた懇願が、頭蓋にガラガラと鳴り響く。  肉ダルマはピタッと動きを止め、注意深く俺を観察して、 「知ッデル。ミンナ、同ジゴド、言ッダガラ」  にんまりと。まるで仲間を見つけた子供のように、嬉しそうに笑いやがった。 「……なんだって?」 「ミンナ、食べラレル前ハゾウ言ッタ。すごク、かわいそう。泣キナガラ、助ケテッテオ願イシテタ」  ざりざり。糸鋸は止まらない。どのくらい切れたのか、頭から流れてきた血が、左眼を濡らしていく。だが―――そんなもの、本当にどうでもいい。 「デモ、ワダジト違うガラ、助ケテあゲラレナイ。ガミザマニ選バレてないヒトは、生マレ変ワレナイママ死ヌ。助ケテアゲタカッタゲド、助ケテアゲラレナカッタカラ、かわいそうダッタ」  ごめんなさいと謝りながら、こいつは救われない誰かに優越する。ごめんなさいと操り返しておきながら、弱い自分を肯定した。で、ばしゃばしゃと俺にビネガーぶっかける。 「ゴメンナザイ。デモワダジ、病気ダカラ。コウジナイト、楽ニナレナイ。コノママ―――痛マナイウチニ、食べテアゲル」  糸鋸の往復が早まる。意識が朦朧《もうろう》としてきた。―――今までの食事、まっとうな精神の人間なら、このあたりで気がフれただろう。だが、 「―――うるせえ。楽しむなよ、ヘンタイ」  ここまでだ。ここに来た理由はもういない。この部屋の何処にもいない。この肉ダルマを理解する理由も、同情する理由もない。左腕の猟犬を、押さえつける余地さえない。 「……何が神さまに選ばれた、だ。責任を他所に押し付けるな。おまえは選ばれたんじゃなくて、自分から進んでいっただけだろう。目も当てられねえぐらい弱いから、悪魔憑きなんてものに逃げたんだよ」 「エ‥‥‥?」  以前、何処かで正反対の言葉を投げた。  病気だから病院に行け。神父じゃ治す事はできない。ゴメンね、分かってなかったのは俺の方だ。だってこいつが治るワケねえじゃねえか。昔から言うだろ、馬鹿につける薬はないって。 「ナ……オマエ、日ノ、色」 「ああ。前にもさ、おまえみたいな悪魔憑きがいたんだよ。くそ、思い出しちまった。何が無自覚の地獄だあの野郎。テメェの弱さを盾にテメェの弱さを弁解しやがって、あったまきた」  魔は腐った温床にのみ取り憑く。悪魔憑きによって非人間になった、なんてのは戯言《ざれごと》だ。初めから弱いもの、隙間のあるモノ、欠損した弱者だからこそ悪魔が憑く。そこに、他者が介在する余地などない。 「―――ブタヤロウ。おまえが悪魔憑きになったのは心が弱かったからじゃない。初期値からしてフソウユキオって存在が弱かっただけだろうが。なのに分《ぶ》を弁《わきま》えないからその始末だ。恵まれていない者、持ちえてはいない者のクセに、選ばれたなんて思い上がった。生まれ変わりたいなんて思いやがった」 「ナ―――ナンダオマエナンダオマエナンダオマエ……! 他人ニハワカテナイ! ワダジハ楽ニナリタイダケ、今マデズット弱イ人間ダッタカラ強ク生マレ変ワリタイダケ……! ソレノ何ガ悪イ……!」 「悪い。人間は不平等だから平等なんだよ。分かる? アベレージじゃなく、トップとボトムが決まっていればそれでいい。バランスを天秤《てんびん》で考えるな弱者。底にいる弱虫がさ、高いところなんて目指しても周りが迷惑するだけでしょ」 「弱グナイ……! ワダジは弱グナイ、強イ、スゴク強イ、ガミザマがワダジニ力ヲクレテ、強イ人間になっタんだから……!」 「有り得ない。人間は生まれた時から性能が決まっている。弱者から強者になれる人間なんていねえんだよ。えー、なに? 血の滲《にじ》むような努力と根性で成功したヤツもいる? そんなのは単に、そういう強者だっただけだ。属性を間違えるなブタ。おまえだって散々思い知ってきただろう? 人間、そう行ったり来たりできる生き物じゃないってさ」 「バ―――バァ、ハ…………!」  そう、弱者は一生弱者だ。  だからこそ―――一生弱いままだと気付いた人間は、せめて、救われたいなどと思わない。それが弱者の精一杯の誇りの筈だ。弱者は弱者なりに、自分の弱さを誇って生きろ。同じ弱者として。それを捨て去った人間に、見出すべき価値などない。 「慎ましくても愛する我が家ってな。他人を羨むって事は自分を蔑《さげす》むって事だ。おまえは自分の値《あたい》が軽いから、単に悪魔に魂を売り渡した弱者以下の非人間だ。見ろ、掃き溜めみたいな底辺を。ここがおまえの終着だ。一度でも人間辞めたヤツはな、どうやったって人間として救われない」 「……ザイ……うるザイうるザイうるザイうるザイ……!! 犬! おまえなんか人間ジャナい、犬みたいにうるザイ肉ダ! 見ルナ! 肉のクセに、偉ゾウにワダジを見ルナ!」  激昂する。糸鋸が投げ捨てられる。人食いの悪魔憑きは、グローブみたいな手で俺の頭を鷲《わし》掴みにする。 「ワダジハ探ジデルダケ、悪イコトナンデシデナイ……! 苦シマナクティイヨウニ探ジデルダケナノニ、ナンデ、ナンデソンなニ悪クイウンダヨゥ……!」  ぶくぶくに太った腕に血管が浮かび上がる。フソウユキオは今まで殺してきた犬たちと同じょうに、俺の頭を握り潰そうとし、 「―――てめぇこそ。俺の身内《ルール》を、|殺し《や ぶ り》やがって」  不意打ち気味に。今まで殺してきた肉たちと同じカタチをしたモノに、胸元を噛み砕かれた。 ◇  腐った肉ダルマを殴りつける。  噛み付く顎《あぎと》。俺の意思に反して眺ね上がった左腕はワイヤー状の縄を食いちぎり、容赦なく肉ダルマに休当たりした。秒速五百メートル、至近距離で放たれる炸裂《さくれつ》弾。二百キロはある肉塊が、面白いように壁まで弾き飛ばされる。 「――――――、は」  臓腑《ぞうふ 》から哄笑《こうしょう》が溢れ出す。感情は脳からではなく心臓から発生する。だって頭は電流で未だ麻痺中、まともに機能する筈がない。命令系統《の    う》の回復まであと二分三十秒、手足はピタリとも動かない。だが生きている以上、人体は機能する。脳なんざ知った事か、シナプスではリガンドが受容体を串刺しにする。まるで、この世でただひとつだけ光を越える伝達速度。血液は毛細血管《ハ イ ウ ェ イ》を一時間あたり三百キロで疾駆《しっく 》する。 「はは、ははは、痛え、痛ぇ痛ぇ痛ぇすげえいたい!」  駆け巡る電流血液脳内麻薬、細胞は発火し神経はのた打ち回り感覚が暴走する。途端、ぎちん、と片腕にギロチン落下。紛失してからこれっぽっちも痛まなかった左腕の断面が、二年間溜め込んだ『痛覚』をつなぎ合せる。 「はは、ははははははははははははははは!」  繋がる。断面が溶け、黒い義手と一体化する。噴出する血液が、津波のように義手の胎《なか》に注ぎ込まれる。急成長する球根のようだ。血の流れは神経となって義手と俺とを繋ぎ止める。生きている。生きている。生きている。今までマネキンだった腕が、びくんびくんと呼応する。この世から紛失した左腕が、カタチを持って蘇生する。いい。もう何もかもどうでもいいってぐらいご機嫌だ、やっぱり生身サイコーじゃん! 生きてるね俺、いますげえ生きている! 「オーケー、てっとり早く済ませよう! さあ、懺悔《ざんげ 》があるなら今のうちだ、恨みつらみはここで吐き出せ! 未練を残したままだと地獄にいっちまうからな、テメェみたいなのにこられたらこっちはいい迷惑だ!」  ケタケタ笑う。やべえ、楽しすぎ。椅子から立ち上がれねえクセになんかすごく楽しいですよ? 「ア―――ハ…ハ、ハ? ……ナンダ。オマエモ、悪魔憑キ、ダッダンダ」  のっそりと立ち上がる肉ダルマ。腫れ上がり、切り裂かれた胸から血が流れている。刀で袈裟《けさ》斬りにしたような噛み痕は、流石ワンパク左手《ぼ う ず》といったところ。  が。同時に、せっかく自由になった左腕は肘から先が無くなっていた。 「ゲド、弱ッチクテ小ッチャイ悪魔。ソレジャ全然ゴワグナイ」  室内に異臭が満ちる。殴られて興奮したのか、肉ダルマは体中汗だくだ。あれが胃酸か。びっちり休をコーティングしてるんで、殴られても殴ってもこっちが一方的に溶かされるらしい。どうなってんだよあいつの体。 「デモ、嬉シイ。ワダジノ悪魔ノ方ガ強イ。ワダジノ方ガ、オマエヨリ優レデル」  ゆっくりと近づいてくる。こっちはまだ椅子から動けない。それを、あの肉ダルマは正確に把握している。 「ズゴグ嬉ジイ。ダッデ―――マダ、悪魔憑キハ、食ッダコトナカッタカラ[#「食ッダコトナカッタカラ」に傍点]」  肉ダルマ―――ユキオは、思い出したように酢の入った瓶を取って、動けない俺に近づいてくる。噛み付かれた胸の事なんて忘れている。すげえ、とにかく食う事しか頭にないんだあの肉ダルマ! 「サッキ、何ガ言ッテダケド。懺悔スルノハ、ワダジジャナイ。同ジ悪魔憑キダモノ―――ワダジガアナタヲ、助ゲデアゲル」  だぶついた頬が溶ける。手の平に胃酸を溢れさせ、ユキオはにんまりと笑った。  しかし、こいつも学習能力ないね。  胃酸にまみれた腕が伸びる。  胃酸にとろけた腕が上がる。 「エ゛……?」  理性や意識があっては取り憑いた悪魔は動かない。わずか数秒だけ、今まで耐えに耐えていた意識を失わせる。―――さあ憎悪(仮名)ちゃん。待たせたね、ゴハンの時間だよ。 ◇  一瞬、暗転。  咆哮《ほうこう》をあげて、黒い腕が爆散した。目前の肉ダルマに固体として散らばり液体として降りかかり気体として纏わりつく。 「エ―――イエ、ウ、ア……!!!?」  燃え上がるように蠢く、黒い怪物《あ く ま》のシルエット。鼓膜ではなく脳を破る、人間には聞き取れない奇怪な吼え声。石杖所在のあらゆるモノが、一瞬で左腕に持っていかれる。左腕を落とした夜のようだ。全身の感覚が途絶え、左腕に自身が凝縮されるこの錯覚。 「ア……痛 イ、痛 イ イ イ イ イ イ ィ ィ ィ イ イ……!!!!」  喚声があがる。悲鳴とも咆哮ともつかない声に目蓋《ま ぶた》を開けると、そこは見慣れた食事の風景だった。  つい五分前と同じ状況。ただ、食うモノと食われるモノが違うだけ。 「ィィィィイイイ……!!! ナンダゴレ ナンダゴレ ナンダゴレ ナンダコレ……!!!」  足元から食われていく。否、飲まれていく。一メートル大の黒い犬が、肉ダルマを組み伏せている。黒犬は海苔《のり》のように薄っぺらい。べたりと肉ダルマに張り付き、張り付いた個所から、ゴリゴリといい音がする。 「ナンデ……!? 痛イ、痛イ、痛イ……!! 食べでる、わだじたべられでる……!」  手足の先、末端からやせ細っていく。盲目の黒犬はフンフンと獲物の臭いをかいでいる。肉ダルマはまるっきり無抵抗で、夥《おびただ》しい汗をかく。本来なら、その汗だけで触れるモノは溶けていく。だが――― 「ナンデヨゥ! オマエナンカ、ワダジノ食べ物デシカナイクセニ……!」  元からカタチの無いものを、どうやって殺せるのか。  抵抗など無意味だ。  胃酸で溶解しようと、ソレはもとより溶けているモノ。力で破壊しようと、ソレはもとより崩れていくモノ。  人のカタチでなければ顕現《けんげん》しない魔など、所詮少しばかり面白おかしいだけの人像《ひとがた》にすぎない。その程度で〝悪魔〟を冠するから、そもそもの定義を間違える。  曰く、神が完全無欠にして全知全能であるのなら。  悪魔とは、荒唐無形《こうとうむ けい》にして人知無能の現象である。 「ナンデ、ナンデナンデナンデ……!? コレ違う、同じ悪魔憑きなのに全然ワダジたち違う……!」 「一緒にすんな。おまえのは悪魔憑きっていう単なる病気。で、俺は」  地下室の悪魔は語る。 〝架空の触覚は、同じ空想の怪物を許容する。素晴らしいよ石杖所在。君の左腕は、理想的な―――〟 「なんでも、本物の悪魔[#「本物の悪魔」に傍点]使いとからしい」  盲自の黒い犬。俺の左腕から伸びた、悪魔憑きを食う架空の無形《あ く ま》。ほぼ全身を咀嚼されているユキオだが、実際、黒犬は肉など食べていない。形の無いモノが形の有るモノを殺す事はできないからだ。  だが、丸飲みされたら話は別だ。〝有る〟部分が全て無に塗り漬されれば、それは無と同位になる。量子論の猫を思い出す。体の九割を食われたフソウユキオは間違いなく死んでいる状態だが、一割でもまだ〝有る〟以上、生きている状態と言えるだろう、とか何とか。ま、その一割もあれじゃ時間の問題だが。 「ヤダ、ダスゲデ、ダズゲデガミザマ……! イダイイダイ、ナンデコンナ苦シイ、ワダジのセイジャナイノニ、病気ナンカジャナイノニ、悪魔が憑いたのはワダジのセイジャナイノニ、カミザマガ、ガミザマがワダジヲ選んだダケナノニ……!」  ああ―――その断末魔と似た台詞を、いつか、白昼に聞いた気がする。 「忘れてるんだけど、俺、アンタに会ったコトある?」 「アル゛、アル゛……! ズット前ガラ、ズット! 何度モヤッテ来テクレタ……!」  昼間の事か。悪いがそれじゃ覚えていない。  右手に力を籠める。なんとか動けるようになってきた。 「そっか。じゃあ一応、答えてやんねえとまずいよな」  ナイフは―――ラッキー、落としていない。 「どうしようもないんだが、おまえの気持ちはあっちには伝わらないよ。悪魔と神さまってのは、もう絶望的なまでに別物なの。悪魔は無能なんで人間に関わるんだが、神さまは人間のコトなんてどうでもいいんだ。信仰心なんてものに興味はないし、人間がどう楽しむかどう苦しむかなんてコトにも関心はない。当たり前だろ、あいつは一人で足りてるんだから[#「あいつは一人で足りてるんだから」に傍点]。全知全能ってのはそういうコトだ。神さまはおまえを救わない。神さまの言い分なんて、昔っから一つしかない」  鼻先まで黒く染まったユキオが、哀願するように俺を見つめる。  ナイフを握って、最後の一言。 「つまり―――〝うざいから、私には関わるな〟」 「―――、ア―――」  肉に埋もれた瞳《ひとみ》が、呆然《ぼうぜん》とこちらを見る。  黒い大の顎《あぎと》が最後の一割にかぶりつく前に、じくっとナイフを振り下ろした。
 一振りで肉を断ち、ナイフを仕舞う。室内は水を打ったように静かになった。肉ダルマはピクリとも動かず、盲自の黒犬は鼻を鳴らして食べ物を探している。視力を失った為、嗅覚《きゅうかく》で好物を探しているのだ。このままでは美味くもない肉に貪《むさぼ》りつきかねないので、左腕で肉ダルマから患部を引きずりだし、黒犬にくれてやった。 「痛っつ……腕を切るって感覚だけは生きてるんだもんなあ……何度やっても慣れないわ、これ」  最後の瞬間に切り離した左腕。繋がり、一体化した義手は、刃物で切断でもしなければ離れてくれない。逆に離してさえしまえば、無形はもとの形に戻る。……フソウユキオの肉体がまだ在るという事は、結局、食いきれなかったという事だ。  黒犬が飯に夢中になっているように、こっちにも探し物がある。モニターの明かりを頼りに部屋を一通り観察したが、俺たち以外に生きている人間はいなかった。  肉ダルマの足元にあった携帯噂話を拾う。薄闇の中でも目立つ蛍光オレンジ。昨夜見た、知り合いの持ち物だったもの。 「行くぞ。もう食い終わっただろ、おまえ」  返事はない。振り向くと黒犬はおらず、切り離された義手がぽつんと床に転がっていた。左腕に付け直す事はせず、右手で持ち帰る事にする。  日が落ちるまであと三時間。まだ三時間もあるのか、あと三時間しかないのか。記憶を惜しみ、切り捨てるには正直微妙な持ち時間だ。
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 気がつくと、とっくに日は落ちていた。理由は分からないが、どうしようもなく気分が鬱である。時計は午後八時過ぎ。テーブルの上にはカイエの黒い義手があった。偏頭痛を堪えながらメモをチェック。『特になし』という走り書きを期待したのだが、そもそも、今日の分と思われるページがなかった。 「?」  遡ること七ぺージ分、メモ帳が破られている。  何事かと頭をひねるも覚えはなし、それより無性にハラが減っている。きっと朝から何も食べていなかったんだろう。まともな食事は昨夜のクラブサンドだけだと仮定すると、丸一日栄養を摂っていない事になる。いけないいけない。人間、どんな理由だろうとご飯を食べないと死んでしまう。  仮眠から起きた着の身着のまま、なじみの居酒屋へ。  晩飯時の星雲はうんざりするほど込み合っている。来るんじゃなかった。今夜は河岸《かし》を変えようと踵を返す。と。その混雑の中で、元気よく手をあげるバカー人。 「あ、先輩だー! やっほー、こっちこっちー!」  まあ、今から店を変えるのも面倒だし。なんか急に気分が晴れたんで、合い席する事にした。 「もう、先輩おそーい! またカイエさんのところですかー?」  むー、と頬を膨らませるツラヌイ。昨夜とまったく同じ台詞で切り込んでくるが、やっぱり、どう考えても待ち合わせなんてしちゃいねえのである。 「? 先輩、なんですかわたしの顔ジッと見て。やだなぁ、わたし今日はスッピンなのに」 「いや、なんとなく。それより、おまえなんで生きてんの?」 「は? わたし、なんで死んだんですか?」  ちょっと沈黙。お互い、初心《うぶ》なお見合いのように見つめあう。 「わりぃ、俺も分からねえわ。ま、生きてんだからそれでいいや」  店員にクラブサンドを注文して水を一杯。妙な違和感はきれいさっぱり無くなって、いつも通りツラヌイと益体のない話をする。 「あ、そうだ! ほらほら先輩、新しいケータイ。今度は極彩色、熱帯をコンセプトにしてみました。可愛いでしょ、カメレオンみたいで」  凄いな。これと同じ会話、昨日もしなかったかツラヌイ。 「はい、コールしますから番号登録してくださいねー……って、あれ? 先輩、ケータイうちに置きっぱなしですか?」 「? いや、携帯ならあるけど」  ポケットに手を入れる。取り出した携帯電話はオレンジ色だった。 「あ、わたしのケー夕イ! なんで先輩が持ってるんですか!?」 「なんでって、そりゃ拾ったからだろ」  それ以外に理由はない。拾った経緯《いきさつ》は覚えてないんで推測のしようもないし。 「あ。じゃあわたしの留守電聞いて、工場に行ったんですか? ユキオさん、見つかりました? 恥ずかしながら、わたしは怖くなって途中で逃げちゃったんですけど」  また偏頭痛。覚えがないながらも色々と繋がってきた気がするが、追究するのは止めておこう。メモには何も書かれていなかった。ほんの三時間前の自分は、そうあるべきだと判断したのだ。 「あれ? 先輩、なんか辛そうな顔してません?」 「さあな。人間、鏡ないと自分の顔なんて判らないだろ。それよりこの携帯」  返す、と渡しかけて気が変わった。ツラヌイには新しい携帯電話があり、俺はなんでか携帯を無くしている。 「貰っていいか? 俺、携帯なくしたみたいだから」  きょとん、と目を丸くするツラヌイ。  で、脳内でどんな化学反応をしやがったのか、頼を赤くしてテーブルに漢字の書き取りを開始する。課題はのの字。 「いやん、そんなにわたしの個人情報が気になるんですか先輩は。えへへ、でも先輩なら見せてもいいかなー、とか」 「いや、いま初期化したけど」 「うわ早っ! いやです、少しは興味もってくださいぃぃい!」  バンバンとテーブルを叩く。騒がしいことこの上なく、周囲の注目を集めまくりだ。が、こっちもどんな化学反応なのか、今夜は好きにやらせてやろう、なんて気紛れを起こしている。 「じゃ、これ俺のな。請求はまた、後ほど」 「はーい。大事に使ってくださいねー」  無くした物の代わりに、無くした物をポケットに仕舞いこむ。正体の判らない胸の重りが、携帯電話一つ分軽くなった気がした。  ―――今度は長く、出来うる限り無くさないようにしよう。  ゲテモノの方が、所有した時に愛着が湧くのだ。それによく見れば。誰かに見つけて貰える明るい色も、そう悪い趣味じゃない。 [#改ページ] 3/junk the eater. ◇  その日は、珍しく夜からの仕事となった。  カイエの方から連絡があり、調べ事で忙しいから昼間は休み、夜になったら顔を見せろ、と勝手な事をのたまいやがったのだ。いつからおまえの召使《めしつかい》になったんだと反抗心を燃やしたが、どっから見ても石杖所在はあいつの召使なので大人しく顔を出す。 「という訳で、以上が十月十日に起きたフソウユキオの悪魔払い。……ちょっと、聞いてるアリカ?」  なんという暇人か。カイエの用件とは、何日か前の悪魔払いの顛末をトウトウと聞かせる事だった。噂の犬殺しが保護されたと聞いてはいたが、どうも、それを解決したのは俺らしい。  もちろん、身に覚えはまったくない。俺がその悪魔憑きに関して覚えている事と言えば、ツラヌイがしたバカ話と、あいつに見せられたムービーだけである。 「アリカ、覚えてないの? いくらなんでもまるっきり知らない、なんて事はないでしょ。メモとか、携帯電話とかどうしたのさ」 「いや、それが一切無くなってる。記録|媒体《ばいたい》は残らず処分したっぽいね。そんな訳で、どんなにねだられても現場の話は聞かせられない」 「うわ、周到だね。それじゃ話は聞けないか。フソウユキオがどんな悪魔憑きだったのか、どのくらいの食事量だったのか聞きたかったのに。それと、どうして今回も、悪魔憑きを殺さなかったのかって理由もね」  カイエは長い髪を揺らして笑う。―――厭な目だ。色素の薄いあいつの黒目は、俺でさえ知らない深層を見抜《みぬ》いている気がする。 「別に。相手が死んでないって事は、殺すほどの相手じゃなかったって事だろ。悪魔憑きは病人だぜ、ちゃんといたわってあげなくちゃな」 「へえ。あの時の君に、そんな余裕があったんだ。けどアリカ。あの義手は僕の感情で出来ているんだよ? 君があの左腕を動かしたのなら、然《しか》るべき感情が働いたと見るべきだ。君は確かに、フソウユキオに〝憎悪〟を抱いた筈なんだけどな」  迦遼カイエの義手。黒い石膏のような四つの義肢。それが何なのかは、ここまで付き合った俺にも分からない。  ただ、アレらは元々人の感情から成ったモノだという。迦遼カイエという存在を〝人間の形〟にする為に作られた四肢。  俺は左腕を失う事で〝脅威〟を感じる心を無くしてしまった。もとから完全な形だった人体が欠損し、感情を失ったのだ。なら仮に―――仮にだが、生まれつき触覚の無い形として生まれた何者かは、その感情を支払う事で、〝人間の形〟を偽造する事も可能ではないのか。例えば。人間の基本となる四つの感情を切り捨てる事で、それぞれの触覚を形にしたとか――― 「本当に残念だ。今度こそはって思ったのに、アリカはまた人助けをしてるし。あーあ、僕だって空腹なんだけどなー。いっそ暴れちゃおっかなー」  今夜、カイエは両手両足に義肢を付けている。地下室には俺とカイエしかいない。空を泳ぐ魚も、陰に横たわる犬もいない。 「……ふん、勝手に暴れてろ。あと、言っとくけど人助けなんかじゃねえからな。覚えちゃいないが、殺さなかったのは自分の為だ。それ以外に、悪魔憑きを助ける理由なんてない」  もう自分の物ではない過去を推測する。  俺は悪魔憑きに同情した訳ではない筈だ。ただ自分の為に殺さなかっただけだ。ゼロか一かの話なのである。そいつがどれだけの非人間でどれだけどうでもいい相手だったとしても、俺は俺の『良識』を傷つけたくなかったんだろう。  人間、最期《さいご 》までまっとうにいきたかったらなるべく罪の意識は持たない事だ。俺は相手の命を生かす為ではなく、単に自分の安定を守る為に見逃してやったんだろうさ。 「ああ、そっか。フソウユキオに贖罪《しょくざい》させようとしたんじゃなくて、石杖アリカの人生を優先したのか。んー、卑怯《ひきょう》だよねアリカは。そんな可愛いコト言われたら、もう文句言えないじゃんか」  はいはい。野郎の、しかも年下のガキに言われたくない台詞ナンバーワンですよ今の。 「仕方ない、次に期待するとしよう。せっかくマトさんから貰った資料もこれで用済みだ。アリカの中でフソウユキオがなんでもない悪魔憑きなら、これ以上いじめても仕方がないし。アリカ、これマトさんに返しておいて」  はい、と封筒を差し出すカイエ。 「マトさんに? なんで俺が」 「アリカが持ってたものだから。……そっか、それも忘れてるよね、昼間だったんだから。それじゃフソウユキオがどうして悪魔憑きになったのかも覚えてないんだ。拒食症が原因だなんて、同情に値するケースだったのに」 「拒食症……?」  例の犬食いは拒食症が原因で悪魔憑きになった? ……おかしいな。ツラヌイが見せたムービーだと、妙に太ってなかったか? 「あれ? 興味ないんじゃないの?」 「ないけど気になる。ちょっと封筒貸せ」  マトさんが貸してくれたという資料に自を通す。  ……ほんとだ。拒食症が原因と推測されている。しかし、だとすると一日六十キロの食事量って矛盾してないか? 拒食症が悪魔憑きの原因なら、そいつは『食事を摂らなくなる』悪魔憑きになる筈だ。 「カイエ。これ、どういう事だ。拒食症が原因なのに、なんでこんなケースになる」 「なんでって―――あ、そうか。アリカは根本的なところで勘違いしてるんだ。アリカはこう思ってるんでしょ? フソウユキオへの診断は間違いだ。そいつはあきらかに『食べる』事に憑かれた人間だから、原因は過食症であるべきだ、って」 「ああ。食物の異常摂取だ、そうとしか思えないだろ」 「それが違うんだってば。過食症と拒食症。この二つは正反対の病状だけど、同じ心的要因からなるものでね。これはね、アリカ。元々はどちらも、〝太りたくない〟って恐怖心からくる、女性に多く見られる精神病なんだよ」  カイエは語る。それはどちらも、自分の体を感情で制御できなくなってしまう病だと。要は足すか引くかの問題で、拒食も過食も過程を誤ってしまった〝減量〟なのだ。  拒食症は体重の増加―――食べる事自体に恐怖を覚え、胃が食べ物を受け付けなくなってしまう病状だ。  対して、過食症は〝痩《や》せられなかった〟場合の病状。どのように努力しても太ってしまう人間が抱く、食べ物へのストレスが暴走した形と言える。  拒食症の人間が痩せ衰えた白身を見ても何の異常も感じないように、過食症の人間は、太りたくない、太った自分なんて見たくない、死にたい、と思いながらも、そのストレスが食べ物を食べ続けさせる病状だという。  だがこれらの病、自滅に近い精神構造は矛盾でもなんでもない。人間なら誰でも持つ感情。〝醜くなる自分〟への恐怖は、誰であろうと無視する事はできないのだから。 「―――それは分かった。けど、それがどうして真逆になったんだよ。いくら原因が同じでも、とる方法はまったくの別物だろう。フソウユキオは拒食症だった。なら、憑いた悪魔は食べ物そのものを嫌悪するモノにならないか?」 「うん、そこが今回のケースの面白いところ。フソウユキオは長く拒食症だった。なら、長い闘病生活の中で一番強くなっていた感情はなんだと思う?」 「……太りたくないって恐怖じゃないのか?」 「いや、もっとシンプルで生物として根本的なもの。分からない? フソウユキオはもう何年も満足に食べてなかったんだよ? アリカなら何が苦しいと思う?」 「―――空腹。そうか、要するに、こいつは」 「そう、ただお腹が減っていたんだ。その感情に悪魔という病が反応して、〝暴食する〟悪魔憑きを生み出したんだよ」  だから過食症。それ以上食べれば太ると分かっていながらも、空腹に突き動かされたフソウユキオは食べ物を摂り続けるしかない――― 「……待て。じゃあ、犬を食べるってのはなんだよ。空腹とは関係ないだろ、悪食《あくじき》は。腹が減ってるだけなら、普通のメシで済ませてれば良かったんだ。」  まさかまっとうな食い物より、犬だの猫だのの方が美味かった、なんて言うんじゃないだろうな」 「ああ、それ? だから味の問題じゃないんだってば。悪魔憑きの原因は空腹だけど、フソウユキオの目的は別なんだ。言ったでしょ、拒食症も過食症も、その原因は同じだって」  原因は同じ……? さっきカイエが言っていたが、拒食症も過食症も、そもそもの原因は――― 「―――あ。……まさか、冗談だろ? もしかして、ユキオが犬だの人だのを食べていたのは」 「そのまさかだよアリカ。空腹が原因で悪魔憑きになったユキオは、ひたすらにモノを食べ続けるしかない。空腹に支配された拒食症患者。太りたくないユキオにとってそれは地獄だ。その果てに、ユキオは誰もが思う根本的な妄想にとりつかれた。つまり―――止められないなら[#「止められないなら」に傍点]、いくら食べても太らない食材[#「いくら食べても太らない食材」に傍点]を探せばいい」  味なんて関係ない。むしろどんなに不味《まず》かろうが、ユキオにとっては太らないものが最高の食材なのだ。だが太らない食べ物、なんてモノは存在しない。少なくとも、今までのフソウユキオの生活圏には存在しなかった。だから―――今まで食べた事のない未知の食材を、救いを求めるように探し続けた。 「納得いった? けどまあ、最近じゃあ珍しくもないダイエットだよ。カロリーは控えめに、お酒も徹夜も程ほどにね。他人事じゃないよアリカ。人間、誰だって余計な重さは背負いたくないんだ。食事量でコントロールできる体ぐらい、ちゃんと適量にしておかないとね」 ◇  資料を封筒に戻し、はあ、と大きく嘆息《たんそく》する。  ―――正直、あまり気分のいいコトではない。何処の誰かは知らないが、そんな理由でイカレちまうとはな。 「さんきゅ。疑問も解明、オチがついたところで帰るわ」 「え、もう? 来たばっかりじゃないか、もう少しゆっくりしていけばいいのに。あ、なんなら泊まっていく? ここしばらく昼間しか話してないし、たまには記憶に残る話でもしようよ」 「やだよ。ここ酒ないし、暗いし、金もらったし。給料日ぐらい、まっとうな店で騒ぎます」  加えて、そんな気分でもなく、義手が全て揃っているカイエと語り明かすほどの体力もない。 「じゃあな。そんなに悪魔憑きの話をしたいんならマトさんを捕まえろよ。撲滅《ぼくめつ》派同土盛り上がれる。つーか、無力な一般市民である俺を巻き込むな」 「なに言ってんだい、アリカだって似たようなものじゃないか。本当に自覚あるの? 君だって、周りから見れば立派な悪魔憑きだよ」 「む。あの左腕はおまえんだろ、俺はただおまえに唆《そそのか》されて使ってるだけだ。アタッチメントなんだから、別に憑かれてるワケじゃない」 「違う。僕が言っているのは君の体質の事だ。昼間のコトを夕方になったら全部忘れるなんて、可哀想で見ていられない。君は一日ごと、毎日夕方に死んでいるようなものじゃないか」 「あ、そっちのコト。しつこいね、おまえも」  ソファーから起き上がり、封筒を小脇に挟む。  今夜は月が明るい。貯水庫の水は透明度が高いのか、水に揺らぎながらも月光は届いている。  ―――さて。どうでもいい事だが、俺にはどうしようもない悪癖がある。自分で理解していながら改善できないというのは、悪癖と言っても差し支えないだろう。 「あのなあ、なんで可哀想なんだよ。考え様によっちゃ悪くねえ体質だぞ? 昨日のツケを綺麗さっばり忘れられるんだからな」  そう。カイエの言う通り、俺は昼間の事を忘れてしまう。朝から夕方までに起きた事を、その日の夕方に一つ残らず忘れてしまうのだ。夜起きた事は連続して覚えていられるが、日中の出来事だけが夕方になるとリセットされる、一日単位の健忘症。それが石杖所在の現状だ。二年前、悪魔憑きに左腕を食われた事による後遺症。マトさん曰く、実害のない悪魔憑き。  俺の人格形成はとっくに出来ていたのが不幸中の幸いだろう。善悪の判断の出来ない子供じゃなし、昼間の記憶が夕方に失われるぐらい、別にどうって事はない。基本的に昼間は明日にかかるような約束はせず、決定は全て夜に回す、という生活をしていれば何とかなる  だからメモだって最低限の事しか残さない。『特になし』という一言が延々《えんえん》と続く二年分のメモ。いちいち、微《び》に入り細《さい》をうがち一日を記す必要はないのである。昼間の内は何があっても問題などないし。……何があっても、残せるものはないんだから。 「楽に生きたいっていうのが俺の信条なんだ。つまんない事を忘れる体質はあっている。おまえに口出しされる謂われはないよ」  月の明かりに背を向ける。時間も遅い。日付が変わる前に、早く地上に戻らないと。 「なるほど。確かに憂いは薄まるだろうね。記憶がないという事は悩みがないという事だ。でもアリカ? 楽に生きれる事と、人生を楽しめる事は別物だって気付いている?」  鈴《すず》を転がすような声でカイエは告げる。水晶のような目が、喜びを帯び金色に光っている。 「楽に生きる、じゃなくて楽に生きたい、だって? それは信条じゃなくてただの願望だよ。君は自分で演じている程、自分と折り合いをつけていない。そんなんじゃ、いつか本当によくないモノに憑かれるぞ」 「バカ言え、よくないモノにならもう憑かれている。えーと、アレだ。おまえよく言うだろ、本物と偽物の悪魔は何が違うかって。アレな、もっと簡単に見分ける方法があった」 「へえ、どんな?」 「|悪魔憑き《にせもの》は人間に寄生する。けど本物は人間になんて寄生しない。昔から言うだろ。悪魔は人間の魂と引き換えに[#「悪魔は人間の魂と引き換えに」に傍点]現れるってさ。要するに、連中はギブアンドテイクなワケ」  青白い闇に、にやりと笑う気配。あのクソガキ、俺が何を言いたいのか速攻気付きやがった。  俺はあいつの左腕が欲しい。あいつは俺の左腕が欲しい。見ろ。悪魔となんて、とっくの昔に契約している。 「じゃあな。また明日来るわ」 「うん。それじゃまた明日、お昼に」  振り返らず地下室を出る。  地上に出ると周囲は完全な闇だった。海の底の方が明るかったなど、ますます性質が悪い。  森を抜けて田園風景を歩いていく。  星は高く、夜は長い。人間、一日が半分しかなくったってやっていける。今は片腕なんだし、半端な人間にはそれぐらいが丁度いい。  町を目指しながら、オレンジの携帯電話を取り出して適当な知り合いに連絡をとる。 「あー、もしもし? ハローツラヌイ、時間ある?」  さて。金も入ったし、何日かぶりに腹いっぱい食事を摂ろう。 [#地付き]拒食過食/了 [#改ページ] /2.7
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 廃屋を出る。外の空気を吸った事で気が緩んだのか、自然と腰をおろして休憩した。携帯電話を取り出して、もう一度留守番電話を再生する。 『ども、先輩。ミハヤです。―――』  削除。 『さっきユキオさん見かけました。先輩はあんまり』  削除。 『―――なんか苦しそうでほっとけないっつーか』  削除。  そこまで操作して、着歴までイチイチ消さなくてはならないのかと気付き、物凄くバカらしくなった。 「えい」  携帯を壁に叩きつけ、何度も蹴り込む。これでよし。日が沈んでしまえばそれで終わる。が、終わった後になんだかすっきりしない記録が残っているのはよろしくない。もう戻らない思い出なら、他の思い出も無くしておかないと。  と、物凄い勢いで赤い車が工場の門から飛び込んできた。マトさんのボルボだ。すげえな、ホントに一時間かからずカッ飛んできたよあの人。 「所在《しょざい》」  車から走ってくる。一応心配してくれているようで、少し嬉しい。自分がどんなに人でなしで、相手がどんなに冷たい人でも、向けられた心の動きは嬉しいのです。 「ちゃっす。早かったですね」 「遅かったようだがな。ひどい格好だぞ所在《しょざい》。あとなんだ、臭い。酢でも被ったのかおまえは」  実にその通りなのだった。しかし相手はジャンクフードが大好きなマトさん、素直に答えたら頭から食われるやもしれぬので黙っておく。 「―――それで、例の悪魔憑きは?」  何処にいるのか、ではなく生きているのか、という意味だろう。 「三階の倉庫でぶっ倒れてます。ちなみに、マトさんお昼ゴハンたべました?」 「オートミールとリブサンド二つ。なんだ、突然」 「いや、ちょっとした邪悪な疑問。それじゃ俺はこれで。警察来る前に立ち去ります」 「そうだな、それがいい。―――と、待て所在《しょざい》。おまえ、この子に見覚えないか?」  差し出された写真には、十四、五歳ほどの女の子が写っていた。見覚えのありすぎる学生服姿の少女は、枯れ木を思わせるほどスリムだ。 「はあ。これ、誰ですか?」 「今回の悪魔憑きだよ。昼前な、おまえと別れた後に、親元に行って借りてきた」 「え? あれ、女だったの?」 「女の子だ。扶桑雪緒《ふ そうゆきお 》。おまえと同じ高枚だったそうだが、知らないか?」 「いや、まったく」 「そうか。そうだな、そこまで偶然は続かないか.ご苦労さん、帰っていいよ。状況によっては後で話を聞きに行く」  マトさん、どこぞに連絡してから廃屋に突入。  こっちは義手片手に工場を後にする。しかし、そうか。女の子だったんだ、あれ。  深く考えるとよくない結論に達しそうなんで、記憶を鍵をかけて仕舞い込む。七日分のページを破り捨てて、これで綺麗さっぱり痕跡なし。ただ、鼓膜に染み付いた言葉とだけは、うまく折り合いがつけられなかった。  日が落ちるまであと三時間。まだ三時間もあるのか、あと三時間しかないのか。  僅かに交わした会話を思い出す。  俺はあいつと同じ弱者だから、他の奴等より少しだけ理解してやれたかもしれない。  だがそこに陥穽《かんせい》がある。弱者を理解できるのは弱者だけ。だが―――弱者は弱者であるが故に、他人を助ける余裕なんてないのである。俺たちはお互い弱者だからこそ、相手の苦しみを理解しておきながら、手を差し伸べる事はできなかった。 〝―――ダズゲデヨォ、ゼンバァイ〟  悲哀を知れ、と誰かは言った。だが知ったところで、胸に残らないのでは話にならない。本当に気の迷いで、時間の許すかぎりきめ細かく書きとめようと思い立ち、それも無意味なのでかみ殺す。  まあいいさ。どうせ、夜には忘れる事だ。 [#地付き]/JtheE.end [#地付き]講談社刊「ファウスト」2004 SUMMER掲載