■ 初めての夜遊び / わーにんぐ

 今日は妙に寝苦しい。
 眠りの縁は、直ぐ傍で口を開けているのに、なかなかその中へと落ちていけない。
 全ての感覚を切り捨て、ただ鎮静に意識を閉ざす事が出来ない。
 熱帯夜と呼ぶに相応しいジトジトした闇。
 肺に絡みつく深夜の大気。
 凛々と響き渡る耳鳴りという名の静寂。
 臭いはない。
 身体に触れるベットの感触も、既に薄れている。
 感じるのは、肺を焦げ付かせる熱と、全身を蝕む寝苦しさ。
 他の感覚が既にないことが、余計にこの不愉快な暑さを際だたせている。
「暑い……」
 寝返りを打って、体温に侵蝕されていない部分に移動する。
 けれど、それはやはりその場しのぎで、次第に暑さが復活してくる。
「うーん」
 苛立たしく、再び寝返りを打った。
 あれ……?
 ふいに何とも言えない違和感を感じて、目を開ける。
 和室?
 あれ? 確か、洋室で寝てなかったっけ……?
 寝る前は確かに、自分の部屋で寝たような気がする。なのに、いつのまにこっちに来たんだろ?
 なんだろ?
 目を見開いて、辺りを見回してみる。
 異世界の様なその光景を目を奪われていると、唐突に、後ろから声をかけられた。
「起きた? 兄さん?」
「うわぁぁぁぁ!」
 心臓が体から出るのではないかと思うほど、飛び跳ねた。それに引っ張られるように、体も布団を押しのけて、飛び上がっていた。
「あ、ごめんなさい、そんなに驚くとは思ってなくて……」
「あき……は?」
 その声は、間違いなく妹の遠野秋葉のものだった。
 が、なんだか、いつもとは随分トーンが違う気がした。いつもの意志の強い声ではなく、弱々しく、どこか怯えたような尻窄みの声。
 まるで子供の頃の、彼女のよう……
 って、ちょっと待って。
 なんか、凄い重要な事を見落としているような――
 ――じゃなくて! 悩むまでもなく、見たら明らかじゃないか!
 胸中で悲鳴を上げつつ、目の前にいる少女を凝視する。
 普段の半分くらいの身長しかない秋葉の姿が、目の前にある。
 八、九才の時の、秋葉。子供の時の秋葉だ。
「あ、あの、兄さん? どうしたんですか? そんな鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をして……」
 秋葉の声はどこかオドオドしている。まるで捨てられた小犬のようだ。
「どうしたって、それはこっちの方が聞きたいよ。なんで、そんな子供なんだよ!」
「こ、子供って……。だって、私は……まだ、八歳なんだから、仕方ないと……」
「いや、そうじゃなくて!」
 その八歳の秋葉がここにいるのはどうしてなんだ。彼女は今は十六歳のはずだ。
「えっと、私の胸が子供なのは、その、えっと、あの、やっぱり、まだ子供だからで……大きくなったら、きっと胸も大きくなると……思うけど」
「秋葉はどんだけ大きくなっても、胸だけは同じだって……って、だからそうじゃない!」
 こちらが叫ぶと、彼女はビクンと体を震わせた。
「秋葉! 一体どうしちまったんだ! 訳分かんないぞ!」
「あの、えっと、その……ぐすん……私、兄さんを怒らせること……した……の?」
 うるうると目に涙を溜めつつ、秋葉はこちらを上目遣いで見つめてきた。
 あー、しまった……まずい。
 これは秋葉が泣き出す前兆だ。
「だって、胸がないのは……私のせいじゃないもん……ぐすん」
 いつのまにか、胸の話になっている。
 もしかして、結構気にしているのかも知れない。
「いや、そうじゃなくて……。あー、えっと、わぁ、とにかく泣くな。ほら、な。僕が悪かったから。大きな声出してごめんな。謝るから、とにかく泣かないでくれ」
「う、うん……」
 ぐすんと涙を溜めたまま、彼女は頷いた。
「ほら、もう泣くなよ」
 指先で彼女の目元を拭いてやる。
 刹那、強烈な違和感を感じて、僕は戦慄する。
 ――なんだ? この手は……?
 秋葉の涙に塗れた手。
 小さい。
 僕が知っている僕の手よりも、ずっと小さい!
 なんだ? なにか変だ!
 当惑しながら、もう一度辺りを見回す。
 そこは見慣れた部屋だ。僕の一部になるほど馴染んだ僕の部屋――
 七夜志貴の部屋だ。
「あー、そうか……」
 七夜の名前を出して、霧につつまれていたような記憶が正常に戻った。
 ここは、遠野の屋敷。
 僕はここに養子として引き取られたんだ。
 それがもう二年も前の事になる。
 屋敷の離れにあるこの部屋は、自分にあてがわれたものだったはずだ。
 目の前にいる女の子は秋葉。今年で八歳。僕の妹。
「どうしたの? さっきからなんだかボーっとしてるけど?」
「ん、あぁ、なんでもないよ」
 さっきまで感じていた違和感は何だったのだろう。
 今の秋葉を見て、おかしいと思う方がおかしい。
 なんで彼女を見たとき、秋葉の年が十六歳だと思ったのだろう。
 自分の手が小さく見えたのは何故だ?
 良く分からない。
「それで、秋葉はなにしに来たの?」
「何って……兄さんが新しい遊びがあるって言って、呼んでくれたんじゃない」
「あれ……? そうだっけ?」
「もう、忘れっぽいんだから、兄さんは……。確か、広場に集合って聞いたよ。
 きっと翡翠ちゃんや、シキ兄さんも、もう待ってるよ。早く行こうよ」
「あの二人も来るの?」
「兄さんが……誘ったって言ってたよ? ……違うの?」
「うーん、そうだったかな? そう言われればそうだった気がしてくる」
「うー、兄さん、ちょっといい加減」
「うるさいな。そんな事より早く行くよ。ほら」
 僕は不機嫌な声を上げて、起き上がった。
「あわぁわぁ、待ってよ。兄さん」
 慌てて僕の後を追いかけてきた秋葉を、微笑ましく思いながら、外に出た。
 今日は遠野の家に来て、初めての夜遊び。
 どんな遊びになるか本当に楽しみだ。
       ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 部屋の中より、外の方がよっぽど涼しい。
 広がるのは深淵の、森。
 その奥を見通すことすら許さない、沈む木々の黒。
 見上げれば螺旋の空に浮かぶ冷たい月。
 届きそうで届かない。うつろな存在であるが故に、触れることが出来ず、誰もが欲する銀色。
 森は黒の手を、月は銀の手を、お互いを侵蝕しようと伸ばし続ける。
 風だけがその二色を混ぜ合わせ、そして再び引き離していく。
 無邪気な運命のように、
 僅かばかりのそよ風で、
 二つを翻弄する。
「なんだか今日はとっても綺麗だね」
 僕がその二色に目を奪われていると、
「えぇ! そ、そうかな……えっと、あの、実はこれ余所行きのお洋服なんだ。リボンもおろしたてて、ちょっと気合い入ってたりするけど、別になんて言うか、翡翠ちゃんに、夜は女の子が綺麗に見えるのよ。とか、なんとか教えられたから、意識したとか、そう言うんじゃなくて、そんな、あの……その……えっと……」
 秋葉はごにょごにょと語尾を濁らせる。
「? 何言ってるの?」
「え? あはは、何でもないの。兄さん、気にしないで」
 今度は真っ赤になって手を振ってくる。
 最近、秋葉は妙に挙動不審な時がある。
 兄としてちょっと心配だ。
「あー、やっときた。志貴ちゃんに、秋葉ちゃん、遅いよー」
 突然、進路方向から、透き通った声が聞こえてくる。
 嬉しそうな満面の笑みを浮かべた、僕と同い年くらいの少女が、こちらに向かって手を振っている。タンクトップに短パンといういかにもアクティブな格好は、元気でお喋りな彼女には相応しい。
 少女の名前は、翡翠。
 僕と同じくこの屋敷に引き取られた女の子だ。
「もー、ほんと遅いよー。私もシキくんも待ちくたびれちゃった。夜も遅いでしょ。私との約束忘れて寝ちゃったのかと思った。でも、下手に迎えに行ってすれ違うのも嫌だし、ちゃんと待ってたんだよ」
「あ、そうな――」
 言いかけたところで、
「それでね。今回の企画って、実はねーさんが考えたんだ。珍しいでしょ。だけど、流石ねーさんなの。凄く面白そうだよ」
 こちらの言葉を遮るように、彼女はズカズカと会話に割り込んでくる。
「ホントは一緒に遊びたかったんだけど、槙久のおじさんの相手をしてるから駄目なんだって。もう、ホント槙久のおじさんも、いい年してねーさんと遊びたいとか言うんだから、子供だよねー」
 相変わらずだけど、彼女は良く喋る。
「あ、それでね。槙久のおじさんと、ねーさん何して遊んでるか知ってる? この前ねーさんに聞いたんだけど、凄いのよ。なんとお飯事だって、凄いよね。あのおじさん本気で何歳なんだろうね。
 毎度、槙久のおじさんが、おとーさん役で、ねーさんがお母さん役なんだって、それで、お風呂にしますか? それともご飯にしますか? とかやってるらしいの。
 ねーさんと一緒にお風呂に入ったり、あーん、お口を開けてください〜。とかやってるんだって。
 こういう生活だからね。ストレスもたまるの分かるけどさー、やっぱアレだよねー」
 本当に良く喋る。
「そんで、その後、ちゃーんと、夜のふーふ生活もするんだって、最近のお飯事って凄いね。ハイレベルだよねー」
 とかなんとか、翡翠は悪鬼羅刹のごとく喋り続ける。
「……」
 えっと……。
 翡翠ってこんな子だったな……?
 もうちょっと(?)無口だった気がするんだけど。
 気のせいかな……。
 うーん。
「もう、ちょっと翡翠ちゃん! 一人でペラペラ喋らないで! そんな大きな声を出したら、屋敷の人起きるよ!」
 あからまに翡翠より大きな声で、秋葉は指摘した。
「あ、そうだよね。ごめんね。秋葉ちゃん。私はいつもみたいに、端っこの方で大人しくしてるね」
「……大人しく?」
 渾身の皮肉を込めて疑問符を口にする。
 翡翠の一番凄いと思うところは、その凄まじいばかりの回転速度を誇るトークではない。
 自分の事を大人しい人間だと、信じて疑わない所である。
 私、本当はもともと大人しいの。ただ志貴ちゃんや、秋葉ちゃんについていっているだけだよ。
 とか、大真面目な顔で告白されたときは、天地がひっくり返るほどの衝撃を受けた。
 翡翠が大人しかったら、世の中に喧しい人はいないよ……
「そういえば、シキ兄さんはもう来てるの?」
「うん、もう遊んでるよー」
「え? どこ?」
「あっちなんだ、行こうよ」
 翡翠は僕と秋葉の背中を、ぐいぐいと押してくる。
 どこにそんな力があるのか、抵抗することも出来ず、促されるままに歩かされた。
 どうやら、中庭の奥の方に向かっているらしい。
 僕は何の疑いもなく、そちらの方に歩いていった。
 ――刹那。
 予告無く、何かがなくなった。
 一番最初になくなったのは地面だった。
 次に、重力が感じられなくなる。
 月明かりが消失し、突然の出来事に言葉を失い。
 そして、最後に意識が――。
 ガツン。
 ……なくなる前に、背骨に鈍い痛みが直撃する。
「い、いたいたいたいた、ど、どいて、秋葉!」
「あわぁ! ごめんなさい、兄さん!」
 秋葉は大慌てで、重いお尻を背中からのけてくれた。
「いたたた……なんなんだよ。一体、何が起こったんだ?」
 さっぱり状況が理解できず、目を白黒させていると、上の方から声が聞こえてきた。
「志貴ちゃーん、秋葉ちゃーん、大丈夫ー?」
 見上げると、そこにはこちらをのぞき込む翡翠の姿があった。顔にはにこやかな笑みを浮かべ、実に楽しそうである。
 そこで、やっと僕は現状を理解することが出来た。なんだか良く分からないけど、地面に掘られた穴に落ちたらしい。
 半径二メートルくらいの穴で、高さは……ゆうに五メートルはありそうだ。
 もちろん、飛んでも跳ねても、全く出れそうにない。
「誰がこんな穴掘ったんだろ……?」
 僕が不信げに呻くと、
「もちろん、私だよー」
「え? 翡翠が?」
「うん、そう」
「なんで、こんな穴掘ったの?」
「……うふ、それはね。これはこーゆー遊びなの」
 その途端、笑みを浮かべていた翡翠の顔から、表情が消失した。
 なんだか、翡翠の眼がメチャクチャ怖くなった。それは決して、こちらを睨んでいるために起きた畏怖の念ではない。
 感情を感じさせない瞳で、こちらを見ていただけだ。
 けれどそれは、恐ろしい。
 温もりどころか、冷たいとすら感じる事ができない――無温の眼。
 その目で見つめられていると、腹の底から恐怖が這い上がってくる。
 翡翠は一切の揺らぎを無くして、僕たちを射るように見つめてきた。
「最近ね。槙久のハゲ親父がね。おままごとだけじゃなくて、こんな遊びも考えたの。
 夜中になると、私に穴を掘らせるの。ふかいやつ。人が何人でも入れるヤツね。
 意味がわからないけど、私は掘るしかないから、掘るの。
 そして、作業が終わってくたくたになった私が、部屋に帰ってくるとね、まるで正義の味方が悪人に対するみたい思いっきり胸を張って、あまつさえ私の事を馬鹿にする見たいに指差して……こう言うの……」
『愚か者め! 墓穴を掘ったな!』
「ふふふ、なんかむかついた。意味が全然分からなかったけど、それが余計にむかついた……ふふふ、ハゲの癖に……分け分かんない……」
 僕は彼女の気味の悪い笑みに身震いする。
 背筋から、這い上がるように悪寒が走る。
 わからない。なんだか、さっぱりわからない。
 けど、ここは危険だ。早く何とかしないと命に関わるような気がする。
 それだけは、はっきりと分かった。
「それでね。それだけやったら、遊びは終わったんだからちゃんと埋めておけとか言われるの……毎日それやらされるの……。これって精神的にクルの……とってもね……ふふふ」
「翡翠……ちゃん? なんだか怖いよ……」
 秋葉も彼女の異常に気が付いているのか、怯えたような顔になっている。
「ふふふ、安心して、翡翠ちゃんは綺麗なままだから……こんな泥臭い事してないわ……汚れるのは私だけで十分だもの……」
 その言葉を聞いて、やっと僕は、奇妙な態度をとる目の前の少女の正体に、気が付いた。
「も、もしかして……君は琥珀?」
 琥珀は翡翠の双子の姉だ。二人は本当にそっくりで、同じ服を着られたら、区別がつかなくなる程似ている。
 普段は屋敷の中にいてめったに外に出ることはないのだが、そのフィルターのかかったような目は、明らかに琥珀のものだった。
「ふふふ、でもね。翡翠ちゃんこんな事言うの……」
 姉さんが綺麗なままでいてくれって言うなら、私綺麗なままでいる。私、一生スコップには触らないよ。力仕事はみんな姉さんに任せるね。あ、そういえば最近、姉さん筋肉付いてきたよね。ムキムキだ。パワフルっぽいよね。
 じゃ、そう言う事でお休み。か弱い私は、もう寝るから。私の分まで頑張って穴掘ってね。
「ふふふ、なんだか、やっぱりむかついたから、とりあえずドツキ倒して、身ぐるみ剥がして、ガムテープで全身のむだ毛を処理して、油性のマジックで額に『憎』って書いて、逆さ吊にしておいたけど……
 ま、良いよね。もしかしたら、次に会ったときは、妙に性格が暗くなってるかもしれないけど、それって許容範囲でしょ?」
 心の中の警告信号は、痛いほど強くなっていく。
「ふふふ、そんな怖い顔をしないで。安心して、明日になったら……ちゃんと埋めてあげるから……。
 今まで気分悪かったんだ……あのハゲ親父には墓穴を掘ったなとか言われるけど、実際誰も墓穴にはいんないし。死体のない墓穴なんて、ただの穴よね。だけど、今日は死体があるから……違うよね。ひと味もふた味も……。
 嬉しいな。意味あること出来るのって久しぶり」
 今まで彼女がどんな生活をしていたのかは知らない。けれどその無色の瞳を見ていると、それが分かるような気がする。
「じゃ、そういう事だから……またね」
 最後に彼女はニッコリと笑みを浮かべてきた。
 翡翠のように、無邪気な子供の笑みだった。
「琥珀! ちょっと待って!」
 こちらの呼びかけに琥珀は止まることなく、そのまま屋敷の方に行ってしまった。
「くそ!」
 穴の側面を拳で叩きながら、僕は毒づいた。
「兄さん……どうしよう……」
 今にも泣きそうな声で秋葉。
 その声は、僕の高ぶっていた心を一気に冷やしてくれた。
 そうだ。
 僕は、秋葉の、兄だ。
 もうお兄ちゃんになったんだ。
 だから、彼女を守らないと。
 絶対に守らないといけない。
「大丈夫だよ。秋葉。僕がついてる。秋葉を埋めさせたりはしないよ」
「……ほんと……?」
「うん」
 力強く頷く。
「私を、守ってくれるの?」
「うん」
「あ、ありがとう……志貴兄さん」
 感激に目に涙を溜めて、秋葉こちらに抱きついてきた。
 月の明かりさえうっすらとしか入ってこない、穴の中。とくんとくんという音が聞こえる。
 それは僕の高鳴る鼓動だったのか、それとも秋葉から伝わってくる心音なのか、分からない。
 ただ、頬に触れる肌の滑らかな感触がとても気持ちいい。
 彼女の肌はぷにぷにのもち肌だ。
 小さい子供なら、みんなこんな風にぷにぷにしているが、秋葉は特に柔らかい。
 秋葉に触っていると凄く気持ちがいい。
 もっともっと触りたいと思う。
 僕は直ぐ目の前にある、秋葉の頬に手を伸ばした。
「あ……」
 ぷにぷに。
 ほっぺを突っつかれて、秋葉は頬を染めた。
「やだ、兄さん……」
 そうされるのが恥ずかしいのか、秋葉は大げさに身じろぎをする。
「秋葉のほっぺって柔らかいよ」
 ぷにぷに。
「ん……」
 秋葉は眉を寄せる。媚態を作っているようで、艶めかしい。
 僕は、ここが穴の中であることを忘れたように、秋葉に触れる。
 ぷにぷに。
 今度は人差し指と親指で摘むようにする。
「うわぁ、マシュマロみたい……」
 白かった頬は羞恥のせいか、ほんのり紅潮している。
 まだ八歳の子供なのに、凄くやらしい。
 子供の癖に、こんな表情をするなんて、秋葉はやっぱりおませんさんだ。
 確かな弾力を返してくる秋葉。
 両手で秋葉のほっぺを触る。
 なで回すように、その感触を味わう。
「ふぅ……ん……」
 こちらの指の動きに反応して、彼女はピクンピクンと体を震わせる。
 殺人的に可愛い。もう食べちゃいたい。
「秋葉……」
 耳元に、わざと息を吹きかけるように囁きかけ、その頬に顔を寄せる。
「秋葉……」
 頬に、唇が触れるだけの口付けをする。
 愛とか、情とか、良く分からないけど、相手が好きなんだって証のようにキスする。
 熱い頬に触れていた唇を、ゆっくりと放す。
 首筋まで紅潮させて、秋葉は俯いた。頭から湯気がでるのではないかと思うほど、恥ずかしがっている。
 両手の人差し指の先をつんつんとさせながら、秋葉はもごもごと声を出してくる。
「初めてだったの……」
「……? 何が?」
「あの……あのね……その……えっと、だから……その、だから……ほっぺに、キスされたの……初めて……なの……」
 いきなりそんな事を告白してくる秋葉に、僕は目をパチクリさせた。
「そうなの? 他の人してくれなかったの?」
「うん……」
 もじもじと彼女は身を震わせ、続ける。
「守ってくれるって言ってもらったのも……初めて……」
 そうなのか。
 秋葉は……今まで、キスされたことがない。
 僕が秋葉が初めての人であるという喜びよりも、むしろ切なさがこみ上げてきた。
 この遠野の屋敷の中で、秋葉の立場はどんなものなのだろう。
 遠野という、逃れられない鎖に囚われた秋葉。
 父親という名の絶対者。
 厳しく躾られる毎日。
 習い事。礼儀作法。人間関係。
 時間も、表現も、心も、色んな物を縛られた秋葉。
 もしかしたら、今まで、愛情を感じたことなどないのかも知れない。
 だから、秋葉はいつだってどこか危うい。
 触れると壊れそうで――触れた方も壊れそうで――誰も触れてくれない。
 ――硝子細工の姫君。
 それがどんなに綺麗でも、そんなの悲しい。そんなの寂しい。
 僕が癒してあげたい、僕が助けてあげたい。
 強く、そう思う。
「秋葉、大丈夫、僕がついてる。これからはいつでもキスしてあげる。いつでも守ってあげる。何も心配することないんだよ」
 秋葉を安心させるために、精一杯の笑顔を送る。
 しばらく秋葉はキョトンとしていが、次第に意味が飲み込めてきたのか、あわあわと口を動かしてきた。
「うれしい……わたし、凄く、嬉しい……今すぐ死んでもいい……」
 感激をそのまま表情で表現し、堪えきれなくなった涙が、ポロポロと頬に零れた。
「あのね。私……わたしね……決めた……の」
 息を飲み、秋葉は両手を胸を前で併せ、きつく握りしめる。
「ほんとは……ね、凄く、恥ずかしいけど……思い切って言うね……」
 切なそうな顔に決意の色を混じらせ、ギュッと目をつぶると、勢いよくこちらの胸に飛び込んでくる。
「私を、兄さんのオヨメサンにしてください!」
「は?」
 すぐさま僕は疑問符を顔に浮かべた。
 秋葉がこちらの胸に飛び込んできたので、つい受け止めてしまった。
 その意味が、最初は飲み込むことが出来ずに、僕は呆然とする。
 僕が秋葉の兄ちゃんになるって決めたのと同じように、秋葉は僕のオヨメサンになるって決めちゃったみたいだ。
 いいのだろうか……?
 最初に思い浮かんだ単語は、近親相姦とかいう難しい四文字熟語だ。
 兄妹では結婚できない。先生がそう教えてくれた。
 法律で禁止されているらしい。
 もし、僕と秋葉が結婚したとして、出来るのは、何だろう。
 罪だろうか。それとも幸せだろうか。
 分からないけど、両方とも凄く魅力的な言葉のような気がする。
 罪と幸せは、どこか似ている。あるいは同じものだといえるくらい、そっくりだ。
 二つの共通点はただ一つだけど、その部分において、この二つは、きっと他のどんなものよりも、その特色を顕わにしている。
 共通点。
 それは、罪も幸せも――
 ――破滅的に『甘い』事だ。
 一度味わえば、病みつきになる甘さ。それなしでは生きていけなくなるほどの、猛烈な甘み。
 もう、溺れるしかない。
 秋葉の申し出は、罪と幸せの両方を内包した、甘美な誘惑だった。
 わからない。僕はどう答えたら良いのだろうか。
「秋葉……僕は……」
 何を答えようとしたのか、自分でも良く分からなかった。
 だけど、言葉が出てくる。無意識のうちに。
 と――
「そぅかぁ……そぅだったのかぁ……ククク」
 闇の向こう側から聞こえてきた肉声に、僕は慌てて秋葉から体を離した。
 それは穴の上から聞こえてきた声ではない。もっと近い場所、そう、この穴の中から聞こえてきた声だった。
 その時、僕は自分の失策に気づく。
 しまった。秋葉から離れるのではなかった。この暗がりでは、三十センチ先も見ることができない。この声の主も、秋葉も、視界の外だ。
 今までは分からなかったが、荒い、とても荒い息づかいが聞こえる。
 当然秋葉のものではない。
 一体誰だ……?
「あ……」
 そこで、答えは既に自分の中に有ることに気が付いた。
 そう言えばさっき、琥珀が言っていたじゃないか。
 ――そう言えば、シキ兄さんはもう来てるの?
 ――うん、もう遊んでるよー。
「シキ? 君か?」
 僕は暗闇の中に向けて喋りかける。
「あぁ、そうだよ。志貴、聞いたか? 今、秋葉が俺のお嫁さんになりたいと言っていたよ。ククク……嬉しいことを言うじゃないか……」
 シキの顔の輪郭がうっすらと見えてくる。間違いなく、自分と同い年にして、同じ名前の少年。シキだ。
 けど、その様子がなんだかおかしい。
「そうかぁ……じゃ、秋葉を俺のものにしないとなぁ……」
 シキは手に何か持っていた。
 棒状の、黒い……何か。
「し、シキ……どうしたの? なんか変だよ?」
 シキの声の調子と、あの手に持っている何かに、一抹の恐怖を感じる。
 何か、凄く不安だ。
「おかしい? あぁ、そうだろうな。あのむっつり人形女にこの穴を掘る手伝いをさせられたんだ。畜生、ふざけやがって、何が徳川埋蔵金だよ……畜生ぉ! この俺を騙しやがって! そんなもん、どこにもねぇじゃねぇか!」
 そんなのに騙されたのか……?
 思わず、感心して唸ってしまいそうになった。
「もしかして、そのまま置いて行かれたの?」
「あぁ、そうだよ! ったくむかつくよ。信じられないくらい、頭の中が憎悪で一杯だ。おかげで頭が勝手に喚いてる。……むかつく、むかつくやつはみんなコロセってな」
「シキ……」
「ほら、どけよ。秋葉を俺のものにするんだ……」
「秋葉に何をするつもりなんだ!」
「何? ククク、簡単さ。志貴、おまえが教えてくれたんじゃないか。秋葉を俺のものにする方法をな。」
「僕が……教えた?」
「ほらぁ! 邪魔だ! 志貴! どけぇ!」
 彼の手の中の黒が、こちらに向かって振るわれる。
 僕は反射的に両手で顔を庇った。
 シャァ!
 左の肘から手首にかけて、何か熱いものが走った。
 痛みよりも熱さに驚いて、僕は一歩後退した。
 穴の側面に体を預け、左の手を見下ろす。
 丁度その時だ。
 暗かった穴の中に、光が射し込んできた。雲に覆われたままいつの間にか南中していた月が、顔を覗かせていた。
 月光に照らされ、腕についたものが、はっきりと僕の目に飛び込んできた。
「……線?」
 それは傷ではない。ただの『線』だ。最初からそこにあったかのように、腕に線が刻み込まれている。
「はっ! まさか!?」
 思い当たることがあって、僕は顔を上げた。
 シキの手の中の黒いモノ。
 その物体を見て、僕は戦慄した。
 電撃めいた衝撃に耐えながら、それの名前を口にする。
「サ、サインペン……」
「ククク、そうだ。お前が教えてくれたんだ。領土ごっこを始めたのはお前だろ? サインペンで名前を書かれたところは、その人の領土になるんだ!」
「ばか! んな分けないじゃないか!」
 思わず突っ込んでしまったが、彼はまったく気にしていないという風に、嬉しそうに両手を広げた。
「見ろ! この領域を!」
 そこで僕は初めて気が付いた。穴の側面には、一部の隙間もないほどビッシリと、マジックで『シキ』の名前が書かれていたのだ。
 まるで漫画に出てくる陰陽師の結界のように、激しく不気味な光景だった。
「いいか、ここはもう俺の領土だ。だったら、俺の言うことは絶対だ!」
 『シキ』で埋め尽くされた墓穴の中で、にやりとシキは顔を歪める。
「これで秋葉の体に俺の名前を刻み込んでやる。額だけじゃない、目にも、鼻にも、口にも、耳にも、首筋も、胸も、腹も、腕も、足も、あんなところや、そんなところにも、こんな複雑なところにも。
 ククク。そうすれば、秋葉は俺の領土だ。ククク、俺のものだ。全部、俺のだ」
 全身にシキの名前を書かれた秋葉を、想像してみる。
 してみると。
 ……
 なんか面白い……かも。
 って、あ、いや、違う! そうじゃなくて、秋葉が可哀相だ!
 そうそう、可哀相だよな。うんうん。
 自分の思考に納得して、額から汗を拭う。
 それに、そんなことをしたら、間違いなく親父にしぼられる。
 前にも、領土ごっこをしてるとき、親父のお飯事セットに名前を書いて半殺しにされた覚えがある。
 親父はああいう道具には強烈な反応を示す人だ。
 それは自分の娘となると、その怒りはどれほどのものか……
 空恐ろしい想像に、身を強張らせる。
「馬鹿なマネは止めろ! シキ! 親父に一週間連続で半殺しされるぞ!」
「やかましいぃ! 一週間連続でなんて出来るか!二日目で全殺しじゃねぇか!」
 半殺し+半殺し=全殺し。
「た、確かに……」
 簡単な算数の計算だった。
 僕はちょっと悔しくなってうめき声を上げた。
 勝ち誇ったように鼻で笑うと、シキはこちらに近づいてくる。
 シキの前進にあわせ後退すると、直ぐに壁に行き当たった。
 まずい、このままでは。
 最悪の状況が一瞬脳裏をかすめる。
「違う! 兄さん! 騙されないで! 二日目は半殺しの半殺しだから、四分の一殺しよ!」
 こちらを諭すように、秋葉の怒鳴るような声が、耳に届いた。
「え? 二日目は、四分の一殺し?」
 少し考えてみる。
 最初は全生きの半殺しだから、半殺し。
 次の日は半殺しの半殺しだから、四分の一殺し。
 四分の一殺しの半殺しだから、八分の一殺し。
 八分の一殺しの半殺しだから、十六分の一殺し。
 その次は……えっと……
 ……
「そうか、じゃ一週間後は百二十八分の一殺しになるから、一週間連続で半殺しは可能じゃないか」
「チッ」
 何故だか悔しそうに、シキは舌打ちした。
「って、いや、別にそんなことを言ってるんじゃない! 僕はシキに変な事をするなって言ってるんだ。半殺しも、百二十八分の一殺しも関係ない!」
「はん、それで勝ったつもりかよ……」
 シキはギロリと狂気に染まった瞳を向けてくる。
「いや、だから、関係ないって……」
「馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって、馬鹿にしやがって」
 呪詛のようにシキは繰り返す。怒りで顔を赤くして、彼はこちらに向き直ってきた。
 もしかして割り算が出来なかったのか?
 いや、そんな筈はない。小学校三年生にもなって割り算が出来ないでは、みんなの笑い者だ。
 だけど、この悔しがりようは……?
 う、うーん。
「志貴、お前は特に許せねぇ。瞼の裏に目を描いた上、耳の裏に鼻毛描いてやるから、覚悟しろ!」
 シキの絶叫と共に、彼の体が持ち上がったかと思うと、人間ではありえないような不自然な動きをして、こちらに突っ込んでくる。まるで骨のない軟体動物のような動き。
 その速度は尋常ではない。
 くっ……!
 僕は反射的に足に力を込め、素早く大地を蹴った。
 前のめりに転がるように飛び出すと、スパンと頭の直ぐ上を、サインペンが通過していった。
 その軌跡を辛うじて目に納めながら、前周りに一回転する。狭い穴の中で、動きは制限されていたが、何とか初撃はかわすことが出来た。
「ククク、次は外さんぞ……」
 ニタニタと嬉しそうに、シキは手の中のサインペンを弄ぶ。
 あいつの言うと通り、この次はそう上手くはいかないかもしれない。よしんば避けれても、この穴は狭すぎる。いつかは捕まってしまう。
 けれど、どうする? 下手に受け止めようとして、失敗したらそれこそ大変だ。
 手や足なら兎も角、顔に落書きされたら当分外に出れなくなる。
 僕は脳裏にあらゆる事態を思い浮かべながら、立ち上がろうとした。
 その時僕は、壁を見て変な所に気が付いた。
 アレ?
 これは……?
「ん、どうした。覚悟でも決めたか?」
 呆然としているこちらに、シキが訊ねてくる。だが、僕にはシキの言葉など耳に入らない。
「あぁ、そうか、そう言う事か、シキ……」
 僕は小さく納得したように呻いた。
「何がだ?」
「お前は随分と大きな勘違いをしているんだ。僕も騙されたよ」
 自信満々で、顔に笑みを浮かべて告げると、シキは眉間にしわを寄せた。
「なにを言っている……勘違い? 俺がどんな勘違いをしているって言うんだ?」
「馬鹿だよ。お前は……」
 その言葉が頭にきたのか、シキは青筋を立てて叫んできた。
「何が馬鹿だ! やかましい! 今、お前を俺の領土にしてやる!」
 シキは禍々しい殺気を放ちながら、こちらに飛び込んでくる。
 が、もう怖くない。
 シキが何をしても、そんなの意味がない。
 動こうともせずに、僕はシキの一撃を受けた。
 額から眉間を通り、右の頬に黒いだけの『線』がこびり付く。
 僕は瞬きひとつせず右手を振り上げると、シキの顔面に拳をたたき込んだ。
「ぐばぁぁ!」
 シキは吹き飛ばされながら、ゴロゴロと穴の中で転がった。
 痛みに顔を歪め、驚愕に全身を支配されたように強張らせている。
「ば、馬鹿なぁ! 志貴、きさまは怖くないのか?」
 マジックで顔を落書きされる。それは確かに怖い。表に出ていけなくなる。屋敷の中にいても、後ろ指をさされるのは目に見えている。が――
「言っただろ、シキ、君は勘違いをしていたんだ」
「な、何を……だ?」
 怯えるようなシキに向かって、小さく、その事実を囁いてやる。
「そのサインペン――」
 すっとそのペンを指差す。
「水性だよ」
「な……?」
 シキは信じられないとばかり、手のサインペンに目を落とした。
 そこには確かに『水性』と書かれてあった。
 恐らく、持ってくるときに間違えたのだろう。油性は落ちにくいが、水性は簡単に落ちる。
 ただそれだけの差だった。
 だが、今回の戦いには致命的だった。
 気づいたのは、シキが穴の側面に書いた彼の名前のおかげた。先程触ったときに、あっさりと落ちたたのだ。
 あの僅かな違和感に気づかなければ、負けていたのはこちらだろう。
「そんなばかな。こんな下らないことで……こんな下らないことで……俺が負けただと?」
 シキはサインペンを取り落とし、両手で頭を抱えてうずくまる。
「馬鹿な。こんな初歩的なミスで……」
「シキ兄さん」
 意気阻喪としているシキに、秋葉がゆっくりと近寄った。
「あ、秋葉……違うんだ、こんな筈じゃなかったんだ。本当は勝っていたのは俺だったんだ……」
「シキ兄さん。私はあなたのものじゃありません」
 秋葉にしては珍しく、キッパリとした明朗な声だった。
「私の額も、目も、鼻も、口も、耳も、首筋も、胸も、腹も、腕も、足も、あんなところや、そんなところも、こんな複雑なところも、みんな志貴兄さんのものです! 私がオヨメサンになりたいの志貴兄さんだけです!」
「う、うそだ!」
 心底絶望したように、シキは渋面になった。
 この世の終わりを見たにも関わらず、さらにその先を見ることを強制されたような、哀れな少年の顔。
「それでは、シキ兄さんにはこれから、罰を受けて貰います」
「ば、罰って……?」
 訊ねたのは、シキではなく僕だ。
 シキにはそれを疑問に思う思考能力すら残されたいのか、項垂れたまま、こんな筈じゃなかったと繰り返している。
 秋葉は妙に生き生きとした瞳をこちらに向けると、これからお祭りですとばかり、
「もちろん体罰です!」
「へ……?」
 秋葉はシキに向き直ると、その柔らかい手を振り上げる。
 力が無さそうな可愛い手が、キュっと握りしめられた。
 その瞬間、彼女の拳の印象が一変した。
 それからは一つの凶器のような刺々しい迫力が感じられた。
「あ、秋葉……俺が悪かったから……」
 心底怯えたようにシキは哀願した。秋葉は唇を歪めるだけの笑みを作る。
「問答無用!」
 彼女は自分の狂気をぶつけるように、シキの顔面を殴り倒した。
「ぬがぁ……秋葉止めてくれ……」
「えーい、まだまだ!」
 今度は、くるりと回って後ろ回し蹴りを放つ。
「ごべぼ……」
「そりゃー」
「ぬぁぁぁぁ」
「おりゃー」
「べらぁぁぁぁ」
「あちょーう」
 秋葉は……なんだか、凄く楽しそうだった。新しい玩具を手に入れた子供みたいだ。木っ端微塵、塵芥にしそうな勢いでシキをぶん殴っている。
 それは一方的な暴力(快感)
 失われていくのは飛び散る血潮(生命)
 ひたすら繰り返される体罰(殺戮)
 あぁ、秋葉の体罰だけは受けちゃイケナイ……
 それだけは、僕の心の中に深く刻み込まれた。
「一週間連続で半殺しにしてあげるよ。シキ兄さん」
 それはすなわち百二十八分の一殺し。
 つまり生きてるところが、百二十八分の一ということだ。
 ……
 あれ?
 それじゃ、生きているのって小指くらいなのか?
 それって、もしかして死んでるも同然?
 ……
 わからない。
 僕はまだ子供だから良く分からない。
       ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 穴の中は夏だというのに少し寒かった。
 夜はやはり冷えるようだ。
 太陽の恩恵を常に受けてる僕たちに、夜の冴え凍る月はどこか他人めいた冷たさを向けてくる。
 凍える夏の病んだ月。
 その銀光は夏を生きたまま凍らせる。
 風を亡くし、音を亡くし、あらゆる動きを亡くす。
 それは“制死した世界”。
 ――なんて、静か。
 僕と秋葉は、唯一の生を分け与えるように寄り添った。
 感じられる温もりは確かに生きている証だ。
 目の前には、血まみれのシキが転がっている。
 彼の近くの地面には、サインペンで書かれた薄汚れた文字がある。
 シキ、シ、シキ、シヌ
 シヌ、シヌ、シキ、シヌ
 シ、シ、シキ、シヌ
 シヌ、シヌ、シヌ、シヌ
 コロサレル!
 なかなか生々しい事を記していたらしい。
 顔は酷く腫れ上がり原型を留めていない。
 ピクピクと痙攣していたり、靴下が半分脱げかかっているのはご愛敬だ。
 その姿は――
 どうしようもなく気味が悪い。
 しかし、秋葉をあんな手段で自分のものにしようとしたんだ。
 やっぱりこれは――
 どうしようもなく君が悪い。
「兄さん……でも、これからどうしよう……」
 捨てられた小犬のような目で、秋葉はこちらを見つめてきた。
「兄さん?」
「あ、いや、なんでもないよ……」
 もしかしたら、琥珀やシキよりも、よほど彼女の方が危険なのかも知れないと思ったのは、秘密にしておこう。
 今はそれよりもここから出ることを考えよう。
 僕は頭をこつんと穴の側面にもたれながら、見上げる。
「やっぱり、高すぎるよな……これって……」
 穴の縁はかなり高い。なんとかよじ登ろうとしてみたが、全然駄目だった。
 土が脆くて崩れやすいせいで、つかみ所もない。
 登れない穴。
 世の中に数多くの罠があるが、これほど簡単そうに脱出できそうで、脱出できないものはない。
 外の世界が大きな口を開けて待っているだけに、何も出来ないことが、とても口惜しい。
 このまま朝を待つしかないのだろうか。
 なんとか琥珀を説得して、助けて貰うしかないのだろうか。
 だけど、本能というアナログな思考回路は、全力でその提案を却下している。
 太陽が昇るまでが勝負だ。
 日が昇れば、このまま埋められて……シヌ。
 それまでに何とか脱出するしかない。
「兄さん……」
 秋葉は囁くように、呟いた。
「手を握ってて……」
「うん」
 返事をし、秋葉の手を握りしめる。彼女の不安を少しでも和らげてあるために、強く握ってやる。
「私、このまま死んでも……兄さんとだったら、良いよ……」
「馬鹿なことをいうなよ! 大丈夫、助かるから!」
 吐き気がするほど、無責任な物言いだ。
 何の根拠もなく、こんな事を言っても、何の救いにもならない。
 なりはしないのに。
「うん……そうだね。兄さんがそう言うなら、きっとそうね」
 胸が痛い。
 秋葉は僕の言うことを、全く疑うこともせず、本当にそれが救いなのだとばかり、笑った。
 想いが果てしなく加速する。
 なんとかしなければ……
 だけど、どうすれば良いんだ。
 叫んでも……中庭から屋敷までは遠すぎる。声も届かない。
 絶望がゆっくりと僕の首を絞めていく。
 這い上がってくる恐怖をいくら振り払っても、例えそれを無視していても、正常な理性が有る限り、絶望は手を緩めることはない。
 ここに僕たちがいるのを知っている人間はいない。
 もう、駄目なのか?
 助かる可能性は限りなく低い。
 例えば。
 正義の味方でもいない限り、僕たちは助からない。
「呼び出て飛び出てジャジャジャンっ! あー、やっと私の出番! もう待ちくたびれたわー」
「……」
「ほんと、長かったわ。このまま出番干されたどうしようかって、真剣に悩んでたんだから」
「……」
「あれ? おーい、こっちを見てよ」
「……」
「むー、どうしたのよ。返事してよ」
 穴の上に、変な人がいる。
 仮面舞踏会に使うようなマスクをして、金髪の髪を二つのお団子にした、セーラー服の女である。
 足下には、謎の黒猫がアクセントのように寄り添っていた。
 限りなく熾烈に、途方もないほど凄まじく、噂どころか神話になるほど果てしなく、底抜けに変な人だった。
 だが、この状況下で贅沢を言える立場ではない。
 どんな人であれ、とにかく人が来たのは、幸運だ。
 不幸中の幸いと言うよりは、幸運中の不幸と言うべきか?
 多少迷いながらも、僕は彼女に話しかける。
「あ、あなたは……?」
「私? 私はアルク……じゃないや、いけないけない。名前は名乗っちゃいけないのよね。だから、えっと、なんだっけ? あ、そうだそうだ」
 彼女は思い出したように、ポンと手を叩く。
「私は月の仮面よ」
「つ、月の仮面……?」
「そうそう、月に変わってお仕置きして回る正義の鉄人の事」
 やっぱり、関わるのは止めようかな……。
 僕の中に、そんな想いが過ぎる。
 関わらずに死んだ方が良いのか、死ぬほど後悔しても関わった方が良いのか。
 難しい選択である。
「へ、変なコトしているんですね……」
 誤魔化すように呟くと、白い女はひょいと肩をすくめると、投げやりな口調で言ってきた。
「私もね。ちょっとこっちの方に波動って言うか、気配――まぁ、電波みたいなもね――を感じたから、来てみたんだけど。実は日本に来るのって初めてなのよね。まぁ、右も左もわかんないって事はないんだけど、ちょっと不慣れでさ。街を歩いてたら、あなたには月の戦士になる才能があります。是非ともやってみませんか? って誘われちゃってねー。まぁ、私も日本のお金ってもってなかったし、バイトがてらやってみようかなぁって思って」
「あの……それじゃその格好は?」
「あぁ、これって制服なんだって、なんでも創始者の趣味らしいわ」
「……」
「それでね。毎晩こうやって、パトロールしてるの。それで困った人とかいたら助けてあげるのが仕事なんだ」
「……」
「ちなみに今だったらお助け料は安くしとくよ。子供だしね。他の大人みたいに、お金持ってなかったら、身ぐるみ剥ぐみたいな事はしないからさ」
 月の仮面は上機嫌で、微笑んだ。
 いきなりの展開に、頭がついていかなかない。
 落ち着いて話を整理しよう。
 目の前にいる外人さんは、妖しい電波に誘われて日本に来た。けれど日本は始めてで、何も知らずにふらふら街を歩いていたら、妖しい宗教団体の人に勧誘され、そのまま信者の一人にされてしまった。
 結果、妖しい服を着て、毎晩のように街を徘徊し、困っている人がいたら、とりあえず助け、お布施という名目でカツアゲを行っている。
 ……
 なんだか頭が痛くなって眉間に手を当てていると、秋葉が服の裾を引っ張ってきた。
「どうするの? 兄さん……?」
「うーん、普段だったら、絶対に関わりたくないタイプだけど、背に腹は代えられないかなぁ」
「うー、なんかやだなぁ」
「同じく……」
 ボソボソと、白い女には聞こえないように、秋葉と相談する。
「どーするの。助けいるの? いらないの?」
 白い女が呼びかけてくる。
 もうすぐ夜が開けてしまうし、仕方ない。
「それじゃ、お願いします。助けてください」
 そう告げると、彼女は人差し指と親指で円を作り、
「おーけー、んじゃちょっと待ってね」
 パタパタとどこかに去っていった。
 僕と秋葉は不安げな眼差しを、虚空へと向ける。
「兄さん、大丈夫かなあ……あの人……」
「た、多分……」
 今は流石の僕も下手なことは言えなかった。
 彼女には秋葉とは違う意味での危うさがある。
 なんと言うか。
 あえて日本語で良い表すなら……
 間抜け。
 そう、そんな雰囲気がするのだ。
 途方もなく心配だ。
「お待たせー」
 月の仮面は顔に笑みを浮かべたまま戻ってきた。
 手に持ったロープのようなものを、こちらに向かって投げてくる。
 だが。
「あの……ロープの長さが全然足りてないんですけど……」
 プランプランと揺れるロープを見ながら、僕が指摘すると、月の仮面はむーと不機嫌そうにうなり声を上げる。
「そんなの分かってるわよ。こう見えても私、博識なのよ。普通じゃ考えつかないような助け方をしてあげるわよ」
 いや、普通に助けてくれた方が嬉しい……
 と言いかけて、僕はその言葉を飲み込んだ。
 頭の上で揺れているロープに、強烈な異物感を感じたからだ。
 ぷらぷらぷら、揺れるロープ。
 消えない異物感。
 なんだ……これは……。
 あってはならないものが存在するような、そんな感触。
 は。
 わかった。ロープじゃない!
 そいつの正体に気がついた瞬間、ロープもどきは口からいきなり水を吐き出した。
 これは!
「ホース……?」
 秋葉の呆れかえるような声。
 それは遠野家で使っている庭に水をまくようのホースだ。
「ちょっと、いきなりなにするんですか!」
 僕の慌てた声も気にならないのか、マイペースに月の仮面は言ってくる。
「もう、言ったでしょ。私は博識だって。あなたは知らないかもしれないけど、人の体って水に浮くのよ」
「……水に浮くって……それって……」
「ほら、水泳の授業のときとか、言われない? 体の力を抜いて、楽にしていれば浮くって」
「……あ、あ、あ……」
「私も最初は信じられなかったんだけど、土左衛門とかも、ちゃんと浮くでしょ?」
「あほかぁぁぁぁ! その前にしんどるわぁ!」
 つい先日、テレビで見た関西弁の突っ込みをしてしまう。
 なにを考えているんだこいつは。
 それこそ僕と秋葉が土左衛門になってしまう。足のつかないというだけで、人は簡単に溺れてしまうからだ。
 夜が明けるまでは生きて行けたのに、いきなり死の危険にさらされてしまった。
「ちょっと、アホじゃないわよ。失礼ね。土左衛門は享保一七一六〜一七三六頃の江戸の力士で、成瀬川土左衛門が本名よ。身体が頗る肥大で、世人が溺死人の膨れあがった死体を土左衛門のようだって言ったのが始まりだったらしいわ。ほら、見なさいよ。博識でしょ?」
「だから、知識の使う所を間違えてる!」
「分かってるわよ。ちゃんと塩入れるから、知ってる? 卵って、塩入れると古いヤツが浮くのよ。なんか凄いね。ビックリよね」
「だから、僕たちは人間だぁぁぁぁ!」
 しかも新品(子供)だ。
 まずい、このままでは本当に溺死だ。
 迫り来る理不尽な死の恐怖に恐れおののいていると、秋葉が真剣な声を出してくる。
「兄さん……私が、土台になる。そうしたら、兄さんはあのホースに手が届くよ、兄さん一人でも、生きて……」
「ばか! 何言ってるんだ!」
 下らないことを言出した秋葉を怒鳴りつける。
「土台になるなら、僕だ。僕の方が男だし、しっかりしてる。僕が土台になるから、秋葉が逃げるんだ!」
「駄目! そんなの!」
 秋葉は泣きながら、かぶりを振った。その勢いで涙が零れ、いつのまかに踝まで来ている水面に雫を落とす。
「私より、兄さんが!」
「僕より、秋葉が行くんだ!」
 僕と秋葉は一歩も譲らない。お互いのことを大切に思っているから、譲れない。
 二人の間に、静謐(せいひつ)な空気が流れた。どこか冷たく二人を隔絶するような沈黙。
 滝のように落ちる水音に耳を傾けながら、僕は溜息をついた。
 おそらく秋葉は譲らないだろう。そして、僕も決して譲らない。
 だったら、答えは一つしかない。
「わかったよ、秋葉。二人で一緒に出よう。二人で元の日常に戻るんだ」
 僕の言葉に、秋葉はゆっくりと頷いた。
「うん、分かった、兄さん……」
 僕たちはヒシっと抱き合う。この絶体絶命のピンチをなんとか抜け出さなくてはならない。
 二人で乗り越えるんだ。
 こんな苦境ぐらい、きっと乗り越えれるはずだ。
 大丈夫。僕たちなら出来る。
「ククク、良いよな……もう、完全に俺の事忘れてるし……はん、良いよ……どうせ、俺はそういうキャラだしよ……」
 いつの間に目を覚ましたのか、シキが三角座りでうずくまっていた。
 シキの言うとおり、言われるまで全く気がつかなかった。
 シキは例のサインペンを取り出すと、水で落ちかかっている『シキ』の名前に、訂正を加えていた。
/
/ シキ、シキ、志貴、シネ
 シネ、志貴、シネ、シネ
 シ、志貴、シンジマエヨ
「……」
 シキ……
 もしかしたら、こいつは再起不能かも知れない。
「あぁ! 兄さん!」
 秋葉はまるで思い出したように、大声を出した。
「私、凄く良いアイディアが思いた」
        ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 今日は、色んな事があった。
 辛いことや悲しいこと、少しだけ楽しいことや気持ちのいいこともあった。
 どんな思い出でも、それは思い出に違いない。
 良い思い出になるか、悪い思い出になるかは、過ぎ去った過去を振り返るときにしか分からない。
 僕はまだ過去を振り返るには幼すぎるから、今日の事を判断することは出来ないのかも知れない。
 こんなことも笑って話せる日が来るのだろうか?
 まぁ、笑わずにはいられないような気もしなくはない。
 僕と秋葉は、シキの体を土台にして、ホースに捕まって外に出た。
 シキには悪いことをした。
 けれど、シキも最後は快く僕たちを送り出してくれた。
 ――あ、秋葉、わ、分かったよ。俺が土台になるから、もう殴らないでくれ!
 やっぱり、君は僕の友達だった。
 秋葉にとっては兄だった。
 秋葉は目に涙を溜め、遠い目をして、呟く。
「シキ兄さん、あなたの貴い犠牲は無駄にはしない。私、きっと志貴兄さんと恙なく幸せになるから」
「いや、死んでない、死んでない……」
 月の仮面はふるふると手をふってきた。
 月の仮面の言葉を実践するかのように――卵は塩水に浮くってアレだ――シキはぷかぷかと水面に浮いていた。
 成瀬川土左衛門のように。
 僕たちは、兵どもが夢の跡を眺めるような感傷を味わいながら、池になってしまった穴を見つめる。
 また琥珀が埋めるのだろうか。
 思えば、琥珀も可哀相な子だ。毎日毎日脂ぎった親父のお飯事に付き合わされているのだ。
 きっと、お医者さんゴッコもやっているに違いない。
 ほーら、このぶっとい注射を今からしてあげるからねぇ。最初はちくりとするけど、そのうちに気持ちよくなるから、怖がらなくても良いんだよぉ。
 とか言っている、親父のだらしない顔が簡単に想像できた。
 あぁ、情けない。
 その上、こんな穴を掘らされて、墓穴を掘ったなとか言われた挙げ句、また埋めさせられるなんて。
 琥珀の気持ちも理解できる。
 僕がそんなことになったら、本当に誰かを埋めないと気が済まないかもしれない。
 誰かを意味もなく、とりあえずバラバラにしてみたくなることもあるに違いない。
 琥珀を憎むことはとても簡単だ。
 けれど、それじゃ何の解決にもならない。
 自分だけが良ければそれで良いって考えは好きじゃない。
 みんなが幸せになる方法。
 それを少しでも見つけなければならない。
「ちょっとー。なにボーっとしてるのよ。そろそろお代貰おうかしら。助けてあげたんだし」
 などと唐変木な事を、謎の月の仮面はさらりと言ってきた。
「全然役にたってないくせに、お金だけ持っていく気ですか?」
 少し不機嫌そうに秋葉は口を尖らせる。
「それでも助かったでしょ? 良いから、良いから。とっととよこしなさいって、安くしとくわよ」
 みんなが幸せになる方法。
 二人の会話が遠い声のように、頭の中でグルグルと渦巻いている。
 どうすれば良いんだろ。
 と――
「そうだ……」
 ある考えが頭に閃いて、顔を上げ、秋葉と交渉している月の仮面に向きなおる。
「あの、月の仮面さん」
「なによ? お金払うの?」
「あの、僕たち子供だから、あんまりお金持ってないんだ」
「んー、まぁ、そりゃ、そうでしょうけど、こっちも商売だからね」
「あの、だから、お父さんから貰ってください」
 え? っと秋葉が驚きの声を上げる。
 そんなことをしたら、夜遊びしていたのがバレてしまうではないか。そんな台詞を言いたそうな、不安げな顔をこちらに向けてくる。
「あ、そうか。そうだよね。普通保護者ってのがいるんだもんね」
 月の仮面は納得したように、相づちをうってきた。
 僕はそれから……と続ける。
「でも、僕たちの父親って凄い厳しいから、一筋縄じゃいかないと思うんです」
「そうなの?」
「だから、今からカメラ持って、親父の部屋に行ってください」
「は? カメラ?」
 こちらの意図が理解できなかったのか、月の仮面は顔に疑問符を浮かべた。
「今、親父は僕くらいの女の子とお飯事の最中だと思うんです。それを写真にとって、後日、封筒とかに入れてこの家まで送ってください。きっとお金をくれますから」
「へー、なんか変な手続きするのね」
「家、厳しいですから」
 あっさりと断言してやる。
 秋葉は呆然と、こちらを見つめていた。
 あぁ、これで良い。これで良いんだ。
 これできっと琥珀はお飯事をすることもなくなるし、墓穴を掘ることもないだろう。月の仮面もお金を貰ってうはうは。きっと百年くらいは生活に困ることもないだろう。
 僕と秋葉は今夜の事は誰にも知られることなく、再び日常に戻れる。
 シキは……
 ……
 まぁ、あんなキャラだし。
「何はともあれ……終わったなぁ……」
 僕はずぶ濡れの体のまま、大きく伸びをする。
 夜明けはまだ遠い。
 静粛な夜はまだまだ続く。
 けど、今日はもう疲れてしまった。服を着替えってゆっくり眠ろう。
 僕たちにはまだ明日がある。楽しくい事なんて、これから一杯ある。今日一日だけでやってしまうのも勿体ない。
 楽しみは明日にとっておいて、とりあえずは、これで幕を閉じなければならないだろう。
 あれ……?
 そう言えば……
「ねぇ、秋葉」
「何?」
「なんかだか、凄く大事な事を忘れているような気がするんだけど、なんかまだあったっけ?」
「うん、大事な事、忘れてるね」
 秋葉は、ほんのりと頬を染めて、恥ずかしそうにエヘヘと微笑んだ。
「私、まだ、返事もらってないよ」
「え?」
「オヨメサンになるって言った返事」
 風が森の木々を揺らすのと同時に、森の溶け込んでいる、秋葉の黒髪をゆるやかに撫でた。
 僕はそっと視線を上げる。
 上天には銀の月が浮かんでいる。
 僕の瞳にも、きっと色は映っているだろう。
 多分、今日の出来事は風だったんだ。
 森と月を一つにするための風。
 一つには出来ないけど、一緒にいることくらいは出来る。
 それの証明だったのかも知れない。
 僕はなんと答えようか、迷った挙げ句。
 ある一つの答えを秋葉に告げた。
             ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 エピローグ
             ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
 う、うー。
 し、死ぬぅー。
 ホントに死ぬー。
 マジで冗談抜きで、このままだと死んじゃっても何の不思議もないよー。
 あうー。
 あーうー。
 私は、頭に昇った血を、下げようと試みたけど、全然駄目だ。
 あんまり長時間逆さ吊りになっていると、それだけで気が遠くなる。
 頭はぐわんぐわんしてるし、どくんどくんと言ってる。
 本気で生命のピンチだ。
 めちゃめちゃやばい。
 うう、私のちょっとしたお茶目な冗談だったのに、姉さんたら本気で怒り狂うんだもんなぁ……
 しかも、私を裸にしたあと……
 ……生えてる……
 とか無表情で私の某所を睨み据えて、ガムテープで脱毛されたのは泣きそうだった。
 うぅ、せっかく生えてきたのに……また一からやり直しだよぉ。
 濃くなったらどうしよう……
 って、そんなことを言っている場合じゃない。
 なんとか助けを呼ばないと……
 でも、ここは遠野家の使われていない部屋だ。さっきからひっきりなしに叫んでいるけれど、誰も助けに来てくれそうにない。
 どうやら完全防音らしい。
 辺りを見回すと、何故だか拷問器具らしきもの(鞭とか、ロウソクとか)が転がっている。
 もしかして、拷問部屋だったのかもしれない。
 それとも、聞き分けのない子供を躾るための部屋だろうか。
 ――秋葉! また粗相をしたな。お仕置きだ!
 とかやっているのではないだろうか。
 遠野家は由緒正しき、旧家だから、そう言うものがあっても、なんの不思議もない。
 ……って、不味い。駄目だ。
 馬鹿な事を考えてたら、また意識が遠くなってきた。
 やっぱり姉さんがまた来るのを待つしかないのかも知れない。
 確か、一日一回は、槙久のおじさんと一緒に入っているのを見かけるので今日もきっと来るだろう。
 まさか、槙久のおじさんに、ここに来れなくなるような重大事件が起きて、姉さんが槙久のおじさんのお飯事から解放されて、あまつさえ私のことを完全に忘れたりしなければきっと来る。
 うん、それまで待とう。
 信じてるよ。姉さん。
「と、考えていたのが一週間前……」
 私は、ゲンナリと、独りごちた。
 いいかげん、死ぬかと、思う。
 一週間、飲まず食わずで、逆さ吊り。
 普通だったら、とっくに、死んでそうな、気がする。
 でも、私、意外と、丈夫、だった、みたい。
 きっと、私を見て、みんなはどんな感想を、漏らす、だろうか。
 虐め・格好・悪い。
 あぁ、なんか、凄く、嫌な、文句。
 このまま、死ぬ。の。か。な。
「むん!」
 え?
 目の前に、なんか、変な人が、いた。
 スキンヘッドで、パンツ一丁の、ムキムキマッチョな、男の、人。
 幻覚、だろうか。
 いや、幻覚でも、いい。助けて、くれるなら、なんでも、いい。
「あなた、は……?」
 助けて、を、言う前に、そんな、疑問が、口から、出た。
「おいどんは『憎』ですたい!」
 マッチョは、変な、自己紹介を、してきた。
 憎? それが、このひとの、名前だろうか。
「むー、お主、額に『憎』の字を持ってるでごわす! この国の国技で、自分の名前を相手に書けば、それはもう自分の領土! そうして、お主の額には既に、『憎』の字! つまり、おいどんのものですたい!」
「は?」
 なんだか、今、凄いことを、言われた、ような。
「ではー、早速、おいどんのものにですたい!」
 なんだか良く分からないことを言いながら、マッチョが、近づいてくる。
 マッチョは、いや。
 マッチョは、いや。
 マッチョは、いや。
 マッチョは、いやぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!


/END



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