■ 遙か彼方の―― / わーにんぐ

 夜、眠っていて、不意に目が覚める。
 寝付きはいつも良い方だと思っていたのに、今夜はなかなか眠れなかった。
 それもこれもこの熱帯夜のせいだろう。
 鼻の頭に触れてみると、しっとりと汗が浮いていた。
 やっぱり、暑い――
 遠野の屋敷に、エアコンは食堂と居間と応接間にしかない。
 それもこれもみんな親父の趣味らしい。夏は気合いで乗り切れとでも言いたいのだろうか?
 まぁ、テレビを否定した親父だ。
 エアコンの類を否定したくなる気持ちも分からなくはない。はっきりと迷惑な話だが。
「ふぅ、なんか目が冴えちゃったな……」
 呟き、ベットから起き上がる。
 今の今まで寝ていたせいか、体が妙に重い。直ぐにでも横になりたい気分だが、少し喉が乾いていた。
 呼んだら、きっと翡翠は飛んでくるのだろうが、やっぱり、それは気が引ける。
「水でも飲みに行くか……」
 俺は立ち上がると、足音を殺して台所へと向かった。
 こんなにコソコソとしなければならないのは、当然、翡翠に見つからない為だ。
 もし、見つかったりしたら、色々と面倒だ。
 別に俺に怒るって事はないんだろうけど……
 私は志貴さまに信頼されていないんですね。
 とかなんとか言って、落ち込みそうな予感がする。
 冷静に見えて喜怒哀楽が激しいからな、翡翠は。
 内心苦笑しつつ、俺は台所へ向かった。
        ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 シャー……キュ。
 コップに水道水を注ぎ、それを一気に口に運ぶ。清涼な爽快感が喉を伝わり、胃へと落ちていく。
「ふぅー、うまい」
 ここの水道水はなかなか美味しい。
 もちろん、水に味があるというわけではない。だがカルキ臭さが全くないところをみると、もしかしたら、蒸留か何かしているのかもしれない。
 やっとのことで一息ついたが、今度は逆に眠気が失せてしまった。
 じっとりと湿った夜気は、今が夏であることを如実に語っていた。
 太陽が地平線の下へと半日の別れを告げても、彼の残す残滓は、生物の体内に似た不快なぬめりを作り出している。
 他のみんなが、この夜を文句もなく過ごしているというのに、自分だけが不平不満を漏らすわけにもいかない。
 が――
「やっぱり暑い……」
 かなり根性のないことを呟いてみる。
 寝る前にせめてどこかで涼んでいこう。
 じゃないと、とてもではないが眠れそうにもない。
 俺はどこに行くかと多少思案してから、中庭に向かって歩き始めた。
        ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 外に出ると、銀月が眩しいほどに輝いていた。
 冴え凍る円やかな月に向かって、風が舞っている。
 月には決して地上の大気は届かないのに、それでも必死で、彼らは飛んでいた。
 高く夜空へ、遠く天空へ、遙かなる星空(かなた)へ。
 虚(そら)に命を吹き込むために、風は夜に凪ぐ。
 俺が神秘的な――或いはありふれた――風月に見とれていると、
「志貴さん……?」
 透き通る声音が、静思夜(せいしや)の中で、鈴の音のように響いた。
「あれ? 琥珀さん?」
「はい」
 昼間とまったく同じ出で立ちをして、琥珀は中庭に幽霊のように立っていた。
 なんだかつかみ所のないそのその様は、儚い幻想のように儚い。
 夏に幽霊か。
 定番過ぎて、笑いすら取れない。
 彼女はフラフラとこちらに歩いてくると、五歩ほど手前で立ち止まった。
「志貴さんも寝付けないんですか?」
「あ、はい、そんなところです。琥珀さんも?」
「ええ」
 琥珀さんは嬉しそうに顔を綻ばせると、首を傾げて訊ねてくる。
「もう、お部屋にお戻りになりますか?」
「いや、まだ来たばっかりなんで、もうちょっと居ようかと思ってますけど……」
「そうですか。私ももう少しここにいるつもりだったんです。良かったら、ご一緒いただけますか?」
「ええ、良いですよ。琥珀さんとなら喜んで」
「あは、ありがとうございます。それじゃ、そこにお掛けてくださいな」
 彼女はいそいそとイスをこちらに進めてきた。
「あ、はい、それじゃ失礼して……」
 俺たちは向かい合って座ると、なんとなくそのまま黙ってしまった。
 決して、話す話題が無かったわけではない。
 秋葉の事、翡翠のこと、自分の事、琥珀さんの事、生活の事、学校の事、友達の事、話そうと思えば、いくらでも話は出てくる。
 けれど、今この場で、そんな他愛のない話をするのは躊躇(ためら)われた。
 酷く場違いな気がしたからだろうか。
 俺たちはそのまま沈黙を守った。
「……」
 守り続けた。
「……」
 頑なに沈黙を守り続けたので、俺には、もっと何か別のものを守っているうにすら思えてきた。
 例えば、この夜の静閑さだとか、或いは単に場の雰囲気であるとか、もしかしたら、俺と琥珀さんの微妙な関係だとか。
 そういったものを口を閉ざすという行為――何もしなくてもそれは行為だろう――は守っていたのかもしれない。
 そのまま時間だけが、しずしずと流れる。
 南からの風が三度目ほど俺の頬から熱気を奪った。
 その後、琥珀さんはそれが約束事であるかのように、禁を破った。
「志貴さんは、ホントの自分って何だと思いますか?」
 半ば唐突なその質問は、少なからず遠野志貴の心を揺れ動かした。
「志貴さんは、私の事を知ってますよね。色々と」
「……はい」
 本当の自分。
 それは彼女が捜して、やまないものに違いない。
 彼女の幼少時代がどんなものであるか、俺は知っている。
 琥珀さんは少女時代を遠野槙久に陵辱され続けて過ごした。それは秋葉がその事に気づくまで延々と続いていたという。
 ずっと踏みつけにされて、琥珀さんは生きていた。
 そのせいで彼女は見失ってしまった。
 本当の自分というものを。
 もっとも根本的な、生きる為に必要な、要素。
 それを琥珀は完全に見失ってしまっている。
 それは悲劇というには滑稽すぎて、喜劇というには残酷すぎる。
 それがどんなに辛いものであるのか、未だに俺はその万分の一も分からない。
 どんなに分かろうとしても、結局それは上辺だけで、本質的な痛みは琥珀さん自身にしか分からない。
 ――もう立ち直ったと思っていたのに。
 この前の事件で、彼女は吹っ切ったのだと思っていた。
 けれど、それは俺の希望的観測だったのかも知れない。
 普段ならこんな話題には絶対に触れないのだが、今日に限って、琥珀はあっさりと切り出してきた。
「私、今はもう遠野の家に復讐をしようとか、自分自身が人形だとか……そんな事は考えてません。
 これもみんな志貴さんや、翡翠ちゃんや、秋葉さまのお陰だと思ってます」
「うん」
「みんなが私を必要としてくれていて、今、多分、私は幸せなんだと思います」
 多分……煮え切らない言い方だ。
「けれど、私には実感がないんです。私は幸せであったことがないから――」
「そんなことは……」
 無いはずだ。きっとないと思う。ないと断言してやりたい。
 けれど、琥珀の危うい双眸を見ていると、そんな無責任な言葉を投げかけることが出来ない。
「もしかしたら、私も、覚えていないくらい前に、あっのかもしれません。私が純粋に幸せだと感じていた時間も、存在していたんだのかもしれない。
 けれど、それがあんまり昔のこと過ぎて、心の奥底にしまいすぎて、今の自分と重ねることが出来ないんです。
 だから、思うんです。
 ここにいる私は、やっぱりまだ本当の自分じゃないんじゃないかって……」
「……」
「普通の人だったら、幸せだと思えるような生活をしているのに、それを実感できない……。
 その感覚が麻痺してしまっているのは、やっぱり私はまだ演技をしていて、本当の自分が心の底で眠っているからなんじゃないかって……そんな事を最近考えるようになりました」
 琥珀は迷子の子供のように怯えた目でこちらを見てくる。
「私、少し不安なんですよ。馬鹿みたいですね。幸せなはずなのに、心の底から幸せだと思えない自分が、本当の自分なんじゃないかって、そんなことを考えているんです」
 少し前に比べて、琥珀は変わったと思う。
 それは前よりももっと人間らしくなったとか、少し砕けてきたような、そんな感触だ。
 琥珀さんは人形じゃない。
 ――けど、その時間が長すぎて、人間の心が上手く表に出てこない。
 だとしたら、自分に何が言えるのだろう。
 どんな言葉をかけてやれるのだろう。
 彼女の痛みも苦悩もしらない自分が、琥珀さんに対して、どんな言葉を投げかけることが出来るのか。
 できやしない。
 できるはずがない。
 自分と琥珀は別人なのだ。だから、分からないはずの痛みを分かったように言う権利なんてありはしない。そんなもの何の救いにもなりはしない。
 けど、言ってやりたい。
 分からないとか、相談に乗れないとか、突き放すような事じゃなくて、少しでも彼女が楽になれるような、そんな言葉をかけてやりたい。
「琥珀さん……俺は――」
 言う言葉も見つからないまま、それでも沈黙であることに耐えられなくなり、俺は口を開く。
 と――
「琥珀!」
 屋敷の方から、甲高い声が響いてきた。
 声の主は――秋葉である。
 秋葉は大股でこちらに近づいてくる。
「どうしたんですか? 秋葉さま? そんな怖い顔して……眉がVの字になっちゃってますよ」
「こんなところで、二人きりで何をしているの?」
 秋葉の目がすうっと疑わしげに細められた。
「はい、少し寝苦しくて眠れなかったので、一緒に涼んでいたんです」
「それは……部屋にエアコンでも付けろっていう催促のつもり?」
 な、なんだかいきなり空気が重い。
「いいえ、そんな事はありませんよ。私は、もうずっとこの屋敷にいますから、全然慣れちゃってます。でも、志貴さんにはちょっと辛いかな……とは思いましたけど」
「兄さんは遠野の長男です。このくらいの事で、いちいち甘やかすわけにはいきません」
「はい、そうですね」
 ニッコリと琥珀さんは微笑んだ。
 す、凄い。
 秋葉の眼光を真正面から受け流している。
 これも、秋葉と付き合いが長い琥珀さんだから出来る芸当か。
「とにかく、もう部屋に戻りなさい。琥珀」
「分かりました。部屋に戻ります」
 琥珀さんは言われるがままに、立ち上がると、こちらに向けて、ぺこりと頭を下げてきた。
「それじゃ志貴さん。おやすみなさい」
 先程の危うげな雰囲気など無かったかのように、琥珀さんは笑顔をこちらに向けてくる。
「う、うん、お休み……」
 曖昧に返事すると、あからさまに厳しい目で、秋葉が俺の顔を凝視――いや、睨んできた。
「兄さんも、十時以降はお部屋を出られないようにしてください」
「う……」
 次に見つけたら、ただじゃおきません。
 秋葉は目でそううったいかけて来ていた。
 言いたいことは色々あったが、そんな言葉、自殺志願者でもない限り言えそうにない。
「いや、うん、わかった。ちゃんと寝るから……」
 俺はお休みと告げると、自分の部屋に逃げるように駆け上がった。
      ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ホントの自分か……」
 感傷に浸るように、その言葉を繰り返した。
「なんだなんだ? 遠野。折角の昼休みだってのに、なに黄昏てんだ?」
「なんだ、有彦か……」
 いつの間にか、昼休みになっていたらしい。四時間目の記憶が全くないところを見ると、相当ぐっすり眠っていたらしい。
 昨日の夜はベットには入ったのだが、琥珀さんのあの言葉が気になって、良く眠れなかった。
 それで授業中に眠れるのだから、俺もかなり現金なのかも知れない。
「まったく、最近、いっつもブルー入ってないか? 悩み多き年頃だと思うがよ。お前はちょっとやりすぎだな」
「なんだよ、それは」
 俺は不機嫌そうに口を尖らせる。
「んで、今回は、何? また花林糖(かりんとう)でも拾い食いしたのか?」
「冗談でも、またとか言わないでくれ」
「言って置くがな。拾い食いって言うのは、自分が食ってものを落として、それを拾って食うんじゃないぞ。マジで何の脈略もなく落ちてるのを、容赦なく食うことを言うんだ」
「誰もそんな事聞いていないよ」
「あはは、まぁそうか。それで実際なに?」
 好奇心を丸出しにして、有彦は顔を寄せてきた。
 どうせ、この男に言っても、笑い飛ばすだけだとは思うけど……
「笑わないか?」
「何を言うのだ、大親友。お前の言うことを笑うわけがないじゃないか」
「やっぱり、絶対に馬鹿にしそうだからいいや」
 ぷいと顔を背ける。
「ぅおぃ!」
 有彦はピシっと、突っ込みを入れてきた。
「一回言いかけた事を、止めるんじゃない!」
「はぁ……」
 仕方ない。まぁ、一人で考えていても答えの糸口すら見えそうにないし、話してみるのも良いかも知れない。
 不承不承ながら、俺は口を開いた。
「有彦は、本当の自分て何だと思う?」
「……」
 問いかけた瞬間、有彦は眉を寄せ、諦めをあらわにした深い吐息をつく。
「だから、あれほど拾い食いはするなって言ったのに……」
「だから、してないって!」
「しかしなぁ、んな新興宗教よろしくな事聞かれてもなぁ、アホかお前はと馬鹿にするくらしか他に選択肢がないぞ」
「そうなんだけどさ……はぁ、もう良いよ」
 やっぱり、話すんじゃなかった。
 深い悔恨の念が、沸き上がってくる。
 かぶりを振って、嘆息したその時――
「もう、乾くん、駄目ですよ。ちゃんと相談に乗ってあげないと」
『うわぁぁ!』
 俺と有彦は二人声をハモらせて、飛び上がった。
「あ、二人とも今日も息が合ってますね」
 ポンと胸の前で、直ぐ背後に迫っていたシエル先輩は手を合わせた。
「せ、先輩、気配を殺して後ろに立たないでくださいよ。心臓に悪いですよ」
「いえ、なんだか、お二人が深刻な話をしているようでしたので」
「いや、気にしないでください、先輩。ささ、このお馬鹿の事は良いですから、こちらにお座り下さい」
 いち早く気を取り直した有彦は、妙に白々しく、先輩にイスを勧めた。
 まったく、調子の良いヤツだ。
 先輩はちょこんと俺の隣のイスに腰を下ろすと、パンの袋を取り出した。
 どうやら、昼食を此処で取りに来たらしい。
 彼女はカレーパンを口にふくむと、俺に向けて訊ねてきた。
「それで、何のお話をしていたんですか? あまり聞き取れなかったんですけど」
「いやぁ、それがですね。遠野が本当の自分て何だと思うなんて、事を聞いてきたんですよ。まったく、今時珍しいほど危ないヤツですよね。先輩」
 有彦は今までのまでの恨み(?)を晴らすように、実に楽しげに先輩に向けて、そんなことを告げた。
「へー、本当の自分ですか。遠野くんもそんな事に興味を持つ年頃になったんですか」
「はぁ、まぁ、それなりに……」
 曖昧に答えておく。
「私も実は結構そういうのに、興味有った時期がありました」
「そうなんですか?」
「はい、それなりには」
 ちょっと意外だ。
 いや、よくよく考えてみれば、先輩は教会の人なのだから、その手の人生相談はお手のモノなのかも知れない。
 埋葬機関とやらで、人の道を説いているとはとても思えないけど。
「そうなんっすか。奇遇ですね先輩。実は僕も自分の探求は大切だと、切に思っていたところなんすよー」
 などと戯れ言を有彦は言う。
 さっきまではっきりと馬鹿にしてたくせに……
 まったくもって調子の良いヤツ。
 まぁ、有彦は放っておこう、今は先輩だ。
「あの、それで先輩は本当の自分手なんだと思いますか?」
「遠野くんは何だと思うんですか?」
 先輩は質問を質問で返してきた。
 本当の自分……
 その姿を自分の中に、思い浮かべてみる。
 だが、形のない己の姿は空想の中で霧散するだけだった。
「さぁ、わかりません……」
 かぶりをふって答える。
 すると、横から割り込むような形で、有彦が入ってきた。
「遠野ぉ、んなこともわからんのか? ホントの自分なんて、嘘ついてない自然な自分に決まってるじゃねーか」
 あくまで短絡的な解答を、有彦は口にした。
「ふふ、そうですね。乾くんの言うとおりですよ。
 偽りのない、自分――
 嘘をつかない自分こそが、それが本当の自分と言えるのかも知れません」
「やっぱり、そうですよね」
 やったぜ! っと有彦は拳を握りしめ、ガッツポーズを作った。
「でも、嘘をつかない人なんて、いません」
 先輩は、少しだけ神妙な表情になって続ける。
「生きていく上では、最低限の嘘は必要ですし、全てからさらけ出して、生きていくことなんてできません。
 思った事を全て口に出してしまうような人は、自分が好きな生き方をするために、他人が傷つくことを厭わない人です。そんなのただの我が儘な子供と変わりません」
 その言葉を聞いて、有彦は難しそうな顔で唸り声を上げた。
 先輩の話が難しいのではなく、限りなく彼は自分の思ったことは口に出すタイプだからだ。
「嘘は必要なものです。ええ、美徳だと言っても良いくらいです。
 嘘は何かを守るためにあるんです。はっきりしてしまえば傷つくしかないような事でも、柔らかく暖かいものに変えてしまう。自分を守るために、あるいは他人を守るために、人は嘘をつくんです」
「だけど、嘘がばれたら嘘をつかれていた人も、ついていた方も傷つくんじゃないかな?」
 俺はふと疑問に思って訊ねてみる。
 先輩の話を聞いても、俺には嘘を付くことはあまり良いことだとは思えないからだ。
「人を傷つけるのは嘘じゃなくて、嘘を見破ってしまった時に感じる、その人の本質です。
 それが人を傷つけるんです。
 抜き身の刀と同じですよ。本質という名の鋼だけでは危ないから、嘘をいう鞘に入れる。人と付き合っていくって言うのは、結局そう言うことですよ」
「“人付き合い”は“嘘付き合い”って事ですか?」
「悪く言えば、そうなりますね。まぁ、相手の為に自分の感情を殺すってって言い方もあります。それは優しさ以外の何でもないと私は思いますけど」
「つまり、本当の自分でいたければ、一人でいるしかないって事ですか?」
「それは、なおさら意味がありませんよ。自分とは、他人との関係の中で確立されるものです。
 他人という自分とは違う存在があることで、自分を見つけていくんです。
 触れあう事で相手を理解し、それを通して自分を理解する。
 逆に他人がいなくなってしまったら、その時こそ本当に自分が不必要になるときです。
 倫理も、理性も、罪も、生きていくことの意味も、何もかも――
 有っても無くても同じになってしまいますから」
 先輩の話はかなり哲学めいていて、分かりにくい所がたまにある。漠然としか、彼女が言いたいことは分からなかった。
「結論として、先輩は本当の自分とは、いったいなんだと思うんですか?」
「幻です。そこにあると錯覚しているだけです。
 自分を求める行為は、それ自体が無意味です。何故なら、自分なんて存在は、結局あやふやなものだからです。
 それを形にしようなんて、意味無いですね。
 グラデーションする灰色を捕まえて、白と黒に線引きするのと同じで、ナンセンスも良いところです」
 先輩はひょいと肩をすくめた。
「本当の自分があると思いこみ、自己を単純化してしまう事。今の自分自身を完全に無視して、本質的な自我を無理矢理決めつけてしまう行為は、己という可能性が広がるのを、押さえる考え方です」
 丁度その時、昼休みを終えるチャイムが鳴り響いた。
 その雑音に紛れ込むように、先輩はこの話をこんなこんな一言で締めくくった。
「――本当の自分なんて、ただの幻想に過ぎないんですよ。せいぜいが、コギト・エルゴ・スム……その程度の事なんです」
       ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 その日は、なんだか考え込むことが多くて、何も手につかなかった。
 シエル先輩の言っていたことは、俺にとって納得できるだけの説得力を持っていた。
 自分。あやふやな自分。
 そんなものに定義を持つことなど出来ない。だから、定義付けする事自体が無意味である。
 理解できる。
 けれど、それはやっぱり、先輩の言葉で、それで琥珀さんの助けにはならないような気がする。
 あなたの考えていることは無意味だから、考えるのは止めなさい。
 それは正しい事だけど、正しいからといって、感情が納得できるとは思えない。
 人間なんてそんなものだ。
 つまり、俺が俺自身で答えを出してあげるしかないって事か……
 なんだか変な気分だった。
 言ってみれば自分とは関係のない事だ、それなのに、我が事のように、真剣になってる。
 昔っからこうだったような気がする。
 なんでだろ……
 なんで……
 ゆっくりと首を上に上げる。
 夕暮れ時の空は、今日の俺には黄金に輝いているように見えた。
 雲に反射する細かな光が、黄土のように天空を埋め尽くしている。
 夕方が必ず赤いなんて嘘だ。
 その色がどう見えるかなんて、人それぞれ感覚の差だってある。
 絶対の真理なんて存在しない。
 黄金の夕暮れ。
 昔どこかでみたような、遙かな空――
 不意に、有る光景が脳裏を過ぎった。
 湧き出るように、俺の記憶の引き出しから出てきた思い出の一ページ。
「……夕日が黄金に輝いて見えるのは、変なのかな」
 あぁ、そうか、そうだった。
 思い出した。前にそんな事を考えていた事があった。
 だからか……
 だから、ああして、悩んでいる琥珀さんを見て、本気で心配になったんだ。
      ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 夕食はいつものように、恙なく行われた。
 琥珀さんの料理は美味しいし、秋葉と一緒にする食事をするのは好きだ。
 ――この静かな雰囲気にだけは慣れないけど。
 せめて琥珀さんと翡翠に後ろに控えられているのはどうにかならないだろうか。
 かなりのプレッシャーだ。
「どうしたんですか、兄さん? 食事中ずっと浮かない顔していましたけど、お食事お口に会いませんでしたか?」
 夕食が済んだ後、秋葉が難しい顔で訊ねてきた。
 俺はゆっくりと頭を振る。
「そんなことないよ、琥珀さんのお料理は美味しかったよ」
「その割には心此処にあらずって感じでしたけど?」
「いや、何でもないよ。それじゃ、俺部屋に戻るから――あ、そうだ。琥珀さん」
 食器を片づけに入っていた琥珀さんに声をかける。
「はい。ご用ですか? 志貴さん」
「あの、後で話があるんだけど、ちょっと良いかな?」
「え、はい、私は構いませんよ。けど……」
 琥珀の視線が、むすっと不機嫌な顔になっている秋葉の方に行き着いた。
「別に構わないわよ。私の許可なんか得なくても、用があるなら、お二人でどうぞ」
 敵意丸出しで、秋葉は言い放った。
 しまった……。秋葉がいないところで、誘うべきだったか。
 どうも、秋葉は琥珀と俺が二人きりになると、妙に不機嫌になるのだ。
 秋葉のあれは一種の焼き餅みたいなものだし、可愛いといえば非常に可愛いんだけど。
「そうですか、片付けが終わったら、志貴さんのお部屋の方に行きますね」
 その途端、秋葉の眉がピクリと跳ね上がった。
 こ、琥珀さん。部屋に行くなんて、わざわざ秋葉を挑発するようなような事言わなくても……
「そうですね。三十分ほどしたら伺いますから、それまでお風呂にでも入っていて下さいな」
「な……」
 流石に彼女の物言いに、絶句してしまう。
 秋葉ははっきりと敵意と分かる視線の刃を、琥珀さんへ突き刺した。
「それでは、私は片付けがありますから」
 さらりと一礼すると、琥珀は台所の方に歩いていった。
 ――なんだか、今、凄い女の修羅場を見たような気がする。
 アルクエイドと先輩のように、直接罵り会わないが故に、余計にこの水面下の攻防はそら恐ろしい。
「兄さん! 琥珀に何の用なんですか?」
 秋葉はギロリと妖しく輝く瞳をこちらに向けてきた。
「い、いや、ちょっと昨日の夜の続きで……」
「昨日の続き?」
 秋葉は底冷えする声で呻くと、ゆっくりと立ち上がった。
 そう言えば、秋葉には昨日琥珀さんと一緒にいるところを見られているんだった。
 彼女がどんな誤解をしているのか、悲しいまでに分かってしまう。
「ちょ、ちょっと待て! 秋葉、変な誤解をするなよ」
「いいえ、変な誤解なんかしてません。別に、兄さんと夜中に琥珀が逢い引きしていようと何していようと、知った事じゃありません。ええ、知りたくもない」
 秋葉は心底悔しそうに、下唇を噛んだ。
「だから、そうじゃないって……」
「……私、部屋に戻ります」
「誤解するなよ、秋葉!」
 俺は、追いすがろうと手を伸ばした。
「ついてこないで!」
 女の細腕から出されたものとは思えない超人的な膂力で、秋葉は目の前にあった巨大なテーブルを持ち上げた。
「な……」
 避けようと思う間もなく――
 俺はそのテーブルを顔面で受け止めた。
         ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 ズキン、ズキンと鼻の頭が痛む。
 微睡みから抜け出そうとするたびに、痛みは加速し、さらに意識にかかった白い霧をうち払っていく。
「目が覚めましたか? 志貴さん?」
 直ぐ傍で声が聞こえて、遠野志貴は慌てて目を開けた。
「琥珀、さん?」
 ベットの横のイスに琥珀さんが腰掛けていた。
 手には団扇。その手がゆっくりと左右に動いている。
「ずっと、看病してくれてたんですか?」
「いいえ、さっき翡翠ちゃんと交代したんです。志貴さんも秋葉さまを怒らせるような事をするからですよー。気を付けないと、体がいくつあっても足りませんよ」
「……」
 彼女は笑顔でこの人はこんな事を言ってくる。
 自分からけしかけた癖に……
 けど、怒る気にもなれないのだから、始末に悪い。
 なんだかやるせなくなって、肩から力が抜けてくる。
 枕に頭を埋めたのに、今日は昨日とは違って随分涼しかった。やさしくさざ波のような風が頬を撫でる。
 隣で琥珀さんが団扇で扇いでくれているせいか、驚くほど心地が良い。
 エアコンもない、扇風機もない部屋にいる遠野志貴に対する、小さな気遣い。
 なんだか、とても嬉しかった。
 琥珀さん本人が自覚しているかどうかは知らないが、そんな小さな事に気を使えることろが、彼女の一番の魅力ではないかと思える。
 計算しているわけじゃない、こんなちょっとした所に、彼女のやさしさが見え隠れする。
 やっぱり琥珀さんはいい人だと、漠然と思った。
「それで、何なんですか? お話って?」
「あぁ、そうだ。昨日の答え。ほら琥珀さん聞いただろ、本当の自分って何だろうって、アレのこと」
「え?」
 その途端、琥珀さんは鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった。
「そんなこと、覚えていたんですか? あれは何て言うか、私もちょっとポロッと出ちゃったって言うか、愚痴みたいなものですし、気にしなくても良いですよ」
「そんなこと言われても、こっちは結構気になってたんだから。
 琥珀さん真剣みたいだったし、なんだか、壊れてしまいそうで、だから力になってあげたかったんだ」
「……」
 琥珀さんは顔を伏せ、前髪で目元を隠すようにした。
 その様子に何か悪いことでも言ったのだろうかと、心配になり始めた頃、
「志貴さんは、ずるいですね」
「え?」
 今度はこっちがビックリする番だ。
「そんな私の戯言みたいな事でも、ちゃんと覚えていて、本気になってくれる。
 人の弱いところを、平気な顔してポンポン突いてくるんですもの。そんなの反則です。
 勘違いしちゃいそうです」
 そのまま俺たちは、黙り込んでしまった。
 沈黙は昨日と同じだった。
 気まずいような、それでいて心地が良いような、微妙な空気。
 今日、最初に相手に踏み込んだのは――
 俺だった。
「退屈かも知れませんけど、ちょっと昔話してみて良いですか?」
「志貴さんのですか?」
「はい」
 琥珀さんは落としていた視線を、こちらの方に向けてきた。
 穏やかな、とても穏やかな声で彼女は返してきた。
「……はい、ではお願いします」
 俺は一拍の間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。
「琥珀さんは、俺の目の事知ってますよね。死を見ることが出きる眼。知り合い曰わく直死の魔眼って言うらしいです。
 俺がこんな眼になって、ここを追い出されて、有間の家に預けられた。
 俺自身、色々な事があって、生活の変化ってのについていけなかったんですけど、有間の家の人は凄くいい人たちでした。
 俺にも普通に接してくれて、やさしくしてくれて、本当の家族みたいでした」
 今思っても、あの場所で過ごした時間は、俺にとっては幸せな記憶だ。
 そう思う。
「けど、俺の方は、なんだかギクシャクして上手くいきませんでした」
「どうしてですか?」
「感情を上手く相手に伝えることが出来なかったからです」
「志貴さんが……ですか?」
「そうですよ。だって、そうじゃないですか。俺はその時、直死の魔眼っていう、武器を持っていたんですよ。
 自分の中で堅く使わないと決めていたけど、それでも既に持ってしまっていて、手放せないんです。
 拳銃とかとは訳が違います。危険だと思ったら、例えば机の引き出しにでも放り込んで鍵をかけてしまえば良いです。けれど、俺の目は毎日のように付いて歩いている。
 もし、突発的な感情で使ってしまったらどうしようとか思ったんです」
「志貴さんは、そんなことをする人じゃないと思います」
「でも、人は一生に何度かは殺してやりたいくらい人を憎む事ってありますよ。
 遊びに連れに行ってくれるって言っていた父親が約束を反故にしたとき。母親が悪さをしたこちらを叱ったとき。
 後になってみれば、大したことでもないのに、その瞬間の憎悪は実は大人の憎悪よりも遙かに強いんじゃないかと思います。
 とても短絡的で、後先考えない行動に出てしまうことだってあるかもれない」
 その事はとても恐ろしい。
「その時に手の中に武器があるかないかで、人の一生って左右されちゃうと思うんです。
 憎いと思っても、大抵の人はそれを形にする手段がない。けれど俺にはある。あってしまう。
 剥がれて欲しくても、力は存在してしまうんです」
 俺は琥珀さんの目を見ながら続けた。
「だから、俺は有間の家で、心から馴染むことが出来なかった。言いたいことを全て言い合える関係は、それこそ真剣で斬りつけあうようなものなんです。
 自分では使わないつもりでも、俺が衝動的に人を憎んだとき、眼を使わないなんて保証はない」
 或いはもてる力の全てを使って、相手を憎めることも、心を許すと言えるのかも知れない。
 俺は苦笑を浮かべる。
「だから、俺はなるべく怒らないようと思ってました。他人には優しくして、なるべくなら信じよう。例え裏切られても、それでも安易に怒ってはいけない。
 他人を死なせたら後悔するから、だから、どんなことでも許せる人にならないといけない。
 ――そんな事をずっと考えてました」
 それは自分の感情を殺す行為だったのではないだろうか。
 他人を守るために、自分自身を守るために、嘘をつく。
 本来の自分とは違う自分で生きていく。
 それは多かれ少なかれ、誰もがしている行為だ。
「どっかで、もっとのびのびと羽根を伸ばしたい。もっと自分らしく生きたい。そんな事も考えてました。自分の思うことをして、思い切り怒られて、自分も思いきり怒って、そして、傷つけあいながら、ちょっとづつ絆を深めていくような、そんな事がずっとしたかった」
 本当の自分が心の奥底にいて、自分を表現したいと、絶叫している。
 そんな感覚に囚われた事もあった。
「本気で怒れなかった俺は、本当の自分の感情を必死で殺していたんです。自分自身のために」
「志貴さんは……」
 今まで黙って聞いていた琥珀さんが声を上げた。
「志貴さんは、そこからどうやって立ち直ったんですか?」
 眩しいものを見るように、彼女は眼を細めた。
 俺の答えに、琥珀さん自身の答えがあるのかもしれないと、思っているのかも知れない。
 俺はゆっくり、首を振った。
「――俺は、少しも立ち直ってなんかいませんよ」
「え?」
 その答えが意外だったのか、琥珀さんは目をパチクリさせた。
「それは一生付きまとうから、立ち直れないんです。多分ずっと……ね」
「でも、志貴さん、生き生きしていて、とっても楽しいそうじゃないですか。
 それは志貴さんが、本当の自分を見つけて、それで、だから、志貴さんは……今が幸せなんじゃないんですか?」
「本当の自分になったから幸せになれるなんて、安直な事はありませんよ。琥珀さん。
 むしろ本当の自分であった方がきっと辛いに違いないんです。
 人は最初から矛盾した生き物だから、その矛盾のままに生きていくのは、多分、一番辛い生き方なんだと思います」
 不意に、今日先輩と話した最後の言葉が思い出された。
 あの時は全く意味が分からなかったので、帰りがけに図書館に行ってわざわざ調べてきた。
 コギト・エルゴ・スム
 cogito, ergo sum。
 和訳は『我思う、故に我は有り』
 デカルトの言葉だ。
「本当の自分なんて大した事じゃないかな。思い悩む心こそが、自分自身なんだって。
 琥珀さんは、もう人形じゃない。ちゃんと考えて、それで悩んでいるじゃないですか」
 悩まないのが人形なら、悩むのは人間だ。
 悩む心が人の心を形作っていく。
「自分っていう存在は、自分の心の中から本当のものを捜して、見つけるモノじゃない。
 自分で望み作り出していくものだと、俺は思ってます」
「望み……作り出す……」
「琥珀さんもなりたい自分があるんじゃないですか? それになっていくんです。今は実感がなくても、実感が沸くまで、それが本当の自分だと思えるようになるまで、ずっと努力していくしかないんです。
 こんな所には終点や、安易な幸せは転がってないから、迷って、捜して、傷ついて、必死で進んでいくしかないんです。
 一生かかっても出来ないかも知れないけれど、それをし続けるしかないんですよ。俺たちは」
「全ては道の過程……ということですか?」
 小声で消え入るように琥珀さんは声を出してきた。
「ええ」
 今はまだ道の途中――
 辿り着かなければならない場所は遙か彼方。
 ずっと立ち止まっていた少女は、立ち止まっている時間が長すぎて、自分のことを動かない人形だと勘違いしてしまったけれど。
 今ではゆっくり歩き出している。
 永く動かなかったために堅くなった体では、上手く進めないかも知れないけど、目標が遠すぎて、実感がないかもしれないけど。
 彼女は既に進み始めた。
 結局の所。
 俺が彼女の為に出来る事はもう何もなくて、けれど言わなければならない台詞は、たった一つだけあった。
 俺はゆっくりと、その言葉を告げた。
「だからもう――
    琥珀さんは大丈夫です」
 それはいつかの、大きなトランクを持った先生が、俺が相談を持ちかけたときに、言ってくれた言葉だったような気がする。
 俺が子供の時、俺の下らない悩みを、あっさりと解決してくれた一言。
 夕日が黄金色に見えると言ったとき、あの人が断言してくれた。
「君が黄金色に見えたのなら、夕日は黄金色なのよ。それも一つの可能性なんだからね。
 それを自分が感じたのなら、それを信じればいいわ。
 無理矢理相手に押しつけたりしなければ、君の感性は素晴らしいもの。
 心配することはないわ。
 大丈夫、君は間違ってない」
 今でもそれは相当、安直な言葉をだと思う。
 けれど、そんな陳腐な言葉を、誰かに断言して欲しい時がある。
 大丈夫だよって言ってくれたら、本当にそうなんじゃないかって思えてくる。
 悩みなんて直ぐに吹き飛んでしまう。
 そんな言葉をかけてやるだけで良かった。
 それだけで、人はきっと生きていける。それを俺は知っていた。
 だから、俺が教えれることは、これだけなのだ。
 琥珀さんは、俯いていた顔をそっと上げると、
「はい、ありがとうございます。志貴さん……」
 はにかんだように笑みを浮かべた。
 人形なんかじゃない、演技なんかじゃない、ましてや錯覚でもない、それは琥珀さんの本当の笑みだったと、俺は思った。
 幻想なんかじゃないと、俺は、信じたい。
       ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 静かに、今日も朝が訪れていた。
 驚くほど寝心地がよい。
 寝苦しかった今年の夏が嘘のように、さやわやか。
 もっともっと眠っていたい。
 この時間を続けていたい。
 だけど、本当に気持ちがいい。
 このそよ風のお陰だな。
「へ?」
 と、俺は不信に思って目を開けた。
 こんな風、今までは無かったはずなのに。
「お目覚めですか? 志貴さん?」
 昨日と全く同じ位置で、琥珀さんは微笑んでいた。
 風の正体はやはり、と言うべきか、彼女の手に持たれた団扇が原因だった。
 繰り返し、繰り返し、左右に往復していく。
 ある想像が頭の中に浮かんで、訊ねる。
「あの、もしかして、一晩中扇いでいてくれたんですか?」
「違いますよー。それだと流石に腕が疲れちゃいます。志貴さんが暑そうにしてるときだけ、扇いでいただけです」
「って、徹夜でですか!」
「別に徹夜の一日や二日慣れてますよ。こう見えても丈夫なんです」
「丈夫って……そんなの……」
 理由にならない。
「昨日、志貴さんがなりたい自分になれって言ったから、だから、とりあえずやってみたいことやってみたんです」
「……」
「ご迷惑でした?」
 なんて、いじらしいんだろう。
 そんな切なげな瞳で見られたら、迷惑だなんて気持ちは欠片も沸いてこなかった。
「ううん、そんなことない。とっても嬉しかった」
「それじゃ、あと、そのもう一つ、あるんです」
「え、何が?」
「やりたいことです」
「うん」
「ギュって抱きしめてくれますか?」
「え?」
「私を放さないくらい、思いっきり」
 その言葉に、少し悩んでから、彼女の中にわだかまっていた何かが一つだけ、綺麗さっぱりと無くなっていたような気がした。
 もちろん、それで琥珀さんが劇的に何かが変わったわけじゃない。
 けれど、ほんの少しだけ、また綺麗になったような気がする。
 もしかしたら、俺のひいき目が入っているのかもしれないけど。
 それがゴールな訳じゃない。
 彼女は誰もが悩む道を、進み始めただけだ。
 最初の一歩は、どこに向かって踏み出せば良いか。
 考えるまでもない。
 それは望むべき方向へ――
「うん、わかった。それじゃ、いくよ」
「はい」
「けど、秋葉には内緒ですよ」
「心得てますって」
 今はまだ道の途中――
 辿り着かなければならない場所は遙か彼方。
 今は夏。
 別れの季節は終わり、出会いも終わった。
 だったら、後は進んでいくだけだ。
 腕の中には確かな温もりがある。今はそれだけで十分歩き出せた。
 どこまでも。
 遥か彼方まで――


/END



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