■ 日向色の日常 / フコぴ〜

「兄さん、明日は早くお帰りになってくださいね」

 夕食後―――優雅に居間のソファーでくつろぎながら、紅茶を一口飲んだあと、秋葉はそう言ってきた。
 俺の横には琥珀さんがいて、俺の目の前にあるカップに紅茶を注いでいる。秋葉のその台詞にどこか可笑しかったのか、クスッと小さく微笑んで、7分目になったティーカップからポットをさげた。
 翡翠は相変わらずの無表情で少し下がった場所に立っている。俺はカップを手にとってその紅色の液体を3分の1ほど飲んだ。
 それはいつもの風景、いつもの日常だった。

「なんだよいきなり。最近は結構早く帰ってきていると思うけどな。
 ―――そりゃまぁ時々、先輩と一緒にお茶を飲んだりして遅くなることはあるけど」

 と、そこまで言って、「先輩」という言葉に秋葉がピクリと反応した。カップを持つ手をとめて、ジッと無言でこっちを見ている。ふと見ると翡翠も目を細めてこちらを見ていた。
 訪れた沈黙――――――。

 何か言い訳しなければと思うのだが、そんな思いとは裏腹に頭の中は座布団にちょこんと座る先輩のことばかりが思い浮かばれた。

 最近はよく放課後に茶道部にお邪魔させてもらっている。もっとも茶道部と言っても先輩一人しかいないので二人きりで話をすることになるのだが。そのなんでもない、ほんわかとした時間が本当に気に入っている。
 しかし、いまさらだけどホント可愛いよなぁシエル先輩。普段のちょっとした仕草など、まるで年上とは思えないが、法衣に着替えたときは全く別人のようで、そのギャップがまたいいんだよな。
 戦闘法衣姿の先輩もセクシーだったし。またその姿で頬を染めて上目遣いに見られたときはもう殺人的に可愛かった。そのままギュっと抱きしめて最後まで……っていかんいかん、何を考えているんだ。

 どうも最近妄想癖があるようだ。一人でヘンな想像して悦に入るなんてフラストレーションでも溜まっているのだろうか。
 まぁ俺だって年頃の男な訳だしそのくらいあってもしょうがないんだろうけど。

 ――――――と。
 ふと顔を上げてみると全員がジト目で俺を睨んでいた。ま、まずい。

「あ、あのさ―――」
「いきなり御自分の世界に入り込んだようですが、何を想像していたのでしょうね、兄さんは」

 ―――――なっ
 一瞬にして頬がカァっと赤くなる。
 俺が先輩のことをいろいろ妄想していたことは、いまの会話の流れからみんなにはバレバレだ。とりあえずこの場は誤魔化すしかない。さっきの秋葉の言葉から想像するに相当だらしのない顔をしていたに違いないのだから。
 しかし、その前に秋葉が詰めてきた。

「こんな格好までして、恥ずかしいと思わないんですか」
 言って秋葉は自分を抱きしめるように、両手で肩を抱いた。
 ……妄想+アクションだったのか。
「あ、秋葉―――――」
「まったく。いつまで兄さんに付きまとっているのでしょうね、あの人は」
 口早に秋葉は切り出した。

「部活動を装って、下級生を部室に連れ込んでなにをしていらっしゃるのやら。学校を私物化して、ハーレムでも作る計画をしているのではありませんか? あの人は」
「秋葉、シエル先輩を悪くいうのはよせ」
「シエル先輩のことでしたか、兄さんとお茶を飲んでいらっしゃる相手というのは」
 ぴしゃり、と間髪置かずに言い放ってきた。こっちを睨む視線はますます厳しくなってる。

 ……図られた。秋葉の目的は俺の口からシエルの名前を出すことだったんだ。
 でもこうなったら、これ以上誤魔化すのは無意味だろう。いっそ開き直って認めた方がこの場をしのげるかもしれない。
 いや、今後もシエルのことが話題になるたびにこんな問答を繰り返すくらいならはっきりと秋葉や琥珀さんたちに伝えておいた方がいいだろう。そうでなくとも毎朝シエルが迎えにくるたびにみんなの視線が痛いほど感じられるのだから。

 カップに残っていた紅茶を口にし、それを飲み干してから切り出した。
「秋葉、俺は―――」
「兄さんは、私との事もそんな風に想像してくれるんでしょうか」
 ――――――え?
 さっきまでの秋葉はどこにいったのか、まるで勢いがない。それどころか俺の方も見ずに、寂しそうに視線を落とす。

 ――――――どくん。
 今のはどういう意味なんだろうか。
 ……いや、深く考えることはやめよう。ただ、今の秋葉を見ていたらどうしようもない焦燥感を感じる。

「私は」
 ――――――どくん。
 秋葉が俺を上目遣いで見る。

「兄さんが、その、1秒でも長く、側にいてくれればいいなと、思って言っているのですけど」
 ――――――どくん。
 あ……だめだ。頬まで染めてそんな風に言われた日には、もう俺には何も言えない。

 ――――――どくん。
 ――――――どくん。
 秋葉はもう何も言ってこない。ただうつむいて俺の言葉を待っているようだ。
 くそう、可愛いじゃないか。普段口やかましい分、しとやかになったときのこいつの破壊力は天下一品だ。
 なにか言葉を返さなきゃいけない思っているのに頭がうまく働かない。

「秋葉――――」
 秋葉が俺を見上げる。
 二人の目線が絡んでいく。秋葉の目は憂んでいて、それっきり俺は秋葉から目を逸らすことができなくなった。
 鼓動が早鐘のように鳴り、耳鳴りがしてうるさい。
 秋葉が何かを言おうとする――――。

「志貴さん?」
「「うわぁ!!」」
 声が目の前の秋葉からではない、別のところから聞こえてびっくりした。
 なんだ? 琥珀さんか!?

「いやですねぇ、秋葉さまも志貴さんも大げさに驚いて。二人ともボーっとなさってどうしたんですか? なんだか話が途中で脱線していたみたいですけど」
「…………姉さん」
 いかんいかん、ここには琥珀さんも翡翠もいたんだった。秋葉に見惚れていて完全に忘れていた。
 シエルだけでなく、秋葉にもトリップしてしまうなんて俺の妄想癖もかなりのものらしい。

 まだ俺の心臓、バクバクいってる。
 しかし、秋葉は驚きを隠せないどころか、さっきのことなどなかったように毅然としていた。
 ……気のせいか琥珀さんを睨んでいるようにも見えるが。

「そうでした。明日は大事な話がありますので兄さんに早く帰るようにと話していたところでした」
 琥珀さんは秋葉のそんな視線などまったく気が付いていないのか、楽しそうに相槌を打っていた。まったく、この人は天然なんだか知っててやっているのか……。

「聞いているのですか。兄さん?」
「あぁ、聞いているよ。でも大事な話ってなんだよ。もったいぶらずに今、話したらいいじゃないか」
「出来ればそうしています。でも、世の中にはタイミングというものがあるでしょう?」
「なんだよタイミングって。明日にならなきゃハッキリしないことなのか、それって?」
「いえ、それは―――」

 完全に立ち直った俺は秋葉に切り返した。秋葉の返す言葉を身構えて待ち受けていたが、予想外にも俺の言葉で秋葉は真っ赤になって押し黙ってしまった。

「ハッキリはしてるんですけど、言い出す切っ掛けというか、特別な日が良いとか、そういうのあるじゃないですかー」
「―――――琥珀!!」
 今度は完全に秋葉は琥珀さんを睨みつけた。しかし琥珀さんの言葉で耳まで真っ赤にしていたので、その言葉にはまるで迫力がない。

「とにかく!明日は早く帰って必ず家にいて下さい。いいですね、兄さん!」
 それだけ言って秋葉はロビーの方へ歩いていった。後に残されたのは、「えへへ」と笑う、まるで反省色のない琥珀さんと、無言でそれを咎める翡翠だった。

 
 



 

 ―――――コンコン
「―――どうぞー。開いてるよー」
「失礼いたします」
 ベッドの上でウトウトしていると、翡翠が部屋に入ってきた。音も無くドアを閉める。

「志貴さま、夜着をお持ちしました」
「あぁ、ありがとう翡翠。いつも悪いね」
「いえ、そのようにおっしゃる必要はありません」
 翡翠は俺の夜着を丁寧に机に置いたあと、そのまま立ち去……ろうとはしなかった。

「志貴さま」
 翡翠は何かを言いたげに、こちらをじっと見つめている。なんだろう、こんな風な翡翠は珍しい。
「志貴さま、明日が何の日だか本当にお忘れでしょうか?」

 …………?
 本当に忘れたも何も、明日が何の日だかまったく見当もつかない。
「いや、俺には何の日だか見当もつかない。何か特別な日なのか?」

「はい。思い出せませんか志貴さま。たしかに過去に一度だけなのですが、志貴さまも参加なされたことがあります」
 参加?過去?
「それは、子供のころの話?」
「はい。あの時は槙久さまもお祝いの席だからと、志貴さまやわたしたち使用人を大勢出席させ、それは盛大なパーティをお開きになられました。
 残念ながら、翌年からは志貴さまの事故や槙久さまの精神状態が不安定になられたのでかなり身内に限定され規模も縮小されましたが」

「――――ここまでの話では、思い返すことはできませんでしょうか、志貴さま」
「いや、思い出したよ。というか推理に近いものだけど。
 明日は秋葉の誕生日なんだろ? 翡翠」
「はい。おっしゃられるとおりです」
 ふっと翡翠の表情が柔らかくなる。

 そうだ、あれはまだ俺が遠野を名乗り始めて間もないころの話だ。まだ屋敷に来たばかりだったし、そのころは秋葉とも面識が少なかった。だからあまりよく覚えていないが、確かに一度だけ秋葉のバースディパーティとやらに出席した記憶がある。
 たしか、そのとき主賓である秋葉は、親父や親戚たちの相手をしてロクに何も口にしていなかった憶えがある。秋葉は、自分の御機嫌を取るために世辞を言うオトナたちに対して愛想笑いを振りまくことしかしていなかった。
 そんな秋葉を会場の隅から見ていた俺はそれを可哀想だなと思った。華やかな場内とは裏腹に物悲しい記憶、そんな曖昧なものだけが俺に残っていた。

 たしか、あのときに2,3度秋葉と言葉を交わした覚えもあるのだが―――それは本当に忘れてしまった。さすがに秋葉ももう覚えてはいないだろう。

「そうか、それが明日だったんだ。でも、さすがに日付までは覚えていなかったよ。そうか明日が誕生日だったんだ、秋葉のやつ」
 こくん、とうなずく翡翠。
「でも、なぜそれを今俺に?」
「それは姉さんが―――」
 翡翠は一旦そこで言いよどんだ。言いにくいことなんだろうか?
「いいよ、そのまま続けて」
「……はい。姉さんが志貴さまは女心もわからない唐変木だからきっとなにも思い出さないだろう、と」

 なっ―――――
「ですから、今日の内に志貴さまにお伝えして、明日の準備をしていただこうと考えたのです」

 ま、まぁ確かに翡翠が教えてくれなかったら、明日は何も考えずに学校から帰ってきて、突然開催された秋葉のパーティに参加するはめになって、そしてなにもできないまま過ぎていくんだろうということは容易に想像できた。
 しかし、唐変木はないよな、琥珀さん。

「出すぎた真似とは思いましたが、これをお持ちになって下さい。名義は志貴さまのものです」
 翡翠から差し出されたものは淡く白金色に光る一枚のカードだった。

「これで秋葉さまへのプレゼントをお買い求めいただければ、秋葉さまもきっとお喜びになられます」
「わかった。全部説明させてしまってすまない。
 ……こんなこと俺がすぐに気が付くべきなのにな。これじゃまだまだ兄貴失格だ。当然、遠野の家の長男なんてそれこそ雲の上の話だ」
「そんなことはございません! 志貴さまはいつも秋葉さまやわたしたちのことを案じて下さっています。
 ……ですから御自分のことを悪く言うのはやめて下さい」

 ……翡翠は優しい。この優しさがあることを知っているから俺はわざと自分を蔑んだように言っているのかも知れない。いまも心のどこかで翡翠に否定されることをわかっていてあんな言い方をしたのだと思う。本当は遠野志貴は卑怯なやつなのだ。
 それなのに翡翠は―――

「それに……志貴さまはわたしの主です」
 ―――――え?
 見れば翡翠はなぜか赤い顔をしてうつむいている。なんだ? 話の方向が違ってきた気がする、が?

「志貴さまのお役に立つことがわたしの使命であり生き甲斐なのです。ですからなんなりとわたしにお申し付けください。……志貴さまの喜ぶことが……わたしの喜びなのです」
 最後のほうは声が小さくなっていって、聞き逃してしまいそうだった。翡翠のいきなりな告白で戸惑ったがもちろん嫌な気はしない。むしろ翡翠にそこまで言わせてしまって、嬉しいやら照れくさいやらで返事に困ってしまう。

 アルクェイドやシエル先輩みたいに強引なのもいいのだが、翡翠のような、控えめながらも一途な心っていうのは男心にグッとくるものがあるんだよなぁ。
 それに主と侍女という関係がそれに拍車をかける。嗜虐心をくすぐられるというか、男の本能を呼び覚ませてくれるというか。
 特に翡翠は冗談が通じない分、苛めると面白いというか、可愛いというか、とにかくもっと苛めたくなっちゃうんだよな。

 って……いかん、ひょっとして妙に興奮してないか? 俺。
 まずいまずい、翡翠相手になんてこと想像しているんだ。お前は見境なしなのか?志貴。

 ―――――でも、翡翠がその気なら?

 翡翠は言っていた「自分の幸せは、俺の幸せ」だと。だったら何も問題ないじゃないか。あんな風な言い方をして男が何を望むかはいくら翡翠でも知っているだろう。俺も望んで翡翠も同じ気持ちなら彼女の思いに答えてやるのが男ってものじゃないのか?

 しかし、なにかが間違っている気がする。それがなにかはハッキリとはわからないが、とにかくとても大切な何かを忘れているような……

「志貴さま!」
「うわあ!」
 なんだ? 翡翠!?
 気が付くと翡翠の顔が俺の顔の目の前にあった。
「志貴さま、どうかなされましたか? 急に心ここにあらずといった感じで、何度お呼びしても反応がないので心配いたしました」

 ……また妄想に浸っていたのか? 俺、大丈夫なのか?
「すまない、ちょっと明日のことで考え事をしていただけだから。大丈夫、気にしないでくれると助かる」
「ですが……」
「本当に大丈夫だから。それよりも明日はいい日にしよう。それとカードありがとう、大切に使わせてもらうよ。あとは明日少し早めに起こしてもらえると助かるかな」

 これ以上翡翠に疑われたくなくて、口早にそう伝えた。
「あ……はい、かしこまりました」
 翡翠はまだ納得いかないような顔をしていたが、おとなしく頷いてくれた。

「じゃあ、もう寝ることにするよ。おやすみ、翡翠」
「はい、おやすみなさいませ、志貴さま」
 そう言って翡翠は部屋から出て行った。

 ……ふう、なんとかやり過ごしたか。しかし、どこまでが妄想で、どこまでが現実だったんだ、今のは。彼女が俺を慕ってくれているのは知っているが、あの発言はちょっと翡翠らしくなかった気がする。
 かといってあれが俺の妄想だとすると、俺は心のどこかであんな風になることを望んでいるということになる。確かに否定はしないが、いくらなんでも行き過ぎだ。あれじゃまるでサカリのついた獣のようじゃないか。

 疲れてるのかもしれない。なんだか頭もボーっとしてるようだし、いいかげん本当に寝てしまおう。明日は忙しくなりそうだ。
 そうして俺は眠りについた。

 
 

 

「―――おはようございます」
 翡翠の声が聞こえる。
「お目覚めの時間です、志貴さま」

 ん―――――
 目が覚めた。どことなく頭がぼーっとしているのは、昨日少し遅かったせいだろうか。

「おはようございます、志貴さま」
「おはよう翡翠、今日も起こしてくれてありがとう」
 そう言って時計を見た。6時30分。我ながら奇跡のような起床時間だ。翡翠の顔を盗み見る。早起きできたのはいいが、まるで遠足の日の目覚し時計よりも早く起きる子供みたいで少し恥ずかしかった。

 ともかく今日はいろいろありそうだ。早く起きることに越したことはない。秋葉も大事な話があるとか言っていたし……。

 ……まてよ。今日が秋葉の誕生日だということはわかったけど、秋葉の話はそのことじゃないんじゃないのか? 琥珀さんの話じゃないけど、当日に自分の誕生日を明かしても相手に準備する暇がないのだったら意味はない。
 それとも突然パーティに招待して俺を驚かすつもりなのだろうか? 俺の誕生日ならともかく、自分の誕生日でそれをやってもバカみたいだ。だったらほかに意味があるはず。

「志貴さま。制服を机の上に置いておきます。着替えられましたら食堂までお越し下さい」
「翡翠、秋葉はもう起きている?」
「はい。……ただ、今朝はあまり朝食をお取りになられなかったようです。気分が優れないご様子でした」

 え?―――――
「体の調子でも悪いのかな?」
「詳しくは存じませんが、姉さんがいま診断して下さっています」

 ……なんだって、こんな日に調子を崩すんだ、秋葉のやつは。ともかく、本当に調子が悪いなら安静にしていないといけない。パーティを開くつもりならそれも止めさせないと。

「わかったよ。すぐに行くから翡翠は先に行っていて秋葉を見てやっててくれないか」
「かしこまりました」
 ぺこりと一礼すると翡翠は部屋から出て行った。
こちらもさっさと着替えて部屋を後にした。

  
 居間に入ると、ちょうど食堂の方からも青白い顔をして秋葉が入ってくるところだった。口元はタオルで隠していて、傍らには琥珀さんが付き添っていた。大丈夫ですよと背中をさすっているそれは、まるで酔っ払いとその連れだ。

「大丈夫なのか、秋葉」
 返事をするどころか無言で俺を睨んでそのままソファーに腰掛けた。タオルは口元に当てっぱなしだ。
 しかたないので琥珀さんを見る。

「秋葉さまなら心配いりません。ちょっとお戻しになられただけです」
 その言葉で、ぎっと秋葉が琥珀さんを睨んだ。俺に余計な心配を掛けさせるな、ということらしい。
 けど琥珀さんは気づいていないのか、てきぱきと秋葉の身の周りを整理していた。
 ……なんだろうその姿に違和感を感じる。

「なんだよ秋葉。体調が悪いなら寝ていないとダメじゃないか。朝食もロクに食っていないんだろう。
 今日みたいな日に体調を崩したのは最悪だけどパーティみたいなものなんていつだってできるんだから無理しちゃダメだろ」

 ――――――!
 秋葉は驚いて俺を見た。
 しまった! 秋葉は、今日が自分の誕生日だということを俺が知らないと思っていたのだった。うっかり自分でバラしてしまうなんて、なんてドジ、信じられない。

「兄さん、ご存知だったのですか」
 口元からタオルを外して秋葉はつまらなさそうに聞いてきた。
「あぁ、昨日の夜―――ちょっと、寝る前に考えてたんだ。まぁ、推測だったんだけどな。
 すまない、俺を驚かそうとしてたんだろ」
「えぇ。ですがそのことはもういいです。パーティを開くのはもう止められませんし、私の方もどうやら予定どおりのようですから」

 ……予定どおり?
 なんだか秋葉の言葉は妙に歯痒い。それにさっきから感じる違和感はなんだろう。悪いものじゃない感じなんだけど。

「それでもお前の体の方が大事だぞ、秋葉。パーティを止められないなんて、そりゃお前が楽しみにしていたことはわかるけど、そんな状態で無理しても琥珀さんや翡翠に迷惑がかかるだけだろう? 俺も秋葉には休んでいてもらったほうが安心できる」
「でも、親戚の方たちも呼んでいます。いまさら遠野家だけの都合でやめるわけにはいきません」
「親戚って……そんな大げさなパーティにしたのか。たしかに遠野の当主の誕生日を祝うパーティなら盛大なものにすべきだろうが、お前はそんなに派手好きだったか?
 なにより親戚の連中を嫌ってたから、この屋敷から追い出したんじゃなかったのか、おまえは」
「私の誕生を祝うだけなら親戚など呼びません!けどこの場合は呼ばざるを得ないじゃないですか、そうでしょう、兄さん!」
 秋葉はすごい剣幕でこちらを睨んだ。けど俺にはなんでそんなにムキになるのかまったく訳がわからなかった。

「なぁ、秋葉。教えてくれ。俺には親戚一同を集めてまでやる理由がわからない。体調が悪いのに無理することもだ。
 お前が昨日言ってた大事な話ということに関係あるんだろう?」
 俺の言葉を聞いて、すっ、と秋葉は目を伏せた。 
そのまま、
「なるほど、兄さんは全て御承知していた訳ではなかったのですね」
 と言った。

「兄さん――――――」
 すぅっと秋葉が息を吸うのが判った。その表情は真剣だ。緊張してるのか口元が少し震えている。

「私――――――」
 秋葉はゆっくりと一言ずつ言葉を紡いでいる。
 そこまで言って、目を伏せて。

「できました――――――」
 肺の中の空気を吐き捨てるように秋葉言った。

 ――――――は?
 それで全部なのか、秋葉は顔を赤らめてそっぽを向いている。
 琥珀さんは俺のほうを見てさっきからくすくすと笑っているし、居間の入り口でトレイに水とタオルらしきもの乗せたまま、とんでもない顔で硬直している翡翠がいる、という事が俺には面白かったりするのだけれど。

 なんだって?
 私、できました?
 できた、って何が?

 できて、顔を赤らめて、くすくす笑って、硬直して、恥ずかしい出来事で、嬉しい出来事で、びっくりする出来事。

 ……もう一度考えてみた。
 私、できました。――――できちゃいました。できちゃった? ……あぁ、できちゃったのか。なるほど。ようやく理解できた。そういうことだったのか。

 ……
 …………
 ………………
 ……………………できただって!
 誰が!? 秋葉が!
 何を!? 赤ちゃんを!!
 なんで!? そりゃ決まってる!!!
 誰の!?
 ―――誰の?
 ――――――誰の??

 とりあえず、深呼吸して落ち着こうとした。
 けど、鼻も口もうまく動いてはくれなかった。
 ようやく、一度だけ呼吸してから
「誰の?」
 と、発音できた。

 頭はいろんな単語が飛び交って、全然まともに働いてはくれなかったし、心臓はバクバクいってやたらとうるさく感じた。
 目だけはかろうじて秋葉と琥珀さんの輪郭を捕らえていた。

「―――もちろん、陽一さまです、兄さん」
 ―――――――は?

 ……今度こそ頭が真っ白になった。なにか無意識で予想していた人物がいたような気がするがそれもどこかに消し飛んだ。

 なにもかもの情報が入力できずに記憶器官まで初期化されて、どこまでも白い空間の中、唯一動作していた情報処理器官は、辛うじて残ったただ一つの命令を、まるで壊れたレコードのように無限ループし続けていた。

 ――――――誰? それ?

 



 

「高田重工の一人息子、高田陽一ねぇ……」
 もちろん、俺はそんな人物は知らなかった。同姓同名のヤツならクラスに一人いたりするが、幸運なことにそっちとはまったくの別人だった。

 なんでも秋葉とは3年前から婚約しており、そのルックスは上々、成績優秀、スポーツ万能、現在大学院生で会社のプロジェクトにもすでにいくつか関っており、その発言力は社内のほとんどの役職クラスに影響を与えるという。
 趣味はスキーとモータースポーツ。とくにバイクは精力的にレースにも参加しており、プライベータながらも去年の耐久レースでは初参加で堂々の9位入賞だったそうだ。
 なーんだ、取って付けたようなヤツじゃないか。つまらない。

「はい、秋葉さまも週末になると必ずお会いに行かれるくらいのアツアツぶりなんですよ〜。すごくかっこ良くてお優しい方なんです〜」
 嬉しそうに琥珀さんは言う。どうでもいいけど、なんでそんなに嬉しそうなんだ? なんだか知らないけど、そんな琥珀さんにも腹が立つ。
 ふと翡翠をみるとまだ入り口で固まってた。

「あ、あれは、向こうが電話だけじゃ寂しいからって……もう、何を言わせるんですか!」
 怒ってるのか、恥ずかしがっているのか。いや、単に惚気てるだけか。
 ……だいたい結婚前に子供を作っちゃうようなヤツじゃないか。そんなやつのどこがいいんだ、秋葉は。

「で、今日はそのお披露目会ってわけなんだな」
「はい、兄さん。ちゃんとした結婚前にこんなことになってしまったのは弁解のしようがありませんが、黙っているわけにもいかなかったので」
「で、籍は入れるんだろうな?」
「既に入れています」

 ぐぅの音も出ないとはこのことだ。つまり俺にはまったくなんの相談もなかったわけだ。全て終わったあと、結果だけ報告すればいいと思っているのかね、秋葉は。

「彼のことを兄さんに紹介していなかったのは私の手落ちでした。今夜の午後5時よりパーティを開催する予定ですので、それまでに屋敷にお帰りください。
 そのときに彼を正式に紹介いたします」
「わかったよ、秋葉の好きにすればいい。というかもう俺の出る幕じゃない。あとは勝手に事を進めてくれ。
 俺はもう学校に行く。もう時間もないし、残念だけど朝食は抜くことにするよ琥珀さん。
 じゃまたな、秋葉」

「まって下さい、兄さん!」
 ……居間を出ようとするところで俺は秋葉に引き止められた。
 けど、秋葉の方を向いてはいない。これ以上あいつの顔を見ると何かを言ってしまいそうだったからだ。
「兄さんは、その、祝福してはくれないのですか?」

 ――――――っ!
 勝手な事を言うヤツだ。
 朝起きていきなり、結婚してます、子供もいます。なんて言われてみろ。百万年の恋だって気化して凍るぞ。

 ―――――恋?
 俺は秋葉に恋していたのか?
 そうかもしれない。
 違うかもしれない。
 確かに秋葉に妹以上のものを感じてはいるし、俺たちには血の繋がりもない。けど短絡的にお互いを求める、つまり恋人同士になりたかったのかというと、そうとも言い切れない。
 俺は今の関係がずっと続けばいいと思っていた。秋葉がいて、琥珀さんがいて、翡翠がいる。そうして4人でお茶を飲んでバカな話をして、のんびりとした時間を過ごす。そんなひとときが好きで、それが続いていくんだと信じていた。いや、そうあって欲しかった。

 けど、本当はそんなの叶うはずがないとわかっていた。だからせめて秋葉が高校を卒業するまでの3年間はそうあって欲しかったのに。
 現実はいつだって目覚し時計のように不意に襲ってくる。ふつうは気持ちのいい目覚めなんてのはあまりない。
 けど、やっぱり起きなきゃいけない。人間は食べたり、飲んだり、笑ったり、泣いたり、好きな人と一緒にいたり、嬉しいことを知ったり、怖い体験をしたり、新しい出会いをしたりして成長していくんだ。それは夢の中でできることじゃない。

「……妹を祝福しない兄がどこにいるっていうんだ。今はびっくりして考えがまとまらないだけだ。
 ……それだけだよ、秋葉」
 言って、肩越しに秋葉を見た。自分でも穏やかとは言い切れないが1/2の笑顔くらいは贈れたと思う。

「にい、さん」
 その言葉が適切だったかどうかはわからないが、それだけ言って秋葉はポロポロと泣き出した。
 立ったまま顔を両手で被い、ありがとうとか、ごめんなさいとかなんとか言いながらいつまでもぼろぼろと泣いていた。
 さすがに居たたまれなくなって、居間から抜け出した。

 ロビーに行くと、いつの間にか翡翠が鞄をもって立っていた。そんな、いつものなんでもないことが、無性に嬉しかった。黙ってそれを受け取ると、翡翠は先回りをし、ゆっくりと、音もなく、その大きな扉を開けた。

 
 


 

「なんだか、学校なんてもうどうでもいいって感じだな」
 屋敷から出て5分。まだこのあたりは通学途中の学生は少ない。閑静な住宅街を歩きながら一人ぼやいてみた。

 だいたい今日の朝はなんか変だ。
 秋葉のことはまぁいいとしても、妙に早起きできたり、琥珀さんには違和感を感じたり、翡翠も普段絶対に見れないような表情をしていたり。
 ……まぁ、それについてはなんだか得をした気分だったけど。

 翡翠の硬直してた姿を思い浮かべて可笑しくなった。くすくすと一人で思い出し笑いをしていてハタと気が付いた。

 ……琥珀さん、ずっと笑ってたんだ。
 そうだ。秋葉の付き添いをしていたときも、秋葉が告白したときも、俺が部屋を出るときも、常に一人笑っていたじゃないか。
 普段の琥珀さんなら、いつもは笑っていても、秋葉のことになると真剣になる。さっきみたいに秋葉が食事を戻して苦しんでいるときにクスクス笑っているなんてことは絶対にない―――

 そこまで考えて、答えが出てしまった。
 ……あれはツワリだったのか。
 なんだ、ツマラナイ。こんなのが違和感の原因だったなんて。

 つまり、琥珀さんは全部知ってたんだ。知っていたから、秋葉の容態は心配いらないと言ったし、俺と秋葉のやり取りを楽しそうに聞くことができたんだ。
 けど、翡翠は知らなかったみたいだな。やれやれ、翡翠も琥珀さんにいいように騙されたみたいなもんだ。

 今ごろ無言で琥珀さんに詰め寄ってるかもしれないな。あれで怒らすと怖いんだよ、翡翠は。今回ばかりは食べ物の一つや二つでは許してくれないかもしれない。
 そんななんでもない想像をしているうちに、ふと現実に返る。

 静かすぎやしないか、この道。
 いつもはこう、もう少し活気があるっていうか、会話があるというか。こんな独り言を考えていることなど最近はなかったのに。

 ……そういえば、今朝はアルクェイドが部屋に来てないな。シエル先輩の迎えもない。
 最近は毎日二人が迎えにきて、いつも喧嘩になって、怒声を聞きながら登校するっていうのがパターンだったのに。なぜか今日はどちらのアプローチもなかった。
 おかしいなぁ。やっぱり今日は変な日だ。

 
 学校に辿り着いた。時刻は朝の七時五十分。
 シエル先輩に遇えないかと、あたりを見渡してみる。正門前は登校してくる生徒たちで混雑していた。そんな人ごみの中、先輩の姿を探してみたが彼女が登校してくるような気配はどこにもなかった。

 こんな非現実的な朝をむかえた日は、とくに先輩に会いたいと思ったんだけど。

 結局、予鈴が鳴り終わるまで待ってみても先輩の姿を見ることはできなかった。
「………………」
 ここでこうしていても始まらない。休み時間に先輩の教室を訪ねてみよう。今はひとまず教室に行くことが先決だ。
 ため息を一つついて教室に向かった。

 ホームルームが始まって一つ気になったことがあった。
 有彦の席が空白なことじゃない。それはいつものことだ。今日はアイツだけでなく、高田君の席も空いていた。
 朝から妙なことばかり起こるのでいろいろなことがやたらと気になるのだろう。気が高ぶっているから普段気にならないことも目に付いてしまうだけだ。
 世間は俺が思うほどそんなにドラマチックに展開しているわけじゃない、そう思い込むことにした。

 
 


 

 一限目の休み時間。先輩を訪ねようと、足早に教室を出たところで有彦に出くわした。

「おっ、遠野じゃんか」
「おはよう有彦。悪いが今はお前にかまっている暇はないんだ、じゃな」

「……その対応は酷いんじゃないか? いくらシエル先輩に用があるからって、俺との友情を捨てると言うなら明日からオマエのこと、仇敵と呼んじゃうぞ」
「最初から無い物は捨てられないよ。それよりなんでシエル先輩のところに行くって分かったんだ、有彦?」

 有彦は俺の台詞にイヤな顔をしたが、それについては触れずに俺の問いに答えた。
「お前がそんな急いで行動する理由は他にない。唯一は先輩がらみだ。そこから推理すれば答えは一つしかないだろう?」

「なるほど」
 妙に納得してしまう。

「今度から俺のことは洗脳探偵乾、と呼んでくれ」
「そういうベタなギャグは嫌いなんだ。じゃあ、俺行くから」
 何の番組で見たのかつまんない事を言う有彦をおいて今度こそ先輩の教室を目指した。何か反論してくるかと思って背中を気にしていたが、何の反論も返ってこなかった。

 二階まで降りてきたときに、廊下の端に青い髪の人物が目に入ってきた。
「せんぱ―――」
 声をかけようとして、シエル先輩が誰かと話しているのが見えた。

 あれは…………高田君?
 高田君が先輩に何の用だろう?ホームルームにいなかったのに、なんで3年生の教室の前にいるんだ?
 それより、先輩と高田君って知り合いだったっけ??

 ……いや、先輩が誰と話してたって、別に不思議じゃないじゃないか。
 先輩は面倒見のいい人だし、どの生徒からも好かれている。話も面白いし美人ときてれば交友関係だって広いだろう。
 意外な取り合わせだったために変に疑ってしまったけど、先輩だってこの学校の生徒である以上、ここの生活がある。俺の知らないことなんて数え切れないほどあって当然だ。
 独占欲強いのかな……俺。

 自己嫌悪に陥りながらも、先輩の方をみると……あれ? ……先輩、なんだか悲しそうに顔を伏せてる。
 さっきから、先輩は完全に聞き手に回っている。ここからでは遠くてまったく聞こえないが、淡々と高田君がシエル先輩に向かって何かを話しているようだ。

 なんだろう。すごく気になる。
 ……でも、どうやら真剣な話し合いみたいだ。邪魔をするのは悪い。だいたい俺がここにいても覗きみたいな真似してるようでイヤだった。

 あとからまた来ればいいや。
 そう思って元来た階段を上がろうとしたとき―――
 ぼぼんっ!
 いきなりシエル先輩の顔が真っ赤に染まった。
 なんだ?!

 先輩は顔中真っ赤になって照れながら、なにやら文句を言いつつ高田君をポカポカと叩いていた。叩かれている彼の方も苦笑しながらそれを全て手で受け止めている。

 ……
 …………
 ………………
 どう見ても、仲のいい恋人同士のように見えるんですけど。
 他人の介入する隙などまったくない、と言っていい。
 見ると二人のじゃれ合いはまだ続いていた。

 ―――猛烈な疎外感を感じる。
 ふいに我に返って冷静に今の自分の状況を判断してみた。
 なんだか虚しい。廊下の陰から二人を見てる俺ってハタから見てどんなふうに見えるんだろうか?
 ……はぁ。考えるのもバカバカしい。
 …………教室に戻ろう。
 まったく本当に、今日はなんて日なんだろう。

 
 


 

 あっと言う間に昼休みになった。もちろん午前中の授業などまったく頭に入ってない。二時間目の休み時間に有彦が机に来ていたような気もするが、何を話していたかは記憶になかった。

 隣の席の高田君もいない。
 あれから彼の席は空白のままだった……と言うわけでもなく、彼は二時間目からちゃんと出席していた。何度か彼の方を授業や休み時間にチラッと盗み見てはみたけれど、別段いつもとまったく変わらない様子だった。
 けど、正直あまり彼のことを考える気力がない。今はクラスメイトたちと食堂に行っているようだ。

「よう遠野、昼飯どうするんだ?」
「食べる気がしない」
 食欲はまったくなかった。悪いが今日は、有彦には一人で食事してもらおう。

「有彦、今日は―――」
「遠野」
 ポン、と肩を叩かれて、目の前にガサリとコンビニ袋が置かれた。半透明のそれは、中にパンが数個と飲み物が入っているようだった。
 ? ……なんだろう? 食欲はないって言ったのに。

「有彦、これ―――」
「オマエの気持ちはわかる。けど、これもって先輩のもとに行っちまえ」
 確かに袋の中に入っているパンはカレーパンもあるようだった。言うまでもなく先輩の大好物だ。けど、なぜ有彦がこれを?

「なぁ、有彦。俺にはさっぱり―――」
「確認したわけじゃねえんだろ? だったら子犬のように拗ねなさんな。
 今のオマエは俺の仇敵と呼べる姿じゃないぜ」

 ―――――!
 ハッと顔を上げて、有彦の方をみると、アイツはすでに教室を出ようとしていた。ドアの手前でこちらに気づくと、片目をつぶり親指を立ててニヤリと笑った。
 ―――そしてそのまま外に行ってしまった。

 アイツ―――なに、一人でカッコつけてるんだか。俺がシエル先輩のことで落ち込んでいるっていうのか? そんなことよりこのパンはどうしたんだろう。わざわざあんなことを言うために買ってきたのだろうか。
 いや、そもそも俺は先輩の所へは―――

 ……そうだ。
 俺はなにしてるんだろう。
 たまたま先輩と他の男が仲良くしてるのをみて、勝手にショック受けて、勝手に落ち込んで。
 それで、有彦の誘いを断って、いらぬ心配もかけさせて……。
 まったく情けない。情けないやつじゃないか、遠野志貴というヤツは!

 そうだよ。
 腐ってる場合じゃない。
 先輩に会って話せば全部解決する。先輩には今朝のことも聞きたいし、秋葉の事で相談したいこともあるんだ。

 とにかく茶道室にいって先輩に会おう。あってどうするかはそのとき決めればいい。細かいことは全部あとからついてくるもんだ。
 今度ばかりは有彦に感謝だ。アイツには大きな借りができてしまった。
 サンキュ有彦―――
 心の中でそう呟いて、コンビニ袋を手に席を立った。

 



 

「先輩いますか―――」
 コンコンと茶道室のドアをノックしながら訪ねた。
 ひょっとしたら食堂でお昼を食べているかも、という想像が一瞬頭をよぎったが、そんな心配は杞憂だった。

「はい?―――あれ? 遠野くんじゃないですか」
 先輩がドアから顔を出す。
 いつもと変わらない受け答え。いつもと変わらない先輩の笑み。心の中を覆っていた暗雲がさーっと消えていく。やっぱりここに来て正解だった。ここだけは日常のままだった。

「先輩、一緒にお昼してもいい? ちょっと相談したいこともあるし」
 先輩はうーんと少しだけ考えてから、そうですねと俺を部屋に招いてくれた。
 お邪魔しますと言って部屋に入ると、和室独特の藺草の匂いがして心地よかった。

「で、わたしに相談ってなんです?」
 急須で俺のお茶を入れてくれながら、先輩は尋ねてきた。
 先輩のほうを見ると、足元には半分くらい無くなった手製のお弁当があった。やはりここで食事していたようだ。

 「んー、なんて言ったらいいかなぁ」
 先輩のところに来ることが優先だったために、話の内容を全然考えてなかった。頭の中で話したいことを整理するために、コンビニ袋から牛乳パックを取り出して、ストローを挿す。

「まず、今朝のことですけど、先輩なにか用事があったの?いつもの迎えがなかったから心配したんだけど」
 ちゅー、と牛乳を飲みながら先輩の顔を上目で盗み見る。そんな自信のない言い方をしたのは先輩になにかしらの疑いを持っていたためだろうか。

「そんなところです。今朝はちょっと……その、いろいろと忙しかったので」
 そう言って、ツイと先輩は目を逸らした。
 やっぱりおかしい。いつもの先輩らしくない。

「なんだか今日はおかしいんだよなぁ。朝から秋葉ともいろいろあったし、先輩も今日はなんだか歯切れ悪いし。
 そういえば今朝はアルクェイドのやつも来なかったなぁ」
「……まるで、来なくて寂しいみたいな言い方ですね、遠野くん」
 にっこりと張り付いたような笑顔で、そう返してくるシエル先輩。
 ―――――げっ、復活した。

「ち、違うよ先輩。いつもは騒がしく登校するのに今朝は異様に静かだったから戸惑ったって言いたかったんだよ」
「いつもアルクェイドに振り回されているのが日常だといいたいのですね、遠野くんは」
 相変わらず笑顔は崩れないが、それが作り笑いであることは一目瞭然だ。
 まいったなぁ、先輩はアルクェイドのことになると必要以上に絡んでくるからなぁ。
 怒った顔も可愛いんだけど、こういう反応はちょっとコワい。この場はなんとか機嫌を直してもらう方が得策だ。

「―――先輩」
「なんですか、遠野くん」
袋からパンを取り出すゼスチャーをした。

「……カレーパン食べる?」
「まだ、お弁当が途中です!」
 ……先輩ご機嫌直し作戦は失敗したようだ。

 
 


 

「それにしてもさ、俺も先輩にヤキモチ焼くことだってあるんだぜ」
 サンドウィッチの封を開けながら言った。
 こういう言い方をするのは俺としては珍しいのだが、一時間目の休み時間の出来事をどうしても確認しておきたかった。それをちゃんと聞いておかないとこの気分は晴れないな、と思った。

「それは興味ありますねー。どういうことですか? 遠野くん、説明してください」
 先輩は残りのお弁当を片手に、身体を少しこちらに寄せてきた。

「一時間目の休み時間、先輩、廊下で俺のクラスのコと楽しそうに話してたじゃないか。真っ赤になって笑い合ってるの見ちゃったんだよなー、俺。あれを見てさ、ちょっと妬けちゃったかなーって」
 少し拗ねたようにして言ってみた。年上の女性にはこういう言い方も効果あるだろう、って……あれ? どうしたんだろう、先輩の表情が真剣だ。

「遠野くん」
「―――はい」
「その時の会話を聞きましたか?」
 意外なことを尋ねてきた。そりゃ、親密な会話を聞かれたらバツが悪いだろうけど、どうやらそういう感じではない。

「いや、遠くからだったからまったく聞こえなかったよ、うん、一言も聞こえていない」
「そうですか―――」
 先輩は安堵の表情をした。けど、すぐに寂しそうな表情になる。その後、先輩はなにかを言おうとしたようだったが口は閉ざされたままだった。
 くそう、気になるじゃないか。

 やっぱり俺に聞かれたらマズイ会話だったのだろうか。けど、どうやら俺が考えているような内容じゃないみたいだ。なら、いったいどんな会話をしていたっていうんだろう。

 たしかあのとき、先輩と高田くんは最初真剣な面持ちで話をしていた。そのあと何か一言を聞いて、先輩は真っ赤に照れて、笑い合って。
 今も、そのことを考えてるだろう先輩はなんだか微妙な表情をしているようにみえる。嬉しいとか寂しいとか困ったとかなんとか、そういう表情だ。なにか大事なことを言わなきゃいけないのに言い出せない、そんな感じにもみえる。

 そのとき、俺の頭に今朝の秋葉の言葉が閃光のように閃いた。
「私、できました―――」

 まさか!?
 先輩が!?
 いや、そんなハズない。そんなこと信じられない。大体なんの根拠もない。俺の一方的な推測にすぎない。しかも最低な勘違いだ。今日は朝から変だとはいえ、なんて想像をするんだ。先輩に失礼すぎて自分が嫌になる。

 ……でも気になるのは確かだ。先輩もなんだか悩んでいるように見えるし、ここは少し強引でも話を聞いてみて状況をハッキリさせよう。

「シエル先輩、これあげます」
 言ってカレーパンを差し出した。我ながら手段がワンパターンで情けないが、今はこれしか持ち札がない。
 先輩は差し出されたそれを見て一瞬あっけに取られたようだったが、ひと呼吸おいた後、苦笑しながらも受け取ってくれた。とりあえず、取り引きは成立してくれたみたいだ。

「あ、オリ○ンタルマースのカレーパンですね。これ最近のお気に入りなんです。
 ちょっと甘めですけどサッパリして美味しいんですよねー」
 わーい、と言って、早速封を空けて一口ぱくりと口にした。ナイスな選択、やるな有彦。

 よし、聞くならタイミングは今しかない。
「先輩、さっきから言いかけてたこと、聞かせてくれないか?
 なんだか今日はいろいろあって、しかもあんまり良くないことが続いてるんだ。だからこのままだと先輩のことも変なふうに誤解してしまいそうで嫌なんだ。
 ねぇ先輩。一体何があったのさ?」
 思い切って聞いてみた。こんな風にしか先輩の気持ちが聞けないなんて情けないと思ったけど、これが遠野志貴の本心だった。
 あーあ、今日の俺は格別に弱気だ。

 ……
 …………
 じっと先輩と見つめ合う。ただ、見つめ合いながらも先輩は口を休めることはしなかった。
 やがて――――

 ごくん、と最後のパンの欠片を飲み込んでシエル先輩は言ってきた、「ふぅ。黙っていようと思いましたけど、遠野くんには隠し事はできませんね」と。

「実は埋葬機関本部に帰らなければならなくなりました」

 なっ――――――
 ……いま、なんて……?

「今朝の通達です。近日中に戻らなければなりません。……そして帰ってこられるかわかりません。」

 ――――――なにを……言って……

「遠野くんとは別れるのは本当に辛い。もう会えないかもしれない。
 だから、遠野くんの記憶を全て消して、わたし自身の記憶も消して、思い出を全部捨ててしまおう、そう思っていました。
 けど、ダメでしたね。やっぱり遠野くんはするどいです」

 先輩はそう言って俺を見た。
 優しい、泣きたくなるくらい優しい瞳だった。

 ―――言葉が出ない。
 ……これって、お別れの言葉だよな。もう会えないとかなんとかって。なんだよそれ。俺には理解できない。

 ……それに、なんでこんなこんなこと、普通に流暢に話せるんだ、シエル先輩は。
 俺との別れをなんとも思っていないのだろうか。
 先輩は悲しくないのだろうか。
 いろんなことを、そんな風に漠然と思った。

「……帰って……絶対に帰ってこれないわけじゃないんだろ」
「……」

「……ほら。シエル先輩は強いからさ、どんな事件でもちゃちゃっと解決してさ……」
「……」

「……すぐに『ただいまっ!』って元気に帰ってきてさ……」
「……」

「……また、俺達の先輩でいてくれるんだろ?」
「……」

「……」
「……」

「……」
「……」

 こんなんじゃダメだ。

「……なぁ、シエル先輩」
「はい」
「…………俺に手伝えることはないか」
「……」

「……俺、シエルに着いて行く」
「…………ダメです」

「どうして!」
「どうしてもです!」
 顔を上げた俺の目を、まっすぐに見つめ返して先輩はハッキリと言った。

「貴方には貴方の生活があります、遠野くん。」
「でも!」
「私の個人的な用件の為に貴方の生活を犠牲にする必要はどこにもありませんし、貴方に関って欲しくもありません!
 それに、学校や家族はどうするんです!? 8年間も放っておいた秋葉さんをまた一人にするつもりなんですか、貴方は!」

 ……くっ。
 ……断られると思ったが、そういう言い方をするか。
 先輩の言葉で朝の嫌なやり取りを思い出す。
 でもそれは、今は考えたくないと思った。だから今なお断続的に頭に浮かぶそれらを全部、無理矢理記憶の隅に追いやった。

「……秋葉は一人じゃないんだ。籍も入れてるし、お腹に子供だっている。あいつはもう俺がいなくてもあいつ自身の家族がある。
 おれはもうあの家には必要ないんだ……」

 そんな呪いの言葉を、吐き捨てるように言った。
 ムネガムカムカスル。
 気分が悪い。
 頭が痛い。
 なんで俺がこんなこと先輩に言わなきゃならないんだ。なんで先輩とこんな風にケンカしなくちゃなんないんだ。

 ふぅと、心の中で息をつく。
 いけないいけない……冷静にならなくちゃいけない。こんなことしてる場合じゃないはずだ。
 もっとシエル先輩の気持ちも考えなくちゃいけないハズだろ。
 ……落ち着いていこうぜ志貴、熱くなるな。

 思い出してみよう。
 元々、秋葉のことは先輩に報告するつもりだったはずだ。
 俺自身もまだ実感ないんだけど、でも兄としてやっぱりちゃんとしたいし、それで今後いろいろと身の回りのことで大変になってくると思うから、今後のことも考慮にいれてシエル先輩に相談にのってもらおうって、そう思ってたんだった。

「……それ、どういうことなんです? 遠野くん」
「……聞いたまんまだよ、シエル先輩。おれも今朝あいつから『できた』って聞かされたばっかりなんだ。
 ……もちろん驚いたよ。アイツのことを許せないとも思ったし、腹も立った。朝もロクに話をしないまま家を出てきたさ。
 ……でもね先輩、ビックリしてても腹が立っても事実は変わらないし、それを拒絶するよりは受け入れようと思ったんだ。
 それで、今日はそのことを先輩にも聞いてもらおうと思って、俺は朝から先輩のクラスを尋ねて、それで……それで……」

 そこまでは一呼吸で言葉にできた。けど、それから先は言葉にならなかった。
 何を言っていいのか、うまく考えられない。秋葉のことやシエル先輩、アルクェイドのことまで思い浮かんで、それらがぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。

「遠野くん……」
「…………」
 シエル先輩の声が聞こえて、ゆっくりと顔を上げた。

 すっと自然に先輩と目が合う。不思議なことにそれだけで気持ちが落ち着いてきた。
 先輩の瞳はいつも蒼くて底がしれない。ずっとずっと見つめていると意識までも吸い込まれそうで、それは怖い感じ。けど今は目を逸らす方が怖いと思った。一瞬でも目を背けてしまうとその瞬間に先輩がいなくなってしまいそうだったから。それだけはどうしても耐えられないと思った。

 やがて―――
 ゆっくりとシエル先輩の形良い唇が動く。

「遠野くん―――
 貴方、実の妹さんになんてことを―――」

 ――――――どげげげっ!
 …………コケた。……畳の上を思い切り。
 擦れて煙が出るかと思うくらいに思いっきりコケてやった。

 ……
 …………おーい。
 ………………それは、ボケ過ぎです、先輩……。
 なんでそんな風に受け取れるのさ。

 ……それに、たしか俺と秋葉が実の兄妹じゃないって先輩知ってるはずじゃなかったっけ?
 これって、もしかして先輩流のいぢめなんでしょうか?

 起き上がる気力もなく、しばらく畳の上で寝ていたいと思った。
 そんななか、休み時間を終える鐘の音がどこか遠くに聞こえたような気がした。
 
 


 

 ――――――放課後。
 またもや、茶道室で俺は先輩と向き合っていた。

 ―――ずずっ。
 シエル先輩の点ててくれたお茶を一口、口に含む。舌の上から順に、甘いような苦いような心地よい香りがふんわりと口内全体へ広がっていった。

 窓からは朱い朱い太陽の光。ガラス越し遠くに聞こえる数々の運動部の喧騒。下校する生徒たち。対して廊下側は薄闇色にして静寂。
 そんな対照的な世界に挟まれたこの部屋は、固有の時間を刻んでいる不思議な領域に思えた。
 それは今の俺達には相応しい場所だと思った。

「そうですか……、秋葉さんがねぇ…」
 先輩が呟く。事のあらましはすでに説明済みだ。
「てっきりわたしは遠野くんと秋葉さんが一線を超えてイケナイ兄妹になってしまったのかと思っちゃいましたよ」

 ――――――ぶっ!
 ……なんだ先輩、あれはマジボケだったのか。
 まぁ、この人はそういう天然なところも魅力的なんだろうけど。

「ひどいな先輩。俺のことなんだと思ってるのさ」
 本気でそう思ってたのか? シエル先輩は。
 ひょっとして全然信用無いんだろうか、俺。

「じゃあ遠野くん、妹さんにそういう感情は一片も抱いたことないって言い切れるんですか?」

 ――――――うっ。
 先輩、ニコニコと顔は笑ってるが、言葉の切れ味は抜群だ。そういうところは異常に鋭い。
 ……確かに一片もないとは言い切れないが、基本的には俺と秋葉は兄妹なんだし、よほどのことが無い限りそんなことにはならないって……
 ……あれ? よほどのことって何だろう。なんかそういう展開も考えようによってはあったりなかったりするのか?

 たとえば、秋葉の方から俺に告白してくるとか?
 ……いや、そんなことはありえない。もしも、たとえどちらかにそんな感情があったとしても決して口に出すことはないだろう。理性が吹っ飛ばされでもしない限りそんな都合の良い展開にはならない。

 まぁ、ロアあたりにでも取り憑かれたらどうなるか分からないけど。
 ……って、あれ?
 ……なんでここでロアの奴の名前なんか思い出すんだ?

「ふむ?」
 思わず腕を組んで首を傾げる。

「遠野くん! なに真剣に考え込んでるんですか!」
 うわ!
 先輩が真っ赤になって詰め寄ってた。
 ……そりゃそうだ、あんな会話の途中で考え込んだら誰だって誤解する。

「ゴメンゴメン、誤解だよ。ちょっと別のことを考えてたんだ。秋葉のことじゃない」
 あわてて言い訳をした。

「別のことって……なんなんですか一体。
 ……あ、わかりました。屋敷にいらっしゃるメイドさんのことを考えてたんですね?
 もう、遠野くんの浮気者!不埒者〜!」
 一人で勝手な想像をして、畳の目をぶちぶちとむしっていく先輩。……って、おいおい!
 ……あぁもう、なんなんだか。

「あのね先輩。そういう先輩はどうなのさ。
 先輩は俺以外のヤツはまったく興味ないって言える?
 それに、さっきはウヤムヤになっちゃったけど、俺まだ今日の一時間目の休み時間の話は聞いてないよ。高田くんとなんの話をしてたのさ」
「えっ、それはナルバレックが……」

 そこまで言って、ハッと表情を変え、顔を青ざめるシエル先輩。せわしなくキョロキョロと顔を動かしてたりする。
 まるで、ものすごくまずい展開になってしまったような、そんな素振りだった。 

「はぁ? なるばれっくって何です、先輩?」
「わーーーっ! その名前を言っちゃダメですっ!!」
 しーっ!と人差し指を口にあてて、反対の手は俺の口を塞いだ。

 ……なるほど名前だったのか。先輩の知り合いなのか?……それにしては秘密にしてって感じだ。俺にと言うよりは相手に知られたくないみたいだな。

 ……なるばれっく。
 どう考えても日本人の名前じゃない。
 だとすると先輩のあっち関係の人か……それともまた吸血鬼関連じゃないだろうな。

「先輩……ナルバレックって仕事関係の人?」
 ちょうど先輩の顔が傍にあったので、俺は小声でそう聞いてみた。
「…………」
 言っちゃダメです!と先輩の目は訴えていた。俺の口に当てた手に力がこもる。

 ……そういえば、大切なことがもう一つあったっけ。昼休みのとき、同じ話を振ったとき先輩は埋葬機関に戻らなければいけないって言ってた。先輩はそれを今朝聞いたって。そう考えると、そのナルバレックって人は埋葬機関の人じゃないだろうか。話から推測するにメッセンジャーかなにかか?

 けど、それだと廊下で話してた高田くんと結びつかない。なんでそこでいきなり話が飛ぶのか。
 もし、この二つのことに関連性があるとしたら。

「先輩、高田くんがナルバレックなの?」
 カマを掛けてみた。我ながら突拍子もないことだと思ったが、関連してることは間違いない。そこから謎解きの糸口を見つけようと思った。
 が―――。

「…………」
 先輩は目を見開いて、ぽかんと口を開いたまま呆然としていた。……どうやら俺の推理は正しかったようだ。
 でも、謎はまだ全然解けてない。

 そのままゆっくり1,2分は経っただろう。やがて観念したのか、はぁ、と肩を落として先輩は話してきた。
「参りましたね、遠野くんには。えぇ本当に参りました。
 こうなったからには最低限のことくらいは話すべきなんでしょうね」

 ……あたりまえだ。なにも話さずに記憶まで消していなくなるなんて考えをしてたくらいなんだから、最低限とは言わずに全部しゃべってもらう。
 いまさら無関係でいましょうってのは無しだよ、先輩。

「遠野くんの言う通り、ナルバレックは埋葬機関の人間です。そして遠野くんのクラスメイトである高田くんでもあります」
 こちらに顔を寄せて、ひそひそ話しをするように先輩は小声で話し始めた。俺もつられて先輩に顔を寄せる。

「けど、誤解しないで下さい。あくまで彼の意識を借りているだけにすぎません。しかも必要なときの僅かな時間だけですし、彼自身もそれに気づいてません。
 そしてなぜ、彼が選ばれたのかは理由があります」

 …………理由?
「彼女―――ナルバレックはわたしのロアに関する報告書を読んで、遠野くん、貴方に興味を持ったようです。もちろん報告書には遠野くんのことは最小限のことしか記載せずに、間違っても遠野くん本人には迷惑がかからないよう注意を払って作成したのですが……
 それが逆に彼女の興味を引いたようです。ただの人間にしては謎な部分が多すぎると。

 なにしろ、死徒であるロアに乗っ取られて無事に人間として帰ってこれたのはこの800年で遠野くんだけですからね。
 オマケに真祖である、あのアルクェイドも味方しているとなると機関どころか教会も放って置くわけがありません。
 ……おそらく魔術協会からもマークされていると思いますよ、遠野くんは」

 …………なるほど。
 そう言われてみれば、ロアどころかネロだって俺は滅ぼしているんだった。
 あのアルクェイドでさえ殺しきれないと言われた怪物を二人もやっつけておいて、なんでもない元の生活に戻れると考えたほうがお気楽だったのかもしれない。

「そこで機関のトップであるナルバレックが直々に動き出したのです。彼女は本部から意識だけを飛ばして貴方を監視しようと考えました。
 生徒である遠野くんを常に見ているためには、同じ学校の同じクラスの生徒であるほうが都合がいい。 しかも、親しすぎてはいけない。そうなると普段からあまり目立たない人物が適切です。
 そこで白羽の矢が立ったのが、貴方の隣の席である」
「高田くんだって訳だ」
「その通りです」
 ニコリともせずに彼女は言った。

 くそう。
 結局、俺はまた他人に迷惑をかけてしまっている。
僅かな時間で本人が気づいていないとはいえ、他人が勝手に意識を乗っ取るんだ。本人にとっては迷惑この上ない。あれを体験している俺から言わせてもらえば、あんなものは苦痛以外のなんでもない。
 埋葬機関だかなんだか知らないが、やってることは吸血鬼たちと変わらないじゃないか。
 しかも組織のトップがそれをやってるなんて腐りきってる。正気じゃない。
 人間社会全体を守るためなら、個々の人権はお構いなしだとでも言うのだろうか。

 腹が立ってきた。なんでシエルはそんな組織の一員でいられるんだろう。そんなヤツが上司で我慢してるんだろうか、先輩は。

 …………まてよ。たしか廊下でシエル先輩と、そのナルバレックとやらが話してたとき、やけに和気藹々としてたな、頬まで染めちゃってさ。
 なんだよ、先輩もちゃっかり浮気してるんじゃないか……。
 ……って女だっけ、ナルバレックって。
 しかし当然、シエル先輩も高田くんがそんな状態だと知っていたはずなのに、そんな状況でよく笑っていられたよな。
 どういうことだ。やっぱり先輩もその組織の一員に相応しいってことなのか?

「シエル先輩、一つ聞きたいんだけど」
「なんですか遠野くん」
「今日廊下で、そのナルバレックと話してたとき、妙に浮かれてたよね。先輩はやっぱりその人とは仲がいいの?」

「そっ!」
 そ?
「そんなわけないでしょうっっっっ!!」
 先輩の声が茶室に響いた。

「あんなのと仲良しだなんて言わないで下さいっ!
 あんな陰険で自己中心的で嫌味で殺人狂で足がクサくて耳年増で常識外れの変態ストーカー女と仲間だと思われたくありません!一秒だって同じ空気を吸ってたくありません。機関の他のメンバー全員に聞いても同じことを言います!
 アレと一緒に見られるのは人類にとって最大の侮辱ですっ!!」

 はぁはぁと先輩は肩で息をしていた。
 よっぽど嫌いなのか普段の先輩からは想像もつかない酷いけなしぶりだ。
 アルクェイドにだってそこまでは言わないんじゃないか?

「じゃあ、なんであんなに真っ赤になってじゃれ合ってたのさ。傍から見ててどう考えたって誤解されるような仲にしか見えなかったよ、あれは」
「あ、あれはじゃれ合ってたんではなく、バカなことを言った彼女を高田くんの身体からとっとと追い出すために、両拳に魔術効果を乗せて、直接叩き込もうとしただけです!
 ……残念ながら全部受け止められましたけど」

 ……な、なんだそりゃ。
「笑っているように見えたのはあくまでもカモフラージュです。一応他の生徒もいるんですからそういうことは必要でしょう?
 もっともあの時は笑っていたのではなく引きつってたんですけどね」

 はぁ……なんていうか。
 だったらそんなところで秘密の話なんかするなよなーと突っ込もうと思ったが口にはしなかった。
 それよりもう一つだけ引っかかることがあった。

「で、そのバカなことってのは何なのさ」
「――――っ!」

 先輩の顔がマトモに引きつる。そこだけは話から外そうとしてたみたいだけど、だからこそ余計に気になったんだ。

「いや、全然大した話じゃなかったんですよ、遠野くん」
 ブンブンと両手を振って誤魔化しているんだろうけど、その仕草は余計に怪しいって分かっていないんだろうか、先輩は。

「本当ですか?」
「う、疑り深いですね、今日の遠野くんは。
 本当になんでもない些末な話でしたよ」
「あら?貴女の可愛い片刃くんが貴女を待ってるっていうのが、そんなに些末なことなんですか? シエル」

 ――――――ひぃぃぃぃぃぃぃいっ!!
 シエル先輩が部屋の隅まですっ飛ぶ。
 はわわっと、口を開けて天井を見ているが、つられて天井を見てもそこはやっぱりただの天井だった。

「ナ、ナルバレック……」
「えぇ、……陰険で自己中心的で嫌味で殺人狂で足がクサくて耳年増で常識外れの変態ストーカー女のわたしですよ、シエル」
 この声の主がどうやらナルバレックらしい。
 ……なるほど、陰険そうだ。

「あ、あ、あなた、いつからここにいるんですか!」
 シエル先輩はもう、これでもかってくらい逃げ腰だ。……なんていうかすでに別人だ。

「最初からに決まってるでしょう。あんなカレーパン一個でベラベラと機密を漏らすなんて、あなたのその呪いは厄介と言うよりただの滑稽ですね。
 おまけにわたしのことまで一般市民に漏らすとは。
……あなた本当に埋葬機関の自覚があるのかしら」

 うっ、と唸って先輩は相変わらず天井を睨んでいる。俺には見えないが先輩には何か見えてるらしい。

「もういいです。貴女には失望しました。もう一秒だって自由にはさせません。さっさと戻って本来の仕事を遂行しなさい」
「まっ……」

 先輩の言葉は一瞬にして掻き消された。それどころか先輩の姿かたちも無い。
 気が付けば茶道室は静寂だけに包まれていた。

 ……は、はは。
 なんだこれ。
 先輩?
 どこいったんだよ先輩。

「先輩?」
 声に出して呼んでみた。けどどこからも返事はなかった。
「先輩!シエル先輩!どうしたんだよ!何があったんだよ!返事してくれよ!」
 叫んでも状況はまったく変わらなかった。
 もうすぐ夕闇が迫ろうとしているのか、この部屋もずいぶんと暗くなっている。

「先輩!なぁ返事してくれ!! 先輩!!」
何度叫んでも、力いっぱい大声を出してもシエル先輩の声はもうどこからも返ってこなかった。

 なんてこった。
 別れを惜しむ暇も無く、一瞬にして消えてしまうなんて。
 まだ信じられない。悪夢を見てるようだった。

「おい、ナルバレック!先輩をどうした!」
 ダメ元でナルバレックの方に呼びかけてみた。状況からみてヤツが先輩をどうにかしたとしか思えなかったからだ。

「どうもしませんよ。彼女には在るべき場所に帰ってもらっただけです」
 意外なことに返事が返ってきた。ハッとして辺りを見渡してみるがやはり姿形は見えない。

「あんたが無理矢理先輩をどうにかしたんだろう!卑怯だぞ姿くらい見せろ!」
 言ってまた部屋を見渡す。ひょっとしたら出てくるかと思ったからだ。

「それはできません。これ以上、一般人に機密を知られるわけにはいかないのですよ、遠野志貴くん。
 ……そういえば、挨拶が遅れましたね。はじめまして、と言うべきでしょうか?」
「ふざけるなっ! あんたのことなんてどうでもいいんだ。シエル先輩を返せ!」

 俺がそう言うとクックックと低い声で笑う声が聞こえた。なんだってんだ!
「可哀想ですが貴方はシエルに捨てられたのですよ、遠野志貴くん。いや、正確にいうと貴方はただの繋ぎだったというべきかな」

 ―――なに?
「……彼女には既に相手がいるのですよ。まぁ、化け物同士お似合いのカップルですがね。そのパートナーが今、彼女を必要としているのです。
 わたしはただそのことを彼女に伝えただけ。そして彼女は貴方より彼を選んだ。それだけに過ぎません」

 ――――な……んだ……それは?
「だから、貴方は捨てられたのです。もうシエルは戻ってはきません。そんなところで泣いていても惨めですからさっさと家に帰って、最愛の妹さんとやらに慰めてもらったらどうですか?」

 ――――ふ、ふ、ふざけやがって!
 秋葉のことも聞いていたのかコイツは!
 それに、先輩には相手がいたって?
 俺は繋ぎだったって?
 なんなこと信じられるものか!
 先輩に直接聞かなきゃ信じられるものか!

「オマエなんか信用できるか!先輩に会わせろ!先輩と話をさせてくれ!」
 半乱狂になって叫んだ。けど返ってきたのはもっと残酷な言葉だった。

「でも貴方は知りすぎてしまった。悪い芽は摘んでおくにかぎります。貴方はここで死んでもらう必要があるかもしれませんね。」

 ――――なっ!
 その言葉を聞いて反射的に身構える。ズボンのポケットを探りナイフを取り出して右手に構える。
 左手でメガネをスッと外して辺りをみる。茶道室の壁や天井に線が走った。

 ズキリ。

 どこからくる?
 相手はやっかいな術を使う。俺の眼で見えるだろうか?
 あのシエル先輩も抵抗する間なく、あっけなく消された。俺なんかで対抗できる相手なのか?

「そんなに身構えなくてもいいですよ。貴方は消すには惜しい素材ですからね」
 身構えたまま黙って聞き流した。この女の言うことは何もかも信用できない。

「ですから、貴方には当初の予定通り、記憶をなくしてもらいましょう。シエルと出会った頃から今日までの記憶を全部ね。
 生活に少々不具合が出るかもしれませんが、このまま悲しい記憶を持ちつづけるほうがつらいでしょう? だから何も言わず、ただその扉から部屋の外に出てください。そうすれば全て終わります」

 ナルバレックの言葉の後、この部屋の一つしかない扉がポゥと青く光った。この扉から出れば、俺は死ななくてすむし、余分な記憶もなくせると言うことらしい。

「馬鹿言うな!出るわけないだろう!そんなことより先輩と話をさせてくれ!頼む!」

 俺の言葉はただ部屋に響いただけだった。何の返事も反応もない。もう言うことは何もないってわけか、くそっ!
 その後も何度か叫んでみたが、まったく反応はなかった。もうここには俺一人しかいないような感じだった。

 ドアを見る。ドアはまだ青く光ったままだ。この部屋を出るためには必ずこのドアを通らなければならない。ドアは一つきりしかない。
 ……まてよ。
 ……窓から出たらどうなんだろう?
 別段青く光ってるわけじゃない。窓は普段と変わらなかった。

 ――――ガラッ
 試しに窓を開けてみた。もうほとんど陽は沈みかけで、薄暗闇のグランドが見える。風は緩やかに吹いていて、頬に当たると気持ちよかった。

「……シエル先輩」
 一言呟いて、窓枠に足をかけた。体重を乗せ窓から一気に外に出ようとして――――
「窓から出たら殺しますよ」
 窓の外の空間がぐにゃりと歪んだ。
 あわてて部屋に戻る。

 ――――なっ、なんて嫌なヤツ!
 もう怒った、どうなろうと知ったことか!

 掛け直していたメガネを再度外して、茶道室の壁を視る。
 そのまま壁を三角形に切断して向こうの部屋に蹴り飛ばした。

 壁にできた穴から飛び出す。時間が時間なのか、隣の部屋には誰もいなかった。そのまま廊下に出て全力で走り出す。もちろん周囲の警戒は怠りたくなかったが、今はここから一刻も早く外に出たかった。

(ふぅん、あれが遠野志貴の能力か)

 ナルバレックの力は茶道室にしか影響しないのか、校舎の外に出ても何の追撃もなかった。もちろんわけのわからない力で殺されることもない。

 とにかく全力で学校から離れた。

 念の為にひと気のない公園まで走ってきたが、あれから彼女の声を聞くこともなかった。
 ベンチの前まで走って、そこで一旦立ち止まり、はあはあと乱れた息を整える。
 夜の帳はすっかり降りて、公園にはすでに街灯が灯っていた。

 
 


 

「――――――志貴?」
「――――――あ、アルクェイド?!」
 声がしたほうに顔を向けると、公園の奥にアルクェイドが佇んでいた。薄暗い公園の街灯の下、あいつの姿だけが白く浮かび上がっている。
 あいつも俺の姿を見て驚いてたようだったが、すっとこちらに身体を向けると、その場でにこりと微笑んだ。

「アルクェイド、なんでここに……」
「さぁ、なんでかな。……志貴が呼んだのかもしれないね」
 アルクェイドはそう言って、もう一度嬉しそうににこりと笑った。

 な、なんだ。いつもなら、ドーン!っとダンプでもぶつかってくるような勢いでこっちに来るのに今日はいつもと様子が違う。
 大体あんなしおらしい言葉を吐くようなやつだったか? アルクェイドって。

 けど、こっちはそんな余裕のある状況じゃない。
「……ちょうど良かった。アルクェイド、おまえなんか、変な気配を感じないか?
 ……実はさっき埋葬機関のヤツに狙われたんだ。ひょっとしたら、まだこの近くにいるかもしれない」

 アルクェイドは「んー」と、きょろきょろ辺りを見渡す。俺が「埋葬機関」の名前を出してもさして驚いた様子はない。
「別におかしなところはないよ」
 相変わらずニコニコしながらそう言ってきた。
「志貴も大変だね。次々にいろんなとこに狙われてさー」

 ――――おかしい。
 こんなに余裕があるなんてアルクェイドらしくない。しかも埋葬機関はあいつの天敵だ。俺がその名前を出して普通でいられるハズがない。

 ……もうひとつ確認してみるか。

「アルクェイド、シエル先輩を見なかったか?」
 目の前にいるのが本物のアルクェイドなら、シエルの名前に絶対に何らかの反応をするはず。

「………………」
 けど、アルクェイドは拗ねたような目でこちらを見たまま何も言わなかった。

 ――――おかしい
 絶対におかしい!
 普段のあいつなら
「わたしの前で、あの女の話をしないで!」
 とか
「わたしがあの女を見るわけないでしょ。知ってても志貴には教えるわけがないわ」
 とかくらいは言うのに。

「………………」
けど、相変わらずアルクェイドは黙ってこちらを見ているだけだった。
 ……まぁ、無言の抗議に見えなくもないか。反応があると言えば、あるんだろうな。

「俺、シエル先輩を探してるんだ。先輩の気配だけでも感じたら教えて欲しいんだ、アルクェイド」
 もう一回ダメ押ししてみた。これで何も言わなかったらアルクェイドじゃない。

「そっか、志貴はシエルを探してたんだ。……じゃあ、わたし帰るね……」
 ところが、まったく想像もしていなかった言葉を 寂しそうに言って、アルクェイドはくるりと俺に背を向けて歩き出し始めた。

 ――――ま
「待て、待った!ちょっと待ってくれアルクェイド!」
 ひどい罪悪感を感じて、あわててアルクェイドを引き止めた。俺の言葉に彼女はぴたっと足を止める。けどこちらを振り向いてはくれない。
「すまないアルクェイド。今日の俺はどうかしてるんだ。たのむからこっちを向いて話をしてくれないか?」

「……もう、シエルの話はしない?」
 向こうを向いたままアルクェイドはぼそりと聞いてきた。
 ……うー、それは難しいと思うぞ。

「いや、まぁ、できるだけ善処はするけど……」
「じゃ、帰る」
「わー!待て待て!わかった、わかったから!」
 こうなったらしょうがない。今はアルクェイドを引き止めておくことが最優先だ。

「うん、じゃあ志貴のそばにいる!」
 振り向き様にそう言った思ったら、アルクェイドはバッと飛び寄って俺の腕にしがみついてきた。
 ガクンと俺の左腕に荷重が掛かる。

「うわっ」
「えへへー」
 俺を見上げたその顔は、満面の笑みを浮かべていて本当に幸せそうだった。アルクェイドの柔らかい金色の髪がふわりと俺の顔に触れる。鼻腔をくすぐる甘い匂い。長いまつげ。ぷっくりと膨らんだ紅色の唇。それらの全てに俺の胸はドキドキと高鳴り、眩暈さえしそうだった。
 アルクェイドの紅い瞳に見惚れながら、
―――今日のこいつはなんて可愛いんだろう―――
と思ってしまった。

 



 

 「ふぅん。そんなことがあったんだー」
 今日の出来事をアルクェイドに伝える。
 関心があるのかないのかノンビリとした口調でそんな風に返してきた。

 結局、シエルの話もしてしまった。というか、こいつとの話題はいつだってシエルとも共通してる。
 ……最近、あんまり構ってやってないからな……

「そんなことじゃないぞ、アルクェイド。一日で起こるイベントにしちゃ俺には大きすぎる。俺はささやかな幸せがあればそれで満足なのに」

 ふぅ、今日何度目かのため息をついて、ベンチの背に寄りかかる。
 アルクェイドは珍しく俺の隣に腰掛けて話を聞いてくれていたが、今は俺の前で腰に手を当てて立っている。

「志貴の言うささやかな幸せって、どんなのかな」
 空を見上げてアルクェイドが言う。
 公園の木々の隙間から見える夜空には丸いお月様。地上を輝々と照らしていた。

「そうだな。……俺がいて秋葉がいて、琥珀さんや翡翠がいて、シエル先輩や有彦や学校のツレがいて、そのなかにアルクェイドもいて、みんなで夏祭りや旅行なんて行って、……いや、別に特別なイベントなんかなくてもいい。みんなで楽しくワイワイと意味のないことを話しているだけでいい。
 ……それだけだよ」

 夜の公園には人影もなく、静かに風が流れている。こんなに落ち着いた気持ちになったのは、本日初めてだ。

「志貴? あなた忘れてるかもしれないけど、わたしとシエルって敵同士なのよ? だから志貴のそんな願いはささやかでもなんでもないわ」
「……………………」
 それは…………そうだった。

「……でも、もしそれが叶うなら、すごく贅沢な幸せだね!」
 あ……
 驚いてアルクェイドの顔を見る。アルクェイドはもう空を見上げてなく、俺の方を見ていた。
 その笑顔にまたドキリと心臓が高鳴る。

 ダメだ。
 今日はこいつの顔をマトモに見られない。
 いつもの強引さはどこに行ったのか、今日はすごく素直と言うか、聞き分けが良いと言うか。
 ともかく改めてアルクェイドに異性を意識してしまった。

 コイツは確実に俺を好いていてくれている。おかしな眼を持つ能力者ではなく、遠野志貴本人として。それは十分に理解している。
 けど、俺はどうなんだろう。こいつに惹かれているのは間違いない。それは好きだという感情と言ってもいい。
 もし、こいつが吸血鬼じゃなかったら。
 ただの人間で、しかもクラスメイトなんかだったりしたら。
 俺はこいつと付き合っていたかもしれない?

 ブンブンと思い切り頭を振る。
 なにをバカなことを。
 アルクェイドはアルクェイドだ。
 こいつが吸血鬼だろうと、そうでなかろうと、それが惹かれた理由じゃない。
 理由なんてなく。
 ただ、アルクェイドだったから好きになったんだとハッキリ思った。

 ズキン――――――。

 そのとき脳裏に秋葉とシエルの悲しげな顔が浮かんだ。
 ……
 …………ははっ、すごく贅沢な幸せ……か。
 アルクェイドの言うとおりだ。

「けど、秋葉もシエル先輩も俺の前にはもういない。秋葉が嫁いでいっても遠野の当主に納まったままでも、俺は一緒には暮らしていけない。そうなったら琥珀さんや翡翠ともお別れだ。
 シエル先輩も別れを言う暇もなく、いなくなってしまった。
 ……俺の求める幸せとやらは相当に価値のあるものだったらしい。失ってみて初めてわかったよ」

 ザーッと、木々に音を立てて風が過ぎていく。
「……じゃ、志貴はこれからどうするの?」
 ……アルクェイドが落ち着いた声で、そう聞いてきた。

「………………」
 すぐには答えなかった。
 あらかじめ、ある程度の答えはすでに頭にあった。ただそれを実行するにはどうしたらいいか悩んでいただけだ。

 アルクェイドには本当に感謝している。今日もしもここでアルクェイドと会わなかったらどうなっていたかわからない。
 もしも今日、こいつまで俺の前からいなくなっていたとしたら、俺はきっとどうしようもない人間になっていただろう。

「アルクェイド。俺はおまえが好きだと思う」
「志貴……」
 アルクェイドはその言葉に嬉しそうな困ったような複雑な表情をした。

「けど、俺はシエルを探しにいく。……その、勝手だとは思うが俺に手を貸してくれないか?」

 ――――――――!
 アルクェイドは驚愕の目で俺を見た後、黙って睨んできた。
 それはそうだろう。
 好きだと言っておきながら、敵対する女を一緒に捜してくれと言っているのだから。

 けど、今の俺にはこれしか選べない。
 シエルの気持ちもちゃんと聞いていない。
 それに2人とも、出会ってまだ全然経ってない。お互いのことも全然わかってない。もっと時間をかけて知り合っていきたいんだ。

 いつかはきっと何もかも選ばなければいけない日がくるのはわかってる。そしてその日まで自分のこの身体が持つかどうかもわからない。
 けど、だからこそ、その日まで自分の思っていることをやっていかなきゃダメだと思う。
 自分の気持ちにウソをついて後で後悔はしたくない。
 だからアルクェイドとハッキリと見つめ合った。

「……………………」
「……………………」

 しばらくお互い無言のまま時間が過ぎた。
 アルクェイドがなんて言ってこようと必ず説得するつもりだった。
 ……彼女が俺に愛想を尽かさないかぎりは。

「ふぅ」
先に根負けしたのはアルクェイドのほうだった。
「ズルイ男ね、志貴」
「……………………」
 そう言ってはいたが、アルクェイドの顔に俺に対する恨みは浮かんでいなかった。

「さんざん利用された挙句、死にかけるまで働かされてウソもいっぱい吐かれたっていうのに、まだあんな女を追いかけようだなんてね」
「…………しょうがないだろ。俺のささやかな幸せとやらを叶えるためには、誰が欠けてもダメなんだ。
 まぁ、秋葉のことはしょうがないけど、別に失ってしまったわけじゃない。
 こんなつまらないことで全てを悲観するなんて俺にはまだしちゃいけないことなんだ」

「…………ふぅ」
 もう一度、アルクェイドは大きなため息をついた。

「惚れた弱みかな。志貴の言葉にわたしが逆らえないなんて。
 ……本来は逆のはずなのにね」
 そう言って彼女は笑った。今日は本当によく笑っている。その中でも今回のは格別だと思った。

 
 


 

「ここまでお膳立てをしても、他の人を諦めなかったのには脱帽だわ。それだけ志貴も自分の気持ちがわかっていないってことね」

 ――――?
 アルクェイドがわけのわからないことを言ってきた。……お膳立て?

「けど、わたしに対する気持ちも本物みたいだったし、今回はこのくらいで許してあげる。
 現実でもそのくらいカッコ良かったら惚れ直すんだけどね」
 …………なんだか、とてつもなく嫌な予感がしてるんだか、気のせいだろうか?

「……アルクェイド。一つだけ聞いていいか?」
「んー? なになに?」
 妙〜〜に嬉しそうにしながら俺の言葉を待ってる。さっきまでの笑みはどこへやら、いまは含み笑いをして口元を歪ませてる。

「現実でも、ってどういう意味だ?」
 怒気を孕んだ言葉で質問した。
 ……いや、確認というべきだろうか。

「えーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 すっとんきょな声でわざとらしく驚くアルクェイド。…………顔が笑ってるんだよ。

「志貴ってば、こんなのが現実だと思ってたの?
 こんなハチャメチャで支離滅裂で都合のいいものなんて夢でしかないじゃない」

 なっ――――

「な、な、な……」
 言葉がでない。
 ……いや、もう随分と前からこれが夢だとわかっていたハズなのだが、こうまでハッキリ言われると、呆れるというか、頭にくるというか……

「ほら、志貴覚えてない? 以前にネロを倒した後にお礼のつもりで夢魔を送ったじゃない。今回も同じ。ここはその夢魔が作り出した、あなたの記憶の中の世界。
 つまりはあなたの夢ってわけよ、志貴」
 アルクェイドは、正解がわからなかった回答者にえらそうに説明する司会者のように「えへん」と胸を張って答えた。

 こ、こ、このバカ女は――――!
 なんだってそんなことをっっっ!
 今日一日、どれだけ人が苦労したり、悩んでいたりしてたと思ってるんだーっ!!

「この…………」
「でもね、志貴!」

 バカ女―――っ!と叫ぼうとして目の前のアルクェイドに阻まれた。
 思わず声を止めてしまったのは、アルクェイドの声が思いのほか真剣だったからだ。

「これは夢魔の世界だけど何か違うのよ。本当に理由はわからないけど、こんな世界をあなたに見せるつもりじゃなかった。
 ただ、わたしと楽しく過ごす一夜の夢を見せるだけのつもりだったのに」

 そういえば、今朝から……いや昨日の夜、翡翠が部屋に来たときからどこか違和感を感じていた。けどあまりにリアルだったために、心のどこかでは否定していたのに頭は現実として受け入れていたみたいだ。
 ……だいたいよく考えてみれば、今日のことはいくらなんでも普通じゃない。なんですぐに気が付かなかったんだろう、俺は。

「…………アルクェイド。おまえアルクェイドなのか? それとも夢魔なのか?」
 ふと思った疑問を口に出してみた。てっきりこの夢はアルクェイドが見せているんだと思っていたが、前回と同じ夢魔の仕業なら、アルクェイドにその内容は操作できない。
 夢魔が見せるのはあくまで対象の望むような夢だけだ。

「わたしはアルクェイドであり異なる存在。夢魔によって作り出された、志貴の中にあるアルクェイド。
 ……まぁ、多少夢魔の操作も入ってるけど夢魔自身じゃないわ。
 簡単に言うと、残留思念みたいなものかな」

 ……うーん。
 わかったようなわからないような。
 つまり、本物でもなければ、俺が望んでいるようなアルクェイドでもないってことか。
 まぁ、俺はこんなアルクェイドを望んだりはしない…………と思う。

「そんなことないよ、ほとんど志貴の望み通りだとおもうんだけどな」
「――――なっ!」
 こ、こいつ俺の考えてることがわかるのか?!

「……あのねぇ、夢の中に思考も言葉もないでしょ。
 …………それより、一つだけ聞いていい?」
 アルクェイドの姿をしたアルクェイドじゃないものが聞いてきた。

 ……いや、現実世界のアルクェイドとつながっていないだけで、これは紛れもなくアルクェイドなんだろう。
 俺の中のアルクェイド。夢魔の中にあるアルクェイド。それら二つの存在がミックスされた他人世界に或る存在。オリジナルより欠けている部分が多々あるがオリジナルに無い部分もある、そんなもう一人の存在だ。

「なんだよ、言ってみろよ」
 ぶっきらぼうに答えた。
 どうせ考えたことが全部筒抜けなら、質問するだけでそいつの思っている答えがわかっちゃうんじゃないか。
 わざわざ確認するまでもないだろうに。

「――――もしも、わたしが志貴の前からいなくなったら。志貴は捜し出してくれる?」

 ――――っ!
 こ、この女は!
 そんな上目遣いで心配そうに聞いてこなくたって答えなんて初めから決まってるだろうが!

 だから。
 答える代わりに、
「ふん!」
 と言ってそっぽを向いてやった。

「やっぱりズルイよね、志貴って」
アルクェイドはそう言って嬉しそうに笑った。

 
 


 

「さて、じゃあ、そろそろ終わりにしましょうか」
 アルクェイドがトンっと一歩下がって、時間切れとでも言うようにそう言った。どうやらこの夢もここが終着らしい。その意見には大賛成だ。
 俺もそろそろ現実が恋しくなってきたところだ。

「じゃあ、志貴。目をつぶって歯食いしばって!」

 ――――は?
「何を言って……」

「志貴がわたしを選んでくれなかったお・返・し。
 口あけたままだと痛いよ?」

「――――え、ちょっ、ちょっと待てアルクェ」
 俺が何か文句を言うその前に。

「イ」
「せーの」
 アルクェイドの右ストレートが。

「ド」
「どんっ!」
 ズドン!!と強烈な音を立てて世界が反転した。
 一瞬で身体の感覚は無になり、立っているのか倒れているのか、それとも落ちているのかさえもわからない。それどころか、五感のなかで機能しているものはまったくなにもないようだった。

 …………夢じゃなきゃ、確実に頭は木っ端微塵だぞ、アルクェイド……。
 ブラックアウトしていく意識の中で、そんなことだけを呆然と考えていた。

 
 


 

「―――おはようございます」
 翡翠の声が聞こえる。
「お目覚めの時間です、志貴さま」

 ん――――――
 目が覚めた。どことなく頭がぼーっとしているのは、昨日少し遅かったせいだろうか。

「おはようございます、志貴さま」
 翡翠の挨拶には答えずに横に置いてある時計を見た。7時少し前。いつもよりちょっとだけ余裕がある。

 身体を起こそうとして、ズシリとひどく疲れているのを感じた。頭もズキズキして痛い。
 なぜか左の頬がひどく熱を帯びていた。

 なんだろう? なにかとてつもなくハチャメチャで支離滅裂で都合のいい夢を見ていたような気がする。身体がこんなにも疲れているのは夢のせいだと理解していたが、どんな夢を見たのかは思い出そうとしても霞がかかったようにぼんやりとしか思い出せなかった。

「志貴さま? お体の具合がよろしくないのですか?」
 翡翠が心配げに訊ねる。

「いや、そんなことはないよ。
 それよりもおはよう翡翠。起こしてくれてありがとう」
 翡翠に挨拶を返す。なんでもないのに翡翠に心配をかけさせてはいけない。あわてて上半身をベッドから起こした。
「志貴さま。着替えはここに置いておきます。朝食はすでに食堂に用意してありますので、着替えられましたら食堂の方までお越し下さい」

 もう何度聞いたかわからない朝のやり取り。
 本当は、もう少しくだけた言い方をして欲しいと思っているのだが、翡翠には何度言っても直してくれないし、まぁ、今日はそのいつも通りなのがなぜか妙に嬉しかった。

「それでは失礼します。今日も良い一日をお過ごし下さい」
「あ、翡翠。秋葉もう起きてる?」
 そう言って翡翠を呼び止めた。秋葉がこの時間に起きていないはずはない。それでも訊ねたのは、ただなんとなく翡翠ともう少し話をしていたかっただけだった。

「はい、志貴さま。……秋葉さまはすでに起床されています。けれど今朝はあまり気分が優れないご様子でした」

 ――――――え?
 どこかで聞いたようなフレーズ。

「体の調子でも悪いのかい?」
「詳しくは存じませんが、姉さんがいま診断して下さっています」

 ――――――どこかかで聞いたような展開。

「……えーっと。
 ……すぐに行くから翡翠は先に行っていてくれないか」
「かしこまりました」
 ぺこりと一礼すると翡翠は部屋から出て行った。

 頭の中がモヤモヤして、何かが這い出ようとしているようだったが、本能がそれを無理矢理押さえつけているようだった。
 なにか、思い出してはいけないことを思い出そうとするような感覚。それが怖くてさっさと着替えて部屋を後にした。

 
 


 

 居間に入ると、ちょうど食堂の方から口元にタオルを当てて、青白い顔をした秋葉が入ってくるところだった。そして傍らには琥珀さん。
 二人はまるで酔っ払いとその連れのように見えた。

「秋葉、お前…」
「兄さん」
 俺が秋葉に話し掛けると同時に、秋葉は俺の言葉をさえぎって強い口調で言った。
「私、できました。」

「――――――」
 なんとなく想像できていたような、そうじゃないような展開だ。
 秋葉の顔は真剣そのもので、言わんとしていることは理解できる。

「責任とって下さいね、兄さん」

「――――――」
 ――――――はぁ?
 ちょっと待った。……ちょっと待ってくれ。
 いま、なんて言ったんだ。ちょっと理解できなかった。

「秋葉さま、志貴さん、おめでとうございます!!
志貴さん、パパになる感想はいかがですかー。」

 のーてんきな琥珀さんの声が聞こえた。
 は?
 パパって誰が?
 誰の?

 秋葉は俺を見て照れくさそうに頬を染めていたが、 俺と目が合うとプイと顔を背けてしまった。
 琥珀さんはその後ろで披露宴はどうとか、式場はどうとかひとりで盛り上がって秋葉に話し掛けている。
 えーっと、翡翠は……?

「志貴さま」
「うわぁぁぁ!」
 ビックリして飛び退くと真後ろに翡翠が立っていた。
 ……ひ、翡翠、たのむから人を呼ぶときにそういうやり方はやめてくれ。

「志貴さまにお客様です。ロビーの方にシエルさまを――――」
「遠野くん!」

 翡翠が説明する前に居間にシエル先輩が飛び込んできた。
「遠野くん。わたしできちゃったみたいなんです。もちろん責任とってもらえますよね?」
 などととんでもないことを口走りながら。

 ……
 …………
 ……………………
 …………………………

 あ――――――。
 何がなんだか、どうなってるのか。
 ……とりあえず最悪の状況に俺は立たされているということだけは理解できた。
 けど、どうやったらこの状況を打破できるのかはまったく思いつかなかった。

「おはよー、志貴―――! わたし赤ちゃんできそうなんだけど、どうするー?」
 ばきーん、と窓をぶち破ってアルクェイドが突っ込んできた。
 ……アルクェイド。窓から入ってくるのはやめろって、いつもいってるじゃないか。

 なんか思考回路がドンドン鈍っていくような気がしたが、それをハッキリ理解できるほどの力は残ってなかった。

「ねぇ志貴。これはもう一緒になるしかないよねー」
 そう言って、アルクェイドが右腕にぶら下がってくる。アルクェイドの張りのいい胸がぎゅうぎゅうと押し付けられた。

「アルクェイド! 遠野くんから離れなさい!!」
 そこにシエル先輩が割り込んでくる。
 って先輩! 屋敷の中で黒鍵を取り出すのはやめようよ!

「あれ? シエルいたんだ。全然気が付かなかったよー」
「貴女がわたしに気がつかないわけないでしょう。いいから貴女は帰りなさい! だいたい吸血鬼が子どもを産めるわけないでしょうが!! このうそつき吸血鬼!」

「あら? アルトルージュだって真祖と死徒の混血なんだもの。真祖であるわたしと人間である志貴の間に子どもが出来たっておかしくないわよ。
 それよりあなたこそまたいつもの手口で志貴を騙くらかしてるんじゃないの? このおおうそつき死神女!」
 言って、くるりと俺の反対側の腕に絡み付いてきた。今度は左腕に柔らかな温もりを感じる。

「な、な、なんですって――――! わたしは嘘なんかついてません! 遠野くんはわたしを勝手に幸せにしてやる、どんなことがあっても傍にいて幸せにしてくれると言ってくれました。そうですよね? 志貴くん!」
 シエルはアルクェイドの反対側、つまり俺の右腕に抱きついてくる。ぐにゅ、と歪む先輩の胸。
 ……シエル先輩もアルクェイドに負けず劣らずボリュームがある。さすが2人とも外国産だけはある。国産とは大違いだ。

 ――――――っっっっ!!
 ぞわり、と異常な殺気を感じて、そちらに顔を向ける。

「……貴女方、一体誰の許可を得て、この遠野の屋敷に足を入れているのですか……」
 ゆらゆらと空気が揺れ、室内の温度が2,3度上昇したような気がした。
 秋葉の髪が真っ赤に染まっている。

 ま、まずい、秋葉が本気で怒っている。
 俺の本能はさっきからニゲロニゲロと最大限の警告を発しているというのに身体が硬直してしまったのかまったく動いてくれない。
 おまけに左右両方から掴まれている腕にぎゅうと圧力がかかって逃げたくても逃げられない状態だった。

「……兄さん? この方達の言っていることは本当なんですか?」
 恐ろしいほど冷静な低い声で秋葉は尋ねる。だが 秋葉の目はすでに俺を見ていない。糸が切れる寸前の激烈にヤバイ状態だ。

「おおおお、落ち着け秋葉。冷静になって話し合おうな、な?」
「わたしだって志貴に、男として何もかも愛してるって言われたよ。それはあなたが尋ねたんじゃなかったけ? シエル」
 だぁぁぁぁぁ! この状況でそんなこと言ったら秋葉に『血』を注ぐようなものだろう!

「ぼんっ!!!」
 秋葉のそばにあるソファー一つがしゅーっと音を立てて蒸発した。

 ……あ、秋葉? そんなもの「食べ」たらお腹こわすよ。
 この状況においてマトモな思考回路など存在するハズもなく。意外と冷静にそんな事を考えているなぁ、と思う俺がソコにイタ。

「兄さんは……兄さんは私に仰ってくれました」
 下を向いたまま秋葉は誰とも無く呟く。そして、ばっと顔を上げると俺を、ぎっ!と睨んだ。
「本当の妹じゃなくたって側にいると! 誰にも傷つけさせないと!! 妹じゃなく女として愛していると仰ってくれました!! あれは嘘なのですかっ!!」

「わたしも愛していると仰ってくださいました」
「ひやあぁぁ!」
 ぴとっと背中に誰かがしがみつく感触。
 ……今の声は間違いない、翡翠だ。
 背中からその細い両腕を前に回して、離されまいとぎゅーと抱きついている。
 もちろん俺の背中には、その……柔らかいものが二つ押しつけられていた。
 ……キ、キミ達、わざトヤッテイルノデハナイデショウネ?

「志貴さまと感応した夜、いつだって一番わたしを欲しいと思っていた、と仰ってくれました」
 い、いや、それは…………

「そしてわたしの中にたくさん志貴さまを注いでくださいました」
 だ、だから、そんな露骨な言い方を…………

「だから、わたしも志貴さまの子を宿したのです」
 だぁ―――――
 キ、キミもなのか翡翠。

 秋葉・シエル・アルクェイドが俺を睨んでいる。なんていうか、この節操無しをどうしてやろうかって顔だ。
 もう絶対にどんなことがあっても俺はここから逃げられないと悟った。さっきから俺の本能も警告を出すことを諦めてムダダムダダと繰り返している。

 けど、いくらなんでもそこまで俺は見境無しじゃないぞ。そりゃあ確かに女の子に対しては八方美人かもしれないが、それでもまさか全員とやっちゃって平気でいられるハズはない。
 だから、俺には心当たりがない。
 心当たりはないんだけど……それぞれ言っていることの記憶があるのはナゼ?

「翡翠ちゃん、えらぁぁぁいっ!!」
 今まで沈黙を守ってきた琥珀さんが突然そんな事をさけんだ。

「当主である秋葉さまだけならば、その身を犠牲にしてここは引くところですが、こうなってくると話は別です! 女の幸せはその手で掴むもの! そして積極的にアタックして志貴さまのハートを見事にゲットですっ! ここは押しの一手ですっ!!」
 ……はぁ、またそういう火に油を注ぐような発言をするよ、この人は。

「だから私も引きません!」
 ――――――はぁ?

「嘘を嘘で塗り固めたくない。好きな人の前では絶対に嘘を吐きたくない。そう言って一度だけでなく二度も私の中で達してくださいましたよね、志貴さん。
 ……忘れたなんて言わせませんよ」

 ぞくぞく――――
 なんていうか、この人の笑みが一番裏があってコワイんですけど。

「そう、琥珀も翡翠も私と敵対するっていうのね」
 ゴゥッと、秋葉の紅い髪が逆立つ。
 いかん、完全に臨戦態勢だ。シエルもアルクェイドも俺の腕を掴んだままだが、身構えて戦闘態勢に入っている。
 このままじゃ、翡翠まで巻き込んでしまう。なんとか彼女だけでも逃げて欲しいと思っているのだが、その翡翠も俺から離されないように余計に力をいれて抱きついてきている。

「勘違いなさってはいけません、皆さん!」
 琥珀さんが高らかに声を上げる。
「ここで争っても、お互いの不利益になるだけです。また、この中の誰かが傷ついてしまったら、志貴さんはその傷つけた人を好きになってくださるでしょうか?」

 おぉ、琥珀さんがマトモな事を言っている。
 琥珀さんの言葉が効を制したのか、さっきまで渦巻いていた殺気は霧散して、三人とも拳だけは下ろしている。
 よしよし、いいぞ琥珀さん!

「ですから、ここは志貴さまに選んでいただきましょう! そうすれば全員納得できるはずです!」
 ビシッと、俺を指差して琥珀さんは宣言した。

 …………をぃ。
 ちょっと待った。
「さぁ、言葉で説得するのに遠慮はいりません! 志貴さんのハートゲットするのはこの中のだれかなのか! れでぃ……ごぅっ!!」

 なっ!
 ちょ、ちょっと待ったぁぁぁ!!

 
「志貴、親子で死徒討伐にいこうね」

「遠野くん、わたしはここにいてもいいんですよね?」

「兄さん、ふふっ、殺しちゃうから」

「志貴さま、わたしの主は貴方だけです」

「志貴さん、もう観念してくださいね」

 全員俺に抱きついてきて、ぎゃあぎゃあと好き勝手なことを言っている。
 ちょっと待ってくれ、こんな状況で俺に選べるわけがないだろう。大体誰を選んだって問題が解決するわけじゃないだろうに。

 …………そのとき。
「夢が叶って良かったね」
と、どこかで聞いたような声が聞こえた。

 ―――――――なっ!
 ち、違う!俺の求めてた幸せはこういうんじゃないんだ!!

 俺の心の叫びなど聞こえないといったように、姿の見えぬ声の持ち主はクスクスとマヌケな俺を嘲笑うかのようにいつまでもいつまでも笑っていた。
 そんな笑い声に耐え切れずに、どこに向けてでもなく俺は叫んでいた。

「もぅ、夢なら醒めてくれーーーーーーーーっ!」

 
 
 
 




 
―「事の真相」(只の蛇足とも言う)―







(時間は深夜のちょい過ぎ……ここはアルクェイドのアパート)

「…………」
「あ、お帰りレン。志貴とわたしのらぶらぶ夢作戦はうまくいった……って、どうしたの!?」

「…………」
「なになに……屋敷全体に結界が張ってあったから、どうあっても入れなかったんで、……ムカついて、ぱわー全開で屋敷全体に力を行使してきた……って!ぱわー全開!?」

「…………」
「うんうん、……やっと帰ってこれたから、疲れたんで休むって……うんわかった、ゆっくりやすんでいいよ。お疲れさま」

「……ぐぅ」
「……まいったなぁ。この子が本気でやったら二度と目覚めないくらいまで深く夢井戸の底に落とせるっていうのに。志貴、大丈夫かな」

「そういえば、結界がどうとか言ってたっけ……」

「……だれがやったかなんて考えなくてもわかる。 そんな姑息な真似ができるのはあの女しかいない。 なんて陰険な奴!志貴が欲しいなら正々堂々と勝負すればいいじゃない!」

(アンタがそれを言うか……)
「ん? レンなんか言った?」

「………くー」
「おかしいなぁ……確かに聞こえたんだけど。
 ……まぁいいか。
 朝になったら結界なんかぶち破って、シエルの無力さと卑怯さを志貴に教えてあげるんだからね!」

「さて、そうと決めたら、夜も遅いしもう寝ようっと。夜更かしはお肌の大敵だもんねー」

(肌を気にして夜寝る吸血鬼って一体……)
「あれ? またなんか言った?」

「………くー」
「おかしいなぁ……疲れてるかも。
 あ、志貴に付けられた傷跡がまだ疼いているのかな? キュンってね。あははー」

(…………(汗))

 
 


 
 
(ところ変わってシエルのアパート)

「はぁぁ。今夜はちょっと疲れました。あんな大掛かりな結界を張ったのは久しぶりです。」
「でも、わたしの積層斜頚型の次元結界は特製ですから、いかにアルクェイドといえど、そう簡単には破れないでしょう」

「遠野くんの部屋に窓から侵入しようなんて不届き者は、そのまま結界に引っかかってしばらく抜け出せずに次元の狭間をウロウロするのがお似合いです」

「…………」

「まぁ、欠点として術者も結界内部に入れないというのがありますが……」

「それも志貴くんが屋敷から出てくれば解除されますし、結界自身が消失しても深次元に落ちたアルクェイドが自動的に戻ってこれるわけじゃないので、まさに一石二鳥です!」

「…………」

「あとは明日の朝、志貴くんをいつも通り迎えに行くだけですね」

「それじゃ、そろそろ眠りましょうか。
 志貴くんおやすみなさい。いい夢を見てね……」
 
 
 


 
 
(ところ変わって遠野のお屋敷、時間は早朝)

 コンコン――――。
「おはようございます。秋葉さま、お目覚めでいらっしゃいますか?」

 ―――――――っ

「秋葉さま?お目覚めですか?」

 ―――――――っ

「あれ?」

 ―――――――っ

「秋葉さま失礼しますね」

「…ぅっ――――…つぅっ!」
「秋葉さま?」

「そこ…は、ダメ……あぁっ!……そ、んなと…こ…」
「…………秋葉さま?」

「アルクェイドさん……そんな…だめ……あぁっ!」
「…………」

「…………」

「……………………秋葉さまのえっち」

 
「ははぁ、どうやら秋葉さまは夢の中で乱れていらっしゃるようですね。
 しかも相手はアルクェイドさんみたいです。
 うーん。秋葉さまにそんな趣味があったとは」

「ふぅ……ぅ……はぁっ!…っ!」
「……て、そんなわけないですね。秋葉さまは志貴さん一筋ですから」

「でも、なぜでしょう? 昨日の紅茶には何も入れてないハズですが。
 …………秋葉さまの分には」
「ひょっとしたら手違いで志貴さんと秋葉さまの両方に特製紅茶を注いでしまったのかもしれませんね。……そんなヘマをするとは思えませんが……。
 でも、そうすると志貴さんの方も今ごろ……」

 
「姉さん!」
「あ、翡翠ちゃんおはよう」
「姉さん、志貴さまの様子がおかしいのです!すぐ来ていただけませんか」
「……あはは、やっぱり。
 ちょっと待っててね翡翠ちゃん、今行くから」

(…………)

「さて、秋葉さまはとりあえずこのままでも大丈夫でしょう。
 本当はもう少し見ていたい気もしますけど。
 なにしろこんな秋葉さまは滅多にお目に掛かれないですからね。
 このままビデオにでも保存したいくらいです」

「しかも、それを志貴さんに見せたりしたら、志貴さんどんなお顔をされるでしょうね。ちょっと反応が楽しみです。
 それに、秋葉さまへのいい牽制に使えるかもしれません」

(…………)

「あ、それは妙案です。ビデオに録画しておきましょう!防犯用に買ったハンドカメラが私の部屋に一台……」
「姉さん?」
「ひやぁっ!」

(…………)
(…………どきどき)

「…………お願いだから気配消して人の後ろに立つのはやめてね、翡翠ちゃん」

「姉さん、秋葉さまも具合が悪いのですか?」
「あ、大丈夫大丈夫。秋葉さまを良く見てみなさい、翡翠ちゃん」

「…そっ…ダっ……あっ…」

(……………)

(……………………)

 ぼんっ!(真っ赤)
「…………翡翠ちゃん、カワイイー!」

 
「ね、ねえさん、これは一体……その……」
「うーん、なんていうかなぁ。まぁ、運が悪かったというか、手が滑ったというか……あ、そうそう、志貴さまの様子もこんな感じじゃなかった? 翡翠ちゃん」

「いえ。凄くうなされているようでした。何というか、とてつもない悪い夢を見ているような。その……秋葉さまの……ような感じではなかったと思います……」

(ちらっ)
(ちらっ)

「……あふぅ……もう、耐えられ、はあっ!」
(…………)
(…………)

「うーん、それにしてもおかしいなぁ。
 昨日使った物はパルテノライドとその関連化合物だから、睡眠促進はしても幻覚を見るような類のものじゃないんだけどな。
 ……それとも分量を間違えちゃったのかも。珍しく手に入ったから嬉しくて使っちゃったけど、使用事例が日本では少ないから報告されていない症状があるのかもしれないなー。
 あ! それとも昨日の夕食に使ったものと反応して別の効果が出たのかも」

「…………姉さん?」
「え!? 翡翠ちゃん?
 …………えっと。
 ………………わたし、声が出てたかな?」

(…………)
「あ、あはは……」

(…………)
「あはは…………ひ、翡翠ちゃん怖いよ?」

「……姉さん。テオナナカトルのビンの蓋が半分空いていました。湿気るといけないと思いましたので閉めておきましたよ」
「あぁ、あ、ありがとう、翡翠ちゃん。よく気が付いたね」

「たしか、あれを服用した場合の症状は幻覚・運動過剰・交感神経刺激ではありませんでしたか」
「……あははー。く、詳しいですねぇ。いつの間に薬剤関係に興味を持っちゃったのかなー、翡翠ちゃんは」
「前に同じ事をされました」

「………………」
「………………」

「………………」
「………………」

「………………」
「そ、そんなこともあったかな……あは、あははー」

「姉さん! 今後、絶対に志貴さまを薬の実験体にしないで下さい。もちろん秋葉さまもです。」
「はぁい」

「誠意が感じられません、姉さん」
「もう翡翠ちゃんってば、細かいんだからー」
「当たり前ですっ!」

 
「…………けどおかしいですねぇ。
 いくらなんでもあの量で昏睡して幻覚をみるなんて。
 それほど強いクスリではないんですけどねぇ」
「どういうことですか? 姉さん」

「んー、つまりね。常習者ならともかく1度や2度の服用で前後不覚や昏睡状態になるようなことには普通考えられないの。
 2つ以上の要因が生む相互作用で効果が劇的に変わることはあるけれど、そんな心当たりはないし……。
 それに秋葉さまは、生まれつきある程度の毒やクスリに耐性をお持ちですからこんな状態になることはまずないはずなんですけどねぇ……」

(ちらっ)
(ちらっ)
「あああぁ、アルクェイドさん、もう……これ以上は……ふわぁぁっ!」

 
(………………)
(………………)

(………………)
(………………)

(……それにしても、志貴さまといい、秋葉さまといい今朝は様子がおかしいです。
 …………ひょっとして姉さんのクスリではなく他のことが原因なのではないでしょうか?
 たとえば、アルクェイドさまがまた何かなさったとか……?)

(……今朝に限ってアルクェイドさまがいらしていませんし……やっぱりアルクェイドさまが関係していると考えるのが適切と思われますね。)

(………………)

(……でも、志貴さまにならともかく、なぜ秋葉さままでおかしくなられてしまったのでしょう……? アルクェイドさまには秋葉さまをどうにかする理由がないと思われるのですが……)

(………………)

(……ひょっとしたら、秋葉さまは単にとばっちりを受けただけだったり……)

(………………)

(………………)

 
「翡翠ちゃん、どうかした? ボーっとしちゃって」
「いえ、……なんでもありません。
 ……そういえば。
 志貴さまのことを失念していました。志貴さまの部屋へ来て頂けますか、姉さん」
「あ、そうそう、すっかり忘れちゃってたね。志貴さん大丈夫かしら」

 
(志貴のへや)
「うひぃぃぃぃぃ!!
 もう許して下さいー!!
 勘弁してぇぇぇぇぇー!!」

 
 
 
 

レン:「ところでなんで、あの2人には効かないの?」


/END

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