■ 百合姫 / 檻笠観春

 目が醒めたら女の子でした、おしまい。



 頭の中で適当なエンディングテロップを流し、まぶたを閉じて終幕。上映時間は約2秒、御観覧ありがとう、ありがとう。



「…………」



 少しおいてから再び目を開ける。最初に目に映ったのは、自分が寝ている部屋の天井。そこから、視線をゆっくり水平に持っていく……と、最初にふたつのふくらみが目についた。

 それは、ぷっくりとふくらんだ、昨日までとは違う、でもまぎれもない自分の胸。



 ついでに股間に手を置いてみた。



『やぁ、ずいぶん縮んだなマイブラザー。そんなに小さくなったら男として

ちょっぴり悲しいぞ。

 っていうか、無い?』



 ……とりあえず、有彦ならこの現状に対してこのくらいの言いまわしはするんじゃないかな。ちょっと軽すぎる気もするが、まぁ有彦ならこんなもんだ。







 …………そろそろ現実逃避を終了しようか。



「……なんで?」



 現実に戻ってきたところでやっぱり理解はできなかった。理解しているのは、遠野志貴の身体が女の子になってしまっているという結果だけ。原因も理由もさっぱり浮かばない。仕方が無いから考える、とにかく考える。



 当然ながら、慢性的な貧血持ちではあるものの、それ以外は健常者といえる17歳の男子高校生が、朝めざめたら女の子になってましたなんていう話は、漫画、小説、映画、もしくはアニメか。とにかくそれぐらいで、現実に起こりうる可能性は皆無に等しいというか考えること自体馬鹿馬鹿しい。だから、これは夢だ。だが、滑稽な設定のくせに妙にリアルで、自分が見ている夢とはなんだか思えない。



(しばし思考)



 結論。これはまた、例のアルクェイドの使い魔が見せている夢だ。

 即座に結論づける遠野志貴。短絡的と言えなくも無いが、こんなもの回りくどく考えたところで時間の無駄だ。どう考えても一般常識人の遠野志貴に

他の結論など出せるわけがないのだから。

 おっと、夢の中で時間を気にしても仕方がないか。これは夢。朝になれば翡翠が起こしに来てくれる――



「おはようございます、志貴さま」



 ほら。これで悪い夢はおしまちょっと待て。



「翡翠、俺はまだ目を醒ましてないんだけど?」



「? わたしには、志貴さまははっきり目覚めていらっしゃるように見えますが」



 翡翠が怪訝そうに俺を見る。そりゃそうだ、我ながら訳のわからない質問をしたもんだと思ったが、翡翠は『あ』と口のかたちだけで呟き、すぐに表

情をもどした。



「そういうことですか。申し訳ありません、今洗面具を持って参ります」



 と言って、そのまま頭を下げて部屋を出ていこうとする。

 どうやら俺が顔を洗いものなんだと勘違いしたらしい。でも、そうじゃないんだよ、翡翠。

 わざわざ洗面器を持ってこさせるわけにもいかないから、俺はもうドアのノブに手をかけている翡翠を引き止める。



「待ってくれ翡翠。行かなくていい」



「よろしいのですか?」



「いい、顔を洗いたいわけじゃないんだ……そうだな、うん。あたしは目覚めてる、ちゃんと目覚めてる」



 ……………………。



「いややっぱり寝てる! なんだ今の『あたし』ってのは! 違うだろ、そ

うじゃないだろ遠野志貴!」



「…………」



「どうなってるんだいったい! 朝起きたら胸があって、いや胸ははじめからあるけどそういうことじゃなくてなんだか大きかったりするわけで、いや、さらに俺の足の付け根に本来あるはずのモノがなかったり無かったりでやっぱりないんだよ! だからこれはアルクェイドの使い魔が見せてる性質の悪い夢のはずなのに目覚めてもいないのに翡翠はおはようございますだ!

 何がなんだかもうさっぱりだ! 誰か説明してくれ!」



 ひとしきり叫びつくす。呼吸も忘れていたらしく、今になってハァハァと息の音がうるさい。

 ふと気がつくと、翡翠との距離がさっきより離れていた。



「あ――えーと、翡翠?」



「…………」



 翡翠は相変わらずの無表情のまま、一言も発せずにゆっくりと後ずさっていく。じりじり、じりじりと。そして、扉に背が当たると同時、律儀にもしっかり一礼すると、見ていたのにいつドアを開けたのがわからないくらい素早く部屋を出て行ってしまった。



 ……たぶん、翡翠はこのまま琥珀さんのところまで一直線だろうな。



 翡翠がいなくなり、部屋には息の荒い遠野志貴がただひとり。



 ……着替えは置いていってくれたから、呼吸が落ちついたら琥珀さんが薬を持ってくる前に着替えて、朝食を食べに行こう。







 もしかしたら着替えにスカートとかを用意されているのではと思ったが、翡翠が置いていってくれた服はあたり障りのないシャツとズボンだったので

安心した。その服の上にブラジャーとショーツが置かれてような気がするが、この安心感を妨害するものだったので無視する。今自分が履いている下着についても遠野志貴は何も考えない。



 考えないんだってば。



 とにかく服を着ることにする。下着には手をつけずにそのまま置いておき、シャツとズボンをさっと着こんだ。着るときに胸やお尻のあたりがきつく感じたが、我慢して押しこみ、着替えは完了。それから、改めて自分の身体を見る。



 ピッタリした服ではなかったが、それでも完全に身体のラインは隠しきれなかったようだ。しっかり膨らみ、それでいて型崩れしていない胸から、きゅっ、と、音すら聞こえてきそうなほど締まった腰周りを経て、再びバランス良くヒップに傾斜していく、起伏の激しい身体の線が服の上からでもわかる。



 どこから見ても完全に、しかもそこそこ恵まれた体型の女の子だった。少なくとも身体においては、遠野志貴が男だったと証明できるものは一切ない。



「夢……だよなぁ……」



 なんだか、自分が本当は女の子だったのではという錯覚すらおぼえてしまいそうで不安になる。夢だから醒めてしまえば良いだけと、根拠のない説得で自分自身をなんとか納得させ、俺は部屋を出た。







 階段を降りきったところで、ちょうどこちらに向かって来る途中だった琥珀さんと鉢合わせた。



「あれ、志貴さん? 翡翠ちゃんが志貴さんが熱があるようだって言うから、今そちらに薬を持って行こうとしたところだったんですけど」



 そう言って、見せつけるように水差しと袋を乗せた銀のトレイをちょっと前に差し出す。翡翠の行動はだいたい予想通りだったみたいだ。



「おはよう琥珀さん。悪いけど、もう大丈夫だから薬はいらないよ」



「えー、そうなんですか? ……まぁ、確かに顔色も悪くないですし、見た目も大丈夫そうですけど、せっかくですから飲んでおきませんか? 気分もスッキリしますよ」



「ありがとう、でも本当に大丈夫だから――ちなみに、それは何の薬?」



「これですか? 精神安定剤ですよ。私が調合したんです」



「原料は?」



「…………裏庭の」



「もういいです」



 琥珀さん、まだそんなもの作っていたんですか。



「えー、勿体無いから飲んでくださいよー。精製した後だから、捨てたら面倒なことになるかもしれませんしー」



「丁重に断らせてもらいます」



 廃人になりたくない俺は、食い下がってくる琥珀さんをどうにか追い返す。琥珀さんは納得がいかないようで、ブツブツ言っていたが、それだけで戻っていってくれた……ただ、ブツブツの中に『食事』という単語が混じっていたのが気にはなったけど。



 それにしても、琥珀さんも翡翠も、女の子になってしまった俺を見てもまったく動じないというか、遠野志貴を女の子として受け容れている。それに、対応に大きな変化もない。

 でも、考えればそれも当たり前の話だ。女の子であろうと遠野志貴は遠野志貴なのだから。

 なら、こっちが騒ぐだけ馬鹿だ。みんなが変わらないアクションをしてくるのなら、こっちも今まで通りのリアクションで返せばいい。なんだ、簡単なことじゃないか。



 そう思うと今までの陰鬱な気分もだいぶ薄れた。この夢がいつ終わるのかわからないが、変わらないものを変えてやることもない。夢の中でもいつも通りの遠野志貴、それでいいんだ。



 自分の中で整理がついただけなのに、歌いたくなるくらい上機嫌になっている、安上がりな自分に心の中で苦笑しつつ、俺は居間に入っていつもと変わらず食後のお茶を飲んでいる秋葉に、いつも通りの挨拶を交わす。



「やっ、おはよう秋葉」



「おはようございます姉さん」



 がん☆



「……姉さん、何してるんですか?」



「見ての通りだよ」



「姉さんに、柱に頭をぶつける趣味があるとは存じませんでしたが」



「……今できたんだ」



 俺の中の整理は、どちらかというとゴミを横に除けただけのものだったようだ。



 まさか秋葉の『姉さん』なんて一言で、柱への誘惑に耐えられず頭をぶつけてしまうほどのショックを受けるとは思わなかった。どうやら俺は、自分で思うよりも『遠野志貴=男』という図式にこだわっているらしい。



 それにしても、翡翠と琥珀さんがそれぞれ『志貴さま』と『志貴さん』で変わっていなかったもんだから、すっかり油断していた。



「秋葉……その、姉さんって……」



 『?』の一文字を、声には出ないがしっかり顔に出して俺の言葉に首をかしげる秋葉。



「姉さんは姉さんに決まっているじゃないですか」



「ああ、そうだよな。どうも今はそうなってるらしい。

 でもな、秋葉。今こうして話してるこれは夢で、あた……俺は、本当は男なんだ。だから俺は姉さんじゃなくて兄さんが正しいわけで、だから、できれば俺のことは兄さんと呼んで欲しいんだけど……わかるか?」



 そう、遠野志貴にはこんな体になっても、まだ自分が男であるというプライドというか意地というか、そんなものがまだ残っている。それを守る為にも、夢とはいえ秋葉には是非ともいつも通り兄さんと呼んでもらいたい。



「……何で姉さんを兄さんなんて呼ばなければいけないんです?」



 けど、今の秋葉には全然理解できていなかった。

 でもね、とりあえず納得してもらわないと、おまえのお兄ちゃんの――何ていうか、とても大事なものが壊れちゃうんだよ。



「だいたい何ですか、その俺っていうのは。姉さん、有間では自分のことを俺って言っていたんですか?」



「いや、有間の家とか、そういうのは関係なくて……」



 俺は最初から男なんだから……



「姉さん、ご自分が遠野家の長女だという事をお忘れのようですね。ここは有間の家ではないんですよ」



「待て、だから俺は長女じゃなくて……」



 男だから……



「何言ってるんですか姉さん、姉さんが姉さん以外のなんだっていうんです? まさか、また血が繋がってないからって、自分は秋葉の姉さんなんかじゃないとか言い出すんじゃないでしょうね姉さん。

 姉さん? ちょっと姉さん、聞いてるんですか姉さん」



「――――メシ食ってくる」



 これ以上は耐えられない。

 まだ後ろで姉さん姉さんと連呼する秋葉を置いて、俺は食堂へ逃げた。



 ……秋葉、兄さんの大事なものは木っ端微塵です。







「姉さん、なんだか顔色が優れませんね。お部屋でお休みになっていた方が

いいんじゃありませんか?」



 朝食を食べ終わり、居間に戻ってきた俺を見て、秋葉が言い放つ。言われるまでもなく、自分でも気がついている。



 ただ、その原因が秋葉にあったりするのだということは、悪気のない本人には想像もついていない。



「そうだな、その方がいいかもしれない……部屋で寝てるよ」



 だから、秋葉にはそれだけ言って、俺は居間を抜けて自分の部屋に戻った。



 それにしても、これからどうしたものか。この身体でどこかをうろこうという気も起きないし……

 幸い今は夏休みだし、この悪夢が醒めるまで部屋にいるか。あ、でも夢なら学校の心配をするなんていうのもおかしいな……



 などと、いまいち回転効率の悪い頭で考えつつ部屋に入ると、翡翠が部屋の掃除をしてくれている最中だった。翡翠も俺に気がつき、姿勢を正してこちらに向きなおる。



「あ……ごめん、邪魔かな」



「いえ、今終わったところです。何か御用件はありますでしょうか」



「そうだな、今のところは……そうだ。翡翠」



「はい、なんでしょうか志貴さま」



「ちょっと調子が悪いみたいで食欲がないから、昼食は要らないって琥珀さんに伝えておいてくれ。あと、ゆっくり休みたいから夕食まで誰も部屋に入れないでくれ」



「調子が悪いのでしたら、姉さんに言って薬を貰ってきますが?」



「いや、大丈夫。ちょっと気分が悪いくらいだから、静かに寝てれば治る」



「かしこまりました。ごゆっくりお休みください、志貴さま」



 そして一礼し、掃除道具を抱えた翡翠が部屋を出ていくのを見送ってから、ぼふっ、とベッドに倒れこむ。

 その時、顔に当たる風で窓が開けっ放しになっているのに気がついた。翡翠にしては珍しく、掃除の時に開けておいて閉め忘れたのだろう。が、吹きこむ風が心地良かったのでそのままにしておいた。



 目を閉じ、そのまま意識を放り出すと、たいして間も置かず、すぐに睡魔が押し寄せてくる。こうなれば、外で騒がしくしている蝉の鳴き声も心地良

い子守歌だ。



 ――夢の中で寝るというのも変な話だが、これで上手くすれば現実に戻れるかもしれない……そんなことを考えつつ、俺は眠りに落ちていった……







『遠野志貴 女の子劇場、第ニ幕』



 寝起きの呆けた頭が、意志と無関係にぞんざいなタイトルをイメージする。



「まだ、このままか……」



 相変わらず膨らみっぱなしの自分の胸を見ながら呟く。

 結局、目が醒めても遠野志貴は女の子のままだった。



 開いた窓から外を見ると、空は昏い茜色に染まっている。夕方も通り過ぎて、もう日没が近い。窓から吹きこむ風も、涼しさより寒さを主張するものに変わっている。



 身体に目を向ければ、やっぱり一番最初に目に入る、立派な胸。男の身体とはあきらかに異なる形状の部位が、遠野志貴が置かれた立場を否応なしに理解させてしまう。



 夢が醒めるまでは、女の子な遠野志貴を受け容れるしかないんだろうか……



「はぁ」



 自然と漏れるためいき。その勢いでこの女の子な胸が飛んでしまってくれないかと思ったが、叶うべくもない。



 ……女の子の胸……か。



 胸……。



「…………」



 頭だけを動かし、一通り見回す。当たり前だが周囲には誰もいない。



「えーと……ちょっとだけだから」



 誰に対して言っているのかわからない言い訳をするのは、何となく罪悪感があったからか。

 結局、身体はどうでも遠野志貴の心は男の子なわけで――興味本意、あくまで好奇心と自分を言いくるめ、シャツの上から左胸にそっと右手を添えた。



 すると、すぐに伝わってくる――手に触られてる感触。



「……当たり前だな」



 思わず口に出した通り、胸に伝わってきたのは、男であっても当たり前の、本当にただ触れられている感覚だけだった。まぁ、性別は違えど同じ人間の身体。そんなものだろうとわかってはいたが、ちょっと期待していただけに残念に思う。



 このまま止めてしまっても良かったが、せっかくだから胸に置いたその手で、ふにふにと軽く揉んでみる。



 揉んでいる手にくる感触は流石に心地良かったが、揉まれてる胸はこれまたマッサージされているのと変わらない感覚だった。それはそれで気持ち良いものかもしれないが、想像していた性的な心地良さはまるで感じない。現実の女の子がどうだかは確かめようもないが、少なくとも女の子になってしまった遠野志貴の胸は、まったく――



「……あ」



 そのとき、揉んでいた胸が少しだけ熱くなった。マッサージ効果で血行が良くなった分、熱くなるのは当たり前。と、即座に冷静に分析する自分。

 ――だが、身体のどこかがそれとは違う『何か』を敏感に感じ取っていた。



 それは、ただ熱いという感覚。それだけの感覚のはずなのに、その感覚を求めて手に力が入っていく。



「ふ……ぅ」



 熱い。



 揉んでいるところがどんどん熱くなってくる。その熱さをもっと引き出したくて、手が止まらない。



 気がつけば右手はシャツのボタンを外し、灼けるような熱さを肌から直接引き出さんとしていた。

 左手はさらに残りのシャツのボタンを外し、今はおなかの上に置かれている。



 ――熱い。



 理性は蕩け、別の何かが左手の位置に不平を言っている――そうだ、確かに左手の場所はそこじゃない。

 おなかに置いた手を、肌をなぞるようにしながら下に滑らせる。そう、左手があるべき場所は、そのもう少し先――



 ――――熱い。



 今や全身が熱い。吐息は火を吐いてるのかと思えるほどに焼け爛れ、視線は、それが絡みつくものすべてを焼き尽くしてしまいそうだ。当てもなくさまよう視線は身体だけでは飽き足らず、天井に絡み、壁に絡み、部屋にいるアルクェイドに絡んでいく。











 …………アルクェイドに。



 ……アルクェイドに。



 あと、その横で顔を真っ赤にして、食い入るように俺の姿を見ているシエル先輩にも。







 えーと。遠野志貴は今アレでナニな真っ最中であったわけで、それをアル

クェイドとシエル先輩に見られた……いつの間にとか、どこからとか、何で

とかはこの際問題ではないだろう。えっと、確かそれよりも重要なことがあ

ったはず……あ、そうそう思い出した。







 現在、遠野志貴は女の子。







「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああ

ああああああっ!!!」



 もう、男だとか女だとかそんなのはどこかに吹っ飛んで、恥ずかしさに目を閉じ、そこに生まれた真っ白だか真っ暗だか真っ赤だか識別する余裕もなく、もう、とにかく単一色の闇の中で、遠野志貴はひたすら悲鳴をあげた。



「に、逃げますよアルクェイドっ!」



「え? ってちょっとシエル、これからいいとこなのに何で逃げるのよ」



「見つかったら即時撤退は覗きの基本です! さっ早くっ!」



「あ、こら離すにゃー! もっと志貴の―――なとこ見るんだからー!」



「中断してしまったから、これ以上続きませんよ!」



「え、そうなの? んじゃ帰ってもいいか。志貴、またあとでね」



 そんなアルクェイドとシエル先輩のやりとりの間も、俺は悲鳴をあげ続けていて――やっと目を開けた時には、恐らくはシエル先輩に襟首掴まれ、窓から落ちていくアルクェイドの足とパンプスだけが見えた。



 後に残るのは、ベッドの上で衣服をこれでもかというくらいに乱れさせ、さっきまでは女の子そのものな悲鳴をあげていた、全身を火照らせる『鑑賞用』遠野志貴ちゃんがただ1匹。







 ――――もう、お嫁に行けない。



 激しい後悔と共に、男ならばまず浮かばない気持ちを抱え、遠野志貴は再び眠りに落ちていった――泣きながら。







「――志貴さま、志貴さま」



「ん……あ、翡翠」



 翡翠の声に、意識の主導権が眠りの闇から自分に戻ってくる。



「あ、おはよう、翡翠」



「おはようございます……ですが、早くはありません」



「え?」



「もう夜の7時を回っていますので」



 言われて窓から外を見ると、すっかり陽は落ちて真っ暗だった。



「そうか。俺、昼寝してたんだっけ」



 と、思い出す。ただ、寝る直前の記憶だけが何故かあやふやだったが……

 そういえば俺、何してたんだっけ?



「志貴さま、夕食の用意ができましたが、いかが致しますか?」



「あ、ありがとう。今行くよ」



 と、服のまま寝ていたのでそのまま起きあがって食堂に行くことにした。

 が、翡翠が何故か動かず、俺のことをじっと見ている。



「え、と……何かな、翡翠?」



 俺がたずねると、しばらく何か迷っているかのように黙っていたが、やがてきっぱりとした口調で告げてきた。



「……志貴さま。失礼だとは思いますが、下着はお着けになった方がよろしいかと思います」



「え?」



 予想だにしない翡翠の言葉に、思わず翡翠の目の前であることを忘れてズボンの中を見てしまう……が、そこにはちゃんと下着が着させられていた。



 ちなみに、こんなレースのついた下着を自分で履いた覚えはないのでこういう表現になる。



「翡翠、俺はちゃんと――」



 履いてるぞ、と言おうとして。今の遠野志貴にとって下着が必要なもうひとつの場所に思い当たった。



「あ――」



「志貴さまは、その……ご立派な身体をお持ちですが――いえ、だからこそ衰えは早いものです。婦女子として、普段から意識してその恵まれたお身体を維持する努力を怠ってはいけません」



「あ、ははは……そうだね」



「どうか、煩わしいとお思いでも、下着はお着けになってください」



「……わかった」



 とは言うものの、ブラジャーの着けかたなんて全然知らない。とりあえず朝置かれていてそのままにしていたブラジャーを手に取った。



 ……所詮下着だし、何となくでも着けられるような気がするが、慣れないものなだけに不安になる。そうして、自分でも気づかなかったが、ずいぶん長いこと眺めていたのだろう。



「お手伝いいたしましょうか」



「そうだね、おねがいしようかな――ええ!?」



 何気無く翡翠の申し出を受けてしまってから、そのことに対する問題に気がついた。



 手伝ってもらうと言うことは、俺の今の身体を見られてしまうということで……なんだか、男の時よりも恥ずかしい。



「や、やっぱりいい。大丈夫、ひとりでできるから」



「――本当ですか?」



 う。



 すべて見通していると言わんばかりの翡翠の言葉に、正直に反応してしまう。



「――お願いします」



 結局、どうせ今は女の子同士、女の子のことは女の子に任せるのが一番、と割りきることにした。



 とまぁ、ちょっと遠野志貴の中で騒ぎはあったが、実際には特別なことはなかった。手伝ってもらったのは、着けた後のホック止めくらい。着けた後ブラジャーの中に手を突っ込まれた時にはぎょっとしたが、そうやって着けた後に中の胸の形を整えるものらしい。使う機会はなさそうだけど、ちょっと勉強になった。



 そして1分足らずで着替えは終わる。



「では、食堂にいらっしゃってください。わたしは先に行っていますので」



 それでは失礼します、と着替えを手伝い終わった翡翠は部屋から出て行ってしまう。

 出て行ってしまったのを確認してから、俺は本当に触るだけのつもりで自分の胸に手をやった。



 ……うーん、確かにちょっと窮屈だな。圧迫感は僅かだけど、ブラジャーなど着け慣れていない遠野志貴にとっては、煩わしいかもしれない。まぁ、それも今だけの我慢だ。

 俺は胸から手を離し居間に向かった。







 居間では琥珀さんを側に控えさせ秋葉がお茶を飲んでいる。



「あれ。秋葉、もしかして、もう夕メシ食べ終わってる?」



「ええ、先にいただきました。どこかのお寝坊さんを待っていたら、せっかくの夕食が冷めてしまいそうでしたから」



「今日は人が多いので、秋葉さまには先にいただいてもらったんですよ」



 秋葉の毒舌に苦笑してか、秋葉の目に触れないように肩をすくめつつ琥珀さんが言いそえる。



「人が多いって……誰か来てるの?」



 この家に客が来るというのも、それを俺が聞かされていなかったのも珍しい。俺は琥珀さんに客についてたずねてみた。



「はい、今はアルクェイドさんが、食堂で夕食をお食べになっていますよ」



「へ?」



 だが、琥珀さんら伝えられた意外な名前に、間抜けな声が漏れる。

 冗談かとも思ったが、周りの音に注意を払えば、確かに食堂の方から、



「んー、でりしゃす♪」



 なんて、聞き覚えのあるアルクェイドの声と、



 ずぞぞぞぞぞずびずびずびー。



 なんていう、スープか何かを飲み干す下品な音が響いてきた。



「アルクェイドさん、食べっぷりがとっても豪快なんですよ。なんだか気持ちが良くなります」



「……どこがよ」



 嬉しそうにしている琥珀とは正反対に、血の気の引いた顔で口に手を当てている秋葉。まぁ生粋のお嬢さまである秋葉には、たとえラーメンであろうと、こんな音をたてて食われては気分が悪かろう。



「琥珀さん、アルクェイドが食べてるはラーメン?」



「スープスパゲティです。志貴さんの夕食も同じですよ」



 訂正。ラーメンじゃないのにこんな音たてられたら、俺だって気分が悪い。



 なんて話していると、



「ごちそうさまー♪」



 なんて声のあと、食堂の方から本当にアルクェイドがやってきた。



「あ、志貴。スパゲッティおいしかったよー」



「そりゃ琥珀さんが作ったんならな。それより、もっと静かに食え」



「なんで? この国じゃ麺類は音をたてて啜るのが礼儀なんでしょ?」



 それは蕎麦やラーメン限定。スープスパゲッティを音をたてて啜るのがマナーの国はない。たぶん。だが、それをいちいち説明する気にもならなかったので、



「違う」



 と一言で切り捨てた。



「そうなんだ。うん、次からは気をつけるね」



 こういう時はその素直さがプラスになるアルクェイド。

 思わず和んでしまいそうになるのを抑え、俺はアルクェイドにここで当然生じる疑問を投げた。



「ところで、なんでここでメシ食ってるんだ?」



「えーと、今はナイショ」



 だが、そう言ってアルクェイドてへへと笑うだけで、答えは得られそうにない。

 仕方がないので、もうひとつ浮かんだ気になることを先に聞こうと、琥珀さんを呼んだ。



「琥珀さん」



「はい?」



「何となくだけど、もしかしてシエル先輩もメシ食いに来てるんじゃない?」



 と、根拠はないがなんとなく確信を持って聞いてみる。



「はい。来てましたよ」



 そして、大方予想通りの返事が琥珀さんから返ってきた。



「カレーがお好きだというのでシエルさんにはカレーうどんをお出ししたんです。でも、アルクェイドさんと話しながら食べてたら手元がおろそかになっていたんでしょうね、食べ終わった時には、汁が服にたっぷりとかかっちゃいまして。そしたら『こんな格好じゃ恥ずかしくて遠野さんの前に出られませんっ』って言って着替えに戻っちゃいました」



 なるほどね……あ、シエル先輩は『遠野さん』なんだ。いい加減なれてきたからもうショックは受けないけど……



 ……受けないけど、なんか、イヤ。



「とりあえず俺もメシ食ってきます」



 そうみんなに言って食堂に向かう。が、



「あ、そうだ。志貴志貴ー」



 とアルクェイドが呼び止める。



「どうした、アルクェイド」



 呼ばれて振り返った俺に、アルクェイドは、



「ごちそうさま」



 と、わざわざ俺に言ってくた。



「それは俺にじゃなくて、琥珀さんに言うことだろ」



「ううん、良いんだよ志貴で。スパゲティの話じゃないから」



「? おまえ、何を――」



 言ってるんだ、と言い返そうとして――おそらくは自分自身のために――すっかり忘れていた夕方のことを思い出した。



「それだけだよ。いってらっしゃーい」



 ちゃっかり秋葉の隣に腰を下ろし、ぱたぱたと手を振って俺を見送るアルクェイド。だが、俺の方はとても目が合わせられない。



 いきなり顔を真っ赤にする俺に対して秋葉の揶揄する声がかかる前に、俺は朝と同じように食堂に逃げこむ。



 その後の夕食は、まだ居間にいるであろうアルクェイドに会っても赤面しないよう心の整理をつけるのが忙しくて、せっかくの琥珀さんの料理の味も、まるでわからなかった。







 なんとか心を落ちつけることに成功し、夕食を終え、居間の方に戻る。たぶん居間にはいつもの3人にアルクェイドを足した全員が揃っているだろう。



 そう。そのアルクェイドといえば、あいつはなんだってここに客として来てるんだろう。

 呼んだのは考えにくいけど秋葉だろうが、アルクェイドと秋葉の仲が良いとは意外だった。それ以前に、ふたりはどこで知り合ったんだろう――なんて考えながら居間に入ると、



「――――」



「――――」



 秋葉とアルクェイドが対峙していた。



 ふたりの間に言葉はなく、かといってにらみ合っているわけではない。ただ、普通に視線を交わしているだけ。



 それだけなのに、凍りつくような緊張感と、こっちにまで突き刺さってくるような殺気が部屋に充満していた。側に控えている翡翠など、顔を真っ青

にして今にも倒れそうになっている。



 あ、やっぱり仲悪いのか。



 そんな中でも平気な顔をして翡翠の隣で同じように控えている琥珀さんは流石だな。



 だが、それだけの感想を浮かべ、俺は居間を通り過ぎる。もう、今日の遠野志貴にはそんなことに付き合う気力は残っていなかったから。アルクェイドがここにいる理由も、そこで視線で殺し合いしている理由もどうでもいい。



「……今日はもう寝るよ」



 そして、俺の言葉を聞いて助かったとばかりに駆け寄ってくる翡翠を連れ、変わらない緊張感と、変わらない笑顔の琥珀さんが残る居間を後にした。







 ネグリジェ。



「翡翠、それは?」



 それは、見た目はひらひらした大き目のフリルがついた、生地がやや透けている薄いピンクのネグリジェ。



「寝間着ですが?」



 翡翠の返事も、これが寝間着であることを肯定している。すなわちネグリジェ。



「――着るの?」



「夜もシャツのままで寝るおつもりですか?」



 咎めるような口調で言ってくる翡翠。その手には、先ほどから口論(?)の対象になっている、ネグリジェ。



「……今日はパジャマで寝たい気分なんだけど」



「申し訳ありません。手違いで他の寝間着はみんな洗濯してしまって……」



 ……ネグリジェしかないのね。







 それが、寝る前のちょっとしたやりとり。



 そして、現在遠野志貴はピンクでフリフリでスケスケのネグリジェを着て、ベッドに転がっている。



 ――もう、夢でもどうでもいい。今日はホントに寝てしまおう――



 目を閉じると、慌しかった今日1日の出来事が途切れ途切れに思い起こされる。



 その中でも、一番恥ずかしかったのはやっぱりアレ。あの時、せめて窓を閉めて鍵でもかけておけば――



 鍵。



 がばっと飛び起き、ドアの鍵をかけようとする――より早く。



「失礼します」



 と、また翡翠が入ってきた。



「翡翠、今日はもう寝るから入ってこないようにって言ったはずだけど?」



「えーと、そうなんですけどー」



 その言葉になんだか口ごもる翡す……って、おい。



「……琥珀さん」



「かしこまりました。その前に、今日の志貴さまは体調がよろしくないようなので、この薬をと姉が……」



「琥珀さん、もうバレてますから」



「―――――――――――」



 息を飲む音。



 俺の声を無視して翡翠のフリを続けようとした琥珀さんの動きが止まり、呆然と、俺の方を見つめている。



「………気づいていたんですか、志貴さん」



「そりゃ、翡翠は『そうなんですけどー』なんて間延びしたしゃべり方しないし、琥珀さんのことは『姉さん』って呼ぶし……」



 琥珀さんの目が大きく見開かれる。そして、



「志貴さん、あなたは、全部」



 知っているんですね、と、琥珀さんの唇が動く。



 ……動くんだけど、ここでそのセリフは、ある意味琥珀さん自身への冒涜じゃないかと思うんですが。



 ちなみに琥珀さんは泣いていないし、俺も彼女の口を閉ざしたりはしていないから、深読みしないように。



「……で、何しに来たんですか?」



「え? だから、この薬を志貴さんにと――」



「この薬は何です?」



「風邪薬です」



「原料は?」



「――――わたしの口からはとても」



 心から勘弁してください。そんなモノ飲みたくないです。



「薬は要りません。とにかく、寝るからもう下がってください」



「え、で、でも……」



 まだ琥珀さんを部屋から追い出そうとしたところに、



「姉さん!」



 と、今度は本物の翡翠が飛び込んできた。翡翠にしては珍しく、息切れで肩を上下させている。



「翡翠ちゃん!? どうして?」



「わたしだって何度もやられればいい加減に気がつきます。それより姉さん、どういうつもりなんですか!?」



 そして、普段以上のキッツイ目つきで、翡翠がさっき俺が琥珀さんにしたものと同じ質問をする。



「えっと、だから志貴さんに風邪薬を……」



 しどろもどろに俺にしたものと同じ言い訳をする琥珀さん。が、翡翠の目の鋭さは変わらない。それで翡翠は誤魔化せないと悟ったのだろう。ため息と共にぽつりと呟く。



「志貴さんがお薬で痺れて動けないうちにいただいちゃおうかな、って」



 風邪薬ですらなかったんですか、ソレは。



「っ!? 翡翠ちゃん、寝てたのは翡翠ちゃんだけ?」



「? 他の方々は部屋で寝てるんじゃないの? 姉さん」



「しまった――ということは、もう」



「――そうよ、琥珀。やってくれたわね」



 声に全員の視線が部屋の窓に集まる。そこには――



「秋葉さま、いつの間に!?」



 そこには翡翠の叫びの通り、いつの間にか窓の下にたたずむ秋葉がいた。



 窓を背にこちらを見下ろすその身体を月光が照らしだし、淡く輝くその姿は、月より降り立った天使のごとく神々し――



「今、ベッドの下から這い出して来たんですよね」



 ――えーと、天使のごとく……



「……見てたの? 琥珀」



「ええ、たまたまトカゲかヤモリみたいにベッドの下からずりずり這い出してきたところを、しっかり見させてもらいました」



 ……どうでもいいや。



 容赦のない琥珀さんの比喩に、秋葉の髪に紅がちょっぴり混じっている。



「――琥珀、あとで覚悟しておきなさいね」



 で、秋葉は冷たい声で琥珀さんにそう言うと、俺の方をびしっ、指差して、



「とにかく、抜け駆けは許さないわよ琥珀。姉さんと最初に既成事実を作るのはこの私なんですから」



 と、問答無用とばかりにきっぱりと言い放った。



 ……あのさ、秋葉。言ってることも凄いんだけどさ。自分で言うのもなんだけど――俺、今女の子なんだけど?



「姉さんだって、美しい姉妹が性別と血縁という禁断の鎖で互いの身体を縛り合い、それを絆にして結ばれるシチュエーションには萌えますよね!?」



 だから、そんなツッコミどころ満載なことを言われても。というか、深窓の令嬢が『萌え』とか言うな。



「あ、そういえば」



 不意に、ぽんと手を叩いて琥珀さん。あの、いつの間に着替えました?



「アルクェイドさん、今はそこの窓の外の木から様子を見ているみたいですねー。大方、玄関から出て、外を回ってきたんでしょうか?」



 その言葉に、ざわり、と窓の外の気配が揺れる。



 いるのか。



「あと、シエルさんも志貴さんが来る前から部屋の隅で気配を消して潜んでたみたいですねー」



「――え」



 と、窓から一番遠い部屋の隅を見ると……法衣姿のシエル先輩がホントにいるし。



「さすが、影の薄いキャラは気配も消しやすいってことですねー」



「誰の影が薄いんですかっ!」



「姉さん、シエルさまが薄いのは人気であって、キャラではありません」



「そこも、さりげなく失礼なこと言わないでください!」



 翡翠と琥珀さんに食ってかかるシエル先輩。



 ――だが、そんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。



「――で、結局みんな、何しにきたのさ」



 そう、今はこれだけが問題だ。



「夜這いー」



 そして、その質問にさらっと答えたのは、いつの間にか部屋に入ってきているアルクェイド。



「……みんな揃って?」



「ううん。わたし以外はみんなただのお邪魔虫だから、志貴が気にするのはわたしだけだよ」



 そして、にぱっと、吸血鬼のイメージから一番遠い太陽を思わせる笑顔で、



「志貴の処女はわたしがもらうことになってるんだから」



 そんなふうに言葉を続ける。



 ……いろんな意味で勘弁してくださいアルクェイドさん。



「な、何を言ってやがるんですか貴方はっ!」



 この言葉には慌てたか、シエル先輩がアルクェイドに詰め寄る。



「そ、そうです! 貴方がどうやって姉さんの、その、しょ、しょ、しょ、しょ」



「処女」



「――をもらえるって言うんですか!」



 秋葉も言えなかった部分を翡翠に補完してもらいつつ、先輩と同じようにまくしたてる。



 あ、翡翠の顔赤いや。



「そんなの、空想具現化でちょちょっと男の部分を創ってやれば簡単だよ」



 んで、簡潔にその方法を教えるアルクェイド。



 へー、そんな都合の良い事までできるとは知りませんでした。でも、それはできれば世界平和とかに使ってもらえると、世界のついでに遠野志貴の平和とかも守られて嬉しいかぎりなんですが。



「ふ、ふ、ふ、不潔です! 不浄です! ハレンチです! わたしより先にそんなことしようとするなんて、誰が許そうとわたしが許しませんっ!」



 憤慨するシエル先輩、ただ『わたしより先に』って何ですか。



「そうです! 姉さんのしょ、しょっ、しょっしょしょしょ、しょっ」



「しょぢょ」



「――は、貴方なんかにあげられるような安っぽいものではありません!」



 今度は琥珀さんの補完。アクセントが何かヘンだったけど。



「別に、シエルや妹がどう思おうが関係ないし。ねー、志貴? あたしなら最初でも痛くないよ」



 だから、痛いとか痛くないとか、そういうのは関係なくてね?



 そんな遠野志貴の心の声は誰にも届かぬまま、話は進む。



「――とにかく。貴方には譲れません、アルクェイド」



「シエル先輩に賛同するわけではありませんが、姉さんを貴方のような野良猫に譲るわけにはいきませんね」



「へぇ。言ってくれるじゃないのふたりとも――じゃあ、ここで誰が志貴をいただくか決めちゃおうか?」



 その言葉を触媒に、部屋の空気の質が変わる。緊張し、停滞し、乾燥していく、部屋という限定された世界。

 その中で、遠野志貴&メイドシスターズ、完全に置いてきぼり。







「――でしたら、誰が良いか志貴さん本人の身体に聞いてはどうですか?」



 琥珀さんの、いつもと変わらない陽気でシャレにならないセリフが飛び出したのは、3匹の獣がお互いに食いかからんとした、まさにその時だった。



 さっきとは別のカタチで変質する部屋の空気――いや、空気は普段に戻っただけ。変わったのは遠野志貴の世界だけの空気。



 琥珀さん。俺、誰の獲物になるか決めろと言われるくらいの覚悟は多少していました。でも、あなたもっとトンデモないこと言ったでしょう。



 身体に聞けってことは、つまりその――全員に一度は襲われろ、ってことじゃないですか?







 沈黙が、決して破られて欲しくない沈黙が続く。永遠でないとわかってはいても、それが終わらぬことを願わずにはいられない沈黙。



「「それも、悪くないわね」」



 そんな願いも、アルクェイドと秋葉が同時に呟いた、まったく同じセリフで無意味になる。そして、同じようにゆらりとこっちを見るふたり。



 ……こういう時は妙に意気統合しているというかキャラがおんなじというか……どっちも微妙にサドっ気あるからなぁ……と、遠野志貴は分析モードに入った。



 現実逃避、とも言う。



 で、無言で手をわきわきさせつつ間を詰めてくるのがシエル先輩と琥珀。

 琥珀はいつもの笑顔が消えてるし、先輩は眼鏡外しちゃったりして、どっちもマジになっている。こっちもなんとなく似たもの同士だ。



 それでもって、ひとり出遅れた感のある翡翠は後ろで悲しそうにしている。

 ああ、こういう時じゃなければ慰めてやりたいところだけど、今はこっちの危険の危なさの方が遥かに問題なんだ。







 そして、ベッドを中心に展開され、わずかずつその包囲を狭めていく、遠野志貴包囲網。



「ひとりずつがいい? それとも、いっぺんにやろうか?」



 このまま静かに寝かせてくれる、っていう選択肢はナシですか?



「あら、いけませんよアルクェイドさん。公平に確かめてもらうんですから、順番は決められません」



 つまり全員で俺を襲おうっていうんだな、秋葉。



「そうですねー。志貴さんにはちょっとハードかもしれませんけど、ここにいいお薬もありますし」



 琥珀さん、それ朝と同じ薬のような気がするんですけど。



「……遠野さんがいけないんですよ。そんな目と身体でわたしを誘うんですから」



 先輩、その言い方オヤジ臭い。



「…………志貴さま」



 この中では何となく一番普通な翡翠。



「……はぁ……はぁ……志貴さま……志貴さま……」



 ……説明追加。普通に一番ヤバい。







 現状を見ていられず、俺は目を閉じてしまう。



 遠野志貴の貞操はもはや絶体絶命。包囲は完了し、あとは飛びかかるきっかけを待つばかり。奇跡でも起きない限り、遠野志貴が助かる可能性はない。



「今、目が醒めるっていう、都合の良いことは起きてくれない、よな」



 そう、そんな奇跡でも起きない限り――



『いいよ』



 そんな時だった。



 闇の中、不意にどこからか聞こえた聞き覚えのない声。そして、同時に暗闇だったはずの世界がさらに暗転し――







 ――目が醒めると、遠野志貴は男に戻っていた。



 窓からは柔らかい朝の陽光が射し入り、昨晩の熱帯夜の名残が部屋にわだかまっている。



 俺は、半身を起こし、改めて自分の体を見回す。胸は膨らんでない、股間にもちゃんとある。下着もトランクスだし、寝間着はブルーのパジャマだ。



「夢、だった……」



 助かったとか、良かったとか、そんな想いをこの一言で全部吐き出す。







 そうして一息ついて。



 気がつくと、俺の膝の上に、毛並みの良い黒猫が乗っていた。



 どこから入りこんだのか、何でこの部屋にいるのか、そんな疑問が浮かぶ。



 だから、聞いてみた。



「……おまえか?」



 たったそれだけ。



「にゃん」



 黒猫の方も、それを肯定するひと鳴き、ただそれだけ。



 だが、それでもう充分だ。。



「……………………」



 もう、言葉は要らない。



 俺は黒猫をつまみ上げ、ベッドから抜け出す。そして、窓に向かうとその窓をいっぱいに開ける。



 窓の外には良く晴れた青空と入道雲。その、いっぱいに広がった青空の一番遠いところに向かって、黒猫を思いきり放り投げた。



「にゃあ〜〜〜〜〜〜」



 緊張感のない鳴き声をあげて、諸悪の根源は空に吸い込まれていく。俺は、それの行きつく先を確認する前に窓を閉め、鍵をかけてついでにカーテンも閉める。



 ――これで、悪夢は完全に終わった。







 すべてが終わると、身体に残るのは疲労感。寝ていて疲れるというのもどうしようもない話だが、それももう心配はない。



 ――外は朝もまだ早い。もう少しだけ眠るため、もう少しだけ良い夢を見るために、遠野志貴は再びベッドに倒れこんだ。


/END



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