■ happy day,happy place / 石野休日

 目を開ける。
 窓からは白い光が差し込んでいて、その光を全身に浴びるように、一人の少女が佇んでいた。
「お目覚めですか?」
 聞き慣れた声がして、その声に導かれるように、ベッドの中で体を起こした。
「おはようございます、志貴さま」
「おはよう、翡翠。今日はいい天気だね」
 時計に目をやる。まだ六時半過ぎでしかなく、いつもより三十分も早く目を覚ましたようだ。
「はい」
 翡翠の手にはきれいに折りたたまれた俺の制服。せっかく早起きしたのだから、この時間を無駄に使うことも無い。たまにはゆったりとしたブレイクタイムを過ごすのもいいかもしれない。
「じゃあ翡翠、すぐに着替えるから自分の仕事に戻ってくれていいよ」
「かしこまりました」
 翡翠は深々と礼をしてから、制服を俺の手の届く範囲に置いた。そしてドアを開けて退出していく。足音を立てずに、翡翠は去っていった。


 居間ではいつものように、秋葉が紅茶を飲みながらくつろいでいた。
「おはよう、兄さん。今日は早起きですね」
 秋葉がたっぷりと皮肉のこもった、冷たい挨拶をよこした。
「おはよう秋葉。今日も綺麗だな」
 いつもとは少し趣向を変えて、俺も負けじと言い返す。
「兄さん、朝からつまらない冗談を言うのはやめて下さい」
 やっぱりと言うべきか、秋葉には通用しなかった。視線が冷たい。
「何を言っているんだ、秋葉。俺は思ったことを口にしただけだ」
「そういうセリフをおっしゃるのでしたら、せめて口元を引き締めてからにして下さい」
「うっ……」
 思わず言葉に詰まる。いつの間にか顔が緩んでしまっていたようだ。
「いや、和やかな朝の雰囲気を演出しようと思ってだな……」
「兄さんは余計なことを考えなくて結構です」
 これ以上の反抗は不可能、というより無意味だと悟る。仕方なく秋葉と向かい合うように、黙ってソファーに腰を掛けた。
 まだ少し眠気が残っているようで、何をするでもなくぼうっと時間を過ごす。
「兄さん、明日のパーティーはどうなさるおつもりですか?」
 前触れもなく秋葉がそのようなことを言った。
 あまりに唐突でなんのことか分からない。
「パーティー?」
と、かなり間抜けな声を上げる。
「はい、パーティーです」
 秋葉はそんな俺の訴えを無視して話を進めようとする。
「ちょっと待て、パーティーってなんだ? 初耳だぞ」
「そんなはずはありません。このあいだ、学校に行く前に伝えたと思いますけど」
 秋葉の顔に訝しげな表情が浮かぶ。明らかに気分を害しているようだ。
「いや、聞いてない」
 そんな秋葉を少し恐れつつも、俺は断定した。
「いえ、言いました。兄さん、寝ぼけてたんじゃありません?」
 秋葉は強気だ。俺の顔に突き刺されとばかりに鋭く尖った視線を送ってくる。
「いや、絶対に聞いてない……、はずだ」
 そう言いながらも、なんとなく、本当になんとなく、そんな話を聞いたことがあるような気がしないこともなかった。
 ふむ。
 このあいだ。
 朝。
 確かに。
 聞いた。
 うん、間違いない。
 ん?
 ということは、ようするにまずい事態だというわけだ。
「ふ〜ん、そういうことにしておいてあげます」
 秋葉は少し見下したような目でこちらを見ている。
 何となく心の中を見透かされているような気がして嫌だった。
「それで、パーティーがなんだって」
と、俺は話を無理矢理先に進めようとする。
「だから明日、別邸のほうで遠野のパーティーがあるんですってば。当然兄さんにも出席して頂きます」
 遠野家は日本でも有数の名家だ。今俺が住んでいる広すぎる屋敷以外にも、ほとんど使われることの無い屋敷が多数存在している。
 秋葉の言う別邸というのも、おそらくその中の一つのことを指すのだろう。
「待て。そんなこと勝手に決めるんじゃない。俺は行かないぞ」
「どうしてですか? よろしければ理由をお聞かせ下さい」
「遠野のパーティーってことは、親戚一同がゾロゾロとやってくるんだろう? 俺はそんなところに行って針のむしろになるつもりはない。それに秋葉、俺が行けばお前の立場も悪くなるだろ」
 こちらをじっと見る秋葉の目が少し怖い。だが怯むわけにはいかなかった。
「私のことなら気にして頂かなくて結構です。兄さんは一応遠野家の長男なんですから、来て頂かなくては困ります」
「いや、駄目だ。俺は行くつもりはない」
「どうしても、とおっしゃるんですね」
「何を言われようと行かない。行きたくない」
「……。わかりました。そこまでおっしゃるのでしたら強要はしません」
 そう言うと秋葉は怒ったように俺から目を背けてしまった。テーブルの上のティーカップを右手で掴んで、それをぐいっと飲み干す。中身が空になったカップを叩きつけるようにテーブルの上に置いた。
「あの、秋葉さん?」
 恐る恐る、秋葉に声を掛ける。
「何ですか、兄さん」
 睨みつけるかのような秋葉の目。声だけはいつものように冷静で、それがさらに恐怖を際立たせている。
「その、もしかして、怒ってる?」
 声を掛けたことを少し後悔しながら、余計なことを聞いた。
「どうして私が怒る必要があるんです」
 あくまで冷静を装って秋葉は言う。
「だって……、いや、いい」
「琥珀! 車を出しなさい。出発します」
 秋葉は勢いよく立ち上がって、琥珀さんを大声で呼んだ。そしてそのままロビーに向かった。
「はーい、ただいま参ります」
 遠くから聞こえる琥珀さんの声は、どこか別世界から聞こえて来ているような気がした。
 俺は朝食を取るために立ち上がり、フラフラと食堂に向かった。


「もう、志貴さん、どうしてパーティーに行かないんですか!」
 朝食後に再び居間に戻ると、開口一番、琥珀さんがそう言った。
「俺が行ってもみんなが不幸になるだけですから」
 俺は自嘲気味に言う。けど実際その通りだと思う。
「明日が何の日か知らないわけではないでしょうに」
 琥珀さんが軽くため息をついた。少し様子がおかしい。
「えっと、何かあるんですか?」
 そう尋ねると、琥珀さんはびっくりしたのか俺のほうをじっと見て、そのまま絶句してしまった。
「……」
「……」
 そんなに驚くようなことなのだろうか、琥珀さんはすっかり固まってしまっている。
「もしかして、知らないんですか?」
 恐る恐るといったふうに、ようやく琥珀さんが口を開いた。
「だから何があるのかを聞いてるんですけど」
 全くもって見当すらつかない。特別な日曜日だとは思えなかった。
「本当に、ご存知ないのですか?」
「ええ」
「本当の本当に?」
「知りません」
 琥珀さんはしぶとく俺に迫ってくる。よほど大事な日らしい。
「……。そうですね、志貴さんは8年間もこの家を離れられておれらたのですから、ご存知でなくても不思議ではありません。でも、もう一度お尋ねします。本当に、覚えていらっしゃいませんか?」
 琥珀さんはすがるような目つきをこちらに向けたが、俺は、
「さっぱり分かりません」
としか答えられなかった。
「分かりました。それではお教えします。明日の日曜日は……」
「日曜日は?」
「秋葉さまがお生まれになった日でございます」
「はぁ、そうですか……って、ええ!」
ってことは、秋葉の誕生日ってことか?
「はい。だから秋葉さまは志貴さんにもパーティーに出席なさって欲しかったんですよ。それを志貴さんったら……」
 迂闊だった。覚えていないのは仕方ないにしても、パーティーの話を詳しく聞いておかなかったのは明らかに失敗だ。
「そりゃまずい。秋葉、怒ってた?」
怒っていないはずはない。それはもう確実だ。
「はい、それはもう大変なご立腹ようでした」
 予想通りの返答が返ってきた。
「はぁ……。まいったなあ、どうしよう」
「パーティーにご出席なさって下さいな」
 琥珀さんは、のたうち回って困っている俺に優しい声をかけてくれる。
「いや、それだけは出来ません。やっぱり俺が出席すれば、秋葉に迷惑がかかると思いますから」
 これだけは誰がなんと言おうと譲れない。遠野の家に戻ってはきても、遠野の人間として生きていくつもりは毛頭無かった。
「そうですか? 秋葉さまはそれでも志貴さんに出席なさって欲しいんだと思いますけど」
 琥珀さんの言い分は分からないでもないが、一番の迷惑を被るのはおそらく俺だろう。遠野の人間と不毛な会話を繰り広げる気にはなれない。それに俺は、遠野の人間をどこか恐れている。
「……。いえ、やっぱり行くわけにはいきません。それより、いいことを思いついたんですけど」
 我ながら、これは名案だと思う。
「いいことですか?」
 興味津々といったふうに、琥珀さんは体を寄せてきた。
「この屋敷で、俺達四人だけの誕生日パーティーを開きませんか?」
「四人、ですか」
 琥珀さんは少し首をかしげた。四人といえば俺にとってはこれ以外にはないと思うのだが、琥珀さんにはどうも上手く伝わっていないようだ。
「はい。俺と秋葉、それに琥珀さんと翡翠。俺の歓迎会の時みたいに、みんなで楽しくやりたいなあと思ったんですけど」
「それは楽しそうですね」
「でしょう? いい考えだと思うんですが」
「はい、いい考えです。早速今日からいろいろ準備のほうを始めておきますね。翡翠ちゃんには私から伝えておきます」
 弾むように話す琥珀さん。実に嬉しそうに、ニコニコと微笑んでいる。
「お願いします。それと、秋葉には……」
「分かってます。絶対に言いませんから安心なさって下さい」
「志貴さま。そろそろ学校のお時間ですが」
 翡翠の呼び声が背中から聞こえる。いつの間にか居間に入ってきていたようだ。時計を見ると、すでに7時半を回っていた。
「おっと、まずい。じゃ、琥珀さん。この話、よろしく頼みます」
「はい、お任せください」
 元気よく返事をした琥珀さんの声は、登校前のこの身にすこぶる心地よかった。


 昼までの授業が全て終了し、下校の時刻を迎えた。普段なら嬉しくて仕方の無い時間帯なのだが、今日はそんな気分にはなれない。重要な問題を抱え込んでしまったからだ。
 授業中もそのことばかり考えていて、まるで勉強に身が入らなかった。
 忘れていた大事なこと。
 そう、誕生日プレゼントだ。
「はぁ……」
 大きなため息をつく。
「そこの少年、何を悩んでいるのかね?」
 そこに有彦が声を掛けてきた。正直うざったい。
「何でもない」
「なんですか、君は。友達甲斐のない」
「そんなこと言われても、何でもないんだから仕方ないじゃないか」
「ふ〜ん、この人こんなこと言ってますけど、先輩」
 いつの間にか、有彦と並ぶようにシエル先輩の姿があった。
「遠野君、そんな様子でそんなこと言われても全然説得力がありませんよ」
「そうそう、何でもいいから言ってみろ。俺に任しておきなさい」
「いや、ほんとに何でもないんだ。明日親戚の集まるパーティーがあってさ、俺が遠野の家で忌み嫌われているのは知ってるだろ? だからさ、行くのが嫌だなあって、それだけだ」
 少しだけ、嘘をついてみる。なんとなく秋葉のことをこの二人に相談するのは恥ずかしかった。
「そういうことか。ったく、それぐらいで何をびびってるんだよ、おまえ」
「別にびびってるわけじゃない。面倒なんだよ、遠野の人間と係わりあいになるのが」
「ま、その気持ちは分かるけどな。いいところのぼっちゃんに生まれた宿命だ。あきらめなさい」
「他人事だと思って……」
「完璧に他人事だからな」
 そう言うと有彦は楽しそうに、もの凄く楽しそうに笑った。
「乾君、遠野君は真剣に悩んでいるみたいですからそんなに笑っては悪いですよ」
 先輩がすかさずフォローを入れてくれる。
「いいんです、先輩。こいつがこんな奴だってことは分かりきってるんだから」
 そう、こいつは昔から他人の不幸、というより俺の不幸を喜ぶ性格だった。もちろんそれは俺にしても変わらないのだが。
「はあ。いいですねえ、男同士の友情って」
「そんなにいいものかどうかは分からないですけど」
「それじゃあ遠野。俺は用事があるから帰るけど、いくら嫌だからって家出とかすんなよ」
「するわけないだろ」
「おう、言ってみただけだ。じゃあな。また月曜日」
 騒音問題の主要因たる人物が去っていく。
 残ったのは俺とシエル先輩の二人だけ。
「それで遠野君、いったい何を悩んでるんですか?」
「だから明日のパーティーのことだって……」
 先輩は俺の目をじっと見ている。
 先輩は何も言わない。動かない。視線を外す気配も無い。
 だから俺も何も言えなかった。
 けれど時間だけは過ぎていく。
 不意に、先輩が視線を落とした。
「はぁ、分かりました。遠野君が言いたくないのであれば構いません」
 心底がっかりしたような声。軽い罪の意識に捕らわれる。先輩は本当に俺のことを心配してくれているのだろう。
「だから先輩、俺は本当にパーティーのことが……」
 とはいえ嘘はつき通さなければならない。
「遠野君、これ以上しつこくお尋ねするようなことはしませんけど、何があるにしても頑張ってください」
 先輩は俺の言葉にまるで取り合おうとしない。完全に嘘だと見抜いているようだ。ぼけっとしているようでなかなかに鋭い。
それでもそっとしておいてくれるあたりは、先輩が先輩たる所以だろう。
「じゃあ私も帰りますね」
「あ、うん。先輩、またあさって学校で」
「はい、さようなら」
 先輩は軽い足取りで教室を出て行った。
「ごめん、先輩」
 何故かたくなに相談しようとしないのか、俺は自分でも不思議に思った。


 街を徘徊すること三時間。
「駄目だぁ……」
 情けない声を上げる。疲れ果てた俺は、座ることが出来そうな場所を探して腰を降ろした。
 いろいろ探してみても、良さそうなものは見当たらなかった。
 そもそもあの秋葉が並大抵のプレゼントなんかで喜ぶはずがない。
「やっぱ家に帰って琥珀さんに相談すれば良かったかなあ」
 誕生日は明日。これはもう動かしようのない事実である。プレゼントを買うための時間なんてほとんど残されていなかった。
 しかしよくよく考えてみれば、明日朝起きてすぐにプレゼントを渡さなければならないということはない。おそらく四人だけの誕生日会は夜遅くに始まることだろう。プレゼントは秋葉が帰ってくるまでに買っておけば良いというわけだ。
 けれど、俺は一つ失策を犯していた。
「パーティーって何時ぐらいに終わるんだろうな」
 それを聞かなかったのは迂闊としか言いようがない。そういえば何時から始まるのかも知らない。
 ということは、逆のパターンもありうるという訳だ。昼間が四人だけの誕生日会で、夜に遠野のパーティー。そのパターンだと最悪である。
「プレゼントはまた明日買いに来るか……」
 考えた末、俺は賭けに出ることにした。
 ま、なんとかなるだろう。


 目が覚める。
「志貴さま、お目覚めでございますか?」
 ベッドから少し離れたところで、いつものように翡翠が彫像のように立っていた。
「えっと、今何時かな?」
 体を起こしながら翡翠に尋ねる。
「午前十時になったばかりです」
 十時か……。
 本当ならもう少し眠っていたかったのだが、目が覚めてしまったものは仕方がない。
 今は秋葉に会いたくない。
 十時というのは微妙な時間だ。
「秋葉はもう出発した?」
「いえ、まだ準備中のようです。パーティーは昼過ぎからだと聞いておりますが」
 さすがに出発はまだだった。
 けれどその言葉を聞いて心底ほっとした。これならプレゼントを買いに行く時間はたっぷりとありそうだ。
 そこで俺は、朝の挨拶がまだだったのに気付いた。
「おはよう翡翠。今日も起こしてくれてありがとう」
「いえ、そのようなことを言われるいわれはございません」
 とか言いつつも、翡翠は顔を赤らめている。そんな翡翠は可愛いと思う。
「じゃあすぐに着替えて居間に行くから、翡翠はもう行ってくれていいよ」
「かしこまりました。それでは着替えはこちらに置いておきます」
 そう言うと、翡翠はドアを開けて退出していった。
「結局何も思い浮かばなかったなあ」
 もちろん誕生日プレゼントのことである。一晩中考えていたが、よいアイデアなんて何も出て来なかった。琥珀さんに相談しようにも、秋葉が傍にいるのでどうしようもない。
 仕方なく居間に向かった。


 予想に反して居間には誰もいなかった。
 とりあえずソファーに腰を降ろす。
「そういえば準備中とか言ってたから、いろいろ忙しいのかな」
 とか思ってたら、いきなり琥珀さんが慌しく登場した。
「すいません、志貴さん。今ちょっと取り込んでますので、朝食のほうは少しお待ちいただけますか!」
 なるほど、確かに忙しそうだ。こんな琥珀さんを見るのは初めてかもしれない。
「いいよ。別に腹が減っているわけではないし、秋葉のほうを手伝ってやってよ」
「すいません、もうすぐ済みますから」
 そう言って、琥珀さんはさっさと階段を上って消えてしまった。
「でもいったい、何をそんなに準備することがあるんだ?」
 着替えて髪をセットすれば終わりなのではないだろうか。しかしなんと言っても遠野のパーティーである。しかも秋葉は主賓なわけだし、俺の考えでは及びようもないことが多々あるのかもしれない。
「ま、この分だと秋葉と話さなくてすみそうだな」
 そして俺は目を閉じた。


「おはようございます、兄さん」
 十分ぐらい経っただろうか、うつらうつらしていた俺の前に、真っ白なドレスを着た少女が現れた。
「秋葉?」
 とっさのことで、一瞬分からなくなる。
 しかし目の前の少女は確かに遠野秋葉だった。髪を結い上げていて、いつもより大人っぽい感じがするが、俺の妹の秋葉だった。
「何を寝ぼけているんです。こんな時間まで寝ていたというのに、まだ眠り足りないのですか、兄さんは」
 秋葉は口をとがらしてそう言った。怒っているというより、拗ねているような口ぶり。いつもの秋葉だ。
「そんなことはない。ただ何もすることがなかったから、少し目をつむっていただけだ」
 白い、細身のドレス。体のラインがくっきりと出ていて、秋葉にはあまり似合わないような気がしないでもない。はっきり言ってしまえば、胸のボリュームが足りないということなのだが、そのことは断じて口にしてはいけない。それぐらいの防衛本能は持ち合わせているつもりだ。
「そうですか。それより兄さん、時間がありませんので、これで失礼させていただきます」
「そんなに切羽詰ってるのか? ったく、なんで女ってのはそんなに準備に時間がかかるんだよ」
「兄さんが知らないようなことがいろいろあるんです」
「ふ〜ん、知らないことねえ」
「もう、そんなことどうでもいいじゃないですか。とにかく時間がありませんから、私はもう行きますね」
「おう、ゆっくりしてこい」
 とはいえ、帰ってくるのが明日とかいうのも少し困るのだが。
「はい、兄さんに言われるまでもありません」
 そう言って、秋葉はロビーに向かった。
 俺が行かないことに対しては、どうやらもう怒りは収まったらしい。その点についてはまずは一安心というわけだ。
 しかしその思いは、あっさりと完璧なまでに打ち砕かれることになる。
「志貴さん、秋葉さまに何をおっしゃられたんですか!」
 元気よく琥珀さんが居間に現れた。
「いえ、何も言ってないと思いますけど」
「そんなはずはありません。今日は志貴さんにご飯を作る必要はありませんって、秋葉さま、そうおっしゃっておられましたよ」
 一瞬、思考がストップする。
 なんとも子供のような仕打ちを聞いて、俺は心底秋葉という人間を思い知らされた。
「はぁ、あいつがそう簡単に許してくれるわけはないよな……」
 俺が深いため息をつくと、琥珀さんは一瞬不思議そうに首をかしげ、次いで妙に納得したような表情を浮かべた。
「ええっと、つまり秋葉さまは、志貴さんがパーティーに出席なさらないことをまだ怒っている、そういうことなんですか?」
「はい、そういうことみたいです」
 もう一度、俺はさっきよりも深いため息をついた。


 昼過ぎには街へ出た。
 朝食を食べながら、琥珀さんにプレゼントのことを相談してみても、
「志貴さんに頂けるものでしたら、それがなんであれ、秋葉さまはお喜びになられると思いますよ」
 なんて言うだけで、具体的に何をプレゼントするべきかは答えてくれなかった。
 その「なんであれ」すら思い浮かばないということを分かって欲しかったのだが。
 結局昨日と同じように、あてもなくうろつくしか手が無い。
 それにしても。
「人が多い……」
 俺は久々に歩く休日の街を恨めしく思った。
 有間の家にいた頃からも、町に出て遊ぶなんてことは少なかったし、遠野の屋敷に帰ってからは、それこそ外出すること自体が稀だったのだ。休日に一人で出かけるのは始めてのような気がする。
 とにかくやってることは昨日と同じ。適当な店を見つけては中に入る。ぐるっと一回りして外に出る。何も買わない。
 そんなことをしているうちに、時間だけが過ぎていった。
「駄目だ、分かんねえ」
 仕方なく、また座れそうな場所を見つけて腰を降ろす。
 もう空は赤みがかっている。せめて六時過ぎには屋敷に戻るつもりだったから、もうそろそろタイムリミットだ。
 何気なく前を見ると、通りを渡った正面に大きなグッズショップあった。店内にたくさんの女子高生がはびこっているのがここからでも見える。
 それを見て、俺の中に悪戯ごころがむくむくと芽生えてきた。
「これはなかなか使えるかも」
 秋葉が喜びそうなものといえば限られているかもしれない。だがしかし、秋葉が嫌がりそうなものを考えてみると、もう山ほどありそうな気がする。
 心躍らせながら俺は店のドアをくぐった。
 店内には俺以外の男の姿が見当たらない。見事なまでの黒一点。
 そしてめくるめくファンシーグッズの山、山、山。
 どこを見ても、秋葉が泣いて嫌がりそうなものばかりだった。
「よし決めた」
 正直この店の中に長くいることは耐えられない。俺はさっさと商品を見定めて、それを手にとってレジに直行した。
 デフォルメされたペンギンのぬいぐるみ。子供一人分くらいはありそうな、大きな大きなぬいぐるみ。
 幼かった頃の秋葉には似合いそうだが、今の秋葉にこれほど似つかわしくないものはそうそう無いだろう。
 俺は大きな袋をぶら下げて、小躍りしながら店を出た。


 帰路につく。
 何故か心がすっきりしない。
 このぬいぐるみを貰って、秋葉が嫌がるさまは目に浮かぶ。それを想像すると愉快な気分になるのは確かだ。
 だがしかし、本当にそれでいいのか?
 秋葉が俺からの誕生日プレゼントを楽しみにしているなんて思わない。けれど秋葉の誕生日を祝うのは実に八年振りのことなのだ。
 俺としてもそれなりに嬉しくはあったし、秋葉にしても多少は楽しみにしているかもしれない。
 本当にこれでいいのだろうか。
 冗談で済ます自信はあった。秋葉はまた拗ねるだろうが、そんなのはいつものことである。
 けど……。
 そのようなことを考えながら歩く。
 頭の中を同じ考えがぐるぐる回っていて、他には何も考えられない。
 自分がどこを歩いているのかすらも分からない。
 どれだけの時間歩いていたのだろう。
 ふと気付けば、目の前にそれはあった。


 屋敷に戻る。
 すでに日は暮れているが、まだ6時を回ったぐらいだろう。さすがに秋葉が戻ってくるには早い時間だ。プレゼントのことで少し後ろめたい気持ちがあったので、まだ秋葉には会いたくなかった。
 玄関を開け、ロビーに入る。
 翡翠や琥珀さんはパーティーの準備で忙しいのだろうか、そこには誰もいなかった。
 居間に行く。食堂のほうからおいしそうな香りが漂ってきている。腹はいい具合に減っていた。とりあえず荷物をその場に置き、香りに誘われるように食堂へ足を運んだ。
 それが失敗だった。
「お帰りなさい、兄さん。遅かったですね」
 そこには秋葉がいた。窓際で壁にもたれかけるようにしてこちらを見ている。予想もしなかった展開に言葉が出ない。
「もう、どこに行っていたんですか。とっくに準備は出来ているのに」
 朝、出発した時のままの格好。まだ白いドレスを着たままだ。
「兄さん? 聞いているんですか?」
「あ、ああ。ただいま、秋葉」
 ようやく俺は声を発することが出来た。
「いや、違う。そんなことよりもお前、パーティーのほうはどうしたんだ?」
「もう終わりました」
「嘘つけ。遠野のパーティーが、ましてやお前の誕生日パーティーじゃないか。こんなに早く終わるわけないだろ」
「あら、ご存知だったんですね。私の誕生日のことなんてすっかり忘れてるのではと思っていましたのに」
「忘れていたのは忘れてたんだけど……」
 と、そこだけ声を小さくする。
「なんですか? よく聞こえませんでしたけど」
「違う、俺はなんでこんなに早く帰ってきているのかを聞いているんだ」
「……。もう、抜け出してきたに決まってるじゃないですか」
「抜け出したって……、お前が主賓のパーティーじゃないか」
「いいんです。当主は私なんですから」
「馬鹿。なんだってお前はいつもこうわがままばかり……」
「だって……、退屈だったんですもの。兄さんさえ来てくれていたら、最後まで出席していました」
「それとこれとは話が別だろ」
「いえ、別なことはありません。それになんですか、兄さんは。私が帰ってきたら困るような口ぶりじゃありませんか。そんなに私のことがお嫌いですか?」
「なんでそこまで話が飛躍するんだ。俺はただ当主としてのお前を心配してるんじゃないか」
「そうは思えません」
「はいはい、もういいじゃないですか」
 と、そこへ明るい声が舞い込んできた。
「琥珀?」
「琥珀さん?」
 俺と秋葉は同時に声のしたほうを振り返る。エプロン姿の琥珀さんが、手にお盆を持ってニコニコと佇んでいた。お盆の上には四つのワイングラスが乗っている。
 そして琥珀さんに従うように翡翠の姿もあった。
「志貴さんは秋葉お嬢さまのことが心配だっただけなんですよね」
 琥珀さんが微笑みながら、あまりにストレートな言葉を投げかけてきた。どうもこの笑顔には逆らえない。
「う、うん。まあそういうことになるかな」
 俺がどぎまぎしながらそう言うと、琥珀さんは次に秋葉のほうを向いて、
「秋葉さまも早く志貴さんに会いたかっただけなんですよね」
 と、とんでもないことを言った。
「こ、琥珀。何言ってるの、もう。そんなわけないでしょ。ただ私は……」
 秋葉の顔が真っ赤に染まる。うつむいてごにょごにょと言っている姿を、俺は素直に可愛いと思った。
「さ、仲直りも終わったことですし、そろそろパーティーを始めましょうか!」
 琥珀さんがそう言うと、翡翠がワイングラスを手にとって俺の前に差し出してきた。
 俺はそれを右手で掴み、中に入った液体を凝視する。
「えっと、中には何が入っているのかな?」
 翡翠に尋ねる。
「秘密です。姉さんから志貴さまには教えないようにと言われていますので」
「そっか、なら仕方ないな」
 酒だ。間違いない。
 俺が酒に弱いことはこの屋敷の人間ならみんな知っている。俺が知ってしまえば飲まないだろうと考慮してのことだろうが。
 琥珀さん、気付きますって。
「申し訳ございません」
 翡翠が本当に申し訳なさそうに、深々とおじぎをした。
「いや、いいよ。飲めるものならなんだっていいさ」
「志貴さま……」
 翡翠が俺のほうを見つめている。
 前にも一度、酒を飲んで倒れたことがあった。翡翠はその時すでに眠っていたから現場には立ち会っていないが、琥珀さんから聞いて知っているに違いない。
 心配してくれているのだろう。
「どうしたの、翡翠。君もグラスを持ちなよ」
 俺はそれに気付かないふりをした。
「あっ、はい」
 翡翠はあわてて琥珀さんのそばに駆け寄り、お盆の上からグラスを掴み取った。
 見れば秋葉はすでにグラスを持っている。琥珀さんも最後に残ったグラスを手にとり、空になったお盆をテーブルの上に置いた。
「みなさん! グラスは手に取られましたか? それでは、秋葉お嬢様のお誕生日会を始めましょう」
 そう言って、琥珀さんは左右を見回した。さりげなく、俺のほうにサインを送っている。
「せーの」
「「かんぱーい!」」
 予想通り、グラスを高らかに掲げ、声を大にして張り上げたのは俺と琥珀さんだけだった。


 どれだけ頑張っても4人では食べきれないくらいの料理がテーブルの上には並んでいる。しかも俺以外の三人はよほどアルコールが好きなのか、それとも生来の少食主義者なのか、酒ばかり飲んで一向に箸が進む様子が無い。
 俺が食べなければいけない。
 そんな強迫観念にかられ、黙々と料理を食べつづけていた俺に、琥珀さんがどこからともなく近寄ってきて、そっと耳打ちをしてきた。
「志貴さん、秋葉さまにプレゼントは渡さなくてもよろしいのですか? 秋葉さま、待っておられますよ」
 忘れようとしていたことをいきなり言われて、俺は口の中の料理を噴出しそうになる。すんでのところで必死にこらえた。
「午前中、そのために買い物に行かれていたのでしょう?」
 琥珀さんは俺にだけ聞こえるように話す。
「そうなんですけどね」
 口の中を空にしてから、俺も琥珀さんにだけ聞こえるような声で話した。
「それなら早く渡してあげて下さいな」
「いやあ、そうなんですけどね」
 琥珀さんの親切心が痛い。
「もう、はっきりしませんねえ」
「はあ」
 渡さなければならないことは分かっているのだが、まだ心の準備が出来ていない。渡したあとの対応をいろいろ考えておかなければならないのだ。
「そこの二人、こそこそと何をしているのよ」
 そこに秋葉の鋭い声が飛んできた。
「いや、その、あれだ」
 俺はそんな情けない声しか出せなかった。
「すいません、秋葉さま。なんでも志貴さんが秋葉さまにお渡ししたいものがあるそうなんですよ」
 なっ……!
 突然の不意打ちに、俺は呆然とした顔で琥珀さんに目を向けた。
「えっ」
 秋葉も驚いた顔で同じく琥珀さんのほうを見ている。次いで今度は俺のほうに目を向けた。
 ここはもう覚悟を決めるしかなさそうだ。
「ま、そういうわけだ。ちょっと待ってろ」
 俺は居間に向かった。


 目の前には袋が二つある。
 大きなものと、小さなもの。
 とてつもなく大きなものと、かなり小さなもの。
 どちらも秋葉へのプレゼントとして買ったものだ。けど二つとも渡そうとは思わない。
 いや、正確に言うと片方は始めから渡すつもりなんてなかった。
 それでも今、俺は迷っている。
 どちらを手に取るべきか。
「志貴さ〜ん、まだですかぁ? 秋葉さまがお待ちですよ〜」
「ちょ、ちょっと琥珀。私はそんなこと……」
 俺は片方を手に掴んで、食堂へ戻った。


「遅かったですねえ。さ、秋葉さまがお待ちです」
 琥珀さんは無邪気に微笑んでいる。仕掛けたのは琥珀さんなのだから、少しくらい俺の気持ちを汲み取ってくれても良さそうなものなのに。
いや、琥珀さんのことだから全て分かってやっているのだろうが。
「琥珀、いい加減になさい」
 そう言いつつも、秋葉は俺のほうをちらっ、ちらっと見ている。俺が抱えている大きな袋に興味を抱いたようだ。
 琥珀さんは秋葉に怒鳴られてもめげずに笑顔を向けてくれている。無言で応援してくれているようで心強い。
 翡翠は右手にグラスを持って、ちびちびとやりながら、とろーんとした目でこちらの様子を窺っている。
 とにかく、渡さなければ始まらない。
「秋葉、誕生日おめでとう」
 まずは素直に、ストレートな祝言を述べる。
そして大きな袋を秋葉に渡す。そう思ったが、秋葉の手には余るようなので、すぐ目の前に置いてやることにした。
「あ、ありがとう、兄さん」
 秋葉は少し照れた様子で、大きな袋をじっと見据えている。
 心臓の音が聞こえる。かつてないほど緊張しているのが自分でも分かった。
 俺は秋葉を見ている。
 秋葉は大きな袋を見ている。
 二人とも動かない。
「中が気になりますねえ、翡翠ちゃん」
「はい、姉さん」
 そんな俺達を見かねてか、琥珀さんが口を挟んでくれた。翡翠も調子を合わせる。
「えっと、兄さん。中を見てもいいですか?」
 それを受けて、秋葉が遠慮がちにそう尋ねてきた。
 俺は一度唾を飲み込んでから、
「当たり前じゃないか」
と、精一杯の声を振り絞った。
 秋葉が前に一歩進み、大きな袋に手をかけた。一瞬だった。秋葉が上部にあるリボンを引っ張ると、一気にそれの全貌が明らかになった。
 出てきたのは、ペンギン。
「……」
 琥珀さんは口をぽかんと開けて驚いた表情を浮かべている。
「……」
 翡翠は相変わらず目をとろーんとさせて、何を考えているのかよく分からない。
「……」
 秋葉は何故か怒ろうともせず、食い入るようにペンギンを見つめている。
「……」
 俺は何も言うべき言葉が見つからなかった。
 この瞬間、確かに時が止まった。
「へえ〜! 可愛いペンギンのぬいぐるみじゃないですかぁ。志貴さん、意外と見る目がおありなんですねえ」
 時を動かしたのはやはり琥珀さんだった。
 少し大袈裟に、でも楽しそうに言った。心からそう思っているのか、それともからかっているのか、真偽のほどは分からない。
「……」
 翡翠は俺のほうをじっと見ていた。何を考えているかまったく分からない。
「秋葉、その、喜んでくれると俺も嬉しいんだけど……」
 秋葉はこれを見た瞬間に俺を怒鳴りつけるのではないかと思って、実際対応策も考えていたのだが、予想と違う展開になっては戸惑うしかない。
「ありがとう、ございます」
 秋葉が小さな声でそう漏らした。
ペンギンの頭を撫でながら、目をそらし俺のほうを見ない。照れているのだろうか、いや、酒のせいなのかもしれないが、頬が赤く染まっているような気がする。
 それに、どことなく嬉しそうだった。
「兄さんが私の誕生日を覚えているなんて思ってもいなかったから、うまく言えませんけど、嬉しいです」
 無感動な声でそう続ける。
 抑えた感情が怒りだとは思えなかった。
「ぬいぐるみ……、で、よかったのか?」
 だから俺は思わずそう口にしてしまう。
「はい、大事にします」
 やっぱり秋葉の声は無感情だった。相変わらず俺のほうを見ようともしない。
 なんていうか、その。俺が見る限り、あくまで俺が見る限り、秋葉は喜んでいるように見える。
「志貴さん、本当は秋葉さま、もの凄く嬉しいんですよ。ただ照れているだけですから、お気を悪くなさらないで下さいね」
「琥珀! あなた最近一言多いわよ」
 秋葉の顔は耳まで真っ赤だった。
「まいったな……」
 俺は誰にも聞こえないように呟く。
 後ろめたい気持ちは増していくばかりだった。


 気分が悪い。
 かつてないくらいのハイペースで酒をかっくらっている。元々医者からも飲み過ぎないようにと注意されているから、これまでは自分でも意識的に抑えてきていた。だが今日は勝手が違う。秋葉と琥珀さんに引きずられ、また酒の味に引き込まれ、どんどん飲んでしまう。
 正直な話、やばい。
 俺は外の空気を吸うために、窓際に行って窓を開け放った。
「兄さん」
 そこへまるで酔っ払った様子のない秋葉が声を掛けてきた。顔色も普段と変わらないように見える。こいつの酒の強さは知っていたが、それにしても高校生にしては驚異的ですらある
「どうかしたか?」
 俺は秋葉の方に向き直った。
「話があるんですけど……」
「ああ、何でも聞いてやる」
 秋葉の様子がしおらしく見えるのは、俺の気分のせいだろうか。
「例えばの話ですよ。もし、私に恋人が出来たとしたら、兄さんはどうします?」
 何かの冗談だろうか、秋葉が秋葉らしくないことを口にしている。酒というものは恐ろしいものだ。もしくは酔っ払っていないように見えるだけで、本当のところは泥酔状態なのだろうか。
「そうか、それは良かった。お前にもやっと恋人が出来たんだな。心配してたんだぞ。せっかく容姿はいいのに、性格がこんなだからなあ。一生彼氏なんてできないんじゃないかって思ってたんだ。朗報だ、素晴らしいことじゃないか」
 俺がそう言うと、秋葉はじろりとこちらを睨みつけた。どうもまずいことを言ってしまったらしい。
「兄さん、私は真面目な話をしているんです」
 どこが真面目なんだよ、と突っ込みを入れたいところだったが、どうやらある程度は真剣に意見を聞きたいようなので、それはやめておくことにした。
「悪い。でも、どうするって言われてもなあ」
 そんなこと、これまで考えたことも無かった。今すぐに考えろと言われても、それは無理な話だ。秋葉が男と並んで歩いている姿なんて、想像出来るはずがない。
それに気分は悪くなる一方で、正直かなり辛い状態だ。頭がうまく回転しなかった。
「どうだっていい、兄さんはそうおっしゃりたいわけですね」
「そんなことはない。本当に分からないんだ。あまりに話が突飛過ぎる」
 酒に酔った勢いで秋葉がこんな話をしているわけではないようだ。それぐらい目を見れば分かる。俺は秋葉の真意を掴み損ねていた。
「じゃあ聞くけど。もし俺に恋人が出来て、その恋人をこの家に連れてきたら、お前はどうするんだ?」
 俺は逆に質問する。ともすれば倒れそうになるのを必死にこらえて。
「そんなこと……、分かりません」
 何を考えていたのか、随分時間が経ってから秋葉は返事した。
「だろう?」
「だいいち、そんなことはありえませんよね、兄さん」
 そう言った秋葉の目はどこか心細そうに見える。
「ありえないとは思うけど、もしかしたらということもある」
 秋葉ははっとしたように俺の方を見た。そして冷たい声でこう言い放った。
「そうですね。兄さんもそのような年頃なんですものね」
 ますます気分が悪くなる。体が重い。この部屋の空気に押し潰されそうだ。
 しかし秋葉をほっとくわけにはいかず、俺は話を続けた。
「なにかあったのか?」
「いえ、何でもありません」
 秋葉は少し間を置いてからそう言った。
 何か言いたいことはあるはずなのに、言いたくないのか、それとも上手く言うことが出来ないのか。いずれにしても話をしてくれそうにはなかった。
「ただ……」
 ささやくような秋葉の声。
「ただ?」
「嫌なだけです」と、秋葉は呟いた。
 何が? と尋ねようと思ったその時、体がぐらりと揺れたような気がした。
 いつものめまいが俺を襲う。
 限界を超えてしまったらしい。腕が動かない。足の感覚が無い。
「兄さんが離れて行ってしまうのが……」
 秋葉が何か言っているのは分かったが、最後まで聞き取るは出来なかった。
 俺は何の抵抗も出来ずに、床に崩れ落ちた。


 気づいた時にはベッドの中にいた。
 俺は足をもぞもぞと動かして、次いで上半身を起こす。
「兄さん?」
 目の前には秋葉の姿があった。
「秋葉……? そうか、また倒れたのか、俺は」
 酒を飲みすぎたせいだとはいえ、つくづく自分が嫌になる。せっかくのパーティーも俺のせいでぶち壊しだ。
「ええ。ごめんなさい、無理にお酒を勧めたせいで」
「前にも言ったろ? それは関係ないって」
「ですけど……」
「いいの。俺は自分の都合で酒を飲みすぎて、自分の都合で倒れた。それだけだよ」
 反論しようとする秋葉を手で遮って、俺は諭すようにそう言った。
「はい」
 秋葉は素直にうなづいた。
 ふと窓の外を見る。
「秋葉、今何時くらいだ?」
「兄さんが倒れてからそれほどは経っていませんから、十時くらいだと思いますけど」
「そうか」
 手を上に伸ばして背伸びをする。そしてふうっと息をついた。
「兄さん」
「なに?」
「もう一度言いますけど、ぬいぐるみ、ありがとうございます」
「うっ」
 秋葉が真正面から俺を見据えてそう言ったその時、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。
「失礼します」
 扉が開く。入ってきたのは翡翠だった。
「ちょうど良かったわ、翡翠。兄さんが目を覚ましたから琥珀を呼んできてちょうだい」
「かしこまりました」
 翡翠が深々と礼をする。
「志貴さま」
 頭を上げた翡翠が俺のほうを見ている。
「なんだい?」
「あの、居間のほうにこのような袋が置いてあったのですが、これは志貴さまのものでしょうか?」
 翡翠の手には小さな小洒落た紙袋があった。
 間違いなく、俺が買ってきたものだ。
「ああ、うん。俺のだよ。悪いけど、こっちまで持ってきてくれないかな」
「かしこまりました」
 翡翠が音を立てずにベッドの傍までやってきて、俺の前にそれを差し出した。
「ありがとう」
 俺はそれを受け取って、中を覗き込む。
「それでは姉さんを呼んでまいります」
 翡翠が部屋を出て行く。
 また部屋には俺と秋葉の二人だけ。
「秋葉」
「はい? なんですか兄さん」
「実は……、実はだな。あのぬいぐるみはお前を困らせようと思って買ったものなんだよ」
「……。どういうことですか?」
 秋葉の眉がぴくっと動いたのが分かる。
「いや、なんだ。何を買おうかいろいろ迷ったんだけど、お前が喜びそうなものってどうしても思い浮かばなくて」
 そこで一度言葉を切った。秋葉の様子を窺ってから、再び話し始める
「時間も無かったし、だからお前が嫌がりそうなものを考えたら、それなら結構あるぞと思って。それでだな、それで、あのぬいぐるみを買ったというわけなんだけど」
 恐る恐る、秋葉の顔を覗き込んだ。これといった感情は浮かんでいないように見える。
「秋葉、怒ってくれて構わない。お前にはその権利があるんだから」
「はあ、もういいです、兄さん。私は何を貰っても嬉しいんです。兄さんが私のために選んでくれたものなら、なんだって嬉しかったんです。だからこれ以上は何も言わないで下さい」
 穏やかな口調の秋葉。でもやっぱり少し怒っているのか、それともがっかりしているのか、子供っぽく拗ねたような表情の秋葉。
 秋葉は優しい。そんなことは分かっていた。
 秋葉はいつも俺のことを心配してくれていた。何が起ころうとも。秋葉は俺のことを心から大切に思っていてくれていたんだ。
 だから、秋葉に何をプレゼントしても喜んでくれることなんて、分かっていたんじゃないか。
 俺は手に持った紙袋の中から小さな四角い包みを取り出して、それを秋葉の前に差し出した。
「秋葉、改めて受け取ってくれ。誕生日おめでとう」
「えっ?」
 秋葉は驚いているのか、戸惑っているのか、それを手に取ってはくれない。
「ぬいぐるみは無しだ。こっちが本当の、心からの秋葉へのプレゼント。今さらだけど、受け取って欲しい」
 ぐいっと秋葉のほうへさらに腕を伸ばす。
 秋葉は躊躇しつつも四角い包みに手を伸ばして、それを両手で大事そうに抱え込んだ。
「開けても、いいですか?」
「当たり前だ」
 秋葉が包みを解く。中から赤い小箱が姿を現した。そしてそれも開ける。
「あっ……」
 中に入っていたのはシンプルな銀の指輪。
「気に入ってくれると嬉しいんだけど……」
 俺は顔を真っ赤にしながら、なんとか言葉を探し出した。
「はい、兄さん、とっても……」
 秋葉の顔にはこれまでに見たことも無いような優しい表情が浮かんでいる。
「そうか、それならよかった」
 鼓動が早くなる。胸が熱い。
 恥ずかしい。これまでの人生でも最大級の恥ずかしさだ。
 何を喋っていいものか分からない。
 この雰囲気を打破する策が見つからない。
 頭がぼうっとする。
 何も考えられない、何も考えられない。
 とりあえず、深呼吸をして心を落ち着かせようとする。
「それにしても兄さん」
 俺がいろいろやっていると、秋葉が何でもないような口調でそう呼びかけてきた。
 俺は少し拍子抜けした気分になったが、返事をしないわけにもいかなかった。
「なんだ?」
「この指輪、少し大きすぎるんじゃありません?」
 秋葉はすっかり普段通りだった。口調も表情も、いつものクールな秋葉だ。
「そうかな、大きめのほうがいいと思ってそれにしたんだけど」
 そんな秋葉に連れられるように、俺も普段の自分を取り戻す。そして一人で舞い上がっていた俺はなんだったんだと情けなく思う。
「それでも限度というものがあります」
「そんなものだと思ったんだけどなあ」
「もう、兄さんは私のことをどんな目で見ているのよ」
「悪かった。でも後で直せばすむことだろう? そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「私が言っているのはそういう問題ではありません」
「はあ、そういうものか。ったく、複雑だよな、女の子ってのは」
「それともう一つ」
「まだあるんですか、秋葉さん……」
「ぬいぐるみは無し、じゃありません」
「はあ?」
「あれも、私がもらってあげますから」
 秋葉はそう言うと、照れたようで、それでいて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 俺はどうしようもないくらい、胸が熱くなっているのを自覚した。


/END



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