朝起きたら女性になっていた。
まあ、仕方ないのでお風呂に入った。
「翡翠ちゃん、お背中流してあげて」
「……はい」
何だかいい感じになっていた。
「志貴さま、痒いところはありませんか?」
「全部」
堪能しました。
「姉さん、朝から月を見てるんですか?」
よく分からないことを秋葉が言ってくるので、俺もわけの分からないことを言った。
「風呂、入れよ」
「入ってます」
「歯、磨けよ」
「磨いています」
「ババンババンバンバン!」
「ハービバノノ」
知ってるじゃないか。
ちょっと俺は驚いてしまった。
姉さんか……ちょっと萌えてしまった。
「遠野さん」
学校に来ると先輩がにこやかに迎えてくれた。
「とりあえず服を脱いでください」
「嫌です」
「駄目です」
「分かりましたです」
「それでいいです」
全部脱がされてしまった。
しかし、いつの間に女物の制服を着ていたんだ俺は……。
ぽっ。
思わず赤くなってしまった。
「こ、これが俺……いや、わたし?」
とか言ってみたりする。スカートはヒラヒラまいっちんぐ!
「ヘンな遠野さん」
確かに変な奴だった。反省しよう。
「上から87・52・84」
ナイススタイル! イッツグレイト!
「さあ、シエル、その身体で俺を慰めてくれ!」
「何を言ってるんですか、それは遠野さんのスリーサイズですよ」
「おーいっつぱーてぃじょーく笑えない」
「あははーっ」
シエル先輩は笑っていた。
カレーでも食ってろ、お前は……。
「貧乳」
黒鍵で刺されました。
ゲームオーバー。
残機は後3。死なないように行こう。
「あ、遠野さん」
女子更衣室で弓塚さつきが声を掛けてくる。
しょうがないので胸を揉んでおいた。
「きゃあ」
こういう光景のこんな情景はお約束なのです。
「わたし、もしかして、この為だけに出て来たの?」
「サブ・ヒロインなんだから、これで充分だろ」
また殺されました。
痛い。
残りは2機。しまっていこう!
『オー!』
通りすがりの野球部も応援してくれる。
いい奴らだ。
ここが女子更衣室の前だという事を除けばだが。
・
・
・
・
・
「きゃあーっ!」
さっきとは違う悲鳴が聞こえた。
奴らには残機がないのでコンティニューは出来なかった。
今日の弓塚さつきは凶暴だった。
どうでもよかった。
「あー、志貴じゃない」
下校の最中にアルクェイドに出会う。
「死ね」
三枚卸しにしてやりました。
「やったわねー!」
しかし、アルクェイドは三分で生き返りやがりました。
お湯をかけたのが間違いだった。
とりあえずピンチ。
「アルトルージュがタケコプターで空を飛んでる!」
空を指差して俺は言う。
「つーか、マジでいる!?」
俺は純粋に驚いた。
「うそ、どこどこ?」
「あそこ」
アルクェイドは子供のように空を見上げていた。
スキあり!
「必殺・アジの開き!!」
アルクェイドのひき肉――百グラム三百円。
六時から半額サービスです。
「安っ!」
帰ったらどら焼きを食べよう。
そんな一日になった。
「琥珀さん、お腹空きました」
「自分で作れ!」
怒鳴られた。そんなところもいい。
「琥珀さんの料理が食べたいんです」
「うるせえ!」
わっ、素敵だ……。
「琥珀さん、惚れました」
「ちっ」
琥珀さんは舌打ちすると、翡翠を呼んで料理をさせました。
もちろん食べさせられました。
また、残機が減った。
残りは1しかない。
困った。
夜になったのでお風呂に入った。
秋葉がいたので洗いっこした。
「おっと、手が滑った」
「もう、姉さんったら」
設定を忘れていたが俺は女になっていたんだった。
思い出したので、トイレに行ってみる。
「あ、こうなっていたのか……」
確認する。またひとつ賢くなった。
ついでに、秋葉のとどう違うかも勉強しておく。
「姉妹なんだから、一緒に寝よう」
「いいですよ」
素直な秋葉に萌えられなかったので後退する。
やっぱり、もうちょっと、こう、なんていうかな……。
一晩悩んだ。
・
・
・
・
・
そして、結論、秋葉は素直になれなくて意地を張っちゃう女の子。
それでいい。
馬鹿なこと考えてるな……。
疲れてるんだろう、もう寝た方がいいようだ。
「志貴さま、朝です起きてください」
「眠い」
「朝です起きてください」
「眠いから、夜にしてくれ」
「……かしこまりました」
どうやったか知らないけど、夜になっていた。
だから、寝てしまおう。
「ぐー」
*
朝になっていた。女性のままだった。
仕方ないのでお風呂に入った。
「今日は、わたしも一緒に、志貴さんを洗いますね」
「望むところです」
途中で秋葉が入ってきた。
「姉さん、琥珀、朝から何をしてるんですか!」
怒られたのでお開きになった。
残念だ。
しかし、秋葉らしくて安心した。
・
・
・
・
・
あれ? どうしてだ……違和感があった。
学校に来ると琥珀さんが教壇にいた。
「転校生です」
担任の知得留先生が琥珀さんを紹介する。
「琥珀です、よろしくお願いします」
教室から拍手喝采。
琥珀さんは俺に手を振っていた。
窓際ではアルクェイドが悔しそうにハンカチを噛んでいたので、翡翠が突き落とした。
でも大丈夫だった。
どっから翡翠が出てきたのかは謎だった。
「遠野さんって琥珀さんが好きなんだ」
「お似合いだよね」
クラス中から都合のいい噂が広がっていた。
なんか嫌だった。
そう思ったら揶揄の声は消えていた。
どうしてか気分が晴れた。
「志貴さん、一緒に帰りましょう」
相変わらずのメイド服のままで琥珀さんが俺を待っていた。
ここは学校の正門だった。
「どうして制服着ないの?」
「着た方がいいですか?」
明日になったらきちんと制服を着ていた。
似合ってた。
アルクェイドも制服を着ていたので、翡翠が洗脳していた。
「あなたを、巫女服です」
何だか楽しみだった。
「志貴さん、これでいいんですか?」
屋敷に付くと、琥珀さんが巫女服を着ていた。
秋葉も着ていた。
翡翠は料理を作ってた。
慌てて止めた。
・
・
・
・
・
違う……。
*
朝起きたら女性になっていた。
まあ、仕方ないのでお風呂に入った。
「翡翠ちゃん、お背中流してあげて」
「……はい」
何だかいい感じになっていた。
「志貴さま、痒いところはありませんか?」
「全部」
堪能しました。
―― 繰り返すな……! ――
「志貴さん、朝から月を見てるんですか?」
意味不明なことを琥珀さんが言ってくるので、俺もわけの分からないことを言った。
「月は出ているか?」
「出ていません」
「今は朝なのか?」
「そうですよ」
「どうして琥珀さんはそんなにも冷静なんだ?」
「あははー、どうしてでしょうね」
「だって、このまま女性だったら、百合姫になるんだぞ」
「反転衝動ですね」
いや。そこはかとなく七夜志貴メイド隊も悪くない。
「繋がりは?」
「落ちないですね」
琥珀さんは笑ってにっこり。
次の世代には頑張って欲しいなー。
―― 繰り返してどうする……!! ――
「遠野さん」
学校に来ると先輩がにこやかに迎えてくれた。
「とりあえず服を脱いでください」
「嫌です」
「殺しますよ?」
シャキーン! と黒鍵でうりうりと頬をつついてくる。
着せ替え人形にでもしようというのか?
キャラクター人気投票ヒロイン中最下位のクセに。
「……気が変わりました」
シエル先輩はそう言って弓塚さんに殴りかかった。
「――封印します!」
「きゃあ、何するのっ!?」
「あなたが、あなたが私を苦しめるんです。恐怖させたんですよ!」
「な、なんのことよ!?」
「とりあえず全国五十万人の先輩眼鏡っ子ファンに失望させないためにもあなたは邪魔なんです!」
「ばっかじゃないの!?、そんなにいたら最下位になんてならないじゃない!」
あ、言っちゃたよ、この子は……。
「志貴くん、そこにある第七聖典とってくれます?」
「ういっス!」
目が怖いので即座に了承! 呼び方も戻ってるし。
「わわわっ、わたしがピンチのときは、助けてくれるって言ったじゃない?」
「志貴くん、私を敵に回してみます?」
ぜってー無理!
「次の時間は体育だったな。先に更衣室で着替えてきます」
俺はすかさず親指を立てる。
先輩はウインク一つ。
「じゃあ、体育館の倉庫にでも逝き……ゴホン、行きますか弓塚さん?」
「きゃああああぁぁぁぁぁあああああっっつつーーーーーー!」
その後どうなったかは誰も知らない。
でもシエル先輩って拷問上手そうだな何気に……。
「あ、遠野さん」
女子更衣室で弓塚さつきが声を掛けてくる。
とりあえず線香を焚いておいた。
「アーメン」
「それって蚊取り線香じゃないかな?」
突っ込まれた。しかし今は女の子になっているので俺は突っ込めない。
これは口惜しい。
「シエル先輩はどうしたんだ?」
「埋めた」
「それは駄目だぞ。減点だ」
「なんで?」
「シエル先輩をそのまま埋めたらダイオキシンが発生してしまうんだぞ!」
「ええ!? 嘘でしょう?」
ああ、俺はこんな嘘しかつけない。
先輩を殺めてしまった弓塚さんに対してこんなことしか言えない。
それは気休めだった。
自分すら騙せない嘘に意味なんてない。
単なる慰めだ!
そんなことにも気づかなかったんだな、俺は……。
ははっ、主人公失格だ。
だって――信じるわけないじゃん、こんなこと。
つまんねーよぅ。
「わっ、環境汚染って執行猶予つくのかな?」
「つーか、信じたの?」
「……エライ言われようですね」
どっから湧き出てきたのかシエル先輩。
まあ、とりあえず……。
「ファイト!」
そんな掛け声とともに争う二人。
今のうちにナルバレック校長先生に言いつけてやろう。
今日の弓塚さつきはいつもと同じく凶暴だった。
シエル先輩はたまにはカレー以外の食事をとった方がいい。
でも、こんな日常も悪くはないのかもしれない。
―― また繰り返すのか? ――
朝起きたら学校に行く。
そこにある笑顔と優しさに感謝する。
「志貴さま、おはようございます」
「うん、おはよう」
出会い。別れ。その時折は一瞬で素晴らしくて。
他愛のない会話も思い出も。
「いつになったら兄さんはひとりで起きれるようになるんですか?」
「う、秋葉。まだ学校に行ってなかったのか?」
「秋葉さまは志貴さんの顔を見るのが日課なんですよ」
「こ、琥珀……!」
「あら、もしかして失態ですか、私?」
どこにでもある日常……。
「遠野くん、今日の宿題やってきた?」
「え? そんなのあったっけ?」
「おいおい、大丈夫かよ? 俺の真面目な志貴ちゃんはどこに行ったのやら?」
「じゃあ、有彦はやってきたのか?」
「俺がやってくるわけねーだろ、熱でもあんのか?」
「お前に訊いた俺が馬鹿だったよ……」
振り返ったら、そこにある……。
立ち止まったら、待っていてくれる……。
「先輩は、お昼どうするの?」
「もちろん、食堂でカレーとかカレーとかカレーとか食べますよ」
退屈じゃなかった。
むしろ楽しい毎日だったと思う。
―― でも、これじゃあ駄目なんですね、志貴さん…… ――
優しく響いてくる声に、俺はそっと頷いた。
「……約束したんだ。アイツ、馬鹿だから……待ってるだんろうな、今でも……」
「そうですね……約束したんだったら、守らないといけませんね……」
どこかで誰かが泣いている。
それは目の前にいる少女だったのかもしれないし、
遠くの空で、金色の月を見ているアイツだったのかもしれない。
「どうして、あのとき、言えなかったんだろう……」
「なにを、ですか?」
「幸せにするって言えなかったんだ……」
まるで子守唄のように、懐かしい声と……。
吹きぬける風の音が交錯していた。
「無責任ですね、それは」
「そう思うよ、俺も……」
それでも、夢の中の琥珀さんは、優しく微笑んでいてくれた。
違いますよ、と……。
「約束は守って欲しい。けど、それは結果じゃないんですね」
「……え?」
「私も今、気づいたみたいです」
「琥珀さん?」
「幸せにするなんて言わないで下さい」
空はどこまでも赤い。
差し込んでくる光はすべてを彩っていた。
―― だって、幸せって、ひとりじゃないでしょう? ――
彼女の顔はとても寂しそうに見えた。
でも、それでも彼女は笑顔だったから、余計に悲しく見えた。
「一緒に幸せになれたら、そんな道を大切な人と歩んでいけたなら……」
「…………」
「とても素晴らしいことだと、私は思います」
「そっか……」
簡単なことだったんだ。
どうして立ち止まっていたんだろう。
答えは出ていたはずなのに。
「行くことにするよ……」
ポツリと呟く。
琥珀さんは頷いてくれていた。
そう。
この日常の中で欠けていたもの。
大切な幸せの欠片。
きらきらと無邪気なアイツの笑顔だ。
思い出が薄れていく。
その前に。
見つけたい。
迎えに行きたい。
きっと、アイツは今でも待っていると思うから。
そう信じられるから。
たくさんの人に支えられて。
今の自分があるのなら。
彼女もきっと夢の終わりを待っていて。
連れ出してくれる誰かを待っていて。
寂しさに負けないように夢を見ているだけなら。
イフ≠ネんてもう必要ない。
必ず迎えに行く。
楽しいことたくさん知ってる。
アイツを連れて行きたい場所なんて山ほどある。
すべてが輝いている。
「兄さん」
「志貴さま」
「志貴さん」
「遠野くん」
そして、大切な人――
「遅いよ、志貴」
哀れな真祖の姫君・アルクェイド・ブリュンスタッド――
下校の最中にアルクェイドに出会う。
「へへーん、今度は負けないもんね」
少女は笑う。どこか日常を装って。
俺はこつんと頭を叩いてやった。
「やったわねー!」
アルクェイドは楽しそうにこちらに向かってくる。
出会ったら頃の……俺を殺そうと待ち伏せしていた時のように。
「絶対に許さないんだから!」
気が付けば、とっくに日は沈んでいる。
頭上には、大きな満月。
これもまた、夢の続きでしかなく……。
「許せないのはこっちだ。あんな別れ方ってあるかよ」
一歩一歩、近づいていく。
「ずっと待っていたんだぞ?」
どこかも分からない路地。
闇に沈み込んだ街。
月が綺麗だった。
「ほら、逃げてないでこっちに来いよ」
しかし、アルクェイドは見向きもしなかった。
「そうやって、またスキありって来るんでしょう? お見通しなんだから」
無邪気に、楽しそうに、はにかんで見せて、こちらに牙を向ける。
そんなにも俺との想い出を断ち切りたいんだろうか。
いや違う……。
そんなこと分かっていた。
「でも、俺は忘れないからな、お前と見た夕日の赤さも……」
だって……。
「俺はアルクェイドのこと――」
こんなにも……。
「好きなんだから」
「……え? 志貴、今なんて?」
スキあり。
「アルクェイド……」
「あっ!?」
驚いたように彼女は目を見開いた。
でも、すぐに閉じる。
優しい触れ合い。
俺が求めていたもの。
彼女が探し求めていたもの。
流れる時間。
唇が僅かに重なるだけの子供のようなキス。
だけど、これで十分だった。
これだけで、お互いを感じられる。
好きだって伝わるから。
「もう、これで終わりにしよう」
・
・
・
・
・
「うん、そうだね」
そして、長かった夜が明けた。
*
赤かった教室。
窓の向こうに広がっていた夕暮れ。
彼女をずっと待っていた。
果たせなかった約束。
『全部終わったあと――吸血鬼を倒し終わったらさ。
別れる前に、もう一回だけこうして遊ばないか?』
そんなことが今では空よりも遠い。
『だからさ――本当に、何の義務もなくなったあとで、ただ意味もなくあえたらどうなるかって、
そう思っただけ』
終わりが近づくだけ、彼女が遠くなる。
だから、約束を交わしたかったあの頃……。
『お前が忙しいって言うんなら別にいいけど。
俺もたんに思いついただけだからさ』
……ただ。
協力しあうもの同士とかいうんじゃなくて……。
気が合う友人同士として、本当に何気なく、ただ当たり前の思い出を作ってやれたなら。
きっと、彼女は喜ぶって思えたあの時。
それが……。
好き≠チてことだったんだ。
『うん――! ぜんぶ終わったら、またここに来ようね志貴!
何の意味もないけど、それはきっと、きっと凄く楽しいよ――』
夕焼けの教室。
煌き紅い。
ただ永遠という瞬間を純粋に望んでいた。
彼女が、まっすぐな笑顔でそう約束してくれたから。
そこにある確かな別れがあったとしても。
……俺は絶望していた。
二度と逢えなくなるのが分かってしまったから。
「じゃあな。俺も、すごく、楽しかった」
だから、また、もう一度……。
俺は……。
*
静まった部屋。
風の音もなく静寂だった。
窓から見えるのは月。
また月。
夢から覚めた現実でアイツはいない。
「馬鹿ですね、あなた……」
小さく響く声。
「……そうかもな」
俺は力なく応えていた。でも夢はいつでも見られる。
「もう、マスターには会えないんですよ?」
「……知ってるよ」
それでも諦めきれない想いだってある。
「では、夢くらい素直に見てください」
「そうも、いかなくてな……」
目の前には黒いコートを羽織った幼い少女がいた。
大きなリボンが印象的だった。
「やっぱり馬鹿ですよ……」
少女の名前をレンといった。
アルクェイドの使い魔である夢魔だといった。
「馬鹿でいいんだよ、この場合」
「……やっていられません」
怒ったのか呆れてしまったのかレンは肩を竦めてしまった。
「マスターのところに帰ります」
少女は軽い身のこなしで窓辺に立った。
「ああ、アルクェイドによろしく言っといてくれ……」
「…………」
少女は大きく口を開いた後、何かを言いたそうに、でも、口を閉じて……。
「……分かりました。何を伝えておくんですか?」
「愛してるって……そう伝えて欲しい」
彼女は俺を見ていた。
その円らな瞳は俺を非難しているようにも見えた。
でも冗談ではない。
本当の想い。
純粋な俺の気持ちの表れだったから。
俺は真っ直ぐに。
彼女の瞳を見返していた。
「…………」
それがレンにも伝わったのかもしれない。
こちらに微笑んでくれている。
「……そういうことは自分で言いに来てください」
今まで表情のなかった顔に、うっすらと赤みが差していた。
もしかしたら照れているのかもしれない。
「さようなら、また会う日まで」
少女はそう微笑んで、窓から飛び降り、霧のように姿を消した。
「ありがとう……」
その言葉に俺は静かに微笑んで、窓から遠い空を見上げる。
夜空には、大きな満月が浮かんでいた。
「約束……絶対に約束を守ってみせるからな――待ってろよ、アルクェイド」
冷たい風。
それなのに心地よい風。
守りたい約束。
心を強くもっていたい。
だから、俺はそっと声を紡ぎ出していた。
「居るんでしょう、琥珀さん」
*
予感はあったのかもしれない。
でも、そうだと確信していたわけじゃなかった。
ここで返事がなかったとしたら、ひどく拍子抜けしていたのかもしれないが。
安堵の溜息は付けただろうと思う。
でも、ドアの向こうの空気が僅かに振動していた。
「……いつ気が付いたんですか?」
「わりと初めの方かな? 分かんないけど……」
ドアがゆっくりと開いて琥珀さんが顔を覗かせる。
「そうですか、さすがですね……」
「どうだろうね、やっぱり朴念仁かもしれないよ」
「まさか――」
彼女はそう頭を振った。
「琥珀さんに返しておかないといけないものがあるんだ……」
「はい……」
「受け取ってくれるかな?」
彼女は『YES』とも『NO』とも言わないで俯くだけだった。
「感応能力なんですよ」
そして唐突に喋り出す。
「生まれ持った家系の血筋ですね。でも夢にまで作用するなんて思ってもみなかったですけど」
「……いいんだよ」
「志貴さんが見ていた夢を私も見ていました」
「いんだよ、もう……」
「楽しいものだったと思えますよ、こんな私からでも……」
でも彼女は笑って続けた。
「その代わり、無防備な夢の中では……私の心も志貴さんの中にあったんですね……」
ただ、たおやかに微笑んで、彼女は懐の中からナイフを取り出した。
遠野という名の監獄で、囚われていた心が今、放たれようとしている。
「志貴さん、分かっていますか?」
着物袖が翻って、足が踏み出されようとしている。
「好きでも嫌いでもない、白い世界の中で、貴方だけが、ただ憎かった……」
そして、ナイフが振り上げられる。
誰でもない……彼女の胸に。
カツーン。
そんな軽い音が部屋に響いた。
「……こんなときくらい怒って見せてくれてもいいのにな」
自分のナイフで、琥珀さんの刃を殺す。
早かったのは俺の方だった。
「そうですか? でも同じなんですよ」
夢で知った彼女の心。思い出。儚い記憶。窓際で見ていた明るい世界。
それらすべてを俺は知っていたから。
どさり。
倒れこんだ彼女の唇から赤い雫が零れていくのも分かっていた。
薬を嚥下していたのだ、彼女はすでに……。
「分かってくれますか? どうして貴方の目の前でこうするのか……」
「…………」
俺は静かに首を横に振った。
「嫌がらせなんですよ……」
言葉を吐くたびに血が零れていく。
「子供みたいに、自分をこうすることでしか、仕返しの仕方って思いつかなかったんです」
「馬鹿げてるよ……」
俺はそう呟くと彼女は満足そうに笑った。
無理矢理な笑顔ではなかった。
そこにあったのは純粋な微笑だった。
―― やっと、私のこと見てくれましたね ――
そんな弱々しい言葉が聞こえそうだった。
だから、余計に許せなかった。
返しに来てね
あのときの約束を思い出せたから。
あの一言で救われたのだから。
今度は、彼女……琥珀を救いたかった。
「琥珀さん知ってる?」
「……何をですか?」
「今まで見ているだけだったあの子が返しに来て≠ニ言ってくれた」
「…………」
「それでけで、遠野志貴は救われたんだよ……」
彼女の表情が変わったような気がした。
それは、今から俺が為そうとする行為にだろうか。
それとも……あるいは、もしかして……この想いが伝わったのだろうか。
―― 死なないで欲しい ――
凝視する。
彼女の中に入っている異物を殺≠サうとして。
脳髄に痛みが走る。
だけど止められない。
助けたい。
その一身だった。
「琥珀さんのこと家族だと俺は思っている」
「…………」
彼女は人形のように動かなかった。
でも、俺は続けた。
「夢に囚われそうになった時、言ってくれたよね?」
―― だって、幸せって、ひとりじゃないでしょう? ――
「俺は駄目な人間だからひとりじゃあ幸せになんてなれない。
秋葉。翡翠。それに琥珀さん……誰が欠けても俺は幸せになんかなれない!」
「……家族」
虚ろな彼女の視線は中空を彷徨っていた。
でも迷わないでいいように、俺は琥珀さんの手を握った。
そして、ナイフを振り下ろす……。
虚空へと散らばっていく意識に、崩壊の予感を感じながら……。
*
また夢を見ていた。
太陽がらんらんと輝く森の中を子供達が駆けている。
とても楽しそうにはしゃいでいた。
そこに視線が送られる。
どこからだろう?
俺は周囲を見渡した。
だけど誰もいなかった。
でも、まだ視線は俺の背中にくっついている。
俺は青空を仰いで見た。
遠くの空は広すぎて屋敷が小さく見えた。
蒼い窓。
そこに少女の姿が映る。
「おいでよ」
俺はそう言った。
「わたしもいいの?」
彼女がか細い声で言ったのを聞いて俺は笑って答えた。
「なに言ってるんだよ。当たり前だろ」
「うんっ!」
元気よく森を駆ける友達が増えた。
嬉しかった。
「これで家族みんな一緒だね」
少女が言う。みんな頷く。幸せ。
たくさんの幸せがあったから、もう大丈夫だった。
これからいくらでも幸せになれる。
笑える日が来る。
そのときは、俺の新しい家族を紹介したい。
「――うん?」
呑気に首をかしげる少女を俺は誘った。
木々の木漏れ日。日向の匂い。
金色の髪。
「行こうか、アルクェイド?」
「……いいよ」
彼女が笑ってくれる。
良かった。
また一緒にいられるんだ。
この先に待つ旅路。
長い道だ。
でも彼女と歩んでいけるのなら……。
もう離さない。
だって、こんなにも好きだから。
楽しいこと一杯知ってる。
辛いこともある。
その時折に彼女がいてくれる。
「どこまで行くの?」
そう彼女が訊いてきた。
だから、俺は答える。
「どこまでも……」
アルクェイドと一緒にいたいから。
―― 辛いだけの現実にあっても、その笑顔に陰りがないように ――
アルクェイドのこと護っていたい。
*
ずっと琥珀さんの手を握り締めていた。
どのくらい彼女は意識を失っていたのだろう。
もう朝は明けようとしていた。
「死ぬことも許してくれないんですか、志貴さんは」
「誰だって、そんなこと許してくれないよ」
最初に漏れた言葉がそれだった。
寂しくて堪らない。
「そうですか? いえ違いますよ。慣れません」
「どうして、そんなこと言うんだよ?」
「分かりませんか? 本当は秋葉さますら死んで欲しいと願っていたんですよ」
「そんなこと言う琥珀さんは嫌いだよ……っ!」
零れ落ちてしまう雫は何だろう。
心の根底にあるこの気持ちは何だろう。
これが夢の終わりに待っていたものなんだろうか?
「泣いているんですか、志貴さん?」
違う。泣いてなんかいない。
こんなことで泣いてしまうのは自分のために他ならない。
「芝居をしていた人形が壊れただけでしょう? それなのに馬鹿みたいですね」
俺は握っていた琥珀さんの手にいっそう強く力を込めた。
「分かったでしょう? この琥珀は誰とも家族になれません」
それは実の妹でもある翡翠との決別の言葉でもあった。
「本当に憎いのは志貴さんひとりです。だけど……」
もう彼女は笑っていない。
笑い方も忘れたように表情すらない。
それは本当の、琥珀……。
「志貴さんのせいですよ、どうして貴方は私の心をそう乱すんですか?」
「……え?」
「翡翠ちゃんのために私はこうなりました。それに後悔はありません」
ただ、ひとつ違ったのは……。
「なのに……それなのに、翡翠ちゃんのこと羨ましいって思ってた……」
彼女は泣いていた。
頬にすーっと涙が零れていく。
そこに感情はないというのに……。
「翡翠ちゃんの役柄を私は取ってしまったんです。貴方に近づきたい一身で……」
彼女は自分が泣いてることにさえ気づいていないのだろうか。
俺は何を言ったらいいのか分からなかった。
気の利いた言葉さえ出なかった。
「琥珀さん、それってそんなにいけないことなの?」
「……当然ですよ」
「翡翠はきっと全部分かっていたんだよ……」
「……え?」
「秋葉もきっとそうだ。だってみんな――琥珀さんのこと好きなんだから」
「…………」
「もちろん俺も琥珀さんのこと好きだよ」
「そんな、まさか……」
どんな言葉も希薄にしかならないのなら思ったことをぶつけるだけだった。
そんなことしか俺には出来ない。
でも本音で話したい。
「今くらい泣いてもいいんだよ」
彼女の頬に伝う涙を拭い取って俺は言った。
でも琥珀さんは哀しそうに首を横に振っていた。
「そんなことできませんよ……だって、もしかしたら私は幸せなのかもしれないって思ってますから」
「だから、泣いてもいいんだよ」
「……え?」
「嬉しいときにも涙は出るもんだから」
「そうかも、しれませんね……」
琥珀さんはそう言って、笑ってくれていた。
遠くにある気配。
ドアの向こうにあるもうひとりの琥珀さんも泣いていた。
夢を見ていたのはひとりじゃない。
側には別の遠野の血筋。
今は俺に任せてくれたのか去っていく。
「家族って、いいものですね」
「ああ、俺もそう思うよ」
「芝居をしていたつもりなのに、いつの間に飲み込まれていたんでしょう……?」
「きっと、琥珀さんが思ってる以上に初めからだよ」
「あははっ、本当に馬鹿だったのは、私の方でしたか……」
彼女は眼を閉じる。
また新しい夢を見るために。
レンが見せてくれたのは俺の見たい夢だった。
そこにある現実。
琥珀さんの子供のような寝顔だった。
まだ歩き出したばかり。
でも、あの夢と同じように毎日が楽しいものにすぐ変わる。
そうしてみせる。
「ありがとう、アルクェイド」
どうしてかアイツの笑顔が思い浮かんできた。
遠くの空。
朝焼けには懐かしい匂い。
眩しい光。
その陽光に煌いている琥珀さん。
そして、俺は……。
*
「結局、送り出してくれるのは翡翠ひとりだけか」
屋敷の門の前で俺は呟いていた。
新しい門出の日だったのにこれでは張り合いというものがまるでない。
でも、さすがに我侭なのかもしれない。
そこまでは高望みだった。
「はい、これが私の仕事ですから」
少し寂しい言葉だったけど、翡翠ならどう思っていてもそう答えるかもしれない。
「それに、秋葉さまは学校ですし、姉さんも家の仕事があります」
まあ、そうだけど、実際のところ二人とも不機嫌だった。
いや……翡翠もそうなんだろうけど。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい、志貴さま。行ってらっしゃいませ」
向かう先はひとつだった。
アルクェイドの待つこの大気の下へ。
同じ風を共有できる場所へ。
随分と、時間は掛かってしまったけど、ようやく始まる。
止まってしまったあの時を取り戻す為に。
「志貴さま、暫しお待ちを」
そこに、声。
翡翠が俺にあるもの≠渡してきた。
「姉さんがどうしてもこれを志貴さまに渡して欲しいって……」
翡翠から手渡されたもの。
そこに込められたメッセージを俺は知っていた。
*
――八年前。
事故に巻き込まれた後、遠野の屋敷から有間の家に預けられる事になった日。
屋敷を出ようとした直前、何を思ったのか女の子はそれ≠渡してくれていた。
……貸してあげるから、返してね。
そんなことを言って、女の子は走り去っていった。
約束を交わした大きな木。
その日はとてもいい天気で、見上げれば、自分が消えてしまいそうなくらい、高い高い青空だった。
それが八年前、遠野の屋敷を後にする時の最後の記憶。
――今までの思い出。
あの少女がこれ≠返しに行く自分を待ってくれていると思うだけで、どこか心が温かになってくれた。
……八年前、ただひとり待っている≠ニ言ってくれた約束。
*
だから頷く。それだけでいい。
「絶対に返しに来るよ、このリボン」
「はい、姉さんも喜んでくれると思います」
俺は苦笑した。
よく見れば分かることだったから。
蒼い空。
どこまでも続く空。
流れる雲。
風が辿り着く場所。
そんな大気を感じながら。
踏み出した一歩。
「じゃあ、行ってて来るよ、琥珀さん」
翡翠の格好をした彼女に言い残す。
でも彼女は驚いた様子も見せないで笑ってみせてくれた。
「はい、絶対返しに来てくださいよ」
そこにある笑顔は、もう曇らない。
この空と同じように、晴れ渡った心だ。
俺は前を向く。
彼女に恥ずかしくないようにこの道を歩みたい。
「もうすぐ春だな」
吹き抜けていく風には出会いの予感。
まだまだ続いていく。
旅路は始まったばかり。
明けない夜はないのだから。
「そうだろ、アルクェイド」
ただ今は風の中……。
/END